駆逐艦娘の間で、野球が流行ったことがある。
横須賀二軍は、その発信源のひとつだった。

そんな背景がありますが、陽炎と不知火がキャッチボールをするだけの小話です。

1 / 1
はじめてそれを受け取ったのは、いつだったか。
はじめてそれを投げ返したのは、いつだったか。


雨上がりにキャッチボールを

昼過ぎからの通り雨が去って、少し涼しい風が吹く夕暮れ時の鎮守府だ。

「不知火、ちょっと付き合ってよ」

窓の向こうに晴れ間を見つけて、ひとつ伸びをして陽炎が笑う。

「いいですよ」

そう答えて、用具入れから右利き用の黒いグラブを引っ張り出した。

馴染みの内野手用のものだ。汚れた硬球をその中にひとつ差し入れる。

「準備がいいじゃない」

「長い付き合いですから」

まあね、と陽炎は相槌を打ち、右肩を回しながら、すでに寮の入口へ向かっている。

こげ茶色のファーストミットを手に、調子はずれの鼻歌を唄って歩く。

なにも、これが初めてではない。

決まってこの時間に誘われる理由は、よくわかっていた。

思いっきり運動したいわけじゃない。

夕食まではまだ時間があるから、ちょっとした腹ごなしをしたい。

きっと陽炎が考えているのは、そんな程度のところだろう。

「暗くなるまでですからね」

そう声をかけて、陽炎の背中を追いかける。

 

訓練設備の一角、運動場のすこし湿った芝生に足を踏み入れる。

水を含んだ蒸れ草のにおい。

雨があがったばかりの今、ほかに艦娘の姿はない。

陽炎は手慣れた仕草で、左手にはめたこげ茶色のミットへ、ぱしん、ぱしんと白球を叩きつけている。

「大丈夫です」

そう伝えて、胸の前でグラブを構える。

陽炎の腕がゆっくり振られて、使い古された練習球は緩やかな放物線を描く。

弾めば芝生の水を含んで、きっと濡れて滑るだろう。

少し前に出て、直接つかまえる。

「ちょっと弱かったかな」

ぷらぷらと右手を振りながら、陽炎は苦笑いする。

「雨で腕が鈍りましたか」

ふっ、と軽く腕を振り投げ返せば、ぽす、と柔らかい音とともに捕球される。

「ここのところ、握れてなかったからなあ」

残念そうな物言いと裏腹に、表情はどうにも楽しそうだ。

「九日ぶりですか」

駆逐艦の夏は忙しない。

遠征、演習、雨、遠征。雨、雨、演習、雨、遠征。

飛ぶように各地へ出向き、雨に遭っては水面を駆ける。

それがないような休みの日も、間の悪い通り雨に行きあっては、部屋でしぶしぶ待機しておくほかにない。

「明日晴れたら、何人か集めて整備しなくちゃ」

雨にぬかるんだ、土のグラウンドを眺める。確かにこれはいただけない。

「確か黒潮も非番でしたね。あとは白露でも呼んでおきましょう」

よし、と陽炎は頷いて、

「それまでに勘を取り戻すわよ!」

大きくテークバックを取った。

 

陽炎はグラブをふたつ持っている。

小柄なほうは濃い橙の色をしている。熟れた蜜柑の実のようなそれは、遊撃手の時に使うものだ。

陽炎と組む三遊間は気安い。お互いがどこにいて、何を考えているのか、いちいち意識しなくてもいいからだ。

痛烈なサードライナーを捕り損ね、三遊間へと打球を弾けば、すかさず陽炎が拾い上げて、ふたりでひとつのアウトをとる。

小フライになったスクイズに飛び付き、くるりと三塁を振り向けば、ベース上ですでにグラブを構えている。

いてほしいときに、いてほしいところにいる。

そんなシーンが何度あっただろう。

「今日はどうしてそっちなんですか」

気分よ気分、とぞんざいな答えが返ったので、深く尋ねないことにする。

ファーストミットを付けるとき、陽炎は一番遠いところにいる。

三塁線の打球を逆シングルで受け止めて、踏みとどまって一塁へ、陽炎めがけて放り投げる。

四十メートルにも満たないような一三塁間の距離を、遠いと感じることがある。

打者を殺すこともできずに、ただ投げただけの送球は、予感の通りに届く手前でバウンドして、陽炎がなんとか逸らさず受け止める。

だけれど、いつからだったろう。

陽炎がファーストも守るようになったのは。

 

肩がこなれてきて、少しずつ距離をとる。

キャッチボールほど難しいものはない。

飛んでくるボールを受け止めること。

相手の胸元へ、しっかりと投げ込むこと。

ただそれだけのことを奥が深いと言ってしまえば、きっと陽炎は笑うだろう。

それは、たとえば捕球の音だ。

慌てて差し出したグラブでは、ぽす、ぱす、と気の抜けたような音を鳴らして、どうにか捕まえるのがやっとだ。

相手のボールをしっかりと見て、深いところで掴まえる。

そんなとき、ぱん、ぱしん、と響く音色の質が変わる。

長く続ければ続けるほど、相手のことを知れる気がする。

腕の振りかた、足の踏み込み、目線、手首の返し方。

どれもわかればわかるほど、グラブは好ましい音をたてる。

 

言葉少なに、球だけが往復してゆく。

ぱしん、と乾いた音が響く。

ゆっくりと、しかし確実に、夕陽は沈みつつあった。

いつまでこうしていられるだろう。

ふと、そんな風に思う。

ショートには陽炎がいて、センターを黒潮が務め、マウンドには白露が、夕雲がマスクを被り、あるいは大潮が、荒潮が、いつもの面々が、青空の下、このグラウンドに集まる。

そんな日々のことを、好ましく思う自分がいる。

遊びで始めた野球だった。

本気じゃない、と何度も言った。

これは遊びだ。

いつか終わるお祭りだ。

そうお互いに言い合いながら、心の片隅では、真逆のことを考えている。

いつの間に、私たちにとって、それはかけがえのないものになってはいなかったか。

終わるのが怖い、と思うほどに。

 

いつも一緒にいられるわけではない。

駆逐艦の出番は多い。昼も夜もなく、夏も冬もない。北も南もないだろう。

演習に、出撃に、遠征に、作戦行動に。

どこへでも行くし、なんだってやる。

それが私たち、駆逐艦の在りようなのだと、お互いによくわかっていた。

いつまでも一緒にいられるわけでもない。

黒潮と合わせて、さんにんひと組みで扱われることが多いから、ことさら意識しないだけで。

引き抜かれて横須賀を去っていく同僚がいる。

自らの意思で、鎮守府を去ることを決めた先輩がいる。

なにも望まぬままに、波間に消えた友人がいた。

例えば明日の朝目が覚めたら、陽炎とは二度と会えなくなっている。

きっといつだって、それは起こりえる話だ。

 

「陽炎」

その名を呼ぶ。

「どうして、誘ってくれたのですか」

結局のところ私たちは、名前通りの自然現象みたいなものだ。

通り雨か、吹き抜ける風か、さもなくば蜃気楼みたいなものだ。

季節が過ぎればそれでおしまいの、ただひと時の――

 

陽炎はミットからボールを取り出して、ぽぉんと宙に放りあげる。

すぐにその手で受け止めて、ふたたびぽん、と投げ上げる。

「理由は、いくつもあるけど」

視線はじっと硬球に注がれている。考え事をするときの癖だった。

「あるけど、どれも多分嘘になるから言わない」

ぶっきらぼうにそう言って、照れ隠しのように力強く腕を振る。

ぱしんと音をたてて、胸元で白球を受け取った。

「陽炎が私に嘘をつけるとは思えません」

「……それなら、試してみる?」

不敵に笑って右手を突き出す。

いち、と人差し指を立てたあとに、親指と人差し指でボールを挟む。

変化球を投げる、の合図だ。

「なんとなく、面白そうだったから」

初球は白露が得意としている、指にかかった『いちばんボール』。

「そうかもしれません」

ぱし、と横回転で緩やかに落ちる球を受け止め、まっすぐに投げ返す。

もう一球、と同じ握りで、今度は鋭く振り下ろす。

「実は野球、やってみたくて」

スピンのかかったすっぽ抜けの球を、飛び上がってキャッチする。

ぼ、と鈍い音だけが響いた。

「嘘ではないのかもしれませんが」

ごめんの声に、少し強めに返球する。気にしていない、と示すために。

次はこれ、と陽炎が右手を掲げる。ボールの縫い目に爪を立て、ふわりと押し出すように放り投げる。

「ただの、ちょっとした暇潰しよ」

雪風が時々、遊びで投げるナックルボール。無軌道に揺れて、少しだけ落ちた。

捕まえ損ねて、グラブの先でどうにか押さえる。

どうよ、と得意げに視線を向けられたので、すこし考えてから、

「今ではほとんど毎日ですよね」

ズバリと膝元めがけて速球を投げ返しておく。

慌ててミットを下げ、陽炎は一塁への送球を拾い上げるように、見事にボールを捕らえてみせた。

それなら、とばかりに陽炎は握りを変える。

中指と薬指で挟むようにして、そのままぶんと振り下ろした。

「少しは気晴らしになるかと思って」

荒潮が好んで投げる、緩やかに沈むシンカーボール。

ふわりと浮いたその球は、しかし本家の軌道と異なり、縦に落差のある球になる。

予想とは違う変化に、グラブを弾いて芝生を転がる。

べしょべしょべしょと水気を含んだ音がして、小気味良い応酬が途切れた。

ボールを拾い上げながら、陽炎に問いかけてみる。

「……それは、誰の?」

「私たちの」

即座に、きっぱりと言い切られる。

「どう、不知火。どれが嘘?」

どれも、まったくもっともらしい理由だ。

おそらく嘘ではないけれど、嘘ではないというだけだ。

ひとつ息を吐いて、

「ぜんぶ、嘘です」

力を込めて真っすぐを投げた。

ばん、と直球はミットを鳴らして、

「ばれたか」

茶目っ気のある笑みが返った。

「陽炎」

グラブを胸元で叩く。

頷いた陽炎は、リラックスしたフォームから、左足を強く踏み込んで、今日一番のボールを放る。

向かい風を切り裂いて、ぐい、とさらに伸びあがる。

ぱぁん、と乾いた音がして、少し焦げたような匂いが鼻をつく。

ボールを受けた手のひらに、じわりと熱が集まってゆく。

「不知火と、遊びたかったから」

そう真っ直ぐに言い放って、に、と白い歯を見せる。

それが嘘でないことくらいは、自信をもって言っていい。

「不知火は、どうして来てくれたの?」

問い返されて、今度は不知火が考え込む番だった。

グラブの中のボールを、ぐるぐると握り替える。

「それは、……その」

言葉に詰まったのは、答えがないから、ではなかった。

答えがありすぎたからだ。

手の届かないところでなくした、宝物を思い出していた。

考え事ばかり重なって、振り払うように目の前の物事だけを見ていた日々。

雨上がりの土のにおいにも、かかる虹にも目もくれずに、寝て起きて動いて眠っていた。

はじめて誘われた、その時も。

『不知火、ちょっと付き合ってよ』

掛けられたその言葉に、

『放っておいてくれませんか』

にべもなく断りを入れたはずだ。

『もういいんです』

何もかも、それまで確かに見ていたはずの、鮮やかな色をなくしていた。

春の陽気のなかを駆けた背番号4の姿を、部屋の中で思い返していた。

それがもう二度と戻らないのだと知っていながら、秋の雨のなか閉じ籠っていた。

『不知火』

陽炎は、その時確かに橙色のグラブを掲げていたように思う。

そうだ。あの時はまだ、大潮が一塁を守っていた。

『一球だけでいいから――付き合ってよ』

そう言って、無理やり外へ連れ出された。

雨の合間の工廠脇で、投げ渡された黒いグラブを構える。

もう触ることもないと思っていた。

いくつかの忘れられない記憶とともに、部屋の隅へしまうつもりだった。

それなのに、陽炎が大きく振りかぶって、思い切りよく投げるものだから。

咄嗟にグラブで軌道を追いかけて、ぱあんと響いて手が痺れた。

じいっとグラブの中の白球を見つめたままの私に、

『ナイスキャッチ』

陽炎はそう言うと、グラブを広げて待っていた。

あの日確かに受け取ったボール。

気が付けば、橙色のグラブめがけて、手にした硬球を投げつけていた。

それを投げ返したのは、なぜだったか。

今ならなんとなく、わかる気がしている。

どんな雨が降っていても、ぬかるむ土に足を踏み入れて、あてどない道の向こうまで。

私はきっと、もう一度歩き始めたかったのだ。

『誰がいても、誰がいなくても』

思い出の中の陽炎は、グラブから取り出した白球を、ぽおん、ぽんと宙へ放って、大きなテークバックから、

『私たちは、前へ進みたいの』

そうだ、あのときも、向かい風を切り裂く音を聴いたのだった。

 

今、世界は鮮やかだ。

夕焼け空に風が返る。

背中を押すように、強く、強く風が吹く。

いつまでこうしていられるか。

答えなんてものは、ここにはなくたって構わない。

そんな答えのない問いかけよりも、

「確かに、これは何を言っても、嘘になるかもしれません」

ボールを受けたこの手に伝わる熱のほうが、よっぽど明日の役に立つ。

「不知火」

その名を呼ばれて、ファーストミットが掲げられる。

四十メートルに少し足りないその距離を、今日は遠いと思わない。

何を投げるかはっきり決めた。

深く、しっかり、ボールを握る。

ほんのすこしだけ助走をつけて、言葉と共に白球を放つ。

追い風に乗って、真っ直ぐ陽炎の胸元へ。

乾いた音は、あの日の記憶に決して負けないくらいに、ぱしんと大きく高く響いた。

夕焼け色に頬が染まる。

夏の予感のする夕暮れに、不知火が返した答えを知るものは、世界でただひとりだけだ。

 




普段はpixivにも掲載していますが、こちらでは主に連作短編や長編を書いていこうと思います。どうぞよしなに。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。