実力至上主義の学校に数人追加したらどうなるのか。※1年生編完結   作:2100

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プロローグとしてお読みください。

2019/12/07、大幅に改稿しました。元々の内容とは全然違うものとなっています。なので、既にお読みいただいた方も、ぜひもう一度お読みください。


プロローグ
速野知幸の独白


「人間は平等か? 平等とは何か?」

 

 これは、俺がある人物から受けた問いだ。

 問われた時には質問者の意図が読めず、「いきなりどうしたんだ」と聞き返した。すると相手は「いや、なんでもない。忘れてくれ」と言って引き下がった。

 それで俺もこの質問に関しては気に留めないことにしていたが……いま、なぜか急に思い出した。

 せっかくの機会だ。ここで、その問いについて少し真剣に考えてみることにする。

 

 

 まず一つ目、人間は平等であるかどうか。

 これに関しては断言してもいい。

 

 平等であるはずがない、と。

 

 では、仮に人類が平等であるとして。

 なぜ「平等であるべきだ」なる言説が称賛される?なぜ人々は必死に「平等」を訴える?

 「平等であるべきだ」という主張は、平等でない現状を前提として、それを改革していくべきだ、という意味に他ならない。

 したがって、人類は間違いなく平等ではない。

 いや、こんな回りくどい言い方をしなくても、少し考えれば分かることだ。

 性別、年齢、容姿、声質、出自、能力、所得、エトセトラエトセトラ。

 不平等が生じる要因なんて、そこら中に転がっているのだから。

 

 では次の問い、平等とは何か。

 これは非常に難しい問いだ。

 まず一口に平等といっても、大きく分けて2つの種類が存在する。

 弱者に補助を与えることによる、結果の平等。

 一切の操作を加えないことによる、機会の平等。

 これらはしばしば、野球観戦の絵で例えられる。

 身長175センチの成人と、身長130センチにも満たない幼い子どもが、スタンドの向こう側から野球を観戦している。

 スタンドの高さを考慮した場合、子どもはゲームを観戦することはできない。これは不平等である。そのため、子どもに箱を与えてそれに乗せ、観戦できるようにしてやる。これが結果の平等だ。

 しかし見方を変えると、この操作によって、子どもには箱を与えて、成人の方には箱を与えていない、という不平等が生じているとも解釈できる。

 つまり、双方ともに箱を与えず放置しておくこと、これもある意味では平等であるということだ。

 平等によって不平等が生まれ、不平等によって平等が生まれる。

 このようにして考えてみると、「平等」とは非常に面白い概念であると思う。

 いまの俺の思考は、先人たちが幾度となく通ってきた道だろう。

 そして、不平等を完全に排除するのは不可能だということに気づいたのだ。

 

 どちらの平等を目指すべきなのか、俺にはわからない。

 だが一つ、自信を持って言えるのは、現代社会においては「機会の平等」も「結果の平等」も到底実現されそうにない、ということだ。

 

 

 




次回から本編に入ります。
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