ナザリック
・異世界へ転移
・攻性防壁を仕掛けた八咫烏(計9匹)を各地に飛ばす
・ついでに霧も出しとく
・リザードマンの集落を襲ったイビルツリーを撃破
・リザードマン達の崇拝もGET
・周辺諸国の大まかな情報入手
・隠蔽工作も無事終了
・スレイン法国の監視に八咫烏が引っかかって攻性防壁発動、しかし召喚獣は撃退される
・色々お話が聞きたいからこっちに来てる特殊部隊(ニグンさん)を待つことに←いまここ
カルネ村
・霧が出てなんも見えねえ
・火が使えねえ
・なのでエ・ランテルに助けを呼びに行こう←いまここ
イビルアイ
・なんか怪しい鳥がいたから追いかけよう
・なんか怪しい霧が出てるこわい
・なんか魔樹の竜王復活した
・助けてツアー!←いまここ
ここまでの動きが現地の人々にどう関係してるかというのが今回のお話
視点があっちこっちステーションしますので分かりにくいところなどありましたら教えていただければ。
(ナザリック転移より31時間後、エ・ランテル)
鳥の鳴き声が人のざわめきに塗り替えられる時間帯、蒸してきたとはいえ窓から射し込む陽はやわらかく、朝方のまだ涼しい風が吹き込んでいる応接室はそこそこ快適だ。
冒険者組合で出される茶は今日もまあまあ美味い。時間が時間だから、朝淹れたばかりの出涸らしじゃないやつがいただけるだけ、とも言えるが。
テーブル挟んで対面に座ってるのは金髪の坊っちゃんと二人の村娘。バレアレ薬品店の跡継ぎ、ンフィーレアと、カルネ村から来たという姉妹だ。
それぞれ表情は固く、姉の方はガチガチに固まっちまってるが、妹の方は物珍しげにキョロキョロとしながらも堂々としたもの。肝が据わってることだ、と胸中で感心する。ガキは別に嫌いってわけじゃあない。大人しくしてる分には、っつう前置きがつくにせよ。
そしてはす向かいの席には見知った男、プルトン・アインザック。組合長自ら出てくる程度には深刻な依頼、ということだ。
「頼めるか、イグヴァルジ君」
「……要するに裏取りしてこい、ということで?」
組合長の頷きに、もう一度手元の依頼内容に目を通した。
カルネ村近郊に深い霧が出た。この季節にはあり得ない濃度の上、太陽が高く昇っても一向に晴れる気配がなく、さらに霧の中では火がつかない。
以上のことから自然に発生したものとは考えにくく、何かしらの魔法によって生み出されたものである可能性が高い。
よってこの濃霧について調査を依頼する。範囲、性質、原因、と情報量に応じて報酬額は変化し、また、調査に向かった際既に霧が晴れていたとしても、幾らかの金銭が支払われる、と。
裏取りは組合自体がレンジャーを集めて現場に放り込むことも多いんだが、
大抵のことはこなせるくらいの実力と、情報の精度は勿論、引き際を見誤らない、嘘をつかない、報酬に後から文句をつけない、大事なのはここんところだ。
それができない冒険者がいかに多いか、っていうのは、まあ嘆きどころだな。
で、肝心の中身について。
依頼としては悪くない。場所も近いし、報酬の額も適正。稼ぎがてら王都の方まで向かおうと思ってたところだから今日にでも出発できる。……普段からエ・ランテルを拠点に置いてる身としては、「霧」っていうのが気にならなくもないが。
逡巡する様子を見せた俺に、対面に座っている連中が揃って頭を下げてきた。
「お願いします、どうか」
「お、お願いします!」
バレアレの坊ちゃんの表情は今だ固く、隣の嬢ちゃんは涙の滲んだ目をぎゅっと瞑っている。情に流されてやるほど綺麗な心はしちゃいないが、俺もチンケな村の出だから、火も使えない霧の中で暮らしていく農民の今後くらいはわかるつもりだ。
離れられねえんだよな、土地ってのは。まだ駆け出しの頃、ゴブリンやらオーガやらに参ってる村へ討伐に出かけたことは何回もあるが、どんだけ村に危機が迫ってても、連中には全部を捨てて逃げるっていう選択肢ってのがない。
俺みたいに村を捨てて出てきた奴から見れば滑稽に映るが、慣れ親しんだ拠点がなくなる不安というのは、想像するだに余りある。
「カルネ村から買い取っている薬草はとても上質なものなんです。あれがなければ、ポーションの質は大きく落ちることになる」
まっすぐに姿勢を正したお坊ちゃんがそう言った。はきはきとした声には深刻な響きが滲む。
ちょっと驚いた。てっきり隣の嬢ちゃんとデキてるから依頼に名を連ねたのかと思ってたが、実利方面でも理由があったらしい。
ふむ、と一息。エ・ランテルに薬師は多くいるが、ちょっと名の知れた冒険者なら、バレアレのポーションと他のポーションにどれだけ性能の違いがあるか文字通り身に沁みて理解している。
「まあ、なんだ。受けるつもりではいるんだが……」
表情を明るくする坊ちゃん達を横目に、組合長と視線を合わせれば、彼は顎を撫で、低い声でひとつ唸った。
「カッツェ平野、か」
再び部屋に重い沈黙。無理もない。この辺りに住む人間なら誰でも行き着く思考だ。
カッツェ平野の霧と言えば、年がら年中大量のアンデッドを内包している特殊な霧で、王国と帝国が戦争する日にだけ晴れるもんだから、霧自体に意思があるんじゃないか、とまことしやかな噂まで流れてる。
カッツェ平野の霧と、平野に発生するアンデッドにどのような関係があるのかは、今のところわかっていない。
霧の外にアンデッドの軍勢が襲い掛かってきた、なんていう話は聞いたことないが、程近い場所にあるエ・ランテルからすれば決して無視できない可能性のひとつ。アンデッドが人間の期待や理屈を汲み取って動いてくれる、なんてことは寝物語にもならねえ笑い話だ。
当然そこのところは歴代の都市長を主導に、もしもアンデッドが出てきたとしてもそれなりの戦はできるよう、常に備えは整えているはず。
だが、それが二正面となると、どうなるかわかったもんじゃない。もしかすると俺たちの調査が、エ・ランテル、ないしは周辺国家の命運をわける鍵になるかも。
これはある意味じゃチャンスかもしれないな、と、内心でほくそ笑み、怯えた様子のお嬢ちゃんに告げる。
「条件を確認するぞ。俺たちの仕事は例の霧の調査。いいか、あくまでも調査だ。可能なら原因も排除するが、すぐには村に帰れないと思っておいた方がいい」
「……はい」
不安げに返事をするお嬢ちゃん、それを心配そうに見つめるバレアレの坊ちゃん。肩のひとつでも抱いてやれよ、と言いたくもなるが、そこまでサービスしてやる義理もない。せいぜいがんばれ、若者よ。
「トブの森に原因があるとわかったときも撤退する。そのときにはもうどうしようもないからな。……村を捨てる覚悟もしておけ」
「そんな……」
「……エンリ」
唇を噛んで俯く気持ちもわかるが、トブの大森林はモンスターの巣窟だ。カルネ村の近くは森の賢王とかいうモンスターの縄張りだなんて話も聞く。
森の中まで霧に覆われているのなら、深追いどころか足を踏み入れることすら危ない。
「まあ、そうなったら俺らよりも上のクラスも含めた討伐隊を組むことになるだろうよ。安心しな」
「そのときは魔術師組合の方にも声をかける。どうも只事じゃないようだからな」
まだ村娘の証言だけで何もわかっちゃいないだろうに、組合長の面はやけに真剣だ。長年冒険者をやってきた勘というやつだろう。意外と馬鹿にできたもんじゃない。俺だって、理屈のわからない自分の勘に助けられたことが何度もある。
それから、いくつかの細かいことを確認し、お互いの同意を得たところで、早速チームメンバーに説明しに戻ろうと、席を立った。
「それじゃあ、朝のうちに発つ。何もなくても1週間後には戻るってことで」
「ああ、すまないな。頼んだ」
部屋を出る直前、ちっこい方の嬢ちゃんと目が合ったので、安心させるように微笑んでやる。
“英雄”ってやつぁ、子供に優しくなくちゃならねえからな。
「とりあえずは事前調査に来ると思うんだよね。レンジャーの部隊とか」
(ナザリック転移より37時間後、バハルス帝国首都・アーウィンタール)
本格的な夏はまだ迎えていないにせよ、太陽が頂点に来ればそれなりに暑い。魔法具で空調を効かせたこの部屋には関係ないことではあるが、雨が多いこの時期は公共事業が滞りやすいのが悩みどころだ。
腐った貴族の大部分は粛清を完了し、後は国の発展へと全力を傾けられる……はずだったのだが、問題というものは意識していないところから次から次へと湧いてくるものらしい。
何かと間が悪い人生であるのは自覚している。祖父の代から準備を続けてきた計画を実行に移さねばならないときに産まれてきたところから既に始まっていたのだろう。どうも私という人間は大きな問題に直面しやすい性質であるようだ。
とはいえ今日のこれは、常日頃の、人間関係という汚泥を凝縮し煮詰めた泡から這い出てきたような厄介事に比べれば随分とマシな部類と言えようが。
「で、それは?」
兵に抱えられて持ち込まれたのはひとつの籠。正確には、籠の中の鳥である。深窓の令嬢に使う比喩でもあるが、今目の前にあるのは文字通りのそれだった。
真っ黒な翼と体躯。三本足に紅い瞳。肩に乗せられる程度の、クアランベラトに良く似た鳥だが、そこらの獣にはない落ち着きを感じる。厳重に魔法具で封印を施された籠が不釣合いに思えるほどだ。
「中庭をうろうろと飛んでいたので捕まえたのです。その場で処分しようという流れに、兵の間ではなったのですが……」
「私が待ったをかけましてな」
至極真っ当なことを述べる兵に続いて、豊かな白髭を撫でながら、帝国が誇る魔法詠唱者、フールーダ・パラダインが答えた。
「どうも魔法的な力を有しているようで」
「どこぞの召喚獣か?」
「恐らくは」
ふむ、とひとつ首を傾げ、改めて籠を観察する。鳥はこちらをじっと見つめたまま微動だにしない。
あるいは何かの罠という可能性もある。私の命を狙うものは帝国にも、周辺諸国にも数多存在することだろう。じいとてそのことは百も承知のはずだが。
こちらの考えを読んだかの如く、じいは懐から小さな紙切れを取り出した。
「こやつが、翼の中からこのようなものを取り出しましてな」
呪いの類はかけられておりませなんだ、と、こちらに手渡す。
そこに書かれていたのは、王国語で「言葉」を示す単語。辛うじて読むことができたが、お世辞にも綺麗とは言えない。そう、まるで、獣か何かがペンを咥えて書いたような。
……まさか。
「帝国語を身に付けたい……、と?」
獣が答えるわけでもあるまいに、と半ば冗談めかして問うた先、黒い鳥は当然のように、こくり、と頷いた。
思わず目を見開くと同時、ざわ、と周囲がさざめく。このような小さな獣が人語を解し、文字を操るなど。いや、まさか、偶然に違いない。懐疑と驚嘆のざわめきの中、にやりと笑うじいと視線がぶつかった。
……なるほどな。既にいくつか実験を終えていて、確信を得ている、ということか。
「面白い、教えてやれ」
「へ、陛下!?」
「鳥に、でございますか!?」
家臣達の戸惑いを、フールーダが一笑で切り捨てる。そこで何人か気付いた者もいたようだ。
「それの向こう側に、操り手がいるんだろう。恐らくは、王国民の」
崩れ行く国から逃げ出したいと願っている
あるいはその実力を売り込みたい冒険者か。
何らかの理由で動くことができないようだが、それは追い追い聞いていけば良い。
そんなことを考えていると、文官のひとりが険しい顔で問うてくる。
「王国の罠、ということは?」
「このくらい迂遠な罠を張れる連中なら、私はもっと楽をさせてもらっているだろうよ」
どっ、と部屋に笑いがおこる。
油断をしてやる気は毛頭ないのだが、連中の愚かさときたら、こちらが想定する遥か下を潜り抜けてくるものだから、逆に予測がつかない。普段から悩みの種であることは確かだった。
「それに、このような芸当ができる獣を召喚し、寄越してくる実力の者ならば、もっと直接的に私を害する力を持っているはず。そうだな、じい」
「まこと、その通りでございます」
フールーダの瞳に鋭い光が宿る。まだ見ぬ実力者への期待か、あるいは対抗心か。
こちらとしては、向こうにどのような意図があろうとも、今は一人でも多く優秀な人材が欲しい。
少なくとも王国語が扱えて、これから帝国語を学ぶ気概があるということだ。
罠というのならそれはそれで面白い。よほど引き抜きがいがあるというもの。
近ごろ阿呆の相手ばかりで少々疲れていたのだ。たまには知的な争いをしてみたいと思うのも無理のないことだと思うのだが。
私が今あちこちから人材を引き抜こうとしているのは家臣達も了承の上。そういうことならば、と少々呆れたように今後の対策を練ってくれている。かつて私が戦場でガゼフ・ストロノーフを勧誘したときと同じ表情だった。
とりあえず、万一にも危害を振り撒かれることのないよう、離れで厳重に保管した上、翻訳家を志す若い文官に相手をさせる、ということになった。獣相手に本気で言語指導ができるのなら、さぞ頭の柔らかい翻訳家が誕生することだろう、と本気か冗談かわからない期待をかけながら。
大事をとって、洗脳対策だけは怠らぬようにとフールーダから再三言いつけられて、来たときと同じように籠を抱えたまま、兵は退室していった。
終わってみれば騒動とも呼べない代物だったが、と、背凭れに体重を預け、机上で指を組む。
久方ぶりの楽しみに、知らず喉奥から笑みが溢れた。
「さて、どう転ぶことやら」
優秀な味方となり得るか。
はたまた敵であることを望むのか。
たまには賽を振るのも悪くはない。そう思った。
「いやー、看破の魔法かけられなくて良かった」
「大惨事になるとこだったよね」
(ナザリック転移より41時間後、スレイン法国・土の巫女の間)
かちかちとなにかが鳴る音。自分の歯の音だ。極限までの恐怖を感じると、人は心を置き去りにしてしまうらしい。がたがたと自分の身体が恐怖に震えるのを、どこか俯瞰した視点から感じていた。
尻餅をついた床はじっとりと塗れている。ずりずりと可能な限り後退り、もはや背中に張り付く壁。逃げ場はもう、どこにもない。
採光のために備え付けられた高い位置の小窓からは、ぬるい空気と血のような夕陽がひたひたと流れ込んできていた。
一体なんだ。これはどういうことなんだ。
私たちは、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフの抹殺指令を受けた、陽光聖典隊長ニグン・グリッド・ルーインを監視している最中だったはず。
これは、これはいったいなんだ?
いま、目の前にいる
心の叫びを聞き取ったか、みちみちと音を立てながら、
少しずつ、少しずつ。断頭台に上がる死刑囚ですらもうすこし潔いことだろう。あるいは甘い菓子を惜しみながら舐め続ける童のようでもあった。
既に部屋の灯りはかき消えて、光源というには心許ない幽かな夕日が射すばかり。ほとんど闇に覆われてしまっているにも関わらず、
大きさはビーストマンほど、一見すれば、ヒトからそう離れた生き物でない。そう錯覚した精神に、薄すぎる胸板と長すぎる手足がヒビを入れる。
その全身は濁った夕焼けに照らされてぬらぬらと輝き、ぼこぼこと沸き上がる皮膚からは魚が腐ったような匂いのする液体を絶えず滴らせていた。
湖に身を投げた女のような長く汚ならしい黒髪は、よくよく見れば一本一本がずるずると蠢く触手になっており、獲物を捕らえんと這いまわっている。
顔と思しき場所の中心には縦に亀裂が入っており、ぬちゃ、ぬちゃ、と
腐って溶けたような肉体の、じゅるじゅるとのたうつ触手の、その瞳だけがやけに透明な緋色をしていて。
擦りきれた精神は、いっそこの怪物が深い海から来たる断罪の使徒ではないのかと知覚をつくりはじめていた。
恐怖で霞む視界の隅、勇ましく立ち上がり、化け物へと吠えつこうとする者がひとり。遠目から見ても震えているのがわかる彼の手には、それでも異形に一矢報いるべく、魔力が集中しているのがわかる。
「き、貴様! 一体なん……!」
彼が突きつけた声はしかし、本人の絶叫によってすぐさまかき消された。
ぎい、ぎいいい! と顔面を掻き毟りながらのたうち回る彼の眼孔には、あるべきものが嵌まっておらず、黒々とした穴がぽっかりと開いているだけ。
「目が、ああ、目が、目がぁあ!!」
「ひ、ひひ、ひひひひ! ひーっ! ひーっ!」
「ママァ、ママァア……」
気付けばあたりは阿鼻叫喚の地獄絵図。
ある者はひたすら自傷し、ある者は幼児のように泣きじゃくり、ブクブクと泡を吹いて白目を剥いている者がいるかと思えば、ただただ虚空に向かって笑い続ける者もいた。
誰ひとり正気を保っていない空間で、自我を失くした巫女姫だけが、祈りの姿勢のまま静かに鎮座している。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
悲鳴と狂気の中に混じる足音に、ひゅ、と息を飲んだ。いつの間にか、異形のモノがこちらに近付いている。
「く、くるな……」
懇願など受け入れられようはずもない。だが、無駄とわかっていても願わずにはいられなかった。
それを嘲笑うかのように、きぱ、と化け物の顔面に三日月型の亀裂が入る。澱み色の糸を引きながら開かれる真っ赤な口内、ころころと舌で転がされている2つの球体と視線がかち合った。
あたりには恐怖で垂れ流された不浄の臭いが充満しているというのに、
嗅いだこともないというのにわかるのだ。それが水底の匂いだと、わかってしまうのだ!
「来るなぁあああ!!!」
ただただ本能のままに叫ぶうち、ふと、神が残して下さった経典にある一文を思い出した。
――深淵を覗くとき、深淵もまた我々を覗いているのだ。
ああ、神よ。偉大なる神々よ。私は、我々は、一体何を覗いてしまったというのですか。
やがて、水かきのついた、その身体に対して不釣り合いなほど大きな掌が、ゆっくりと私の頭を掴み。
私はそこで、意識を手放した。
「あちゃー……」
「ほとんど幻覚なんだけどなあ」
「やっちゃったものは仕方ない。フナムシ撒いとこフナムシ」
(同時刻、トブの森南端)
茜色に染まり始めた空はただただ静かに雲を漂わせている。
先ほど起きた異常など夢か幻なのだとせせら笑うような、穏やかな夕焼け空だ。
それに対して地上にいる男達の狼狽えぶりといったら。
いや、流石に法国で選りすぐられた優秀な
当事者としてあの現象を目の当たりにしてしまった私からすれば、隊員の動揺も無理からぬものだとは思うが。
うつくしくなめらかな空。
さきほど一筋の罅が入ったなどとは到底信じられない、おだやかな。
「……いい加減に落ち着け。任務を続行するぞ」
さして大きな声を出したつもりはなかったが、隊員一同、命令を耳にした途端にぴたりと平静を取り戻す。その様子にひとつ頷いて、全員に異常が無いか精査を命じ、獲物を檻に追い込むべく思考を開始した。
そう、大事な獲物。
リ・エスティーゼ王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフ。
亜人との戦争は日々激化の一途を辿っている。人類が一丸となって戦わねばならないというこのときに、貴族による収奪と麻薬の被害が蔓延する王国をそのまま放っておくわけにはいかない。人類の盾であるスレイン法国としては、至極当然の判断であった。
もはや腐り落ちる寸前の王国を至急バハルス帝国に併呑させるため、王国随一の戦士であるガゼフを抹殺する。それこそが、スレイン法国の特殊部隊のひとつ、我々陽光聖典に与えられた使命。
だが、と。
地平の向こう側に飲み込まれてゆく太陽、紫紺が混ざりつつある空をきつく睨んだ。
殲滅専門の部隊である陽光聖典は、単一の目標を追うことに関して長けているとは言えない。ましてやガゼフは王国最強の戦士。英雄の領域に片足を踏み入れている男だ。囮の部隊と共同で追い込んでいるが、こちらの安全を確保したままの捕り物には数日を要することだろう。
本来であれば、全員が英雄級の人材で構成されている漆黒聖典や、隠密に長けた風花聖典が任務に当たるべき内容だが、それぞれが
決して芳しいと言える状況ではない。そんなときに、あの現象だ。
幻術の類か、どこからか攻撃でもされたのか、それとも何かの前触れか。魔力の痕跡すら残っていない今、考えたところで答えが出るわけでもないが。
やがて、全員の点検が完了したと副長に当たる男から報告が上がった。もはやその声に先ほどまであった戸惑いは残されていないことに満足して、再び進行を命じる。
ふと、1羽の黒い鳥が、上空高く旋回しているところが目に入った。黒い翼が朱紺の空にやけに映える。
果たしてあれは凶兆か、それとも吉兆か。過ぎる思考を、軽く頭を振って追い出した。
神の御名に縋ってはならない。己の力で道を切り開いてこそ、神は我らに微笑まれるのだ。
ともあれ、今起こったことは報告しておかなければなるまい。
<
「攻性防壁の発動エフェクトをご存知ないとは」
「時代は変わるってことですかね」
「一度に複数のギルドが来てるわけじゃないっぽい?」
「かもね。ああ、これかな。100年毎の伝説ってやつ」
(ナザリック転移より47時間後、エ・ランテル西側にある山村)
ド田舎の村。住民はみんなくたびれてて、夜風はじっとり生ぬるい。腰掛けた柵は今にも壊れそうで、元からするつもりはないにしても、大して長居はできないだろうと思わせた。
でもまあ、気分はそこそこ上々。月は綺麗だし、身も心も軽いし、
何よりさっき、偶然通りかかったシルバープレートが3枚も手に入ったのだ。鼻歌のひとつでも歌いたくなるようないい夜であることは間違いない。早速コレクションに追加する。月の光を受けてきらきらと輝く極彩のメタリック。うん、いい感じ。
なので、ぺらりと渡された小さな紙切れも、普段より真剣に見てみようという気分になったのだ。小さな火種でもあればあっという間に燃え尽きてしまうような大きさのそれには、ひとつの指令が書かれている。
トブの森南東部、カルネ村近郊。魔法的な力による霧の発現あり。調査されたし。
「ふうん」
指令を運んできた
どうせエ・ランテルに向かう予定だったから、見てくるくらいなら全然構わない。盟主様直々のお願いなら断るわけにもいかないし。
それにしても。
「霧、ねえ」
どっかの馬鹿が調子に乗ってるのか、はたまたカッツェ平野の霧が広がったか。魔法は不得手なので見てみるまでわかんないけど、っていうか、見てみてもわかんないかも知れないけど。まあ、術者がいるならとっ捕まえて来い、ってことだよね。スッと行ってドスッ! かんたーん!
ていうかあの近くニグンちゃんが来てるんじゃなかったっけ? 鉢合わせたりしたら面倒だなー。執念深くてお固いんだよね、あのオトコ。
……ま、いっか。
霧に乗じて追っ手も完全に撒けるかも知れないし。こっちの立ち回り次第だよね、こういうのは。優秀なところを見せてあげますか。
「よっと」
腰掛けてた柵から立ち上がり、北へと進路を取る。懐から取り出したるはひとつの冠。叡者の額冠。スレイン法国の最秘法のひとつ。持ち主の自我を奪う代わりに高位階の魔法を使えるようになる、素敵なティアラだ。かわいいかわいい巫女姫ちゃんからのプレゼント。もう発狂しちゃったから、巫女姫じゃなくなっちゃったけどねー。
どんなアイテムでも使えるっていうタレント持ち、エ・ランテルのンフィーレアくんにつけてもらえば、相当の力を発揮することだろう。今からどんなことになるか楽しみだ。
「もうちょっと待っててねー、カジっちゃーん」
楽しい楽しいお祭りに参加するために、とっととお仕事を終わらせてしまおう。
クレマンティーヌちゃんは足取り軽く、トブの森へと向かうのであった!
……が。
「ん?」
視線を感じて、振り向く。眼前には夜の闇が広がるばかりで、何の気配も無い。
さっきまでは、確かにあったというのに。
少なくとも人の気配じゃなかった。こんな山奥だから、獣はたくさんいるんだろうけど。
「……ちっ」
ああ、くそ。せっかくいい気分だったのに。
獣、という単語だけで胸がむかむかする。
けれど、何か嫌な感じがする。ろくでもないことが起こる前は、いつもこんな前触れを感じる。
「……急ぐか」
漆黒聖典に追いつかれるよりは、陽光聖典と鉢合わせするほうがずっとマシだ。今夜も眠れそうにないな、と、山道を駆け出した。
「見つかるとこだった」
「見つかったらなんかまずいの?」
「普通に殺されると思う。あれは多分追いつかれる」
「要マーク?」
「要マーク!」
(ナザリック転移より51時間後・アーグランド評議国)
風鳴り。穴の開いた天井から吹き込んできた空気が、部屋の中に渦巻いて反響している。
夜風がずいぶん熱を帯びてきた、と季節の移り変わりに敏い者は言う。自分にはわからない。ドラゴンが持つ強靭な皮膚は、夏の日差しも、冬の木枯らしも跳ね返してしまうからだ。
不吉な風だ、とは思う。100年の揺り返し。世界を汚す力がまたもやこの世界に現れるときが近づいている。否、もう来ているのかも知れなかった。
その前兆を告げに来た存在が目の前にいる。
フードつきの外套を着たその人間は自身の記憶にあるものよりも細く、弱い。しかし200年という歳月を経てもその眼光は鋭く、肢体はなおまっすぐで、歴戦の冒険者としての風格を漂わせていた。
人間というものを「小さきもの」と侮る同種は少なくない。人間種というものの大きさはドラゴンからすればひと呑みで片付いてしまう程度のもので、強いと言われる人間でさえ我々の皮膚に傷をつけることも叶わないが故に。
けれど、眼前に立つ女性は物怖じする素振りすら見せず、淡々と状況を語り続ける。慣れではない。最初から彼女はこうだった。見上げるような巨体を前にして一切怯むことなく、彼女はただただまっすぐに、凛とした花のように対峙してきた。
そんな彼女を、リグリット・ベルスー・カウラウを見るたびに思い出す。これだから「でかきもの」は考え方が雑なんだ、と笑っていた彼のことを。
「――と、まあ。こんなところじゃな」
「……要領を得ないな」
思い出の淵に浸りかけた私を、話を区切ったリグリットの声が呼び戻した。
わしもようわからんかった、と、ため息混じりに肩を竦め、「呆れた」のポーズ。その仕草も表情も、少女であったかの時とさして変わらず、彼女の心までは老いに侵されてはいないのだと目を細める。
曰く、先日、評議国までの道のりを歩いていた彼女の元に、キーノ――インベルンの嬢ちゃん、とリグリットは呼ぶ――から<
「随分な慌てようじゃったからの。落ち着いた頃を見計らってかけなおしてみたんじゃが、うんともすんとも言わん」
普段はこちらが出ないと怒る癖に、と、まるっきり遠く離れた孫娘を心配する祖母の顔でそう溢した。2人の歳はそう変わらないものであったはずだが、彼女の方がよほど老獪に見えるのは、種族によって時の流れが違うからなのだろうか。
時折、私ですら若輩のように扱うときがある。不思議と心地よさを感じる反面、どこか物悲しい思いも身の内に溜まってゆく。他の種族よりも寿命が長い故に、置いていかれる事には鈍感な種族のはずなのだけど。
「それは……、大丈夫なのかい?」
「心配はいらんよ、あれは頑丈じゃ。知っとるじゃろ」
ころころと笑う彼女の顔には、もはや憂慮の情は浮かんでいない。何らかの手段で確認は済んでいるのだろう。
とりあえずは大丈夫そうだ、と安堵の息をつき、キーノが残したというメッセージを読み解くべく思案を巡らせる。
麻薬、は最近王都に蔓延っている黒粉のことだろう。冒険者である彼女が誰かしらの依頼を受けて原料の畑を焼いて回っていたところ、霧に隠れた魔樹の竜王と接触してしまった、と。
……うん、やっぱり要領を得ない。
昔と場所が変わっていないのなら、人間があんなところまで麻薬畑を作りに入るはずもないし。
……霧、か。吸血鬼である彼女を誘致するような何かが、トブの森に発生したということ、か?
「それで、肝心の魔樹は?」
「姿も見えんよ。大方、途中で止まっとるんじゃろ」
まあ、そうだろう。世界を破滅たらしめるに十分な力を持つとは言え、あれの本質は樹木だ。あたりの土地や木々から栄養を吸い上げて生きているので、折角の餌場から大きく離れるようなことはしない。近くに湖もあるので、行くとしたらそっちだろう。あの巨体が進路を西に取ったなら、勘違いするのもわからないではないが。
「……とりあえず、確認だけはしておかなければいけないな」
私自身はここから離れられない。八欲王が残したギルド武器を、ここで守らなければならないからだ。
「お、行くのか? ツアー」
にやにやと意地悪そうに笑うリグリットの視線の先には、私ではなく壁がある。正確には、壁に飾られた鎧。彼女なりの嫌みだ。200年前、本当の姿を隠して共に旅をしていたことをまだ根に持っているらしい。そろそろ許してくれても良いだろうに。
「ああ、行ってくるよ。もしかしたら、プレイヤーが既に来ているかもしれない」
ひとつ、目を閉じる。空の鎧に意識を移すべく、力を込めた。
「そういえば最初の攻性防壁ってなんで発動したんだろう」
「結局わかんないよね」
「人間がひっかかったんならまず生きてはいないと思うんだけど」
「ところでアーグランド評議国の方はどうする?」
「まだいいんじゃない? そろそろ目が足りなくなってきたし」
「イベントが終わるまでお預けかな」
(ナザリック転移より52時間後、スレイン法国・聖殿前の廊下)
もう間も無く日が昇る。日があるうちにできる限り距離を稼がなければならない。夜のモンスターは凶暴とはいえ、漆黒聖典の者を害するには至らないが、今回相手にするのは
真正面から聞こえるのはルビクキューの音。たおやかな指が真四角の玩具をかちゃかちゃといじる。白銀と漆黒の間から覗く面差しにはいつもの微笑みがなく、どこかむくれたように艶やかな唇を尖らせる様は、年頃の少女と錯覚させるに十分なものだった。
難度250はあるであろう化け物を容易く屠る、スレイン法国の番外席次『絶死絶命』とはとても思えない。いや、その強さ自体はこの身に嫌というほど刻み込まれている。かつて、自らこそが最強の存在だと驕り昂ぶっていた私を、完膚なきまでに叩きのめしてくれたのだから。
「生け捕りにしろって怒られちゃった」
当然でしょう、と、口に出してしまいそうになった言葉を、そっと仕舞いこむ。
本日未明、陽光聖典を監視していたはずの部屋に、突如として怪物が現れた。定時連絡が途絶えていたことから発覚したのだが、扉は中から未知の力で溶接されており、『占星千里』に視させたときには既に中は手遅れ、といった状態。
この人が扉を破って突入した時点で、死者こそいなかったものの、部屋にいた者たちは全員狂乱状態に陥っており、未だ回復の目処が立っていない。土の巫女が手付かずであったのが不幸中の幸いか。
なぜあれが現れたのか、あれがなんなのか。何一つわかっていないのだ。目撃者から情報が得られない以上、化け物を生かしておいたまま、魔法で逆探知を試みる他なかったのだが。
「飛びかかってきたから、反射的にやっちゃったのよ。……でも」
「でも?」
色違いの瞳が虚空を見据える。今はもう存在しない怪物のことを思っているのだろうか。
「あれは、自分から切られるために飛びかかってきたのね。今から思えば」
「……口封じ、というわけですか」
「まともに戦えば、結構強かったんじゃない?」
まあ、もう考えたって意味のないことだけど。
つまらなさそうに溢す彼女から一旦視線を外し、上に集まってきた報告のことを思い返す。
発動していた<
だが、怪物が現れたと推測される時間とほぼ同時、当のニグンより、管制部へと<
それは、かの六大神が残したという言伝ての中に確かに残っている「監視に対抗する魔法」が発現した際の異常そのものであった。現れた怪物はその魔法によって召喚されたものだと考えられている。
ニグン本人がその魔法をかけられていた可能性は低く、何者かがこちらの監視に滑り込んできたのだろう、というのが、上の最終的な判断だ。
と、なると、やはり。
「100年の揺り返し……、と見るべきでしょうね」
「かもね」
「“ぷれいやー”には興味がありませんか?」
「今のところはね」
「……?」
妙に含みのある返答に微かな不安を抱いたが、番外席次は玩具から目線を離さないまま、それ以上の説明をする気はないらしい。相変わらず気まぐれなことだ。
なんにせよ、彼女はここに残らなければならない。あのレベルの怪物が再び現れたなら、彼女以外に対処できる存在などいないのだから。
「行くの?」
「ええ、間も無く」
早急に
「では、これで……?」
挨拶を済ませて離れようとした瞬間、視界の隅で何かが動く気配がした。
隠し持った小刀を投擲する。命中はしたものの、しゅう、とほんの僅かに煙のようなものを上げて消え失せてしまった。
「今のは……」
「これ?」
顔の高さまで持ち上げられた彼女の指に摘ままれているのは、大量に脚が生えた小さな小さな虫。かさかさと蠢くその生き物に、思わず顔をしかめる。海辺にはこんな虫が大量にいると聞いたことがあるが、少なくともこのあたりでは見ない虫だ。
人差し指と中指、親指に容易く潰されてしまったそれは、先程と同じく、煙を出して消えた。白い指には残骸すら残っていない。かすかに、魔力の残滓が漂うだけ。
「20匹くらいは潰したんだけど、途中で面倒になってきたのよね」
軽々しく言い放つ唇は、とうとういつものように弧が描かれていた。
嫌な予感がする。とてもとても、嫌な予感がする。
「……それを、最初に見かけたのは」
にんまりと可憐な微笑みから、遂に溢れる笑い声。
それを聞いた瞬間、足早に元の場所へと引き返す。
なんということだ。なんということだ!
最初から、こちらの監視が目的だったのだ。強力な召喚獣を囮にして、殺させることで魔力反応をばらまき、魔力を感知することすら困難な極小の「目」を浸透させる。
いつからだ? いつからこちらのことを覗いていた? もうどれだけの「目」が国内に広がっている?
恐ろしい。向こうの情報は何一つ手に入っていないというのに、こちらの情報は筒抜けであるという現状が。
こんな悪辣な手段を思いつける“ぷれいやー”が人類の味方であるはずがないという現実が。
ああ、そうだろう。貴女は報告しないだろうよ、番外席次。
監視があった方が、再びこちらに召喚獣を寄越してくる可能性が高くなるから。前のものよりも強力な召喚獣と戦えるかも知れないから!!
厄介なことだ、敵も、味方も。
ひとつ舌打ち、上層部へと急いだ。
「あー、ばれちゃった」
「しょーがない、撤収しよう」
「必要な情報は手に入ったしね」
「逆探されない?」
「されたところで、ねえ」
「もういっかい攻性防壁にひっかかってもらうだけだし」
(某日未明、リ・エスティーゼ王国首都リ・エスティーゼ、ロ・レンテ城)
人生において、賽というものを必要としたことがない。
賽というものは人に振らせるよう立ち回るもの。自ら転がすようなものではない。それが私の常識だった。
ところが、どうも世の中では違うのだと、気がついたのはほんの幼少の頃。
他人の思考、明日の天気、何をどう動かしたら将来的にどのようになるのか。
私にとってはすべて頭の中だけで完結することを、世のヒトは賽に頼って決めているのだと、物心ついたときには、深く深く思い知らされていた。
なんともまあ不便なことだ、と今となっては思う。
けれど、幼い私の心は今よりずっと繊細で、異物を見るような視線を向けられる度、少しずつ確実に磨り減っていった。
本当に、幼く、純粋なこどもだったのだ。今もそう汚れているつもりはないが。
そう、だから、賽子を振ったことがあるとしたら、たった一度、一度だけ。
あの雨の日、捨てられていた子犬の瞳の中に、私と同じ、“人間”を見出だしたとき。
理屈ではなく、自分の奥底にこびりつくように残っていた残滓の如き情に突き動かされて、彼の手を取ったあのときだけが。
あれが最初で最後だと思っていた。
彼に首輪をつけて飼い慣らすために、今後賽を振る必要などないと確信めいて感じていた。
しかして今、私は、人生で二度目の賽を振ろうとしている。
「――以上が、ここ3年ほどの王都の天気ですね。王国は南北にも広いので、北と南でだいぶ気候が異なっていますが」
机上には地図と王国語の文字盤。漆黒の翼を持つ3本足の鳥が、疑問がある度にこつこつと嘴で盤を叩く。会話としてはやや拙い速度だが、端的で的を射た質問は、余計な時間をかけているという苛立ちなど欠片も起こさせない、見事なもの。
この鳥は先日の昼下がり、換気のために開け放たれた窓から入ってきた。
魔法に詳しい者が見れば、召喚獣なのか使役獣なのかわかっただろう。魔法に疎い私には、ただの獣ではないことだけしかわからなかったが、それだけで十分だった。
どのみち、
文字通り暗黙の了解。私は
可能な限り迅速に、帝国が王国を併呑できるよう、王国の力を削ぐために。
「今年は例年より花の咲く時期が2日ほど早いです。王国暦においても、かなり暖かい年になっていると――」
私ひとりなら別にどこで生きたって構わないけれど、あまり長い間、この腐った国にクライムを置いていたくない。
この国を再生させる方向で頭を回したこともあったけれど、それを成すには余りにも足りないものが多すぎた。力も、時間も、人材も、資本も、私個人では動かせないものがありすぎたし、そもそも私が必要とするレベルのものが存在しないということも珍しいことではなかった。
だから、帝国に王国を併呑させる方向に、切り替えることにした。鮮血帝と渾名される通りに、王国貴族は皆殺しになるだろうけど、皇帝は私を殺せない。私には、帝国をより発展させるための、アイデアの製造機として働いてもらわなければならないから。
そして、私を随分と嫌っている様子の、あの中途半端に賢しい皇帝ならば、私を囲うような愚は犯さない。クライムと私を引き離したりしない。そうなったとき、私が何をするのか、あの皇帝ならわかってくれるだろうから。
帝国の近衛には、身分など関係なく高い実力の者が集っているのだという。私のクライムを馬鹿にするような側仕えではなく、もっとマシな娘を宛がってくれるに違いない。
なんなら、側仕えなんていなくてもいいくらいだ。私には、クライムさえいればそれでいい。クライムの他には、何もいらないのだから。
クライムを縛りながら、捕らわれた亡国の姫君を演出しつつ、帝国で慎ましやかに生きていくことが、現状、力のない私にとっての最善案だと思っていたのだが。
「先月は、肉の取れる家畜がたくさん産まれたと聞いています。具体的には――」
ここへきて、選択肢が増えるかもしれない、とも思い始めている。
と、いうのも。
最初に浮かんだのは「漂流者」という言葉だ。
まだこの土地に来たばかり。拠点から動けない、あるいは動くつもりがない。
言葉もおぼつかず、手探りでどうにか自分が対峙する状況を変えようと必死になってもがいている、海の外から流れ着いた、
薬や包帯の類を要求してこないので、怪我や病気でその場に留まっているわけではない。
次に、彼――恐らく男性と思われるので便宜上“彼”と呼ぶことにする――は、とても頭が良い。知識の吸収が異様に早く、教えを乞う事にも乞われることにも慣れている。王国にそのようなものはいないが、名前をつけるならば「教育従事者」といったところだろうか。少なくとも、今まで対面した中で最も優れた頭脳を持っている者であることは間違いない。
そして、彼はとても急いでいる。まるで誰かを出し抜こうとしているかのように。
知ることに対して、情報を集めることに対してあまりにも貪欲だ。砂漠の真ん中に放り出された者が水を求めるが如く、私が差し出した情報を、種類を問わず飲み込み続けている。
これらのことから、海外から亡命してきた教育従事者がどこかに潜伏しており、追っ手から逃れるべく知識を集めている最中なのだと、ひとまずは推測したのだけれど。
「――ええ、はい。現在王国では奴隷の売買を禁止しています。私が、手引きいたしました」
どうも、違うのではないか、と、最近考えを改めた。
彼は本当に頭が良い。彼がいた国の教育によるものなのか、彼本人の資質によるものなのかは流石にわからないが、私が今吐き出している情報は、正直個人の手には余るものだ。しかし受け答えからして、彼はそれをきちんと把握しているように思えるし、上手に活用するつもりでいることもわかる。
聡明で、知識に富み、大勢の人間と対話を続けてきた者特有の意思疎通能力は、私の言葉に含まれた機微を決して間違えない。
よって。彼は、私という生き物がどの程度の頭脳を有しているのか既に把握しているはず。
バハルス帝国との国境付近、トブの森南東部、カルネ村より北東へ少し。それが彼の居場所。彼の潜伏地。
イビルアイが大怪我をした、と、青褪めていたラキュースの証言とも一致する。魔法による霧が出ている場所。
随分と迂闊なことだ。自分はここだ、と主張しているようなものだろうに。
しかしながら。
彼がそれを気にしている様子は一切無い。
気にする必要など、ないとでもいうように。
「とは言っても、裏で借金を背負わせたり、冒険者を騙して無料同然の値段で使役したり、不法行為に等しい手段で労働力を得ている者が絶えないようですが」
自暴自棄なのではない。自らを省みないものがするような足掻きには見えない。
ならば、おそらく。
私が誰に吹聴しようと、彼は私ごとその存在をどうにでもできるような力を持っているのだ。
たとえば私が彼を裏切ったとして、私がどうにか動かせる戦力では、彼に影響を与えることなどできないような。
王国から出立する万の兵も、アダマンタイト級の冒険者も、かつて国堕としと呼ばれた吸血鬼も、内通者を通じて送り込まれるかも知れない法国の部隊でさえ歯牙にもかけないくらいの力。
人ならざる力を持ったもの。
それこそ御伽噺に出てくる神のような力を持ったもの。
どうかすれば、空を墜としたり、海ほどの雨を降らせたり、国ごと食い尽くすほどの蝗の群を呼び出せるくらいの、圧倒的な、馬鹿げた力を持っている存在。
それがどうして、何に抗おうとして私に、斜陽の王国に潜む籠の鳥、深窓の王女に知恵を借りるようなことをしているのか?
王国の征服でも企んでいるのかと一瞬だけ思い、すぐに否定する。
確かに王国は肥沃な土地を持つ広大な国だが、これほど迂遠なやり方で情報を集めてまで征服するようなうまみは、少なくとも彼にはない。
征服するにしても滅ぼすにしても、もっと良い手がいくらでもあるはず。
と、すれば、鍵になるのは、彼がなぜ拠点から動けないのか、ということ。
「そして、今年度はリ・ブルムラシュールの鉱山で採れる金とミスリルの量が減って……、いえ、少なく報告されているようですね。なぜ、なんでしょうね?」
彼は捕らわれている。自由の身ではない。気軽に動けない。
身分が卑しいからというわけではなく、その逆。彼はひとりではなく、なにか、彼を敬い崇めるものと共にいる。あるいはほんとうに、神のごとく、大切に大切に囲われている。
そして。
彼は、彼自身のために、ああも急いてことを進めようとしているわけではない。
彼なら、彼ひとりならばどうにでもできるはず。どこへ行っても、なにをするにしても、ひとりで生きていくだけなら、どうにでもできるはずなのに。
それが、できないのは。
彼には守りたいものがあるから。
どうにかして、内部の何かしらの脅威から遠ざけたいものがあるから。
できうる限り早く、自らが取れるすべての手段で、脅威から離してしまいたいものがあるから。
私と、同じように。
ゆえに、彼はきっと人間なのだ。人ならざる力を持ちながら、人としてあがいている、非常に真っ当な。
時間というものが如何に尊く、過去というものが如何に取り返し難いものかを知っている存在。それが、人間でなくてなんだというのだろう。
ならば――。
「……今日は、ここまでです」
ぱたん、と地図をたたみ、文字盤をしまう。見上げてくるふたつの赤い目。
――駆け引きを、させてもらいましょう。
どうも彼は、秘匿主義で、臆病で、とてつもなく卑怯だけど、情に厚くて、約束をよく守ってくださる方のようだから。
「次は、ふたつほど、お願い事を聞いてもらってから」
そうなれば、当初私だけで計画していたよりも、良い席を用意してもらえるかもしれない。
「クライムが尊ぶ王女ラナー」が気にかけている、王国の浄化さえできるかもしれない。
獲らぬ獣のなんとやら。もしかしたら、ここまでのすべてが彼の戯れで、私は遊ばれているだけなのかもしれないけれど、でも。
「ね?」
期待くらいは、させてもらっても良いでしょう?
(ナザリック転移より50時間後、ナザリック地下大墳墓・第九階層ロイヤルスイート)
人払いは済ませた。
誰もいないことを再度確認する。
この先は、決して見られてはならないものだから。
誰にも、見られてはならないものだから。
後ろ手に、寝室の扉を閉めた。ロイヤルスイートとしてはなんの変哲も無い、天蓋付きのベッドだけが置かれた部屋。
しん、と完璧な静寂があたりを包む。もう一度だけ監視がないかを確認し、歩を進める。
扉を背に右の隅へ、そこから13歩。かり、と掻いた壁に僅かな引っ掛かり。近くにあるスイッチを押せば、人ひとり分通れる範囲にだけ、黒々とした穴が開いた。
秘密基地を作りたい。そのように相談したギミック担当しか知らない、正真正銘の隠し部屋。相談した人間は「秘密基地」というものの浪漫にいたく感動してくれたので、今この世界にいない彼から情報が漏れているということはまずないだろう。
ぽっかりと開いた黒い穴に足を踏み入れる。先の見えない、長い長い暗闇の廊下。一度でも振り向けば外に放り出されて、穴の位置もリセットされるようになっているので、ここを知らない者が入ってきてしまったときも、一応の時間稼ぎは可能だ。
幾重もの偽装と、それを隠すための更なる偽装によって覆い隠されているため、そもそもここを探し出すこと自体が容易ではないが。
特別、何が置いてあるというわけではない。
そう、フレーバー
大事なことほど隠してしまうのはもう生来の癖のようなもので、今さら治す気はないし、治せるとも思っていない。
スレイン法国に発現したモンスター、<
なぜなら、ここへ来て光明が見えてきたからだ。
さっきは驚いて見せたけど、隠蔽工作の終了時間は予定通り。想定し得る最短というのが恐ろしいが、モモンガさんが彼らに休息を命じてくれたから、あと少しだけ時間が稼げる。
加えて現地の協力者、深窓の令嬢、リ・エスティーゼの王女様。
発見したのは本当に偶然で、城の窓が開いていたので、貴族の生活様式の一端でも垣間見れたら、と、こっそり近寄っただけなのだが。
彼女と目が合ったときに、確信してしまったのだ。これを逃したら、これ以上の人材は決して望めない、と。
結果的に彼女とはきれいなギブアンドテイクが成立し、情報をもらう一方で、王国内でのお使いとしてせっせと働いている。
まあ、すごい
ああいう手合いは、時代の節目にひとりくらいは産まれるものだけどね。歴史から葬り去られるレベルの叡智を実際この目で見ることができたのは幸運以外の何物でもない。ここが運のピークじゃありませんように。
正直、昨日の時点ではもうほとんど諦めかけていた。
意気込んだのはいいものの、いざ手をつけてみたら何もかもが足りていないことに気付いたから。
NPCを引き離すための頭脳はもちろん、情報を集めるための目も、それを整理するための手も、ナザリックにはすべて揃っているのに、今のぼくにはどうにもできない、と。
誰かに相談できたなら叶うはずのことなのに、現状ぼくひとりでどうにかするしかない。もういっそモモンガさんを連れて逃げるか? と錯乱したとしか言えないような考えまで脳裏に浮かぶ始末。
部屋満杯に酒瓶が転がっていたときにはほんともう絶望した。
これを片付けながら、モモンガさんのケアをして、八咫烏9羽の視界をスイッチングしつつ、情報を統制して、NPCを出し抜く? ひとりで?
もう、ほとんど諦めていたのだ。犠牲なしになにかを得るのは、やはり無理なのかもしれない、と。
その状況を覆したのが、彼女の存在と、もうひとつ。
部屋の惨状に茫然自失としていたとき、ふと隠し部屋の存在を思い出し、その活用方法を思いついたこと。
手段としては大変気にくわない。
精神的に、というよりは生理的に受け入れ難くあるものの、現状の最適解とも呼べるひとつのスキルが見つかってしまったからだ。
八咫烏の数は9羽、攻性防壁が発動し、モンスターが召喚されたときも、そいつの視点でものを見ることができる。
けれどぼくはひとりしかいない。すべての視点を並列で同時に管理することはできず、迅速に視点をシャッフルすることでしか情報量を増やせない。
だから限界は見えていたのだ。
ぼくは、ひとりしか
入口から体感で800mほど進んだころ、そこでようやく
たどり着いたのは小さな部屋。たっぷりとした光で照らされた、殺風景な場所。大量に散らばる紙と筆記用具。
そして。
足を踏み入れた途端、ざっ、と部屋の視線が一斉にこちらを向いた。
「こんばんは、ぼく」「遅いぞ、ぼく」「デミグラスソースの匂いがする」
「こんばんは」「こんばんは、って時間なの? もう?」「おはよー」
「休憩?」「もうちょっとだから今待って」「やあ、ぼく!」
「差し入れとかないの?」「こんばんは、本体」「そこからの景色は慣れたかい、ぼく」
膝ほどの高さから次々に聞こえる
嫌々ながらそちらを見れば、台詞を飛ばす度にふるふると揺れる、サッカーボール大の水の塊。その数12。完全な球ではなく、床と接している面は平らに潰れており、水精霊というよりはどこかスライムじみていた。
「…………」
あまりのおぞましさと生理的嫌悪に言葉が出ない。
一度に喋るなら、せめて同じ言葉を吐いてくれ。ただでさえ悪夢のような光景だというのに。
「ひとりで固まらないでよ、本体」
「気持ちはわかるけど」
「同じ目線で作業してる方の身にもなってよね」
「なんか実験思いだした、鏡のやつ」
「お前はだれだ、ってやつ?」
「この状況でもできるのかな」
「お前はだれだ?」
「お前はだれだ」
「お前はだれだ」
「……やめて、お願いだから今すぐやめて」
ほとんど膝から崩れ落ちそうになりながら懇願すれば、ぼくの分身たちは一応の静けさを取り戻した。
そう、ぼくは「本体」、彼らは「分身」。
彼らはすべて、ぼくと同じ思考を持つ、ぼくの欠片なのだ。
その名の通り、自分の身体を複数に分けることができる、それだけ。
ユグドラシルでは完全な死にスキルと言われていたものである。
なにせ精霊固有の仕様なのか、
おまけに操作できるのは1体ずつ。武器、防具、アクセサリーは装備不可。精々レベル消費型の誘導ミサイル代わりが関の山だったのだが。
この世界ではどうなのだろうと試しにやってみたら、自分と会話できてしまったことで判明した。
ここ、異世界では、分裂した個体も本体と同等の知能を持ち、個別に思考し、作業を行うことが可能である、ということが。
そして、ぼくが持っている上位クラスのスキルにより、本来ランダムで分裂先に振り分けられるレベルが、種族、クラス共に選択できることも。
これができなければ絶対に取らなかった手段である。正直、心情だけで言わせてもらえるなら、できない方が良かった。
が、背に腹は代えられない。目は足りてるけど頭が足りない状況をひっくり返せる唯一の手だったのだから。
12体の水精霊にはそれぞれ
このくらいなら、分かれた個体が万一叛意を持ったとしても、どうにでも対処できる。
各々、決まった八咫烏にアクセスして情報を得たり、得た情報を纏めたり、どっぷり思考に浸かって何やら考えたりしていたわけだ。この部屋で、こっそり。
「……知能も分かれるはずだよね、理屈では」
なんとも有情なことで助かるが、本当に不気味で仕方がないし、なまじ己の考えがわかる連中だけあって、いちいちムカつくことこの上ない。
「1レベルのぼくと100レベルのぼくでは
「……それなら
「ユグドラシルの魔法とか技の威力にINT依存のものがあるってだけの話でしょ」
「パズルとかのギミックは数値上のINT関係ないもんね。自力で解かないと」
やいのやいのと喋りだすぼく(別個体)たち。
うん、そうだね。本体の独り言を拾ってそれぞれ考えてることを口に出すのはやめようね!
完全に嫌がらせだとわかってる分余計に腹が立つ。大量のおぞましい生き物(自分)と部屋に置き去りにされたことに対する意趣返しだ。
こいつらは基本ぼくと同じ感性を有しているので、ぼくが生理的嫌悪を感じるものには、こいつらもまた同様の感情を抱くようになっている。
スライムじみた見た目のものがたくさんいる、ということが嫌なんじゃない。
一応、同時に同じことを考えながら個別の作業を行うこともできなくはない。
が、4体目くらいで頭が痛くなってきたので結局接続を切ってしまった。多分、そのあたりが限界なんだろう。水精霊としてではなく、人間としての。
まあ、これから、
「ほら、こっち来て。一回統合するから」
手招きすれば、ざわざわと騒ぎ出す水精霊ども。反逆する気か。だからあんまり長い時間置いておきたくなかったんだよね。
「……、なに、嫌なの」
「統合そのものはしなきゃいけないだろう」
「その様子だと新要素が加わったか追加でスキルを発動する必要が出てきたみたいだし」
「でもねえ」
「ねー」
なおも渋るぼくの残骸。わかっているならとっととしてくれ。困るのは結局自分なのも知ってるだろうに。
分裂前に発動したスキルは分裂後にも適用されているが、分裂後、本体が発動したスキルは他個体に適用されない。なので追加で何かしらのスキルを適用させたいときは、一度ひとつに統合してからスキルを発動し、再び分裂する必要がある。
今回ここに来たのは、一度
モモンガさんにお願いしてもらったのは現地の言語について。
「死獣天朱雀が、この世界の言語について、翻訳されたものと翻訳されていないものを選択して扱えるようにする」こと。
要するに二カ国語のスイッチングを可能にして欲しい、ということだ。
これはもうほんとに単なるぼくの我が儘で、「どこの誰が翻訳したかわからない異国語」を聞き続けることが心底ストレスだったから、この機会を得られたのは渡りに船と言う他ない。
言語の自動翻訳がワールドアイテムで行われていたら、と思ってちょっと願い方を捻ったけど、本体であるぼくに関しては、問題なく作動することを確認した。
今はまだ無理だけど、ゆくゆくは完全に翻訳を切って、原語だけで会話を成り立たせたいと考えている。
対象が「死獣天朱雀」だから今の状態でも説明してやればちゃんと使えると思うけど、念のため統合した方が手っ取り早いだろう。
と、いう思惑が、こちらにはあるというのに。
「でもまた痛いんじゃないの?」
「ユグドラシルには“痛み止め”ってないんだよね」
「そもそも幻肢痛みたいなもんだし、あっても効かないとおもう」
これだよ。痛いのはぼくだって言うのに。いや、ぜんぶぼくなんだけどさ。
「それに、感覚的にはぼくら一回死ぬんだよ?」
「統合される多重人格の気分」
「それが12体?」
「どう考えても増やしすぎでしょ」
「行き当たりばったりで考えなしなんだから、もう」
知ってるよ、わかってるよ、だから黙ってろよ!
自分でも思ってる欠点を他人に言われるのもそうだけど、それが自分ならなおのこと腹が立つな。精神安定のスキルが働いてる気がしないんだけど。
こいつら、この苛立ちも後で共有することになるの、本当にわかってるのかな。やっぱりいくらかINT下がってるんじゃないのか。
「……びびってないで、さっさとこっち来て。モモンガさんが指輪を断ったから急ぎたいんだよ」
「はあ!!?」
「え、指輪って婚約指輪じゃない方?」
「変身するほう? だよね?」
「一緒にご飯食べてないの?」
「なに遊んでるのさ」
「ほんと使えないな、本体」
あー、ぶち殺したい。今すぐ超位魔法叩き込みたい。
こいつらがぼくの一部でなかったら。こいつらがぼくの36LV分でさえなかったら!!!
しかし悲しいかな、こいつらはどう足掻いてもぼくの一部分で、しかも全員水精霊だから、水属性の攻撃しかできないぼくじゃほとんどダメージを与えられないのだ。
「食事はしたよ。喜んでくれたみたいだったけど、堕落しそうだから、って」
「ええ……」
「修行僧かよ……」
「さすがはモモンガさん」
「ていうかまずくない?」
「当初の予定ではしばらく人化しててもらうつもりだったのに」
「まずいよね」
「ねー」
「……そうだね、まずいね」
それでも一向に近付いてこない連中に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「だから……、いい加減にしろお前ら!」
響く怒号に、静まり返る部屋。
学生を相手にしてても、こんな声出したことない。
「NPCがぼくらを気配だけで認識できることがわかった。急がないとぼくがいないって騒ぎになる。だから、はやく」
「……ああ、それはだめだ」
「戻らなきゃ」
「戻ろう戻ろう」
ぞろぞろと、足元の12体が並びだす。
別に
つまり、こいつらは全力でぼくに嫌がらせをしていただけ、という、殊更情けない理由で反抗していたに過ぎない。やだね、水精霊は。陰湿でさ。
ひとつ、またひとつと、水精霊達がぼくの頭に吸収されてゆく。その度に増える情報量。この世界について、ナザリックについて、ぼくらについて。12体がそれぞれ体感して、考えていたことが、ぼくのなかに注がれてゆく。
思っていたほどの痛みは無い。風船に限界まで水を入れたらどうなってしまうのか、そんな実験をしている感覚も拭えなかったけれど。
ふと眼前に、最後の一体が立ち止まっていたことに気が付く。
「どうしたの」
「ひとつだけいいかな、ぼく」
「……今でなきゃ駄目?」
「統合されたら、ぼくは考えなくなってしまうことだから」
それに沈黙で答えれば、こぽり、呼吸の真似事をひとつして。
「これら一連のことは、モモンガさんの人間性を確保するため、というのがぼくらの共通認識なわけだけど」
「……うん」
「果たしてこれは、人間が取り得る手段だと言えるのかな?」
しばしの静寂。分裂すれば、こういう個体が出てくるだろうとは思っていた。考えなくても良いことを考えて、言わなくても良いことを言ってくる個体が。
「……思考レベルは人間のものだ。まったく問題ない」
「本当に?」
「ぼくは立ち止まるわけにはいかない。そうだろう」
「わかっているよ。だけど問題提起は必要だ」
透明なからだに灯る、ふたつの瞳。
瞬きすらせず、ただただ同じ光量を保ちながら、じっとこちらを見る。
「どれほど目を逸らし続けようとも、いつかは向き合わねばならないときが、必ずやってくる」
どんなことにもね。
それだけ言い残し、ぼくのかけらは、あっけなくぼくに統合されていった。
いくら賢しらなことを言ったとして、結局あれもぼくであることに変わりは無い。
現状問題と思われることのひとつを、自分自身で確認した、それだけのはなし。
だが、ぼくは知っている。口に出してしまった言の葉は、呪いになるということを。
言葉には魔力が宿るのだ。
言霊というものは、はるか昔から、現在に至っても廃れることのない、ひとが使える唯一無二の魔法なのだから。
「わかってるよ」
呟いても、拾うものは、誰もいない。
「わかってる」
誰も、いない。
人間性を捧げよ。
この回で出てきた方が皆カルネ村イベントに参加するというわけではないので、あしからず。
次回から新章に入ります。
結局1章の間にコキュートス視点を入れられませんでした。すまねえ……すまねえ……。
5話めっちゃかっこよかったよ!!2章では出番あるからね!!待ってて!!!!