私に友達ができないのはどう考えても幻想郷が悪い   作:puripoti

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第10話 Mutiny - 騒動は少女と共に

 ネズミの少女の小屋を後にした幽香は再び『再思の道』を辿り、そこを抜けた先にある魔法の森とその真向いに位置する『無名の丘』に挟まれた草原に出た。

 

 静かな野っ原の真ん中ら辺、気持ちのよい風が通る場所に陣取って、例のごとくポケットから取り出した厚手の布を敷いて腰を落ち着けた幽香は、購入したばかりの本の一冊を手にした。表紙に記載されたタイトルは───『戦闘妖精・雪風』。頭を飾る言の葉が紡ぐ雄々しさよりも、触れれば静かに消え失せる霞のようなどこか切ない儚さこそが印象に残るのは、余計なものが入り込まぬタイトルのシンプルさ故だろうか。

 

 少しの間、表紙とタイトルを楽しみ、余韻(よいん)が消えぬ内に幽香はゆったりとページをめくる。内容は“フェアリィ”とかいう、聞いたこともない国だか土地だかを舞台にしたドキュメンタリーのようなものらしかった。途中よく解らない単語がいくつも出てくるが、それらは無視して純粋に話の筋だけを追っていく。

 

 この本によると今、《外の世界》ではちょっと美味しそうな名前した侵略者によって、なんかえらいことになっているのだとかなんとか。いつでもいずこもどこでもかしこも、生きていくのは大変だ。ところ変われど時代も移れど、そこは違わぬ浮世の世知辛さに、幽香は嗟嘆(さたん)せずにはいられない。

 

   *

 

 ───今日の晩ご飯、チキンブロスが食べたいなあ。

 

 それは中ほどまで読み進めたあたり、なんとなく幽香が夕餉(ゆうげ)について“ぼんやり”思いを馳せた時のことである。

 

 

「うきゃあああああぁぁぁぁああ───!!」

 

 

 はるかに遠く碧々と、高い空の彼方から、絹を裂くよな乙女の悲鳴(などと表現できるほど典雅なものではないけれど)が時ならぬ驟雨(しゅうう)の如き勢いで降ってきた。続いて、年頃の女の子くらいの大きさと重さの何かが空高くから落っこちて地面にぶつかったような音が、地を揺るがす響きとの二人三脚で幽香の耳朶(じだ)を震わせる。

 

 騒ぎの発生源と思しき方に目を向ければ、少し離れたところで“もうもう”たる土煙が上がっているのが視え、幽香は柳眉(りゅうび)をひそめた。何があったのかと訝ったのではなく、こちらにまで土埃が漂ってきたらイヤだなと思ったのだ。常人とは心配のしどころが違うのは、そうそう簡単に滅びぬ身ゆえの鷹揚(おうよう)さゆえか、はたまた我が身のことさえ“どうでもよい”からか。

 

 幽香は一旦シートを仕舞い、バスケットを手に土埃が漂ってくる心配のなさそうな場所へと退避した。そこで腰を下ろし読書を再開する。この場を立ち去ろうとはしないのがこの女らしい。ひょっとしたら、別に読書に専念できる場所を探すのが面倒くさかっただけなのかもしれないが。

 

   *

 

 土煙が治まったのは、ページを捲った白磁の指が去りゆくインディアンの夏を見送り、新たに妖精達の冬を招き入れた頃のことだった。栞をはさんで本を閉じた幽香は、先ほどの轟音が上がっていた地点へと向かった。

 

 足を運んだ先では年頃の女の子が仰向けのかたちで“のびて”いた。

 

 腰まで届く、蒼穹(そうきゅう)の色を集めて()り合わせたような髪と、空に遊ぶ白雲を人の形に造形したかのごとき肌が目にも眩い少女。気を失い、総身を土で汚してなお一目瞭然な気位の高さと育ちの良さを顕した美貌、身に纏う衣装の豪奢さがやんごとなきその出自を言外に語っている。それが手足を思い切りよく投げ出し、さながら天に愛された書聖が心魂没入の果てに生命さえをも(なげう)ち揮った筆が墨痕淋漓(ぼっこんりんり)と記したるがごとき大の字を描いて地面にめり込んでいるのだ。

 

 様子から察するに、どうやらこの少女が先の悲鳴の主であるらしい。少し離れたところに、少女の持ち物であろうか桃の実と葉をあしらった帽子が落ちていたのでそれを幽香は拾い、落っこちてきたときにでも付いたらしい土埃を払ってやった。

 

 粗方の汚れを払った幽香は、帽子とその持ち主を交互に見比べた。この娘って、少し前に騒動を起こしたとかいう『天人』じゃなかったっけ。なんで、こんなところで寝っ転がっているのかしら。

 

 静かに首を傾げる幽香の視線の先では、いまだ目を覚まさぬ少女の長い睫毛が風にくすぐられる若草のごとく微かにそよいでいる。

 

   *

 

 『天人』

 

 読んで字のごとく《天界》という、雲の上に存在する世界(と、巷で言われているだけで実際は違うのだが)に住まう人々のことである。

 

 曰く───老いることなき頑強なる肉体と朽ちることを知らぬ崇高なる精神を併せ持ち、輪廻転生の輪からも外れて永遠の刻を生きる雲上人。俗世の煩わしさとは無縁の世界でときには歌をときには詠を、またときには音を楽しみ舞を嗜む高雅風流たる日々を送りつつ世界の流れを睥睨する、まさに衆生の思い描く理想を体現したる尊き人々───

 

 ……などと云えば聞こえはいいが、実際のところは他にやることもないのでそういった生活をしているだけで、別に高邁な主義主張の持ち合わせなぞ皆無らしく(欲を捨てた連中なので、その裏返しに存在するべき部分もまたないのだ)、ついでに付け加えるなら老いず朽ちずの肉体にしても、自分らのお迎えにやってくる死神連中を、力に物を言わせて返り討ちにして寿命をごまかしているだけだったりするので(もちろん、それはそれで大したものではある)、実際のところはそこまでご大層な連中と言えるのかどうかは疑わしかったりするのだが。

 もっとも、見た目だけなら神々しく感じなくもない種族なので、遠くから見上げるだけの対象としてならいいのかもしれない。

 

 それはさておき幽香の足元で寝っ転がっているこの少女、少し前に起こった異変の発端もしくは中心であったとされる人物である(そういえば、それに前後しておかしな女が幽香の家にやってきて、天変地異が来るから気をつけろと忠告して去っていったのだけれど、あれは一体何だったのだろう)。天狗の発行している新聞によると、それら一連の騒動の過程において博麗神社が文字通りの意味で“壊滅的”な被害を被ったと聞くが、その一件も元を質せばこの少女に行き着くらしい。しかし、さすがにそれは話に尾鰭背鰭ついでに胸鰭、おまけに鰓が付きすぎだろうと幽香は思っている。

 

 だって、もしそれが本当だったとしたなら、神社の後ろに控えるあの女───妖怪の賢者が黙ってはいまいから。天人はたしかに強力な連中だが、それでもあれを本気で怒らせて無事で済むわけがない。

 

 手にした帽子を弄びながら、少女の様子をうかがっていた幽香はふと思い立ち、右手を軽く一振り。すると、いつどのように取り出したものか、熟練の手妻師よろしくその手にいつも彼女が使っている日傘が現れた。それで一体何をするのかと思いきや、彼女は順手に握った傘の先端で少女の腹を軽く突っついた。

 

 鳩尾のあたりをつつかれて、少女がかすかに身じろぐ。特に痛がるわけでもないあたり、内臓等に傷が付いているわけではないらしい。地面のめり込み具合から考えるにかなりの高さから落ちてきたはずだが、見るかぎりかすり傷さえ無いのはさすが天人、頑丈なものである。

 

 少しだけ感心して、幽香は右手をもう一振り。日傘を仕舞って少女の傍らへ身を屈め、今度は人差し指でもって少女の白桃のごとき頬や生活の労苦を感じさせぬほっそりとした腕、滑らかなラインを描く脇腹をつつきはじめた。

 茉莉花の生まれ変わりのような指が触れるたび、少女が微かにむずがるような声を上げる。介抱しているようにも見えなくもない気がしないでもないが、実際のところ何を理由としてそんなことをしているのかは幽香自身にもよく判ってはいない。この女のやることすることなすことに、意味理由動機切欠辻褄損得を求めることほど不毛な行為はない。

 

 幽香はしばらくの間、なにを考えているのか一向に掴めない様子で少女を突つき回した。

 

   *

 

「───ん…………ぅあ?」

 

 少女が小さなうめき声を上げて薄目を開いたのは、幽香がその白桃のような頬を摘んだときのことである。天人の頬っぺたは驚くほどによく伸びた。

 どうやら気が付いたらしい。瞼の奥、大地の底で長い永い年月をもって醸成された紅玉のような瞳が焦点を定めぬままに宙を彷徨う。

 

 幽香は手を離し、声をかけた。

 

「おはよう」

 

 場違いなくらい“のんびり”とした呼びかけに、虚ろな視線が向けられた。自分を見下ろす花の女へ。次いでその傍ら、右隣へ。気付けも兼ねて、幽香はもう一度呼びかける。

 

「おはよう」

 

 天人の少女は二度三度の瞬きをした後、やや気怠げでこそあるもののはっきりと意思の宿った瞳で幽香の姿を捉えた。

 

「……誰よ、あんた達」

「私は誰でしょう」

「……………質問に質問を返さないでくんない」

 

 人を食ったような(実際に食ったこともあるが)返答に、天人の少女は顔をしかめながら“むくり”と上体を起こした。その動きが操り糸が数本まとめて切れた人形のように“ぎこちない”のは、高所からの受け身も取れずの落着による衝撃が、さしもの天人の肉体にも無視し得ぬ痛苦を与えたからに相違ない。

 

「立てる?」

 

 訊ねる幽香。台詞だけなら少女を気遣うかのようであるが、手を貸そうともしない。口調にも心配そうな響きなぞなく、ただ口にしただけの、独り言にも似た声である。

 少女は無視して大儀そうに立ち上がり、体内に残った苦痛と倦怠とを吐き出すかのように大きく息を吐いた。

 

 ああ、酷い目に遭ったわ……。小さくぼやき、次いで首や肩、腕を回す。

 

 そんな調子で体のいたるところの調子を確かめていた少女が蛾眉をひそめ、不意に動きを止めた。半眼の視線が幽香を射抜く。

 

「───なんだか、身体のあちこちにおかしな違和感があるんだけど……あんた、人が気絶してんのをいいことにおかしな事をしてないでしょうね」

「無事かどうかを確認するために少し触らせてもらったけど、ヘンなことはしていないわ」

 

 ホントかしら。“いけしゃあしゃあ”と答える幽香に、不信と不審を綯い交ぜにした目を送る少女だったが、直ぐに気を取り直したかして表情を切り替え、土埃にまみれた服の肩と腰のあたりを軽く叩いた。ちょっとした埃を払い落とすような、たったそれだけの動きで少女の服に付着した汚れが水に流されたかのように消え失せ、泥にまみれていた肌が白玉の輝きを取り戻す。

 

「まあ、いいわ。本来なら下賤な妖怪風情が私に触れるなんて、あってはいけないくらいの不敬もいいところだけれど、今回ばかりは大目に見てあげる」

 

 それより、他に泥とか付いてたりはしてない? 天人の少女は軽やかに身を翻して訊ねた。

 しなやかに躍る肢体が繽紛(ひんぷん)と降りしきる夏の日差しに輝いて七彩の(きゅう)を放ち、風を切る蒼髪が五色の輝きを纏って揺れる。さながら陽光に煌めく風花のようなその姿に、幽香の目が陶然と細まった。思考志向に少なからずの問題を抱えていようともこの女、美しいもの綺麗なものへの賛美を忘れたことだけはない。

 

「大丈夫、綺麗なものよ。服も───貴女も」

 

 満足気に頷く少女へ、捧げるかのようにして帽子を渡してやる。恭しいとさえいえる手つきは、思いもかけず美しいものを見せてもらったこの女なりの礼であったろうか。

 少女はさしたる感謝も見せずそれを無造作に受け取った。無礼と云ってもいい態度だが、幽香は特に不快とも思わない。自分のような根っからの風来妖怪と違い、貴者はつまらないことで目下の者に礼など言うべきではないのだ。地位や立場を伴う者の言動には、些細なものにさえ意味が宿る。それを思えば迂闊に謝意(のみに限らぬすべての言動)を表すことが、いかほどの害悪になるかは察するべきであろう。

 

 帽子を被り直し、位置を正しながら少女はなにか違和感に気が付いたような顔をした。訝しそうな顔で周囲を見渡し、

 

「ねえ……あんたの他に誰かいなかった?」

「誰かって?」

「誰か、よ。思い出せないけどもう一人、《誰か》がいたはずだけど───気のせいだったのかしら」

「誰か、ね。思い起こしても私と貴女の他には《誰も》いなかった───気のせいでしょうね、きっと」

 

 ふうん? 少女は釈然としない風に眉をひそめたが、それも一瞬のこと。細かいことに拘らないあたり、中々に剛毅あるいは態度に見合った図太さである。幽香は前者であるということにした。

 

「で、一息ついたところで最初の質問に戻るけどさ、何者よあんた」

「見ての通りの、しがない妖怪です」

「見りゃ判るわよ、そんなもん。私が聞きたいのはそういうことじゃないっての」

 

 ったく、なんだかすっとぼけた奴ね。少女の声に呆れ半分、“うんざり”半分の疲れたような響きが混じった。それを気にも留めず、幽香が口を開く。

 

「それより私からも質問、よろしくて?」

「こちらの問いかけに答えもせずにものを訊ねようとするあたり、お里が知れるわね───なによ」

「貴女、なんだってまたこんなおかしな所で倒れていたの」

 

 至極当然の疑問に、少女は苦い薬を水なしで飲み込んだような顔つきをした。バツの悪そうな顔でもよろしい。

 

「答えたくないわね」

「何故に」

「イヤだからよ」

 

 少女はそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言い捨てた。頑として答える気のなさが、幽香の悪い意味での好奇心を刺激した。息がかかるほどの距離に近寄って両手を後ろに組み身を屈め、あらぬ方を向く少女を下から覗き込むようにして再度訊ねる。その姿は、まるで絡みつく宿り木を探して這いずる茨の蔦のようであった。

 

「そう仰らずに、聞かせていただけないかしら」

「イヤなもんはイヤよ」

「ヒマワリの種をあげますから、聞かせてくださらない?」

「いらない。ていうか、しつこい」

「今ならアサガオの種もおまけいたします。なので、是非とも」

「だから、いらないっつーの。鬱陶しいからどっか行け」

「じゃあ、ホウセンカの種も……」

「人の話聞きなさいよ」

 

   *

 

 結局、お天道さまの位置が少なからず変わるほどに渡った言え言わないの応酬の末、少女は折れた。妥協をしたというよりも、いい加減こんなことで時間を潰すのが阿呆らしくなってきたのだ。この女に話を聞いてもらおうなどと考えていた時点で、十二分に馬鹿らしさの極地と言わざるをえないが。

 

 さも辟易とした顔で、少女は自らの身になにが起こったのかを語った。

 

「暇潰しがてらここらを散歩してたら、どこからかすっ飛んできた《大幣》みたいなやつにはたき落とされたのよ」

「おおぬさ?」

 

 聞きなれぬ単語に幽香は眉根を寄せた。そんな何気ない仕草でさえも、言い知れぬ華やかさを感じさせるのはさすが花の妖かしである。苦虫を数匹まとめて口に放り込んだような顔をした少女には、微塵の感銘すらも与えないとしても。

 

「知らないの? アレよアレ、よく巫女が持ってるアレ。お祓い棒のこと」

「ああ、アレ」

「そう、アレ」

 

 つーか、アレって博麗ンとこの巫女が使ってたやつね、間違いない。一体いかなる根拠に根ざしたものか、天人の少女は確信を込めて言った。

 

「判るものなのかしら」

「目ン玉が節穴か、さもなきゃ余程の馬鹿でもないかぎり見りゃわかるでしょ、そんくらい」

 

 少女が言うには自分をはたき落としてくれた大幣、その全体の形状や握りの部分の変形具合、全体についた傷などが、以前、博麗の巫女と相対したときに見たものと一致していたらしい。よくもまあ、そんなところに気が付いたものだと幽香は胸中で感心したものである。

 

「それ以前に、あんなもんを商売道具にしてる奴なんて、この界隈じゃ一人しかいないでしょ」

 

 言われてみればそうね。少女の慧眼(けいがん)に幽香は頷いた。

 そしていろんなことに合点がいった納得をした腑に落ちた───《異変》が、起きはじめている。

 

 幽香は今日一日の、自分の辿った道程を思い返す。今にして思えば、洗濯の最中に見かけた河童の川流れ、あれも件の大幣とやらが原因だったのだ。ネズミの少女が言っていた、物が勝手に動き出す云々というのにも関わりがありそうだ。それ以外にも、幽香の知らないところで似たような事例が起こっているのであろう。

 

 そしてこれは幽香の勘だが、一連の事象───物品があたかも意思をもって動く。すなわち暫定的乃至(ないし)、擬似的な付喪神化───は本命というべき《異変》の前触れでしかないのではなかろうか。ずいぶんと前に読んだ推理小説の神父ではないが、あえて別の場所で目立つ真似をして本題というべき事柄から衆目の目を外すのは謀の基本である。おそらくはこの後に、もっと重大な事態が控えているに違いない。

 

 とはいえ、知ったことではないのだけれど。

 

 それがどのようなものであれ───それこそ幻想郷が“ひっくり返る”ような事態が起ころうとも───どこまでも果てしなくとことんまで徹頭徹尾、知ったことではない。大昔の渡世人ではないが、自分には関わり合いのないことである。解決するのは無精者の巫女なり手癖の悪い魔法使いなり、それ以外の暇人がやればいい。あとは早急に、そちらで対処してもらいたいというのが幽香の正直なところだった。この時点で、彼女はこれから起きうるであろう《異変》への興味をほぼ喪っていた。正直、どうでもいい。

 

 なら、最初から聞かなけりゃよさそうなものであるが、後々まで尾を引く他人の不愉快不興を承知した上で目先の興味を満たすというのが悪趣味というやつの真骨頂、すなわち風見幽香と呼ばれる女の根っこの部分である。

 

「もう他に聞きたいことは無いでしょ。じゃあ、私はこれでお暇させてもらうわ」

 

 最初からこうしとけばよかった。口の中で“ぶちぶち”と悪態を垂れながら、天人の少女は踵を返した。

 そのときである。清楚可憐な少女の華奢な腹が、“ぐう”というえらくリアルな音を立てたのは。

 

 背を向けたまま彫像のごとく微動だにせぬ少女と、それを茫洋と見やる幽香の間に曰く言い難い沈黙が落ちた。まあ、少なくとも片一方の、日がな一日四六時中明けても暮れても常住坐臥で春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)といった風情を崩さぬ花の女は気にしていないようである。空気を読めないともいうが。

 

 お腹がへってるの? 言わずもがなの問いかけの代わりに、幽香は足元に置いてあったバスケットを拾い上げ、中から竹の葉で包んだ弁当を取り出した。

 

「よければこれ、食べる?」

「ああん?」

 

 少女へと弁当を差し出す幽香。それのなにが気に障ったのか、振り向いた少女は不快げな色を紅玉の瞳に灯した。

 

「ふざけんじゃないわよ。地べたを這いずる土くさい妖怪の施しなんて、仮にもこの非想非非想天の───」

 

 口上を述べようとしたところで再度、自己主張する腹の虫。飼い主に似たのかは知らないが、こちらもえらく威勢がいいようだ。周りが静かなこともあり気持ちがよいくらいに響き、少女と幽香の間になんとも言えない───強いて近いものを挙げるなら気まずさだろうか───空気が漂う。

 

 それをまったく気にも留めず、幽香は再度、訊ねる。

 

「いる? それともいらない?」

「貢物としてもらっといたげる。身に余るくらいの栄誉と思って感謝なさいよ」

 

 だからさっさとよこしなさい。少女はひったくるようにして、幽香の手から弁当を受け取った。

 誰にも悟られないくらいの微妙さで口元を緩め、幽香は先ほど仕舞ったレジャーシートを懐から出した。

 

   *

 

「なにこれ、ずいぶんと貧相な弁当があったものね」

 

 幽香と並んで腰を下ろし、弁当を開いた少女の第一声がこれである。

 中身は握り飯だった。目にも目映い真っ白な塩むすび、大根の葉に小松菜を混ぜ込んだ菜飯やタケノコや山菜を炊き込んで握ったものなどと一緒に、茄子と青菜の漬物が添えられている。

 

「少しは期待してた私が馬鹿だったわ」

 

 不満をこぼしながら塩むすびを手に取り、見た目だけは可憐な口をいっぱいに開けて頬張る少女へ興味深げな目を幽香は向けた。

 

「美味しい?」

「不味いにきまってるでしょ。けど、とりあえず全部食べてあげる。それより飲み物はないわけ?」

「珈琲でよければ」

「握り飯に珈琲って……どんな取り合わせよ。舌が腐ってんじゃないの、あんた」

「じゃあ、要らないの?」

「さっさと用意なさい、気が利かないわね」

 

 天人の少女はなおも“ぶつぶつ”と文句を垂れ、次のおむすびに手を伸ばす。隣に座る女の名を知るものが聞けば、命が惜しくないのかと顔を青ざめさせるようなことばかりである。当の幽香本人は、次から次へとぶち撒けられる悪態雑言を微塵も気にせず珈琲の用意をしているが。

 

「ねえ、早くしてよ。これだから妖怪ってのは……」

「もうちょっとだけ、待っててね」

 

 急かす少女を楽しげな微笑みであしらう幽香の姿はどこか、我儘で生意気盛りな、それでも可愛い妹をからかう姉のようにも見えた。間違いなく気のせいだろうが。

 

   *

 

 なんだかんだで、天人の少女は不味い不味いと不平不満に悪態文句をまき散らしながらも、幽香の弁当を米粒一つ残さずに平らげた。

 

   *

 

「ところでさ、アンタさっきから何読んでんの」

 

 少女が訊ねたのは食後の、砂糖と粉のミルクを“うんとこさ”入れた珈琲の3杯目をお代わりしたときのことである。当然というべきか、お代わりのカップをそっと出すような殊勝さの持ち合わせはこの少女にはなかった。カップとは逆の手には新鮮な蜂蜜をたっぷりからませたスコーン。こちらは《外の世界》から流れ着いた料理本に載っていたレシピを基に、幽香が作ったものである。今日のところは作り主の口に収まることはなさそうだが。

 

「それって《外来本》でしょ。あんたみたくに“ちんけ”な妖怪風情がよく手に入れられたわね」

「ご明察。よくわかったわね」

「だから、見りゃわかるって言ってるじゃない」

 

 製本に使われてる技術とか紙の質とかが“こっち”のものと全然違うんだもの。少女はなんてことないように言うが、さっきの大幣の件といいこの少女、言動はともかく目も頭も相当に(さと)い。

 幽香は小説から目を離し、少女の瞳を覗きこんだ。絢爛たる彼岸花の花弁の色と、磨きぬかれた紅玉の色が交差する。

 

「読んでみたい?」

「そんなこ汚い本なんかに興味なんてないわ」

 

 少女は“すっぱり”と言い切って視線を外し、スコーンを齧った。幽香も手元に目を戻し、再び活字の世界へ没頭する。

 

 しばらくして、無慈悲な妖精の踊る季節が終わりを告げ、新たな物語へと旅立つためにページを捲る幽香の目の前に、横合いから何かが突き出された。

 それに驚くこともなく、幽香はむしろ不思議そうな顔つきで視界を遮るもの───鳥も立ち入れぬ霊峰にひそやかに降りしきる雪で象ったような手を見つめた。

 

 美しい手である。有象無象が不用意に触れたなればそれを恥じ、儚く砕け散っても不思議とは思わせぬ。美への敬意を一片でも持ち合わせる者なら、この手だけを見つめ続けて生涯を終えても悔いは残るまい。

 

 それ自体が白々と光を放っているかのような手、その持ち主は、こちらを向きもせず横目だけを寄越して言った。

 

「でも、これも経験の内ってことで我慢して読んであげる。寄越しなさい」

「これはまだ読んでる最中だから、だめ」

 

 幽香は持っていかれまいとするように、手にした文庫本を胸に掻き抱いた。

 

「ケチくさいなあ。なに勿体ぶってんのよ」

「別の本じゃダメかしら」

「なんでもいいわよ。どうせ下界の連中が書いた本なんて、大した違いなんて無いんだろうから」

「むしろ外界というべきかしら。《外の世界》だけに」

「上手いこと言ったつもり? どれでもいいから、さっさと選んでよ」

 

 はあい。逆らいもせずに、幽香は購入したばかりの本の中の一冊を懐のポケットから取り出した。この女にしては珍しいことではあるが、当然のことながら少女には判らないし、判ったところで態度を改めたりもしないのであろう。

 幽香から小説を受け取った天人の少女は、そこでふと、意外な事に気が付いたかのように小鼻をひくつかせた。

 

「ところであんた、香水をつけているのね。妖怪のくせに」

「生まれてこの方、そんな“しゃれた”ものとは縁がないわねえ」

「うん?」

 

 眉を寄せる天人の少女。目の前の女からは気のせいではなく、花のような薫りが漂ってきているのだが。月の一夜にのみ咲く、名も知れぬ花の薫りが。幽かに、ひそやかに。

 瞬きを二つ三つほどした後、少女は何かに思い当たったような表情をちらつかせたが、それには特にこだわる素振りも見せず、幽香に珈琲のお代わりを申し付けて小説のページを捲った。

 

 それからしばらくの間、花の妖怪と天人の少女は二人並んで、静かに読書に没頭した。

 

   *

 

 気がつけば、もう夕暮れの時間であった。

 

 茜の色に染まった閑やかな草原に、本を閉じる“ぱたん”という音が鳴る。この辺り一帯は人も立ち入らぬどころか、獣も鳥も滅多に姿を現さぬ。まるで世界から音が消え去ったかのような静寂に、その音は染み渡るように響いた。

 

 幽香は閉じた本を懐に仕舞い、いまだに小説を読み耽る天人の少女の肩を遠慮がちに叩いた。この女に遠慮などという感性があるのかどうかはさておいて。

 読書を邪魔された少女は、手にした小説───『夕映少女』から面倒くさそうに目を離した。

 

「なによ、邪魔しないでくれない」

「あら、ごめんなさいね。私、そろそろ帰らないといけないの」

「それが何よ」

「だからその本、返して」

「イヤよ」

 

 どうして? 幽香は“ちょこん”と小首を傾げた。

 

「まだ読んでる途中じゃない。もう少し待ちなさい」

「もう少しって、どれくらい?」

「もう少し、よ」

「でも私、帰らないといけないの」

 

 もう遅いし、お腹も減ったし。

 

「だったら、さっさと帰ればいいでしょ」

「うん。だからその本、返して」

「まだ読んでる途中だって言ったでしょ」

「でもその本、私のものなのよ」

「だから何よ」

「返してほしいの」

「だから、もう少し待ちなさいって言ってんじゃない」

「返してー」

 

 天人の少女の服の袖を摘み、侵略者の追い払いを日課とする少女のように懇願する幽香。その姿は哀れを誘うというより、むしろ鬱陶しさの極みであった。人の嫌がること、神経を逆なですることにかけては、この女の右に出るものはいない。

 

 さも煩わしいとばかりに少女の眉が歪んだ。

 

「……あーもー、判った、わかったわよ。返せばいいんでしょ、ほら」

 

 だからさっさと、手を放しなさい。少女は押し付けるようにして小説を渡した。幽香は鳴いた鳥もかくやの勢いで、表情を変えて礼を言う。

 

「ありがとう」

「でも、タダで返したんじゃないからね」

「?」

 

 唐突におかしな事を言い出した少女を、またも“ちょこん”と傾げた小首で幽香は見やる。

 

「あんた、よくここら辺を通ったりするの?」

「んー、時々は」

「ならいいわ。次に会ったときにでも、その本をまた借りるから」

「もしかして、気に入ったの?」

「そんな下等な本なんかに、天人たるこの私が興味を惹かれるわけないでしょ。でも、途中で放っぽり出すのも嫌だから、仕方なく読んであげるのよ」

 

 はあ、そうなの。気の抜けた様な幽香へと、更に少女は要件を突きつけた。

 

「あと、その時にはお茶とお菓子の用意もしておきなさい」

 

 お菓子は今日出したスコーン以外のやつにすること、だそうである。

 

「もしかして、気に入ったの?」

「あんたみたいな木っ端妖怪なんかに、私を満足させられるようなもんが作れるわけないでしょ。でも、口寂しいよりはマシだから、我慢したげるつってんのよ」

 

 はあ、そうなの。ここまで明瞭に言い切られると怒る気も失くすものなのか、やはり幽香は気の抜けた様な返事を返した。そういえば、天界というところは食べ物といえば桃しかないのだと(しかも不味いらしい)、どこかで聞いたことがある。どうでもいいけれど。

 

   *

 

「じゃあね。約束、忘れんじゃないわよ」

 

 一方的にそれだけを言い残して、少女は注連縄のようなものが巻かれた岩を呼び出して飛び乗り、何処へかと飛び去っていった。神々しいのか奇っ怪なのか、にわかには判別しづらいその姿へ“ふるふる”と手を振って見送り、幽香は足元のシートを仕舞いバスケットを手にした。

 

 今度会うときにはマフィンかクッキーでも持ってきてあげよう。幽香は“ぼんやり”考えながら夕暮れに染まった草原を後にした。




 登場人物

風見幽香

備考───チキンブロスの“材料”にこだわりはないそうだ

天人の少女

備考───マジてんこ

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