高校生になったヨリコは、ナオジの知っている小学生の頃のそれとはまるで別人だった。
小学生の頃、ナオジはヨリコの笑った顔を一度しか見たことがない。
しかし高校生のヨリコは、やんわりとした愛想のある表情を周りに惜しげもなく振りまき、易々と同級生の中に混じり込んでいった。
団地の談話室で置物のように閉じこもっていた、あのヨリコが。
ヨリコは美しくなっていた。
元々、周囲から浮いてしまうほど目鼻立ちの整った容貌をしていたが、そこに明るさと社交性を身につけ、年齢離れした魅力を放っていた。
だがナオジはヨリコの明るい表情のどこかに、灯っては消えるか弱い火に似た何かを感じた。
今にも儚く消えそうで、それでいて誰の手にも掴ませない。
強い一陣の風が吹けば、簡単に姿を失ってしまう、そんな幻想をヨリコはナオジに抱かせた。
ナオジとヨリコは同じクラスに編入された。
女子はいくつかの集団をすぐに作り、ヨリコもあるグループに紛れ込んだ。
しかしヨリコはその気さくさで、平然と別の集団へ渡り歩くことが出来た。
誰も彼女に嫌悪を抱いている様子はなかったと、ナオジは思う。
一方、当のナオジは中学と同様、誰とも連むことをしなかった。
ひとり教室から抜け出し、無人の中庭や屋上を練り歩く。
授業にはそこそこ出て、成績もそこそこ稼いでいたが、やはり授業態度を何度も教師に指摘された。
しかし、その注意に耳を貸すナオジではない。
ナオジは帰りたいと思った時に学校を抜け出た。
それは授業中であったり、昼休みの最中であったり、下校時間をとうに過ぎた頃でもあった。
だが、そんなナオジの気まぐれな帰宅に付いてくる人間がいた。
ヨリコである。
「ナオちゃんは変わらないねえ」
ヨリコはいつの間にか、ナオジのそばにいた。
授業中に学校を抜け出したナオジについてきたこともある。
そしてナオジにひどい違和感を抱かせるその笑顔を向けるのだ。
「あ、でもちょっと変わったとこもあるね。
大人っぽくなった」
その日も、昼休みに学校から自主的に帰宅するナオジの横に、ヨリコは唐突に現れた。
にこにことした笑顔で、その手に持った通学鞄を揺らしている。
「なんだよ、私がババアになったってのか」
この突然さよりも、ナオジはヨリコのその笑顔が気になって仕方なかった。
ヨリコはにこやかな朗らかさで笑みを浮かべていたが、どこか表面的で、作り物めいて見えた。
その裏側には何が隠されているのかと思ったが、何もないのではないかとナオジは直感的に読み取ってしまう。
表面しかない、うつろのような笑顔。
その壊れ物めいた表情はむしろ妖艶で、ナオジは自分が耳にしてしまったヨリコの中学時代の噂を思い出した。
「子供の頃だったら、ナオちゃん、まず真っ先に殴ってたじゃない」
ヨリコが笑う。
「ほら、小学校の頃。
覚えてる? ナオちゃんがクラスで暴れてると、私が呼ばれるの。
別のクラスだったのに」
「……」
「私が来るとナオちゃんは私を殴って、そしたらすぐどこかに行っちゃうの。
それでその騒ぎはおしまい。
ナオちゃんで困った時は、いつもそう」
おかしそうにヨリコは笑った。
「みんな、私達をなんだと思ってたんだろうね」
「友達とか、か?」
ナオジは過去を嘲笑する。
ヨリコは小さいが、笑みをさらに深くしてみせた。
それは同意を意味しているのか、ナオジには分からない。
ナオジは言う。
「勘違いする連中ばかりだ。
同じクラスになれば友達か? 近くにいれば友達扱いされて、なんでどいつもうんざりしないんだ?」
「一緒くたにまとめれば楽だから」
ナオジの悪態に、ヨリコはくすっと笑む。
その仕草で、ナオジはヨリコの心が垣間見えた気がした。
ヨリコもナオジと同じく、勘違いしてばかりの他人を笑っているのだ。
「人と仲良くなるのは、簡単だったよ」
とヨリコは言う。
「なんでもいいから受け入れちゃうの。
その人達が求めてることとかを。
そういうのに応えてあげれば、すぐ仲良くなれるよ」
そうやって私は過ごしたよ。
ヨリコは微笑みながらそう言った。
「……」
ナオジは、ヨリコの噂、中学時代について一瞬だけ思いを馳せた。
噂。
誰とでも寝る女。
あさましいまでに男を漁り、恋人を作ってはすぐに別の男に乗り換え、二股などの浮気も平気で行った、と誰か――別のクラスの人間だったか、それともクラスメイトだったかナオジには分からなかったが――が話していた。
「お前は変わったよ」
ナオジはヨリコに言う。
何の感情も込めずに。
すると、ヨリコは笑んでいた表情をきょとんとしたものにし、ナオジを凝視した。
そして、ヨリコは突然、笑声をあげてしまう。
その唐突さに、ナオジは少したじろぐ。
ひとしきり笑った後、ヨリコはナオジの顔をまじまじと見て、言った。
「ナオちゃんは変わらないでね」
「何が」
「私みたいに生きないでね。
私みたいに、独りで生きられない子にならないでね」
ヨリコはナオジの少し先を歩き、くるりと振り向き、後ろ向きに歩き始めた。
危なげな足取りだったが、本人は気にせず口を開く。
「みんなね、誰でもいいの。
みんな欲しいものがあって、それをくれる人なら、別に誰だってかまわないんだ。
誰でもいいの」
同じ事を二度言って、ヨリコはさらに笑う。
「たまたま私だったんだよ。
それだけのこと。
私はそのたまたまに乗っかって生きてきた。
そんな生き方だった」
「私は、そんな生き方なんかしない」
ナオジはヨリコの危うい言動に対し、憮然とした断言を返した。
その言葉にヨリコは、どこか嬉しそうで、しかし遠い距離感を覚えさせる、掴み所のない笑顔を作る。
「知ってる。
うん、だから私は、あなたが―――」
突然、猛烈な風が吹いた。
強烈な風の音にヨリコの言葉が掻き消される。
長くなった彼女の白茶色は横になびき、ヨリコの顔をナオジから隠してしまった。
その後、ヨリコはそれ以上ナオジへ何も言わず、自分の帰路へ付いた。
ナオジもヨリコに対し、言うべきことが見つからなかった。
ヨリコが交通事故に遭ったのは、その別れた直後のことだった。
***** ***** *****
ナオジはヨリコの父親が嫌いだった。
ヨリコの父親も、ナオジのことを嫌っていた。
彼は子供嫌いであり、子供というものを見下していた。
ナオジは子供嫌いな人間や、自分を子供扱いする者を嫌っていたので、両者が妥協や和解をすることはなかった。
暴力を振るうことに何の躊躇いもないナオジに対し、ヨリコの父親も手加減せず殴り返した。
すばしこいヨリコはそれを躱し、さらに蹴る。
ナオジがヨリコの家にいる最中にヨリコの父親が帰宅すると、そういった修羅場へ変わってしまった。
ヨリコの母親は何も出来ず部屋の中でおろおろし、ヨリコは不干渉の無表情で部屋の隅に座っていた。
小学生の頃の話。
そんな幼い頃、ナオジはヨリコに、あんな父親が好きか聞いてみたことがある。
「話しかけられたことないから、分からない」
とヨリコは感情のない声と顔で応えた。
ナオジの父親は彼女がさらに小さな頃に亡くなっていた為、彼が子供好きだったかどうかナオジには分からない。
しかしナオジは遺言を与えられた事実から、少なくとも自分は彼にとって些末な存在ではなかったのだと思った。
ヨリコにはそれがない。
ヨリコとその母親による、母娘の会話もナオジはまれにしか聞いたことがなかった。
「帰るわよ」
や
「ご飯よ」
といった事務的な遣り取り程度で、ヨリコの家の食卓にいても、ヨリコの母親はもっぱらナオジに話を振った。
自分の娘などその場にいないかのように。
ヨリコの父親など、ことさら娘へ無関心だったに違いないとナオジは察した。
ヨリコはひとりだった。
ナオジも同じくひとりだったが、自分には遺言がある。
ヨリコには何もない。
そういった親近感をナオジは幼い頃からヨリコに抱いていたが、同時に同族的嫌悪も伴っていた。
だから、ナオジはヨリコに手を挙げることに抵抗がなかった。
ヨリコも文字通り抵抗しなかった。
ヨリコは何にも抗わなかった。
それが、ナオジには見ていられなかった。
自分は、ヨリコのようにはならない。
そう決めていた。
小さな頃から。
だから高校生になってヨリコから
「私みたいに生きないでね」
と言われても、そんなことは言われるまでもない、とナオジは反発を覚えた。
***** ***** *****
「……遺言のつもりだったのか?」
ナオジは団地にある自分の部屋で、小さく狭いベランダから外を眺めつつ呟く。
夕暮れが町並みをなめていく。
昼と夜の狭間、濃紺と橙色が空の両極を彩っていた。
その景色を見ながら、ナオジは物思いに耽っていた。
似合わないことをしている、と自分でも思った。
「遺言、か」
独白しながら、ナオジは言葉の重みを感じてしまう。
父親の遺言は、ナオジの幼い頃からの生き方を決めてしまった。
彼女の中で最も大事なことは、その遺言を守ることだった。
ヨリコはそのことを知っていたのだろうか。
父親の遺言をヨリコに言ったことがあるか、ナオジはよく覚えていない。
「私は、ひとりでいい」
無人のベランダで、彼女は呟く。
「ひとりで、強く生きてやる」
遺言通りに。
夕日が眩しかった。
ナオジは部屋へ戻る。
もうすぐ夜だった。
今夜もナオジはひとりで過ごすだろう。
それに対して何の感慨も彼女は持たない。
幼い頃から何も変わらないからだ。
ヨリコは変わった。
どうしてああまで変わってしまったのか。
その理由を、ナオジは知っている気がした。
おそらく、あの出来事のせいだとナオジは思う。
ナオジがヨリコと最後に会った、あの日だ。
小学生のナオジが入院をした事件。
ヨリコが初めて笑った日の出来事。