さて、グッチャグチャなのは文だけなのか
走れ。走れ。
落ちていくあの夕日よりも速く。なんて茶化している場合じゃない。
声は恐らく下水橋から発せられた。それは幼い女の子の声で、助けを求めている。これだけで急ぐ理由には十分だ。
ただひたすら走る。全力でしばらく駆けているが、汗はぼかいていない。それどころか、疲れすらあまり感じない。これが狩人の遺血の力なのだろうか。今はありがたく享受するとしよう。遺血様々である。
急いだ甲斐もあり、そう時間が掛からずに下水橋へ着いた。しかし少女の姿が見当たらない。絶対にここから聞こえたと思うのだが。橋の上は障害物などまるで無く、隠れられるような場所は無い。
くそ、どこに行ったのか。もしかしたら違う場所なのか。そうだとしたら無駄な時間を食ってしまった…ん?
橋の脇にハシゴがある。いや、なぜここに行く必要がある。なぜ少女が降りる必要がある。
どう考えても確率としては低い。ここを探すなら他を探したほうが良い気もするが、狩人としての本能というべきか、「嫌な予感」は否応なしに反応している。
自分を信じよう。ひいては自分に流れる狩人の遺血を。
一段一段ハシゴを降りる。ここで滑って落ちようものなら、今度は私が下水橋で悲鳴を上げることになる。そして恐らく、私を探しに来てくれる人物はいない。
もどかしい時間が幾ばくか過ぎ、足が地面に触れる。橋の下へ着いたのだ。
“下水”橋の名の通り、床は水路になっていて、お世辞にもきれいとは言い難い水が流れている。それに、元々が汚いというのに何処からか流れ込んできた血が生臭さに拍車をかけており、正直帰りたいがここは根性で進むことにする。方向的には地下墓地へ向かって進んでいるはずだ。
歩くたび、足を中心にして下水の波紋が広がる。飛沫が舞い、臭いが際立つ。なんの拷問だ、これは。
しばらく進むと、獣くさい呼吸音が聞こえてきた。下水道の中は薄暗いため音の主は見えないが、鼻を鳴らし、少し苦しげなその息遣いは豚のものだろう。
こんな場所に生息する豚とはどうせ碌でもないのだろうが、暗闇から姿を表したそれは私の想像を遥かに超えていた。
高さだけでも私をゆうに越し、全長で言えば人ふたり分は有るであろう体格。汚水にまみれたその体は醜く太り、たるみ、首元には数多のシワが刻み込まれている。目は暗く輝き、生存本能と化した食欲にのみ忠実に生きていることは想像に難くない。
デカい。それが私の抱いた最初の印象であり、恐らく最後まで抱き続ける印象だ。
そしてこちらが悠長に観察している間に、豚は突進の準備を終えていたらしい。間もなく、走り出す。
とはいえ愚直な突進である。避けるのは容易い――のは、戦場が広い場合の話だ。今回のロケーションは下水道。そもそも人が通る為に作られていないここは、肥大した豚が入れば隙間など無くなるのは当然である。
マズい、避けられない。獣に飛び掛かられ、避けることもままならず、全身の骨を砕かれ、呆気なく死ぬ。そこまでのビジョンが見えた。
…いや、獣に飛び掛かられたとき、アイリーンはどうしていた。確か短銃を獣の顔面にぶっ放していたはずだ。そして獣の勢いを殺し、内臓を抜く。この状況でも再現できるだろうか。
汚水を散らしながら突っ込んで来る豚を、ぎりぎりまで引き付ける。
三、二、一、今だ!
豚の顔面に銃弾を浴びせる。豚は急激に勢いを失い、バランスを崩す。
よし、よし! 初めて狙って出来た。だが喜びに浸る暇は無い。すぐにベルトから杖を抜き、よろめいている豚の左眼に勢いよく突き刺す。流石に私はまだ、口に直接手を突っ込める程の狩人ではない。
杖の切っ先は眼球を貫き、頭蓋骨を抜けたのが感触でわかる。そして豚は一度大きく痙攣し、地に伏せる。豚から杖を抜いたとき、もうあの耳につく呼吸は聞こえなくなっていた。
関門は抜けたと言うべきか。少女を探そう。親子とも迷子になり、誰かに探されるというのは血筋なのか。
豚を超えた先は、奈落とも思える程の深い穴と、橋の上へ上がれるハシゴがあった。少女は豚の攻撃を掻い潜り、地下墓地を抜け、オドン教会へと向かったのかもしれない。奈落に落ちていたらそれまでなので、この可能性は除外する。
……下水橋を越えたところで、辿り着くのはオドン教会である。どう足掻いたって道が一つしかないわけだから、他に行けるはずもない。つまり、オドン教会にいなければ……。
兎に角オドン教会へ向かう。そこで全て決まる。
「小さい女の子? うーん……来てないと思うなあ」
赤い粗末な布を被った、オドン教会の住人が告げる。
それはほぼ、少女の死の宣告にも等しかった。そして、私の脳裏に一つの童話がよぎった。
赤ずきん。特に、狼の腹が猟師によって切り開かれる場面。
なんだか、この状況に類似してはいないか。
全く縁起ではないが、そうすると少女の居場所は…。
オドン教会から下水道へ戻る。眼前には豚の死体。
杖を振り、鞭にする。杖の幹の部分は細々としたノコギリの刃のようになっており、ぐずぐずに肥え太った豚の腹を裂くにはもってこいだろう。
腹めがけて、杖を薙ぐ。血飛沫と共に内容物がこぼれ落ちてきた。
吐き気がする。見た目も臭いも、醜悪の限りだ。
目を背けたい気持ちを堪え、床へと散らばった肉片たちを見つめる。
……ダメだ。どれもグチャグチャで、原型を留めていない。ここから少女――この中にいるとは決まっていない――を探すのはもはや不可能だろう。
どうやら、気のせいだったようだ。少女はここを通っておらず、あの悲鳴は幻聴で、全ては早とちりした私の勘違いだったのだ。
そう信じ、踵を返そうとしたその瞬間、ふとこの場に不似合いなものに気がついた。気がついてしまった。
恐らく、リボン。豚の、そして被捕食者の血に塗れているが、それは間違いなく
消化が進んでいないのは、食べられたのが最近だから。
悲鳴が途切れたのは、この豚に喰われたから。
このリボンが少女の物だとすると、全てに説明がつく。ついてしまう。
遅かった。全てはもう手遅れだったのだ。
私は贖罪の機会を永遠に失ってしまった。
私は、どうすれば良いのだろう。
それを決めるべき存在は、私の眼下で肉片と化している。
何度問いかけようと、
少女は救えなかった
許すまじ豚