「私がいてもいなくても、結局それは同じなの。
それなら、誰かここから私を連れ出して」
ヨリコはそう願った。
「ならば、吾輩が叶えよう」
とそれが応えた。
中学時代の三年間を、ナオジは振り返ってみる。
つかれた、というのが最終的な感想だった。
彼女は小学生の頃よりも、自分が丸くなったと思った。
教師の指示に従わないことは多々あったが、悪態をついたり、自分に指図をする教師へ暴力を振るったりということをしなくなった。
ナオジの左頬には、細長く刻まれた、一筋の目立つ傷痕がある。
小学校時代に変質者と争った際に傷つけられたもので、彼女自身の目つきの悪さや鋭角的な面立ちと相まって、ナオジは常に同級生たちの輪の外側にいた。
友達と呼べる人間など、ナオジには出来なかった。
昔からの習慣通り、ナオジはひとりで生きた。
しかし、いつからだろう、と彼女は思う。
難癖を付けに来た上級生と殴り合い、やかましく騒ぐクラスメイトへ椅子を投げつけて黙らせたりといったことに、むなしさを感じ始めた。
むなしいと思えば、ひどく疲れた。
その徒労と戦った三年間だった。
そして暗澹と中学時代を終え、高校の入学式になったとき、ナオジはヨリコと再会した。
四年ぶりに。
「また、殴らないの?」
小学生の頃と変わらない白茶色の髪を長くなびかせながら、ヨリコは言った。
ナオジは、それに何も返すことが出来なかった。
***** ***** *****
ヨリコはナオジと同じ団地の子供だった。
ヨリコの母親は外国人のハーフで、団地の催しにあまり顔を出さないため、非社交的な人間と思われていた。
しかしヨリコ自身は団地の子供を集めた催し物へ、それなりに参加していた。
たとえば新年の餅つきや、季節ごとの行事、聖誕祭等。
ヨリコはあどけなさの薄い、美しく整った顔立ちの少女だった。
綿菓子のようにふわりとした白茶色の髪や、その下にある白い肌、やや緑がかった大きな瞳。
人目を引く外見をしたヨリコだったが、催し物に参加した場合、必ず会場の隅にひっそりと佇んでいた。
その見てくれと相反するように、彼女は目立つ行動を一切取らなかった。
ただその場にいるだけで、自ら積極性を発揮することはなかった。
そんなヨリコの隣にいたのが、ナオジだった。
ナオジは催し物が嫌いだった。
集団行動をそもそも嫌っていた。
話しかけてきた同年代の子供や、注意をしてきた大人には罵倒をして突き放し、暴力的な振る舞いをすることも躊躇わなかった。
ナオジがなぜそういった催し物に嫌々ながら参加したのかと言えば、この世で唯一ナオジが逆らえない人間、つまり母親の言い付けだからだ。
ナオジは母親に養われて生きている。
母親がいなければ自分は死ぬ。
そのため、母親に従わざるを得ない。
それがナオジの考え方だった。
ナオジの母親は、ナオジのそういった反社交的な言動について咎めることをしなかった。
ナオジの父親は、彼女がさらに幼い頃に他界している。
ナオジの母親は娘が眠っている時間帯に帰宅し、また娘が起床前に家を出る生活をしていた。
仕事に生きる女性であった。
よってナオジの性格、触れられれば即座に噛み付く動物的なそれが形成することを、止める人間はいなかった。
ナオジの母親が娘のそうした性格を理解していたのかはナオジには分からないが、とにかく団地で催し物があった際には自分は参加できないので、代わりに娘を寄越すことにしていた。
ナオジはもちろん不服であった。
不承不承その集まりに赴き、場の隅で終わるのを待った。
そういったわけで、ナオジは結果的に、同じく会場の隅にいるヨリコに近い位置で催し物に参加することとなった。
お互い、その催しに参加する意気込みはなく、だからといって似たもの同士で話をしようともしなかった。
ナオジは、もし仮にヨリコが自分に話しかけてくることがあればその口に拳を殴り放つ気でいたが、ヨリコはまるで置物のように静かであった。
団地の談話室で行われるイベントを茫と眺め、何の表情も浮かべない。
ナオジのような不機嫌さもなく、もちろん興味ありげな顔つきでもない。
作り物めいた、能面に似た無表情だった。
ナオジはこの一風変わった同年齢の少女に、これといって関心を持たなかったが、自分の邪魔をしないという点では他の人間達よりましだと思っていた。
しかし、非協力的なナオジとヨリコを団地の人間達は疎ましがっていた。
ナオジもそのことは重々承知していたが、知ったことではない。
彼らから嫌われても、ナオジは生きていけた。
ひとりで生きなければならない。
強く生きなくては。
それがナオジの訓戒だった。
同時に、ナオジの父親の遺言でもあった。
病の床に伏せていた病院のベッドで、息も絶え絶えになった父親が娘に遺した最期の言葉。
「ひとりでも強く生きろ」
と彼は言い、そして死んだ。
ナオジは誰から嫌われても、ひとりで生きていこうとしていた。
母親がいなければ寂しくて泣いてしまう幼女などを催し物の会場で時々目にした時は、ナオジは吐き気さえ覚えた。
口の中にマグカップを突っ込ませて黙らせてやりたくなった。
その点、ヨリコは平然としたものだった。
ナオジの癇に障る行動を一切取らなかった。
団地の全員がヨリコであれば楽なのに、とナオジは思ったものだ。
ナオジとヨリコの関係はそういった不干渉で成り立っていたので、会話らしい会話などなかった。
ひとりぼっちが二人いるだけだった。
ナオジはそれで充分だと思っていた。
しかし、その二人の関係を勘違いした人間がいた。
ヨリコの母親である。
ヨリコの母親は娘を大人にしたような人物で、口数の少ない物静かな女性だった。
催し物の毎にヨリコの近くにいるナオジを見て、ヨリコといつも一緒にいる子、と認識したらしく、ナオジはヨリコの母親から夕食の招待をよく受けた。
ナオジは他人から物を与えられることも、友達と思われることも嫌っていた。
しかし自分の母親が用意する食事ばかりを食べる日々に反発を抱いていたこともあり、ヨリコの家に厄介になることがあった。
そうした食事の間、もっぱらナオジに話しかけたのはヨリコの母親で、ヨリコ自身は黙々と機械的に食事をし、やはりナオジと話そうとはしなかった。
ナオジも特に彼女と話すことなどないと思った。
しかしこうした小さな夕食会はナオジの母親に露見し、これをきっかけとして、ナオジとヨリコの母親同士は親しくなっていった。
親同士が親しくなると、どういうわけか子供同士も引き合わせるものなんだな、と幼いナオジは心の中で溜息をついた。
ナオジの母親は多忙である為、団地の催し事にはあまり顔を出せなかった。
しかしひとたび参加すると、必ずと言って良いほど人の輪の中心にいた。
神経が図太いせいだ、とナオジは思ったが、とにかくナオジの母親は団地の中で顔の広い存在だった。
そんなナオジの母親を通じて、ヨリコの母親は徐々に団地という集団社会に馴染んでいくことが出来たとナオジには感じられた。
まったく馴染もうとしないのは、娘のヨリコの方だった。
母親に連れられて団地の談話室に来ても、激しく人見知りをし、部屋の隅に行きたがった。
誰とも話そうとせず、話しかけられても何も応えない。
不安げな表情も、いたいけな笑顔を彼女は浮かべなかった。
そんな無表情をしたヨリコがナオジと親しくなったのは、ある事件のせいだ。
その事件の後、ヨリコはナオジの後を追いかけるようになった。
最初の頃ナオジは鬱陶しいため、ヨリコを蹴り飛ばしたり殴りつけたりとしたが、ヨリコはくじけずにナオジの近くへ寄った。
しまいにはナオジの方が根負けし、居たいなら居ればいい、と思うことにした。
そうしてナオジが諦めてから、ヨリコは初めて、ナオジと話をした。
「私、ひとりなの」
とヨリコは言った。
「おろすはずだった、ってお父さんは言ってた。
お母さんは、最初は私を好きだったけど、どんどん、好きじゃなくなってったの」
「私はひとりがいい」
ナオジはヨリコに言った。
「お前と一緒にするな」
うん、とヨリコは頷いた。
そうした寂寥とした関係が、ナオジとヨリコの幼い日々だった。