作中のキャラ崩壊や設定ガン無視などは日常茶飯事ですので、それを許容できる心の広いお方のみこの先へお進み下さい。
努めて、男は自らの動揺を相手に悟られないよう尽力した。
しかし男の見立てでは、相手の女の察しは良い方である。額に少しでも汗を拵えようものなら、瞬く間にこちらの胸中を察せられてしまうのは火を見るよりも明らかである。
「お兄ちゃん、なんか変じゃない?」
「へっ――そ、そうかな。あはは、いつも通りだよ」
「うーん……なんか、怪しい?」
ソファに腰を据え、雑誌を片手に猜疑的な視線を送り付けてくる女――多華宮霞は、男――多華宮仄の妹にして魔女である。
魔女である、という特異な存在である事を除いたとしても、仄にとって霞は只ならぬ人物だ。
極度のブラコン気質であり、その上かなり嫉妬深い性格の持ち主。仄に好意を以って近寄る女はどんな手を持ってしてでも排除し、常に自分が仄にとって一番に近しい人間で在ろうと思考する。
「もしかしてお兄ちゃん、またあの女と何かあったんじゃないわよね?」
「いやいや、火ヶ里さんは関係ないよ」
「……火ヶ里さん“は”?」
猜疑的でしかなかった視線は、彼女の鋭い察しの手伝いで確かな疑念が込められた物へと変わる。
「お兄ちゃん。ちょっとこっちに来て」
語気を荒げた霞が自分の座っているソファの前を指差しながら、カエル程度は殺せるであろう凶悪な睨みを利かせてくる。
「は、はい」
観念した仄は渋々と足を動かし、閻魔大王に成り代わった霞の前へ出頭するのだった。
☆
事の顛末は、一人の女性の身に不幸が降りかかりそれを仄が無事に解決して見せた、という物だった。
始まりは朝。仄が通いの高校へ向かうバスへ乗り込む少し前の事であった。
「――めて」
バス停まであと数十メートルという所で、仄は短い悲鳴とも喩えられる女声を耳にした。甲高いとまでは至らぬとも、女性にしてもやや高い声である。
仄は、厄介ごとに自ら首を突っ込んで行くのを良しと考える性分でもないが、困っているであろう女性を放って置ける程に無感な性分でもない。事、最近の彼であれば尚更にそうである。
一瞬の躊躇を許しながらも、次の瞬間には彼の足は声のした方へと向かって駆け出していた。
「やめて下さいっ! 私は、私はただ、普通に生きたいだけなの……」
仄が行き着いた先は住宅街の角を曲がった先だった筈なのだが――気付けばそこは全ての物体が大きく、そして緩やかに湾曲してみせる奇妙な空間だった。
住宅街の面影は残しつつも、大きく弧を描いて丸まった壁には本来の硬質さは伺えず、くの字に曲がって地面に頭を擦り付けている電柱に至っては、頭部から伸びる電線を見ずには、それが電柱で在った事など微塵も想像がつかない。
そんな奇異な世界の中心で両手で耳を覆って俯く少女だけは、自分の本来持ち合わせる姿を忘却して居らず、それが返って仄に違和感を覚えさせる。
「君、大丈夫かいっ?」
グネグネとした感触の地面は、まるで水風船の上を歩いているような感覚に近く、どうにも不安定の感が強い。今すぐにでも少女の元へ寄って行きたい仄にとっては、もどかしい事この上ない。
「だ、誰?」
幸いにも、塞いでいるように見えた耳はそこまで外界の音を遮断してはいなかった。仄の声を聞いた少女は、不安げながらも辺りを見回そうと顔を上げる。
が、視覚を通して伝わって来た世界の変貌を受けた所為か、再び絶叫し、今度はその場にしゃがみ込んでしまった。
「今、そっちに行くからっ」
そんな少女の様子を見た仄は、救心の意を殊更に強くさせ、緩んだ地面をも介さず、その足取りを早く、そして強くさせる。
一歩、また一歩。屈んだ少女の元へ近付くに連れ、仄はある違和感に気付く。
少女に近付けば近付く程に世界の歪みは強くなって行く。手を伸ばせば届くだろう、という頃にもなると、もはや世界の全ては捻れ切れる寸前にまで至る。ものの数分でもこんな視界の中に在れば、正常な精神を持ち合わせる人間ならば気の一つや二つ障っても可笑しくはない。
吐き気を催し始めた仄だが、意識の全てを少女へ伸ばした右手に集中させ、思考の全てを少女を救う事だけに絞る。そうする事で、この世界の不条理さを自らの内から排した。
「もう、大丈夫だよ」
そう告げ、指先が少女に触れた瞬間――世界は瞬く間に元の姿を思い出した。
「え……収まって、る?」
恐る恐る外界との交信を再開させた少女は、目を丸くしながら仄と辺りの様子とを交互に見やる。二度、三度と繰り返した辺りにもなりと、今度は見開かれた両眼の端から涙が溢れ出す。
「事情はわからないけど、取り敢えずは大丈夫みたいだね」
「あり、がとう……ありがとう」
仄がかけた優しげな言葉に感嘆したかの様に、少女は感謝の言葉を繰り返し、人目も憚らずに泣きじゃくった。
ひと頻り泣いた後、落ち着きを取り戻した少女の姿を見た仄は、ここへ至りようやく少女の着ている服の特徴に気が付いた。
「あれ、同じ学校の制服だ」
状況が状況だった事に加え少女の面立ちが童顔であり、体格の方もかなり小柄だった事から、仄は勝手にこの少女を中学生くらいに思っていた。
「あの、本当にありがと――」
まだ少し腫れた目を向けて来た少女の動きが、その目線が僅かに逸れた所で急激に止まる。それはまるで、天敵を前にした小動物が見せる明確な怯えの様子にも近しい。
礼を告げられている途中に遭遇した唐突な変調を怪訝に思った仄が不意に振り返ると、そこには逆光によって作り出された巨大な影が見えた。
「うわっ?!」
思わず、仄は身を翻しながら尻餅を着く。
「心配になって様子を見に来たら――多華宮くん、あなたって女の子を泣かせる趣味があったのね」
巨影の正体は、いつも通りの無表情に徹している火ヶ里綾火だった。
表情から察せられる情報量の少なさとは違い、彼女が淡々と吐き出した言葉の内からは確かな不信感が香り立つ。
「ち、違っ、これは――」
「た、助けてくれたんですっ……彼は、私のことを助けてくれたんです」
助け舟を渡して来たのは、少女だった。
「助けた……さっき感じた異変は気のせいではなかったのね」
心当たりを思い返した様子の綾火は、次いで虚空へと向けていた視線を仄の方へ寄越す。
「多華宮くん、どんな事情があったにしても金輪際、自分から危険に飛び込んで行くような軽率な行動は控えて。お願いだから」
先までの無表情が、そこには無かった。
それだけで仄には、今の彼女の言葉が如何に重く、そして切実な願いだったのか思い至れる。しかし。
でも、と立ち上がった仄は口を開く。
「火ヶ里さんに助けて貰ってばかりの僕だから分かったんだ……彼女の声が聞こえた時、本当に助けを求めてたって」
遠巻きだが、綾火から言い渡されたのは『他者より自分の身を優先しろ』という頼みだった。綾火の、そして自身が置かれる立場を理解していない仄ではない。が、底冷えしている訳でもない彼の正義感が、それを拒むのである。
「……それなら約束して。本当に危険だと思ったら必ず私を呼んで。そして、私を待って」
綾火にとって精一杯の妥協案だったに違いない。やや眉を顰め、目付きの程も些かの険しさが伺えるのがその証拠だ。
「うん」
そんな綾火の気を察した仄もまた、それ以上の妥協を強要しようとはせず、力強く頷いて返す。
「えっと、その……私はこれで失礼します。本当にありがとうございました。それではっ」
完全に二人の世界へと心酔し始めてしまったのを察してか、少女は改めて礼を告げた後、逃げ出すかのように走り去って行ってしまった。
「あっ……名前、聞くの忘れてたな」
名残惜しそうに小さな背中を眺め続ける仄は、そんな自分の様子を見詰めて来ている綾火の、その不安げな目など意に介すことはなかった。
【予告】
仄くんは仄ちゃんへクラスチェンジします(多分)。