踏切境界線   作:空潟 聿

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一ノ宮祐子

 同じクラスの林川さんは、私の憧れの人だった。

 小学生の頃から林川さんは頭がよくて、しっかり者で、凛とした人だった。決してクラスの中で目立つ人ではなかったけれど、周りに左右されずにきちんと自分を自分として保つ林川さんは、私の憧れだった。

 きっと、私は林川さんのことが好きなのだろう。気がつけば私は林川さんを目で追うようになっていたのだし、林川さんのことを意識すると恥ずかしくなってしまうのだから。

 小学校、中学校と同じクラスになっても話したことはそんなにない。けれど、私はそれでも十分だった。恋人になりたいだなんていう願望を持つには恐れ多くて、半ばアイドルを見ているような心持ちで遠くから見ているのがちょうどよかったから。林川さんを見ているだけで十分幸せだったのだ。

 それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 夏休みが明けてから教室にこなくなった林川さんのことを心配していたら部活棟で勉強をしていると聞いた。学校にはきているという噂を聞いて安堵した束の間、給食の時間だけ教室にくるようになり、果ては体育の授業に参加した。

 元々はクラスメイトだったのだから、そのことはなんら不思議なことではない。けれど、部活棟からクラスに戻ってきた林川さんはどこか様子がおかしくて、それが確信に変わったのは体育の授業中だった。

 その日の体育の授業はそれまで行っていたバレーボールではなく大縄跳びで、クラスを団結させようという先生の思惑が見て取れた。しかし先生の思惑通りにはいかないもので、連続して跳べないことに皆はイライラし始めて、林川さんはそれを敏感に感じ取っているようだった。

「よし、五分休憩!」

 先生の号令で休憩になり、クラスの皆は散り散りになった。私はいつものように林川さんを目で追っていた。すると、林川さんはどこか虚ろげな表情で体育館から出ていくのが見えた。一瞬、危ないと思った。否、トイレかもしれないと思ったけれど、どこか追いかけなければならないような気がして、私は林川さんを追いかけていた。

 私の予想は的中した。林川さんはトイレには向かわなかった。途中で見失ってしまったのがただ悔しかった。その後、先生から「林川が早退した」と聞き安堵した。

 しかし私はあれから林川さんの様子がおかしかったことが気になって仕方がなく、ついにその翌日学校を休み、林川さんを見張った。本当はこんなことをしてはいけない。そう思いながらも、林川さんの家の前から林川さんの様子を窺った。

 動きがあったのは一時を回ったところだった。家から林川さんが出てきて、出かけていった。行き先は私の親が経営するデパートで、後をついてきた私に気がつくと林川さんは逃げ始めた。

 無論、私もそんな林川さんを諦めじと追いかけたわけで。屋上のレストランまで追いつめた挙句一緒にお昼を食べて。何か計画があるわけでもないのにこの後一緒にいたいとか言ってみて。「林川さんは私の特別だから」とか、そんなこと、言っちゃって。

 何か林川さんを引き留めるものが欲しかった。

 目についたのは、ぬいぐるみコーナーだった。

 「どれがいい?」と尋ねると「どれでも」と、「これどう思う?」とオニオオハシのぬいぐるみを見せると、林川さんはくすっと笑った。「いいね。馬鹿みたい」。私はその言葉につい嬉しくなって、それを買ってくるから絶対そこを動かないでね、と。そう言ってその場を離れた私は、すごく未熟で無知で浅はかで、そこにいる誰より馬鹿だった。少しでも冷静に考えていれば分かったはずだ。そのとき、彼女から少しでも離れるべきではなかったということが。

 お会計から帰った後、元の場所に林川さんはいなかった。

 救急車が呼ばれて気がついた。

 林川さんは飛び降りたのだと。

 

 幸い、林川さんの命に別状はなかった。足の骨折などの怪我は認められたが、命に関わることはないという。

 気を失っていた林川さんも翌日には意識を取り戻し、その連絡は先ほど私のもとにきたばかりだった。

「祐子ちゃん」

「叔父様!」

「早く会いにいってあげて」

「ありがとうございます」

「ああ」

 医者である叔父とすれ違い、少し言葉を交わした後、また私はすぐに急ぎ足で林川さんの病室へと向かった。

 病室の前まできて一呼吸した。これから会うのだという覚悟を決めて、病室のドアに手をかける。白い引き戸は静かに開いた。

「こんにちは……」

 おそるおそる室内に入ると、本を読んでいた林川さんがこちらを見、そして目を逸らした。私はゆっくりと近づき、ベッドの傍にあった椅子に腰をかけた。

 その病室は四人部屋だったが、見たところ林川さんしかいないようだった。お互い黙ったまま、静かで気まずい雰囲気が流れている。

 林川さんは、手にしていた本をそっと膝の上に置いた。私も鞄を床に置き、何から話そうかと考えた。言いたいことはたくさんあった。けれど、何を話すにしても林川さんを傷つけてしまいそうで、今までほとんど会話をしたことのなかった人とどう話せばいいか分からなくて、私は黙ったままじっと俯いていた。

 しかし、いつまでもそのままというわけにもいかない。私は、ありったけの勇気を持って、林川さんに尋ねた。私が、一番訊きたかったことを。

「どうして……」

「うん……」

「どうして、飛び降りたの……?」

「……」

 私の質問に、林川さんは黙り込んだ。コチコチと、部屋の時計の秒針だけが動いている。

 他のことを話したほうがいいのだろうか。そう思ったとき、林川さんがゆっくりと口を開いた。

「逃げなきゃって」

「え?」

 林川さんの声は掠れていた。

「一ノ宮さんが、手を差し伸べてくれたのが分かって。でも、その差し出してくれた手を見て、逃げなきゃって思ったの……」

「え、あ……」

 私は息を呑んだ。林川さんは言葉を続ける。

「一ノ宮さんが優しいから。その手に掴まるのが怖かったんだと思う。でも、これだけは信じてほしいんだけど、私がこういうことになったのは一ノ宮さんのせいじゃないから。嫌なもの見せちゃってごめん。でも本当に」

「そうやって、いつもいつもひとりで背負おうとする」

「え?」

「あ……」

 私のせいで飛び降りたと言っているのに私のせいではないと言っている林川さんを見て、無性に腹が立った。勢い任せに喋ってしまったことに林川さんは驚いた表情を見せ、私は一瞬血の気が引いた。しかし、言いだしてしまったからには口を噤むわけにはいかない。

「林川さんに今まで話しかけられなかった私が言えることじゃないっていうのは分かってる。けど、全部自分のせいだっていってひとりで頑張ることがいいことだとは思わない。誰かのせいにしていいし、誰かに助けを求めてもいいんじゃないかな……?」

「……うん」

 知ってる、と林川さんは力なく言った。知っているけどできないのだと、林川さんは言っているようだった。

「私のせいだって言ってよ」

「え」

「飛び降りたのは私のせいだって。今まで放っておいた癖にいきなり干渉してこようとした私のせいだって」

「え、いや、そんな……思ってないし……」

「思ってるよ。林川さんは思ってる。思ってていいんだよ」

「思ってない」

「思ってる」

「思ってない」

「思ってる!」

「そんな悪者に私はなりたくない! なってたまるか!」

「……悪者なんかじゃないよ。林川さんは、悪者なんかじゃない」

「……」

「……」

 何と言えばいいのだろう。どんな言葉で、どうやって伝えればいいのだろう。誰かに頼ってもいいんだと、時には人のせいにしてもいいのだと、それは悪ではないのだと、どうやって伝えれば。

「ありがとう」

 私が考えを巡らせているとき、林川さんは言った。

「分かってる。人に頼るのも、人に弱みを見せるのも悪いことじゃないって。でも……いや、なんでもない」

 林川さんは言葉を濁した。手を組み、親指が落ちつきなく動いている。私も、ぐっと両の拳を握りしめた。

「ごめん、帰ってもらってもいい? このまま続けても、たぶんこの言い争いは終わらないから」

「帰りたくないです」

「でも」

「お願い。話を変えても、話さなくてもいいから、もうちょっとだけ……」

「……ははっ」

 林川さんが乾いた声で笑った。

「意外と強情なんだね、一ノ宮さん」

「……どうしたらいいか分からないの」

「うん」

「昨日、林川さんの傍を離れてすごく後悔した。林川さんが笑ってくれたのに、あ、ちょっとは力になれたのかもなんて勘違いして、ひとりで舞い上がって林川さんの傍を離れた。ちょっと考えれば、傍を離れるなんていうことしちゃいけなかったっていうのはすぐ分かったのに」

「……」

「ごめんなさい、林川さんを信用してないとかそういうんじゃないんだけど、一昨日、大縄跳びをしたときから、林川さんの雰囲気、ちょっとおかしくて……今もなんていうか、離れたくなくて……」

「うん……」

 話しているうちに感情が高ぶってきて、私は泣いていた。林川さんは私の支離滅裂な話を聞きながら冷静に相槌を打ってくれた。

「私、林川さんのことが好きで、ずっと好きで、林川さんを失いたくなくて……」

「そんなに好意を持ってくれてるなんて知らなかった。なんか、嬉しいなぁ」

 林川さんはどこか他人事を話しているかのように言った。私はまた、拳を握りしめる。

「林川さんは、どうして部活棟で勉強してたの?」

 話題を変えよう。そう思った。

「……母親が、あの学校の授業を受けるくらいなら家庭教師の出した課題をさせてるほうがマシだっていう謎理論を繰り出してきて、それで。まあ、そんなに教室も好きじゃないし別にいいかなって思ってさ。教室に行き始めたのはあの先生がしつこく追いかけてきたから」

「あぁ……そうなんだ……」

 やっぱり、という風に私は相槌を打った。林川さんは微妙な苦笑いをうっすらと浮かべている。

「体育に参加するつもりなんて全然なかったのに参加させられるし、よりにもよって大縄跳びだし。あんなの、跳べないことでクラスの雰囲気悪くなるに決まってるのにさ」

「そうだね」

「もしかしたらトイレに行くふりして逃げれるかも、なんて思ってさ。そっと抜け出したら一ノ宮さんついてくるし。あれはびっくりしたなぁ……」

 少しずつ、林川さんの声に色が宿ってきた気がした。組んでいた手が解かれる。

「昨日もずっとつけてたんでしょ? いやぁ、びっくりびっくり」

「それは……ごめん……」

「なんか、改めて考えるとなんか……いや、すっごく恥ずかしいんだけど、そこまで私を思ってくれる人がいるなんて思わなかった……」

「え……」

「あまりにびっくりして昨日は逃げちゃったけど、でも、嬉しい、かも……」

「……」

 そう言う林川さんの顔はほんのりと赤くて、耳を見るともっと真っ赤で。私は、思わず林川さんを抱きしめていた。

「もし、もしよかったら、友達になりたい。林川さんの頼れる人になりたい。ちょっとずつでいいから、仲よくなりたい。いいかなぁ?」

「……うん」

 林川さんは頷いた。私はぎゅっと林川さんをもう一度抱きしめて、ゆっくり離れた。

 それから一時間ほどを林川さんと過ごした。今更ながらに自己紹介を交わし、その後は林川さんの読んでいた本の話題になった。親が持ってきた本なのだと林川さんは言い、受験のために読めと言われて読んでいるというのが非常につまらないと愚痴を零した。

「それで、あの変なぬいぐるみは結局どうなったの?」

「え、あ、あの、私が持ってる……」

「もしよかったらほしいんだけど」

「あ、うん、いいよ! 今度持ってくる!」

「お願いします」

 昨日私が買ったオニオオハシのぬいぐるみ。林川さんは、何気にほしいのだと言って笑った。私はそれを見て少し安堵する。今度くるときに綺麗にラッピングをして渡してあげよう、と考えた。

 暫くそういった他愛もない話をした後、部屋のノック音が聞こえ、ひとりの女性が姿を現した。その人を見た途端、林川さんは慌てて「今日はありがとう」と言い、視線で出ていくように訴えた。

「あら、お友達?」

 女性はこちらに近づいてきて尋ねた。

「初めまして。一ノ宮と申します。失礼します」

 私は一言挨拶をし、病室を去った。

 あの女性は、きっと林川さんのお母様なのだろう。林川さんとよく似ていたし、林川さんが気まずそうな顔をしていたから。きっと、あの人は林川さんのお母様なのだ。

 私は、一抹の不安を抱えながら病室を去った。そして、先ほど交換したばかりのメールアドレスに「何かあったら遠慮なく連絡してください」というメールを送信した。

 病院から外に出ると、高い秋空が広がっていた。冷たい風が頬を撫で、髪の毛を揺らす。私は小さくため息をつき、家路につこうとしたとき、声をかけられた。

「お嬢様」

「わざわざきてくれたの?」

「孝弘様からご連絡をいただきまして」

「あ、そっか。ありがとう」

「どうぞ」

 用意された車に乗り込む。病院にきたことについて何か聞かれるかと思ったが、運転手から話を聞かれることはなかった。静かな車内には車のモーター音だけが響き、少しすると陽気なラジオが流れてきた。

「あの」

「はい?」

「今日、父と母は何時ごろお帰りになるのか分かる?」

「そうですね、何もなければ通常通り六時ごろにはお帰りになられるかと」

「そう」

「何か御用ですか?」

「ちょっと、相談したいことがあって」

「左様でございますか」

 私はひとつ、あることを提案しようと企み始めていた。正直、断られる可能性も大いにある。しかし、これが成功すれば少なからず林川さんの助けになるのではないかと、そう思った。

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