横須賀二軍は、その発信源のひとつだった。
そんな背景がありますが、陽炎と不知火がキャッチボールをするだけの小話です。
はじめてそれを投げ返したのは、いつだったか。
昼過ぎからの通り雨が去って、少し涼しい風が吹く夕暮れ時の鎮守府だ。
「不知火、ちょっと付き合ってよ」
窓の向こうに晴れ間を見つけて、ひとつ伸びをして陽炎が笑う。
「いいですよ」
そう答えて、用具入れから右利き用の黒いグラブを引っ張り出した。
馴染みの内野手用のものだ。汚れた硬球をその中にひとつ差し入れる。
「準備がいいじゃない」
「長い付き合いですから」
まあね、と陽炎は相槌を打ち、右肩を回しながら、すでに寮の入口へ向かっている。
こげ茶色のファーストミットを手に、調子はずれの鼻歌を唄って歩く。
なにも、これが初めてではない。
決まってこの時間に誘われる理由は、よくわかっていた。
思いっきり運動したいわけじゃない。
夕食まではまだ時間があるから、ちょっとした腹ごなしをしたい。
きっと陽炎が考えているのは、そんな程度のところだろう。
「暗くなるまでですからね」
そう声をかけて、陽炎の背中を追いかける。
訓練設備の一角、運動場のすこし湿った芝生に足を踏み入れる。
水を含んだ蒸れ草のにおい。
雨があがったばかりの今、ほかに艦娘の姿はない。
陽炎は手慣れた仕草で、左手にはめたこげ茶色のミットへ、ぱしん、ぱしんと白球を叩きつけている。
「大丈夫です」
そう伝えて、胸の前でグラブを構える。
陽炎の腕がゆっくり振られて、使い古された練習球は緩やかな放物線を描く。
弾めば芝生の水を含んで、きっと濡れて滑るだろう。
少し前に出て、直接つかまえる。
「ちょっと弱かったかな」
ぷらぷらと右手を振りながら、陽炎は苦笑いする。
「雨で腕が鈍りましたか」
ふっ、と軽く腕を振り投げ返せば、ぽす、と柔らかい音とともに捕球される。
「ここのところ、握れてなかったからなあ」
残念そうな物言いと裏腹に、表情はどうにも楽しそうだ。
「九日ぶりですか」
駆逐艦の夏は忙しない。
遠征、演習、雨、遠征。雨、雨、演習、雨、遠征。
飛ぶように各地へ出向き、雨に遭っては水面を駆ける。
それがないような休みの日も、間の悪い通り雨に行きあっては、部屋でしぶしぶ待機しておくほかにない。
「明日晴れたら、何人か集めて整備しなくちゃ」
雨にぬかるんだ、土のグラウンドを眺める。確かにこれはいただけない。
「確か黒潮も非番でしたね。あとは白露でも呼んでおきましょう」
よし、と陽炎は頷いて、
「それまでに勘を取り戻すわよ!」
大きくテークバックを取った。
陽炎はグラブをふたつ持っている。
小柄なほうは濃い橙の色をしている。熟れた蜜柑の実のようなそれは、遊撃手の時に使うものだ。
陽炎と組む三遊間は気安い。お互いがどこにいて、何を考えているのか、いちいち意識しなくてもいいからだ。
痛烈なサードライナーを捕り損ね、三遊間へと打球を弾けば、すかさず陽炎が拾い上げて、ふたりでひとつのアウトをとる。
小フライになったスクイズに飛び付き、くるりと三塁を振り向けば、ベース上ですでにグラブを構えている。
いてほしいときに、いてほしいところにいる。
そんなシーンが何度あっただろう。
「今日はどうしてそっちなんですか」
気分よ気分、とぞんざいな答えが返ったので、深く尋ねないことにする。
ファーストミットを付けるとき、陽炎は一番遠いところにいる。
三塁線の打球を逆シングルで受け止めて、踏みとどまって一塁へ、陽炎めがけて放り投げる。
四十メートルにも満たないような一三塁間の距離を、遠いと感じることがある。
打者を殺すこともできずに、ただ投げただけの送球は、予感の通りに届く手前でバウンドして、陽炎がなんとか逸らさず受け止める。
だけれど、いつからだったろう。
陽炎がファーストも守るようになったのは。
肩がこなれてきて、少しずつ距離をとる。
キャッチボールほど難しいものはない。
飛んでくるボールを受け止めること。
相手の胸元へ、しっかりと投げ込むこと。
ただそれだけのことを奥が深いと言ってしまえば、きっと陽炎は笑うだろう。
それは、たとえば捕球の音だ。
慌てて差し出したグラブでは、ぽす、ぱす、と気の抜けたような音を鳴らして、どうにか捕まえるのがやっとだ。
相手のボールをしっかりと見て、深いところで掴まえる。
そんなとき、ぱん、ぱしん、と響く音色の質が変わる。
長く続ければ続けるほど、相手のことを知れる気がする。
腕の振りかた、足の踏み込み、目線、手首の返し方。
どれもわかればわかるほど、グラブは好ましい音をたてる。
言葉少なに、球だけが往復してゆく。
ぱしん、と乾いた音が響く。
ゆっくりと、しかし確実に、夕陽は沈みつつあった。
いつまでこうしていられるだろう。
ふと、そんな風に思う。
ショートには陽炎がいて、センターを黒潮が務め、マウンドには白露が、夕雲がマスクを被り、あるいは大潮が、荒潮が、いつもの面々が、青空の下、このグラウンドに集まる。
そんな日々のことを、好ましく思う自分がいる。
遊びで始めた野球だった。
本気じゃない、と何度も言った。
これは遊びだ。
いつか終わるお祭りだ。
そうお互いに言い合いながら、心の片隅では、真逆のことを考えている。
いつの間に、私たちにとって、それはかけがえのないものになってはいなかったか。
終わるのが怖い、と思うほどに。
いつも一緒にいられるわけではない。
駆逐艦の出番は多い。昼も夜もなく、夏も冬もない。北も南もないだろう。
演習に、出撃に、遠征に、作戦行動に。
どこへでも行くし、なんだってやる。
それが私たち、駆逐艦の在りようなのだと、お互いによくわかっていた。
いつまでも一緒にいられるわけでもない。
黒潮と合わせて、さんにんひと組みで扱われることが多いから、ことさら意識しないだけで。
引き抜かれて横須賀を去っていく同僚がいる。
自らの意思で、鎮守府を去ることを決めた先輩がいる。
なにも望まぬままに、波間に消えた友人がいた。
例えば明日の朝目が覚めたら、陽炎とは二度と会えなくなっている。
きっといつだって、それは起こりえる話だ。
「陽炎」
その名を呼ぶ。
「どうして、誘ってくれたのですか」
結局のところ私たちは、名前通りの自然現象みたいなものだ。
通り雨か、吹き抜ける風か、さもなくば蜃気楼みたいなものだ。
季節が過ぎればそれでおしまいの、ただひと時の――
陽炎はミットからボールを取り出して、ぽぉんと宙に放りあげる。
すぐにその手で受け止めて、ふたたびぽん、と投げ上げる。
「理由は、いくつもあるけど」
視線はじっと硬球に注がれている。考え事をするときの癖だった。
「あるけど、どれも多分嘘になるから言わない」
ぶっきらぼうにそう言って、照れ隠しのように力強く腕を振る。
ぱしんと音をたてて、胸元で白球を受け取った。
「陽炎が私に嘘をつけるとは思えません」
「……それなら、試してみる?」
不敵に笑って右手を突き出す。
いち、と人差し指を立てたあとに、親指と人差し指でボールを挟む。
変化球を投げる、の合図だ。
「なんとなく、面白そうだったから」
初球は白露が得意としている、指にかかった『いちばんボール』。
「そうかもしれません」
ぱし、と横回転で緩やかに落ちる球を受け止め、まっすぐに投げ返す。
もう一球、と同じ握りで、今度は鋭く振り下ろす。
「実は野球、やってみたくて」
スピンのかかったすっぽ抜けの球を、飛び上がってキャッチする。
ぼ、と鈍い音だけが響いた。
「嘘ではないのかもしれませんが」
ごめんの声に、少し強めに返球する。気にしていない、と示すために。
次はこれ、と陽炎が右手を掲げる。ボールの縫い目に爪を立て、ふわりと押し出すように放り投げる。
「ただの、ちょっとした暇潰しよ」
雪風が時々、遊びで投げるナックルボール。無軌道に揺れて、少しだけ落ちた。
捕まえ損ねて、グラブの先でどうにか押さえる。
どうよ、と得意げに視線を向けられたので、すこし考えてから、
「今ではほとんど毎日ですよね」
ズバリと膝元めがけて速球を投げ返しておく。
慌ててミットを下げ、陽炎は一塁への送球を拾い上げるように、見事にボールを捕らえてみせた。
それなら、とばかりに陽炎は握りを変える。
中指と薬指で挟むようにして、そのままぶんと振り下ろした。
「少しは気晴らしになるかと思って」
荒潮が好んで投げる、緩やかに沈むシンカーボール。
ふわりと浮いたその球は、しかし本家の軌道と異なり、縦に落差のある球になる。
予想とは違う変化に、グラブを弾いて芝生を転がる。
べしょべしょべしょと水気を含んだ音がして、小気味良い応酬が途切れた。
ボールを拾い上げながら、陽炎に問いかけてみる。
「……それは、誰の?」
「私たちの」
即座に、きっぱりと言い切られる。
「どう、不知火。どれが嘘?」
どれも、まったくもっともらしい理由だ。
おそらく嘘ではないけれど、嘘ではないというだけだ。
ひとつ息を吐いて、
「ぜんぶ、嘘です」
力を込めて真っすぐを投げた。
ばん、と直球はミットを鳴らして、
「ばれたか」
茶目っ気のある笑みが返った。
「陽炎」
グラブを胸元で叩く。
頷いた陽炎は、リラックスしたフォームから、左足を強く踏み込んで、今日一番のボールを放る。
向かい風を切り裂いて、ぐい、とさらに伸びあがる。
ぱぁん、と乾いた音がして、少し焦げたような匂いが鼻をつく。
ボールを受けた手のひらに、じわりと熱が集まってゆく。
「不知火と、遊びたかったから」
そう真っ直ぐに言い放って、に、と白い歯を見せる。
それが嘘でないことくらいは、自信をもって言っていい。
「不知火は、どうして来てくれたの?」
問い返されて、今度は不知火が考え込む番だった。
グラブの中のボールを、ぐるぐると握り替える。
「それは、……その」
言葉に詰まったのは、答えがないから、ではなかった。
答えがありすぎたからだ。
手の届かないところでなくした、宝物を思い出していた。
考え事ばかり重なって、振り払うように目の前の物事だけを見ていた日々。
雨上がりの土のにおいにも、かかる虹にも目もくれずに、寝て起きて動いて眠っていた。
はじめて誘われた、その時も。
『不知火、ちょっと付き合ってよ』
掛けられたその言葉に、
『放っておいてくれませんか』
にべもなく断りを入れたはずだ。
『もういいんです』
何もかも、それまで確かに見ていたはずの、鮮やかな色をなくしていた。
春の陽気のなかを駆けた背番号4の姿を、部屋の中で思い返していた。
それがもう二度と戻らないのだと知っていながら、秋の雨のなか閉じ籠っていた。
『不知火』
陽炎は、その時確かに橙色のグラブを掲げていたように思う。
そうだ。あの時はまだ、大潮が一塁を守っていた。
『一球だけでいいから――付き合ってよ』
そう言って、無理やり外へ連れ出された。
雨の合間の工廠脇で、投げ渡された黒いグラブを構える。
もう触ることもないと思っていた。
いくつかの忘れられない記憶とともに、部屋の隅へしまうつもりだった。
それなのに、陽炎が大きく振りかぶって、思い切りよく投げるものだから。
咄嗟にグラブで軌道を追いかけて、ぱあんと響いて手が痺れた。
じいっとグラブの中の白球を見つめたままの私に、
『ナイスキャッチ』
陽炎はそう言うと、グラブを広げて待っていた。
あの日確かに受け取ったボール。
気が付けば、橙色のグラブめがけて、手にした硬球を投げつけていた。
それを投げ返したのは、なぜだったか。
今ならなんとなく、わかる気がしている。
どんな雨が降っていても、ぬかるむ土に足を踏み入れて、あてどない道の向こうまで。
私はきっと、もう一度歩き始めたかったのだ。
『誰がいても、誰がいなくても』
思い出の中の陽炎は、グラブから取り出した白球を、ぽおん、ぽんと宙へ放って、大きなテークバックから、
『私たちは、前へ進みたいの』
そうだ、あのときも、向かい風を切り裂く音を聴いたのだった。
今、世界は鮮やかだ。
夕焼け空に風が返る。
背中を押すように、強く、強く風が吹く。
いつまでこうしていられるか。
答えなんてものは、ここにはなくたって構わない。
そんな答えのない問いかけよりも、
「確かに、これは何を言っても、嘘になるかもしれません」
ボールを受けたこの手に伝わる熱のほうが、よっぽど明日の役に立つ。
「不知火」
その名を呼ばれて、ファーストミットが掲げられる。
四十メートルに少し足りないその距離を、今日は遠いと思わない。
何を投げるかはっきり決めた。
深く、しっかり、ボールを握る。
ほんのすこしだけ助走をつけて、言葉と共に白球を放つ。
追い風に乗って、真っ直ぐ陽炎の胸元へ。
乾いた音は、あの日の記憶に決して負けないくらいに、ぱしんと大きく高く響いた。
夕焼け色に頬が染まる。
夏の予感のする夕暮れに、不知火が返した答えを知るものは、世界でただひとりだけだ。
普段はpixivにも掲載していますが、こちらでは主に連作短編や長編を書いていこうと思います。どうぞよしなに。