その蚣は、己を悪だと称していた。
それは千を優に越す人間を、己の毒で噛み殺したから――だけでは、ない。
命を賭しても守ると誓った1匹の蠍を、守ることが出来なかったから。
己の弱さを言い訳に、守ると誓った少女達を置き去りとしたから。
故に己を汚れた悪党だと、延々自身を罰し続けていた。
そんな、己の身体を喰らい続ける毒蚣を唯一慰めることの出来た揚羽蝶は、もう居ない。
だからこそ、蚣の傷が癒えることは決してない。
彼の自罰を断ち切ることが出来るのは。
今となっては、ただの2匹。
彼の捨てた蛇と、蜘蛛だけなのだから。
とある高層マンションの、最上階。
豪奢な飾りで溢れ返っているその部屋で、1人の女性が明かりも点けずにソファに腰掛けていた。
「…………」
ふわりとしたロングヘアーが良く映えるその彼女は、目を閉じたまま微動だにしない。
背後から聞こえてくる微かなシャワーの音が、その光景を余計に異様としていて。
不意に。その双眸が、開かれた。
「ああ、ちくしょう。心底むかつくぜ、あのクソ女」
女の座るソファの正面に置かれたテーブルには、数枚の書類が重ねられている。
そのどれもが、とある人物に関する捜索資料だった。
ドイツ、イタリア、ロシア、アメリカ、オーストラリア、カナダ。
頻繁に世界各地を転々とした、僅かな形跡。
ひとつを辿ることさえ至難の業を極めたそれを、妄執とも呼べるような執念で探し続け。
そして。
「10年さんざっぱら探し回って、ようやく見付けたと思ったら死んでましただぁ? フザけてんじゃねえぞ!!」
怒りのまま、女がテーブルを殴りつける。
砕け散ったガラスが自身の手を傷付けようと、激昂した彼女はまるで意に介さない。
それどころか、殆ど骨組みだけになったテーブルを尚も殴り付けようとして。
「――オータム。止めなさい」
横合いから伸びてきた細やかな手にそっと触れられ、その動きを止める。
「スコール……」
オータムと呼ばれた女の行為を止めたのは、薄い金色の髪をした美女。
名をスコール。オータムの『上司』にして『幼馴染』、そして『家族』と言うべき女性だった。
「けど、けどよ! やりきれねえよ、こんなの! アイツは、あの女は私達から
行き場の無い怒りを叫び、歯を軋ませるオータム。
それを静かに諌めるスコールだが、しかし。
「貴女の怒りは尤もだわ。けど、既に終わってしまったことを憤っても仕方ない。私だって、彼女を捕らえたらペーストになるまで磨り潰してやりたかった。爪を1枚1枚剥がしてから指先を釘で床に打ち付けて、それから――」
「わ、分かった! もういい、分かったから止めてスコール!」
一見冷静な印象を受ける彼女も、その『女』に対し腹に据え兼ねているのはオータムと同様、若しくはそれ以上だった。
彼女の口から紡がれる血の気も引くような責め苦の数々に、今度は激昂していた筈のオータムが止めに入る。
「ああ、ごめんなさい? もう大丈夫よ。それよりオータム、手を見せて御覧なさい」
静かに放たれていた怒気を収め、スコールが相方の手を取る。
ガラスが突き刺さるほどの大きな傷こそ無かったが、肌が裂けて血が滲み出していた。
「もう……傷になったらどうするの? それに明日は、私達にとってとても大切な日なのに」
「ッ、やべえ! スコール、大丈夫かコレ!? 痕になったりしないよな!?」
「すぐ手当てすれば大丈夫よ。だからじっとしていて」
丁寧に怪我をした手へと包帯を巻かれ、ほっと安堵の息を漏らすオータム。
彼女にとって、己の身体に傷を残すことは何より避けるべき行為なのである。
手当てが終わり、軽く手首を回した後に、オータムは部屋の明かりを点け。
一瞬の眩しさに目を細めつちつ、棚の方へと歩み寄って。
そこに置かれた写真立てを、心底大切な物を扱う仕草で手に取った。
「なあ、スコール。あの話は本当なんだよな?」
「本当よ。裏も取ってあるわ」
やや古びた写真に写っているのは、3人の少女と1人の男性。
男の姿をそっと指でなぞり、オータムが小さく笑う。
「長かったな。本当に」
「ええ……でも報われる。そうすれば、もうこんな
「あのガキはどうするんだ? あいつが居ると動きが制限されて厄介だぞ」
「平気よ。いざとなったら、体内のナノマシンを弄って記憶操作でも何でもすればいいんだから」
しゃらりと長い金髪を鳴らし、スコールもまた笑う。
彼女が目を向けたカレンダーには、翌日の日付に『IS学園 決行』と書かれていた。
「さあ、もう寝ましょう。寝不足で隈のできた顔なんて、あの人には見せられないわ」
そう言い残し、一足先に寝室へと入って行ったスコール。
オータムは最後にぎゅっと写真立てを抱きしめ、それをそっと棚の上へと戻し。
己の胸に……『蜘蛛』のタトゥーが刻まれたそこに触れて。
そっと、呟いた。
「やっと、やっと……会えるよ。会いに行けるよ…………『蚣』」