紫煙燻る鎮守府 作:鴎党
「ふぁ……」
大きくのびをする。特に身体の不調は感じられない。規則正しい生活リズムの賜物だろう。
まだ薄暗い中、駆逐艦娘『若葉』たる私は目を覚まし、身体を起こした。時計を見ると、起床ラッパまではまだ時間がある。予定通りだ。
隣のベッドを見ると、シーツも掛け布団も綺麗なまま。あるべき人影がない。はてなと首を傾げたが、すぐに同居人が昨夜に残していった言葉を思い出した。
――今日の、いえ、明日の
全く、私はいつも一人で起きているだろうに(初霜よりも早いことだってある!)。昨夜は聞き流した言葉だったが、今更ながら中々にむかっ腹立つ物言いだ。お前は私の母親かなにかか。
まあそんなことはどうでもいいのだ。わざわざ起床時間よりも早く起きているのには理由がある、こんなことに時間を浪費することはできない。サイドテーブルを漁り、レザーケースとライターを引っ掴んでベッドから飛び降りた。
清々しい朝だ。駆逐寮の二階にある自室のベランダに出て、海猫がしきりに鳴く声を聞きながら思う。
まだ日も顔を出さないの朝焼けの空の下、自分たち艦娘の出撃や、その生命線である運輸タンカーの受け入れなどの準備のために走り回る港湾労働者たち。日本から派遣されてきた労働者と現地で雇われたロシア人の労働者が共に働いているのはなんだか不思議な光景だ。日本語とロシア語の怒号や指示が飛び交ってるのもなんだかまるで異国にいるみたいで。
……
とまあ一兵卒と同義である一駆逐艦の身で考えたところで意味はないし、そもこの戦争に終わりが見えているわけでもない。それよりも今は身を突き刺す単冠の朝の冷気こそが問題だ。択捉島は気候区分では亜寒帯に属する。本土に比べると涼しい夏も終わり、秋に差し掛かってくる頃にもなると、朝は随分と冷え込む。
「冷えるな」
寒さに凍えながら、先ほど引っ掴んだレザーケースを開け、コウモリのイラスト付きのレトロな箱から煙草を一本引っ張り出す。
葉を片側に寄せるべくライターにトントンと軽く打ち付け……てから思い出した。もうしなくていいんだった。
ちょっと前に両切り仕様から普通にフィルター付きになって、値段も高くなったのだ。両切りじゃなくなったことに一抹の寂しさはないではないが、慣れもする。味自体は旧品を上手く昇華した味わい深いものとなっているし、まあ痛し痒しだ。
フィルター付きとなって葉が外からは見えなくなったそれを口にくわえ、吸い込みながらライターで火を付けた。
冷えた手指にはその熱すら心地よい。その煙は吹き出して(この煙は不味い)、もう一度、今度はゆっくりと煙を口に送る。
今回のはアタリだな。そう確信できる芳醇な甘味と香ばしい喫味が拡がる。なによりこの煙とニコチンの味が私を目覚めさせる。
前買ったのはなんだかとっちらかっていたが、今回はなかなか具合がいい。ロットによってバラツキがあるところ含めて私はこの銘柄を愛しているのだ。
毎朝の一服。これのために私は毎日規則正しくこの時間に起きている。
白煙を揺らしながら余韻に浸っていると、入り口の扉が三回(几帳面らしい)ノックされる。
「若葉だ」
言葉少なにそう答える。ああ、起きてたのね、と扉越しに聞きなれた声が聞こえた。
なんだ初霜か。向き直ろうとしていたが、それをやめてまた煙草を吹かす。
「おはようございます、若葉。……今朝もなのね」
「おはよう、初霜。今朝もだ。そして明日も明後日も」
煙の立ち上る後ろ姿を見て察したらしい初霜に、けろりとして応えた。
「あんまり吸うのは体によくないんですよ?」
「それは耳にタコができるほど聞いた。だが艦娘の体にはアレが入ってるだろう。それで健康は保たれるさ」
もっともらしく理屈を捏ねて初霜の追求をかわそうとしたわけだが、初霜の視線は已然として背中にビシバシと突き刺さる。
「アレってナノマシンのことを言ってますか?
それなら確かにそうだけど、それは身体に有害な要素を取り除くだけ。ニコチンの興奮と依存作用は取り除いてくれないのよ。人間に有害なのは同じなんですから」
呆れ顔で指摘しているのがわかる声色。麻薬作用を取り除いてくれないナノマシンは、軍隊という環境を考えればその理由は推して知るべしか。
こう正論をぶつけられては流石にさらりとかわすことも難しい。だが穏便に、そしてスマートにこの場を収める反論は一向に頭に浮かんでこない。ええい、ポンコツ頭脳め。今度もっと性能向上したのに入れ替えてやろうか。
「……。でも言ってるだろう? 私のエンジンをかけるにはこれなんだ。むしろこれをしない方が身体を悪くする」
「それこそ耳タコね。屁理屈捏ねてもダメです。若葉がニコチン中毒になるなんて、私は絶対に嫌ですよ」
逃げの一手は当然のごとくばっさりと一太刀で切って捨てられた。
ふぅー、と長く煙を吐き出す。このやり取り、もう数えるのも面倒なほどやっている。(つまり毎朝だ。まったく!)いい加減に諦めてほしい。
とはいえ向こうはこちらの行く先を憂いて言ってくれている以上突っぱねるのは気が引ける。どうすればいいのだ。
勢い込んで吸い込んだ煙は不味かった。雑に吸った白煙がもくもくと辺りに広がる。
「……何しに来たんだ。仕事はどうした」
結局できることは話を逸らして追撃をかわすことだけだった。口下手な己を呪う。
「その仕事までは少し時間があるから、貴女に朝の挨拶です」
そう言うと初霜はにっこりと微笑んだ。
殊勝なことだ。この生真面目なところが初霜のいいところでもあり悪いところでもある、というのが若葉の所見である。
しかし嫌いではなかった。
「それは嬉しいな。ならそれが済んだら仕事に戻るといいさ」
「もう、そんなにへそを曲げないで」
それには無言で紫煙を揺らすことで答えとした。
その様子を見た初霜もまた肩を竦め、もうすぐ総員起こしをかけますから、それまでには終わらせるのよ、と言い残すと去っていった。
総員起こしに遅れたことなど今までないだろうに。なんで突然こうも細々と口うるさく言うのか。秘書艦当番だからか? いや、今までの当番ではこんなことはなかった。単に気分の問題か。
「おはようじゃ、若葉」
「初春姉さん」
隣の窓が開く音がして、目を向けてみれば初春姉妹の長女たる初春がベランダに出てきたところだった。総員起こしがかかる前に起きて、さらにベランダに出てくるとは珍しい。
「今日は早起きだな」
「少しだけじゃがな。子日が早起きしてぴこぴこに熱中するものじゃから、音に起こされての」
ぴこぴこ……今時ゲームのことを"ぴこぴこ"と呼ぶ人がいるとは。艦娘の過去は詮索しないのが暗黙のルールだが、初春姉さん、貴女の中身は一体いくつだ。
「早起きしてまで熱中してるのか。珍しいな、どんなものだ?」
「わらわに聞かれてものう……たしか、名前のない人造アンドロイドが戦う物語とか言っておったが」
そういえば初霜はたまに子日と共にゲームで遊んでいたな。モンスターをハントするゲームだとか、炎の紋章のゲームだとか。人間以外が主人公のゲームだと、横でにこにこしていることも多いか。となると、アンドロイドが主人公のそのゲームは、初霜の好みに入るのか否か。
「まあそれは今話さずともよい。少なくとも朝の晴れやかな空気には似合わぬ話題じゃ。
似合わぬと言えば若葉、朝から浮かない顔をしておったが、なにかあったのかや」
それはこんな話題が出たから――いや、初春が言いたいのはその前の話だろう。
「……初霜にな、いつも以上にコレについてお説教をされた」
コレ、というところで手に持つ煙草を揺らす。それを見た初春も大体の事情を理解したらしく。口元に手をやって控えめに笑った。
「あれも煙草が嫌いなわけではなかろうに、なぜ若葉ばかりにかように厳しいのじゃろうな」
「私が知るものか」
いっそ禁煙パイポでもやって(ダメだ)、禁煙に舵をきってみようか(冗談ではない)。私の趣味に小言を入れるのが日課のようだし、そうすると彼女の生活習慣には如何ばかりの影響が出るだろうか。
初霜にぎゃふんと言わせるべく、する気もない禁煙計画を練り始めた私を見てか見ずにか、初春が今度はころころと、無邪気に笑う。ええい、何が面白い。
「難しい顔してるがのう、とりあえず手元のそれ、どうにかしたほうがよいのではないかや」
言われると手元が熱くなってきた。見れば随分と煙草が短い。考え事に集中しすぎてしまったらしい。初春も子日に呼ばれたか部屋に引っ込んだし、今朝の一服は終了。気づけば下を動き回る人の数も増えてきて、慌ただしくなってきた。
部屋に戻ると、加湿用の茶筒にケースを叩き込み、吸い殻を灰皿に捨てる。
シケモクはどうしようか。安くて美味いのがいいところだったのに最早特別税率はなくなったし、駆逐艦の給料では今までのペースで吸い続けることが難しくなってきた。自分で巻くか。
ぶつぶつとぼやきながら、乱れてしまった掛け布団やシーツを整え始める。
そんな私の喫煙量は一週間に五箱、半カートンである。本数にすると百本。これすら維持できない煙草の値上げと駆逐艦の安月給に、嘆くことしかできないこの身の貧しさよ。
ああ、武蔵が羨ましい。一週間に一カートン吸っておきながら、それでなお、姉と共に時たま食べ歩きをする余裕すらあるとは。しかも愛飲するはジタン(おフランス製だ!)ときた。給料格差がありすぎではないだろうか?
確かに海戦の花形、対深海棲艦の主力艦たる戦艦と一山いくらの駆逐艦の俸給を比べる方がナンセンスなのはわかる。しかし、海上護衛に警戒任務(特設警備艇などありえない以上駆逐艦の仕事だ)に、定期的な対潜哨戒に。駆逐艦とて身を粉にして奉公しているのだが、このあたりをもう少し具体的に反映してもらえたりはしないのだろうか。
「総員起こし十五分前ー!」
ついに初霜の声で放送が入る。朝の静寂につつまれた艦娘寮に音声が木霊する。
大体これが聞こえると、どんな寝坊助でも目を覚まして慌ただしくベッドメイクを始める。(例外もいるが)なんせ五分前になるとあきつ丸率いる巡察隊がその責務を果たしに来るのだ。
このときのんきに寝ていたものは朝から軍人勅諭を暗唱する羽目になる。さらにそれをトチるとあきつ丸からありがたい軍人精神についてのお説教をお聞きすることができる。
陸の方は知らないが海軍に全文暗誦できるものはそういない。精々が五箇条くらいだ。つまるところほぼ確実にお説教を聞かせていただくことになる。
中には全文暗記して一分でも長く惰眠を貪ろうとするものもいるようだが、それは稀有な例だし、私には理解できない。
その稀有な例に当てはまらぬ、つまりは大抵の艦娘が起き始めたらしい。にわかに駆逐艦寮、いや艦娘寮のあるここら一帯が騒がしくなってきた。
しかし、この身体になってからは、睡眠というものは必要のない行為のはずだが、人間だった頃の行動規範に従って夜は寝るし、眠くなるというのはなぜだろう。染み着いた記憶のせいなのだろうか。
思考の海に身を沈めようとしたその時、壁を挟んでドアの開く、それも丁重にではない音が聞こえてくる。姉たちの部屋とは反対側の部屋からだ。
「巡察隊であります! ……ふむ、響どの、おはようございます! ところで暁どのはお目覚めで?」
「……起きてはいるんじゃないかな」
「ほう、それはそれは狸寝入りがお上手ですな! ベッドメイク以前の問題であります、丙評価!
続いて響どのの寝具の具合は……ふむ、これは素晴らしい。まるで今跳ね起きたばかりといわんばかりに整っていますな!」
しばらくのすったもんだの末、結局哀れな特型姉妹の軍人勅諭の暗唱が聞こえてくる。かわいそうに今朝の犠牲者は彼女ら二人だ。
他の寝坊助たちはこの時間を使っていそいそと寝具を整えていることだろう。
私とて暗唱はゴメンなので、もう一度寝具チェックをする。
「おはようございます、若葉どの!巡察隊であります!」
さあ、今日も今日とて鎮守府業務の始まりだ。