世界という名の三つの宝石箱   作:ひよこ饅頭

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幕間第二弾!
題名のまたの名を『ニグンの生まれ変わった日常』。
今回はニグン中心の小話になります!
久々にニグンを書いたような気がします(笑)


幕間 小悪魔の日常

 薄暗い空間の中にチュンチュンという微かな音が聞こえてくる。

 明かりもつけずに本に向けていた視線を外すと、顔を上げて窓の方へと視線を移した。閉じられたカーテンの隙間から白い光が覗いており、すっかり夜が明けてしまっていることを知らせてくる。耳を聳てて周りの音や気配を探ると、どうやら何人かの人間は既に起きて活動を開始しているようだった。

 開いていた本を閉じて近くのテーブルの上に置き、代わりに傍に置いてあった仮面を手に取る。剥き出しとなっている顔に仮面をつけ、椅子から立ち上がって椅子の背もたれに掛けていたマントを身に纏う。フードに指を引っ掛けて深く被ると、窓へと歩み寄ってカーテンを開いた。

 瞬間、勢いよく室内へと入ってくる眩しい光の放流に、思わず仮面の奥で小さく目を細めさせる。暫く窓から街の様子を眺めると、ニグンは一つ小さな息をついて踵を返した。

 窓から離れ、室内を見回す。

 ここは“歌う林檎亭”の二階の一室であり、室内にはニグン以外誰一人としていなかった。主であるウルベルトも、同僚であり先達者でもあるユリもこの場にはいない。二人は現在ナザリック地下大墳墓に戻っており、ニグンはここで一人留守を任されていた。

 とはいえこの一室でただじっと留守を守っている訳でもなく、決して暇でもない。

 闘技場の演目でエルヤーに打ち勝ち、また帝国四騎士のバジウッドからの遣いが来たことにより、今やウルベルト率いる“サバト・レガロ”は注目の的となっていた。依頼も山のように来ており、少し前まで依頼一つ来ず暇だった頃が嘘のようだった。

 ニグンは一度ため息にも似た息を小さく吐き出すと、新たな一日の始まりに気を引き締めさせた。

 今まで読んでいた本を丁寧に荷袋の中へと仕舞うと、部屋を出るために扉へと向かう。扉を潜り抜けて預かった鍵でしっかり施錠すると、そのまま下へと続く階段を下りていった。

 ギシギシと木の板が軋む音を小さく鳴らしながら下りていけば、徐々に朝の喧騒が大きくなってくる。

 既に店を開けているようで、食堂である一階は多くの客で賑わっていた。

 多くの注文の声が飛び交い、店員が料理を両手に店中を走り回っている。今日も大繁盛している様子に思わず小さな笑みを浮かべる中、カウンターの奥にいた店主がこちらに気が付いて声をかけてきた。

 

「おう、起きてきたか! 今日はあんた一人かい?」

 

 店主の馬鹿でかいドラ声に、途端に店にいた全員の視線がニグンへと向けられる。彼らの期待するような熱っぽい視線に思わず微笑を苦笑へと変えながら、ニグンは無言のままカウンター席へと歩み寄っていった。多くの客たちに背を向ける形でカウンター席に腰を下ろし、そこで漸く口を開く。

 

「ああ、今日は私一人だ。レオナールさんとリーリエさんは所用で街を出ているからな」

 

 ニグンの言葉に、途端に背後から多くの嘆息や嘆きの声が小さく聞こえてくる。ニグンと向かい合うように立っている店主はチラッと店内を見回すと、次には太い眉を片方だけ小さくつり上げてみせた。続いて軽く肩を竦ませるのに、思わず笑いが込み上げてくる。しかしニグンは小さく咳払いをすることで笑いの衝動を抑えると、何食わぬ顔で店主へと朝食を頼んだ。

 すぐ出てきた本日の朝食の献立は、黒パン一つとスクランブルエッグ。卵の上には一本丸々豪快に焼いたウィンナーが横たわっており、葉野菜が皿の端に添えられて彩を足していた。

 食欲をそそられる香ばしい香りと光景に、人間だった頃の名残なのか、唾液が口内に溢れて思わず大きく呑み込む。

 ニグンは店主に軽く礼を言うと、下品に見えないように気を付けながらフォークを手に取って食事を始めた。

 途端に口内に広がるパンの麦の甘さや卵の優しい風味に、思わず笑みが浮かびそうになる。

 通常であれば小悪魔(インプ)となったニグンには食事は不要なのだが、こちらも人間であった時の名残か、ニグンはナザリック地下大墳墓にいる時でも出来得る限り毎日食事をとるようにしていた。

 まぁ、ナザリックで出される料理が異常に美味であると言うのも大きな原因ではあるのだが、他にも食事をとるとやはり心が落ち着くというのがあった。

 今までの日々の習慣というのは種族が変わってもなかなか抜けないものであるらしい。加えて誰かと食事をした時や誰かが近くにいる場で食事をした時、多くの者と交流を深められることがここ最近で特に身に染みて強く感じることだった。

 この食堂でも時折他の客たちや同業者(ワーカー)たちから声をかけられることが増えてきており、多くの方面での情報収集が順調に進んでいる。加えてナザリックでも、最初は不審な目や冷たい視線を向けてきていたメイドたちとも今や時折世間話ができるまでに親交を深めることができていた。

 やはり食事とは非常に素晴らしいものなのだな……と内心でしみじみと何度も頷く。

 しかし不意に何とも引っ掛かるような影が視界を掠めたような気がして、ニグンは食事の手を止めて軽く俯かせていた顔を上げた。まずは後ろを振り返って店内を見回し、しかし特別奇妙なものは見つからず思わず仮面の奥で顔を顰めさせる。腑に落ちない心境ながらも食事に戻ろうと体勢を戻そうとし、しかしそこで漸く不審なものの正体を視界に納めてピタッと動きを止めた。

 “それら”を凝視し、ニグンは仮面の奥で目を見開かせながら呆然とした表情を浮かべる。

 ニグンの様子に気が付いた店主が彼の視線を追っていき、その視線の先を確かめた途端に大きな苦笑を浮かばせた。

 

「……気が付いたか。いや、まぁ、気が付いて当然か……」

 

 店主が苦笑の表情を深めさせながら、やれやれとばかりに頭を振ってくる。

 しかしニグンはそれどころではなかった。

 “それら”がここにいること自体はそこまで不思議なことではない。

 では何が問題なのかと言えば、それは“それら”が“ここ”で“何を”していたかにあった。

 

 

「………何故、彼女たちがここで働いているんだ……?」

 

 いつものニグンらしくなく、小刻みに震える人差し指で“それら”を指さしながら店主へと問いかける。

 彼の指さす先には、エルヤーの奴隷だった森妖精(エルフ)の三人娘が、何故か店員用のエプロンを身に纏ってちょこまかと店内を駆け回っていた。誰がどう見てもここで働いている様子に思わず頭の中が疑問符で一杯になる。

 しかしまず初めに返ってきたのは大きなため息の音だった。

 

「……何故も何も、懇願されたからに決まってるだろうが。あいつらの主人であるウズルスはまだ見つからねぇ。引き取り手もいねぇ。主人がいなくなった奴隷を受け入れるところなんてありゃしねぇ。加えて、どうしてもここで働きてぇときたもんだ。……初対面で全く知らねぇ相手でもあるまいし、放っておくわけにもいかねぇだろうが…」

 

 苛立っているのか、はたまた照れているのか。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて店主が唸り声のような声を零す。彼の瞳に恨みがましいような責めるような色を見たような気がして、ニグンは咄嗟に顔を背けて食事の手を再開させた。

 もしかしなくても、彼女たちがここで働きたいと懇願したのはウルベルトが原因だろう。

 彼の拠点にいればエルヤー・ウズルスが現れるかもしれないと思ったのか、それともウルベルトに対する感情故か。

 どちらにせよ、厄介なことになったものだとニグンは内心で大きなため息を吐き出した。

 ウルベルトがこちらに戻ってきて彼女たちの存在を知ったらどうするだろうかと思い浮かべ、その瞬間、背筋にゾクッとした悪寒のようなものが走って思わず小さく身体を強張らせる。主の本来の姿を思い浮かべ、ブルッと小さく身体を震わせた。

 ニグンの新しい上司であり主人であるウルベルト・アレイン・オードルは、枠に決して嵌ることのない策士のような存在だった。

 情報の重要性を誰よりも理解し、加えて頭の回転が速く、非常に行動力がある。また、必要以上に縛られることを嫌い、他者の下に降ることを嫌悪し、自身の自由に対して強い拘りを持った悪魔。最強の魔法詠唱者(マジックキャスター)でありながらも決して驕らず、思慮深い思考や深い叡智を併せ持つ。

 正に味方であれば心強いが、敵であれば非常に恐ろしい存在であり、ニグンにとっては非常に誇らしい主でもあった。

 しかし一つだけ、ウルベルト・アレイン・オードルという存在には非常に厄介な部分があった。

 それは、彼の思考回路や行動には必ずと言っていいほど“悪戯心”が含まれているという点だった。

 不真面目であると言う訳では決してない。ただ、何かを考えるにしろ何かをするにしろ、その中には必ず大なり小なり悪魔特有の残虐性が潜んでいるのだ。言い換えれば、“悪知恵が働く”と言っても良いかもしれない。そんな主が彼女たちの存在を認識してどんな悪巧みを企むか……、ニグンは考えるだけで血の気が引くようだった。

 

(……もし、事態が悪い方向に行ってしまったら、私が守護者の方々から責められるのだろうな……。)

 

 至高の主たちに対して絶対至上主義であるナザリックの階層守護者たちを思い浮かべ、ニグンは思わず出そうになったため息を咄嗟に呑み込んだ。

 もし実際に守護者たちがニグンを責めた場合には、意外にも常識人でもあるモモンガやペロロンチーノ、そして身内には非常に甘くなるウルベルト自身が守護者たちを諌めて落ち着かせる確率の方が高いのだが、しかしニグンは守護者たちに対して一種のトラウマを持っているため最悪の状況を信じて疑わなかった。特に至高の主たちを愛しているアルベドやウルベルトの被造物であるデミウルゴスは、ニグンが一番苦手としている存在だった。

 走馬灯のように頭の中を駆け巡る、ナザリックで経験した過酷な日々。

 やはり一番辛かったのは“教育指導”という名の扱きだろうか……と思い浮かべ、しかしニグンはすぐさま緩く頭を振った。

 確かに体力面で言えばそれが一番辛かっただろう。しかし精神面で言えば、別のものが頭に思い浮かんだ。

 それはウルベルトたちが外の世界に情報収集に出ることを守護者たちに宣言し、仮の名を決める時の事だった。

 モモンガはモモン、ナーベラルはナーベ、ウルベルトはレオナール・グラン・ネーグル、ユリはリーリエ、そしてニグンはレイン。

 これらの名前を決めるに当たり、実はちょっとした一波乱が起こっていたのだ。

 

 

 

 

 

 遡ること、ニグンがウルベルトのシモベとなって二日後のこと。

 円卓の間に集った三人の至高の主と階層守護者とセバスとニグンは、今後の動きに関してのチーム決めを終わらせた後、次は仮の名前を決めるために激論を繰り広げていた。

 

「――……モモンガだからモモンって、すっごい適当じゃないですか。もう少し捻りましょうよ」

「いやいや、それを言うならウルベルトさんだってそうだろう。レオナール・グラン・ネーグルって、見た目そのまんまじゃないか」

「俺は人化するから良いんですよ」

「それを言うなら俺だって……――」

「――……いや~、ユリはどんな名前が良いかな~。やっぱり百合に因んだ名前が良いかな~」

「おい、まずはこっちに集中しろ、ペロロンチーノ」

 

 和気あいあいと言い争う至高の主たちに、何故かそれを幸せそうに見つめている守護者たち。

 最終的には「至高の御方々の御名前は素晴らしいため、仮初の名前だとしてもそれ以上に相応しいものはない」「名は体を表すため、ウルベルト様の名の選択は非常に素晴らしい」といったような守護者たちの言葉によって、モモンガとウルベルトの仮初の名前は決まった。ナーベラルに関しては、ナーベラル自身の「ナーベが良いです」という言葉で決まり、ユリの名前に至ってはペロロンチーノの「やっぱり百合に因んで“リーリエ”にしましょうよ!」という言葉によってあっさりと決まった。

 問題はニグンの仮初の名前に関してだった。

 ああでもないこうでもないと至高の主たちが悩む中、ふとウルベルトが爆弾発言を投下してきた。

 

「ふむ……、では“レイン”というのはどうかね?」

「……“レイン”、ですか?」

「………はっ! ま、まさか……ウルベルト様、そのお名前は!!」

 

 疑問符を浮かべるニグンや他の面々に対して、デミウルゴスが何かに気が付いたように声を上げる。

 瞬間、ウルベルトの山羊の顔が悪戯気な笑みに歪んだのをニグンは確かに目にした。

 

「ふふっ、“ウルベルト・アレイン・オードル”の“アレイン”の部分から取ったのだよ。良くはないかね?」

「「「っ!!?」」」

 

 小首を傾げながら小さな笑みを浮かべるウルベルトに、瞬間、この場にいる全てのシモベたちが声にならない悲鳴を上げた。次には誰もが鋭い視線でニグンを睨み付け、ニグンは思わずビクッと身体を震わせる。彼らの目には、至高の主の尊い名の一部を借り受けるという名誉に、嫉妬という名の殺気が宿っていた。

 その後もちょっとした騒動はあったものの何とか場は治まってニグンの仮初の名前も決まったのだが、あれほど精神的に辛かった場面は他にはないだろう……と今思い出しただけでも怖気が走る。

 

 

 

 

 

「――……おい、大丈夫か? 手が止まっているようだが……」

 

 唐突に聞こえてきた気遣わしげな声。

 一人無言のまま悲惨な過去を思い返して仮面の奥で死にそうな表情を浮かべていたニグンは、そこで漸く我に返った。

 目の前には怪訝そうな表情を浮かべた店主。手元には完食されることなく残っている料理。

 ニグンは一度フゥッと大きな息をつくと、何でもないと言ってから気を取り直すようにいつの間にか止まっていた手の動きを再び再開させた。最後のパンの欠片を口内へと放り込み、ウィンナーを噛み砕いて呑み込む。

 皿の上を全て空にすると、ニグンは小さく一息ついた。

 未だ頭にチラつく過去の残像を振り払い、これからのことについて頭を切り替える。

 まずは内通者になるよう説得している帝国四騎士のレイナース・ロックブルズに連絡を取り、返事を聞くために会う約束を決め直さなくてはならない。

 実は大分前に会う約束自体はしていたのだが、その際はペロロンチーノからコキュートスの件でナザリックに帰還するように言われてしまい、そのまま延期となっていたのだ。早急に会う日取を決め直し、答えを聞かねばならない。

 さて、どの方法で連絡を取るべきか……と食後の水を飲みながら考えを巡らせる。

 しかしそれはすぐに中断されることとなった。

 突然背後で響いた大きな音。店内は静まり返り、一拍後には背中に多くの視線が突き刺さってくる。

 その覚えのある感覚と流れに、ニグンは途端に嫌な予感に襲われた。

 カツカツと近づいてくる高い足音。

 ニグンは振り向きたくない一心で無視を決め込んでいたが、しかし相手がそれを決して許してくれなかった。

 

「……あら、あなただけですの? ネーグルさんはどちらにいらして?」

 

 まるでニグンの思いなど知らぬげに、背中に掛けられる一つの高い声。

 ニグンは出そうになる大きなため息を何とか呑み込むと、覚悟を決めて背後へと振り返った。

 

「………これはこれは、ノークランさん。残念ながらレオナールは所用で出ておりましてここにはいないのですが、一体何の御用でしょうか?」

 

 仮面の奥で引き攣った笑みを浮かべながら、なるべく愛想良く問いかける。

 背後にはニグンの予想通り、以前ウルベルトに依頼という名の喧嘩を売ってきたソフィア・ノークランが立っていた。彼女の背後には以前と同じように護衛であろう二人の屈強な男が佇んでいる。

 ソフィアはまるでニグンの言葉を確かめるかのように店内を素早く見回すと、可愛らしい顔に若干の残念そうな色を浮かばせた。

 

「……そうですの。……本日はあなた方に再び闘技場の演目に出場して頂きたくて依頼しに参りましたの」

「闘技場の演目出場の依頼……ですか………」

 

 彼女の手から差し出された封筒を受け取り、マジマジとそれを見つめる。

 白い封筒には宛名と差出人の名前がこの世界の文字で書かれており、ご丁寧に赤い蝋とノークラン家の物であろう紋章で封までされている。これだけでも、差出人である彼女がウルベルトに対してどんな感情を抱いているのか分かるというものだ。

 しかし果たしてウルベルト本人がそれに気が付くかどうか……。

 変なところで鈍感なところのある主を思い浮かべ、思わず何とも言えない表情を浮かべた。

 しかしすぐさま表情を元に戻すと、ニグンは何事もなかったかのように受け取った封筒を懐へと仕舞った。

 

「……分かりました。レオナールには私の方から伝えておきます」

「ネーグルさんはいつお戻りですの? 良ければ、こちらで待たせて頂いて直接お伝えしたいのですけれど」

「あー、それは……やめておいた方が宜しいかと………」

「あら、何故ですの?」

 

 それはあなたが嫌われているからです……とは口が裂けても言えない。少なくともニグンには口に出して言うことはできなかった。

 しかしそんな言葉に彼女が納得するはずがない。

 キョトンとした表情を浮かべたかと思うと、次には不機嫌そうに小さく顔を顰めさせてきた。

 

「わたくしがネーグルさんにお会いしては不味いことでもありますの?」

「いや、えっと、そう言う訳ではないのですが……。その……今日中に戻るかも分かりかねますので」

「そう、ですの……」

 

 先ほどの勢いはどこへやら。途端にしゅんっとなる様がとても可愛らしい。普段の強気な彼女の様子を知っているだけに、そのギャップが更に彼女の魅力を引き立たせているようだった。

 しかし幸か不幸か、彼女が一番振り向いてほしいと願っている存在は今この場にはいない。店内にいる男どもから感嘆にも似た吐息が零れようが、熱っぽい視線を向けられようが、彼女にとっては何の意味もなさなかった。

 残念そうな溜息を吐き出し、しかし次にはいつも通りの凛とした表情を浮かべる。必要以上に背筋を伸ばして胸を張る様は、どこか無理をしているようにも見えた。

 

「では、お願いしますわ。依頼を受けて下さるかどうかの答えはなるべく早く頂けると助かりますので、それも伝えておいて下さい」

「分かりました。確かに伝えます」

 

 これ以上彼女の感情を波立たせないように真剣な声音を意識しながら大きく頷いて見せる。

 ニグンは護衛の男たちと共にしっかりとした足取りで去っていく彼女の背を見送りながら、そこで漸く大きなため息を吐き出した。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 その日の深夜。

 一人でも出来る依頼をこなし終えたニグンは、自身に与えられた魔の闇子(ジャージーデビル)を裏の厩に預けて“歌う林檎亭”の店内へと入っていった。

 深夜ということもあり、一階の食堂は既に閉まっている。裏口から店内へと入ると、そのまま借りている二階の部屋へと一直線に向かっていった。なるべく音を出さないように気を付けながら軋む木の階段を上っていく。

 目的の部屋の扉へと歩み寄り、そこで漸く扉の隙間から微かな光が漏れ出ていることに気が付いた。

 一瞬身体を硬直させ、すぐに我に返って扉へと手を掛ける。

 勢いよく扉を開けて中に入れば、そこには予想通りの存在が長椅子(カウチ)にゆったりと腰掛けていた。

 

 

「お帰り、ニグン。遅くまでご苦労だったね」

 

 寝椅子に腰かけていたのは、人の姿をしたニグンの主であるウルベルト・アレイン・オードル。

 傍らにはユリが控えるように立っており、ウルベルトの手には紅茶が半分ほど入ったカップが握られている。それだけで、彼らがこの部屋に来て時間がそれなりに経っていることが窺える。

 ニグンは扉を閉めて部屋の奥へと足を進めると、ウルベルトの前で足を止めてそのまま跪いて深々と頭を下げた。

 

「ウルベルト様、今夜お戻りになるとは思わず……。出迎えが出来ず、大変失礼をいたしました」

「ああ、構わないよ。お前は私たちの代わりに一人で依頼を片付けてくれていたのだからね。むしろ何か礼をしなくてはと思っているほどだ」

「い、いえ、礼などと……っ!!」

 

 ウルベルトの言葉に、ニグンは慌ててより一層頭を下げる。

 ナザリックのシモベとなりウルベルトに仕えるようになってからというもの、ニグンはいくつもの驚きや感動を味わい、悲惨な目にもあってきた。しかし中でも一番ニグンが衝撃を受けたのは、もしかすれば今のような、至高の主たちが自分たちシモベに対して与えてくれる寛大な心についてかもしれなかった。

 ニグンが未だ唯の人間であり、法国に属する陽光聖典の隊長であった頃。自分にとって法国のために働くことは至極当然のことであり、与えられた任務を遂行することもひどく当たり前の事だった。褒賞を願うなどもっての外。これまで考えたことすらなかった。恐らく自分に限らず、法国の国家機関に属する人間であれば誰もが同じ考えを持っているであろう。

 法国では、上の役職になればなるほど与えられる富は減っていく。ニグンの元上司である最高神官長はその最もたる存在であり、彼らは富や名誉といった野心からではなく、国への忠誠心から今の地位を手にして職務を務めている。

 だからこそ、いくら任務を遂行しようとも、結果を残そうとも、そこには何も存在しない。褒賞どころか礼の言葉すら与えられはしない。何故ならばそれが当然の事であるからだ。

 しかしそんな考えは、ナザリックのシモベとなったことで全てが変わった。

 目の前のウルベルトも他の至高の主であるモモンガやペロロンチーノも、当然のようにシモベたちに礼を言い、褒賞を与えようとする。

 労力にはそれに見合うだけの対価を。それが当然であると口にして行動する。

 最初は驚いたものだったが、今では主たちの寛大な心に感動するばかりである。また、やはり礼を言われるだけでも嬉しいものだと改めて理解することが出来た。

 

 

「ありがとうございます、ウルベルト様。その御言葉だけで、身に余る栄誉でございます」

「まったく……。お前は元法国の人間であるというのに、ナザリックのモノたちと全く同じことを言うのだな。……まぁ、お前はそれ相応の働きをしてくれているのだ。褒美を期待しておくと良い」

 

 ウルベルトが小さな苦笑を浮かばせて、軽く肩を竦ませる。

 ニグンは頭を下げたまま、この目の前の主に心からの忠誠を誓い続けようと改めて心に刻み込むのだった。

 

 


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