紫煙燻る鎮守府 作:鴎党
夕暮れの浜辺。鎮守府の主要な施設や港湾から少し離れたこの場所に、巫女服に青い袴スカートといった出で立ちの女性が一人ぽつんと立っていた。吹き付ける潮風にサイドポニーを揺らす彼女の他に人影はなく、聞こえるものは工廠から遠く聞こえる金づちの音の他には寄せては返すさざ波の音だけ。
サイドポニーの彼女、航空母艦娘『加賀』はこの場所が好きだった。仕事柄海にはよく出るが、大体は硝煙と血潮にまみれた鉄火場だ。
それゆえに、静かに、穏やかに海を感じることができるここの空気は彼女にとって心地よいものだった。
ゆっくりと沈み行く太陽と、それを反射して橙色に染まる大海原。そして、タンカーを引き連れて帰投する遠征艦隊とそれに向かうタグボート。
そんな何時もと変わらぬ鎮守府の日暮れ時を感じながら、巫女服に手を突っ込む加賀。
そして取り出したるは煙草のパッケージ。既に開封されて多少数の減った箱からまた一本を揺すり出すと、肉感的な唇の間にくわえた。羽休めにはこれがないと口元が淋しい、と思うあたりに彼女の愛煙家ぶりが窺える。
再度巫女服をごそごそやって王冠のロゴが刻まれたライターを取り出し、手で風を防ぎつつ上部をスライドさせる。ターボ式のはっきりした炎が口元の紙巻きに瞬く間に火をつけた。
用済みの火種を大事そうにしまいこむと、口腔で弄んだ白煙をうまそうに吐き出す。吐き出された煙はしばらく不定形に彼女の周囲を揺らめき、やがて海から吹きつける風に流されどこかへ消えていった。
あの煙は果たしてどこへ消えるのか、などとぼんやり考えていた彼女だったが、ふと視界に、横合いから煙草と緑の髪が写り込んできたことに気づいた。
「ん」の一言だけで突き出される煙草は、よく見ると火がついていない。
「……何ですか、五航戦」
いつの間にやって来たやら、隣には突き出された煙草と緑のツインテールの持ち主、加賀もよく知る後輩空母が。彼女は煙草をくわえたままに加賀を見つめ、横に目をやった加賀と視線が交差するとにやりと口角を上げた。
「火、ちょうだいよ。一航戦」
そうのたまう後輩のふてぶてしい面構えを見、一度深く煙を吐き出した加賀。やがて諦めたように自らのくわえる煙草、その赤く火のつく先端を瑞鶴のそれと合わせてやる。
少々驚いた様子の瑞鶴だったが、とくに拒む理由もないので、黙って煙草を合わせる。
潮騒だけが耳を打つ時間が流れ、やがて瑞鶴の方からも紫煙が上がりだす。加賀は煙草を離して沖に目を戻した。既に太陽はその半分以上を水平線に沈め、揺らぐ海面は橙と紫の混ざった不思議な色合いに変わり始めている。
「ん。ありがと。でも普通にライター貸してくれればよかったのに」
「アレは貴方に貸せるものではないので、仕方がありません」
「えー、なんでよ。けち」
「――自分のはどうしたの」
煙草を人差し指と中指で挟んで離し、口元をすぼませて煙を吐き出す瑞鶴。加賀は指でライターの火をつける動作をして彼女のそれの有無を訊ねた。
「ん? あー、こないだカレー洋行ったでしょ」
カレー洋、との言葉に加賀は自らの記憶を手繰る。すると、カレー洋といえば人類側の勢力圏にあるものの、深海棲艦の活動も未だ活発的であることを思い出した。そしてそれの駆逐のため定期的に、具体的に言えば一ヶ月ごとに空母を含んだ機動部隊がそこに赴いていることも。
ああそういえば今月は五航戦がその担当だったか、とその帰投した姿も思い出した。完全撃滅こそ果たしたが、姉の方はともかく、こいつはずいぶんと派手に脱げていたな。
「……なるほど、服諸共海の藻屑ね」
「そういうこと。へまやっちゃったわ、あのジッポーのやつ気に入ってたのに」
「そういうことは往々にしてあるから海に持ち出すのは百円ライターにしておきなさい。
それから余計なことを言うけれど、そうやっていつも大きな損害を受けるようでは改二を扱う許可がいつまで経っても提督から下りませんよ」
「……」
苦々しげに天を仰ぎ、白煙を吹き出す瑞鶴に、加賀は思う。あなたが早く改二まで至ってくれれば、大規模作戦の攻略にあたって、私をも越えうる貢献ができるのだから、早く成長しなさいと。
しかしそれは口には出さない。そうやって前向きにさせるのは提督や翔鶴がやってくれる。
紫煙をくゆらせながら、瑞鶴に発破をかける提督を想像して頬を緩めた。
一際長くゆっくりと煙を吐き出すと、随分短くなった煙草を口から離して携帯灰皿にねじ込む。辺りを包み始めた宵闇の中で輝く赤が、一つ減った。
三度巫女服に手を突っ込んで煙草の箱を取り出したが、悩んだ末にまたしまいこんだ。あんまり吸うと赤城さんに怒られる。
赤城も嗜んではいるが、加賀ほど愛飲してはいなかった。せいぜい一週間に一、二本、加賀に付き合ってやっていると言っても間違いではない。
その様子を横目に見ていた瑞鶴が白煙を風に流しながら渋い顔で呟く。
「……相っ変わらず辛そうなの吸ってら」
先程取り出した箱の銘柄を見ていたらしい。この暗闇でよくも見分けたものだ、と加賀は自らの愛飲する銘柄の青地に白文字で銘が書かれたパッケージを思い出す。
そういう瑞鶴は確かキャスターだったか。龍驤が瑞鶴にお勧めの銘柄を聞かれたと言っていた気がする。
「あなたにはまだ早いかしら。上手く吸えれば美味しいのよ」
吸い方を見るにまだ吸い始めて間もないらしい瑞鶴に少々の愛しさを覚えつつ、立ち去ろうとした加賀。
しかし不幸にも、彼女の耳は瑞鶴の小さな、本当に小さな呟きを拾ってしまう。瑞鶴が風上に立っていたのは両者にとっての不幸であった。
「……ハイライトねぇ。パチンコ屋にいる年増みたい」
加賀は何も聞かなかったようにして立ち去った。彼女はオトナなのだ。ここは冷静な淑女として対応する。別に瑞鶴とて揶揄したくて呟いたわけではない。単に感想を呟いただけなのだ。彼女がひとこと余計に呟きがちで、それが無意識なことは鎮守府の殆どの知るところにある。
今回の件はあくまで事故、そう事故なのだ。加賀の理性はそう結論付けた。
翌日の戦技教練で加賀航空隊が鬼神の如き戦いぶりで瑞鶴の攻撃隊を全機叩き落とし、返す刀で飛行甲板をも蹂躙、まさに鎧袖一触の完全勝利を収めたことは後々空母艦娘の間で語り草になった。
「瑞鶴、何かしたのかしら……? 加賀さんがあんなに、まるで深海棲艦相手みたく叩きのめすなんて」
とは五航戦の被害担当の方。局所的には瑞鶴が被害担当艦やなあ、と笑った軽空母がいたがそれは別の話とする。
「……加賀さんはストレス発散してるなあ、アレ。瑞鶴がまた余計なこと言ったかな?」
とは二航戦のかっこいい方。
「軍人は武勇を尊ぶべし。戦場に手加減は無用、つまりあれこそ教練です。普段からこのくらい厳しくてもよいと思います……が、今回のは加賀さんの私刑でしょうね」
とは一航戦の隙がない方の弁であった。
☆ ☆ ☆
「……珍しいですね」
微妙に荒んだ心持ちで赤城と相部屋の空母寮の自室に戻ってきた加賀だったが、ベランダに同居人の姿を見、さらに彼女が紫煙を燻らせているのを見ると、鉄面皮に驚きの貌を浮かべる。
「そうですか? 私だって吸いたくなるときはありますよ」
基本的に加賀に付き合って煙草をやる赤城が、一人でとは珍しい。何か気持ちの変化でもあったのだろうか? 加賀の脳裏を様々な憶測が駆け巡るが、その答え合わせは次に告げられた言葉によって先送り処分となった。
「それよりも一緒にどうですか? そろそろやりたくなってきた頃でしょう」
どうですか? と赤城。
いい加減長い付き合いとはいえ、自分が煙草をやりたくなる頃合いすら把握されているのか、と加賀は苦笑した。
「もちろん、お付き合いします」
すぐに煙草と愛用のライターを取り出し、赤城との一服を満喫せんとするその様子に今度は赤城が苦笑したが、ここで彼女は加賀の手元が気になった。
「そういえばそのライター、いつも使ってますね。お気に入りですか?」
「ええ、その通りです。貰い物ですが」
赤城の質問に、愛しげ(赤城視点では、という但し書きが付く。加賀の表情を正確に読み取れるのは彼女の他には提督くらいだ)にライターを見つめる加賀。その表情を見て大体を察した赤城だが、ここで彼女の少しばかりの悪戯心が顔を出す。
「まぁ、贈り物。誰からですか? 加賀さんがこんなに嬉しそうなのは珍しいです」
嬉しそうと言われて一瞬狼狽した加賀だったが、赤城の生暖かい視線を感じてすぐに何時もの鉄面皮を繕った。
「……わかって言っているでしょう」
「ふふ。まあそれはよしとしましょう。何かあったのでしょう? 今はともかく、戻ってきたときは随分と不機嫌そうな顔でしたよ」
「ええ。実は――」
それからの赤城は半ば加賀の愚痴を聞くカウンセラーと化した。
しかし、瑞鶴の余計な軽口やら、自らの表情筋についての愚痴を時には微笑し、時には慰めながら過ごす時間。それが彼女にとって満ち足りたものであることは間違いなく、また加賀にとってもそれは同様であった。
☆ ☆ ☆
――赤城に聞いたが、加賀も吸い始めたそうだな。聞くところによると中々渋い銘柄を吸うな
――また赤城さんは余計なことを……。渋くてはいけませんか
――まさか。だがあれを好む、君のような若い女性は初めて見た。あれを吸ってるのは私のようなくたびれた男ばかりだと思っていた
――そうですか
――そうだな。……時に加賀、なにか気に入ったライターは見つかったか
――いえ
――そうか。なら、同じヤニ好きの誼だ。これを贈ろう。少し待ってくれ……あった、これだ
――ライターですか。上品な雰囲気ですね
――いいデザインだろう? それにターボ式だ、実用性もある。買ったままなんとなく使ってなかったんだが、君に似合いそうだ
――そういうことなら、ありがたく頂戴します
――それは重畳。しかし、どうしてその銘柄を? 言ってはなんだが、初めて吸うにはなかなかキツいと思うのだが
――その、ある人の影響を
――ほう、加賀が何かに影響されるとは珍しいな。ハイライトなら椎名林檎か?
どうした、そんなにふくれて。折角の美人が台無しだ
――ふん