エンジェル・ハート 作:伊集院隼人
──深夜2時過ぎ。
新宿のとある高層ビルの屋上に、アタッシュケースを提げた影があった。
"
──プロの殺し屋である。
屋上の柵の中で慣れた手つきでアタッシュケースを開け、黒光りする鉄の部品を組み上げていく。
組み上がったのは、軍用のライフル、SR-25。白狼がカスタムした軍用の狙撃銃だ。その銃身を抱えて射撃の姿勢を取ると、途端に頭の中がクリアになる。
これが白狼のスイッチの切り替えだった。
一度スイッチが入ってしまえば後は目標を捉え、狙撃するのみ。
銃身には照星も照門も無い。照準の頼りは暗視スコープのみ。使用する弾は7.62x51mm NATO弾。現在最もポピュラーで、最も足がつきにくい弾だ。
銃身を脇に抱え、今一度スコープを覗いて狙撃ポイントを見据える。
着弾ポイントまでは凡そ200メートル。有効射程距離600メートルを超えるSR-25ならば1秒立たずに目標に弾を届けられる距離だ。
「……簡単な仕事だな」
彼は元軍人。現役時代に500メートル以上の狙撃を数々遂行してきた彼にとって、今回の狙撃は容易な仕事だ。
「とはいえ、未来ある若者を葬るのは気が引ける、な」
口に出して気づく。
標的である若者に未来など無い。今夜あの場所で、彼の銃弾によって幕を閉じるのだ。
事前の情報によれば、彼──エルレア王国第2王子を護衛するのは自衛隊という軍ではなく、日本の警察らしい。
まあ、極秘の入国だから大規模な軍は動かせないのだろうな、と思考を巡らせたところで連絡が入る。
『
標的を乗せた車が首都高速を下りて一般道へ出た合図だ。
ここからは集中力の勝負だ。銃身の先に取り付けた二本の脚を固定し、神経を研ぎ澄ましてスコープ越しに狙撃ポイントだけを見据える。
日本という国は良い国だ。
他国なら危険を伴う仕事も、こうして狙撃だけに集中出来るのだから。
あとは、
そして彼は、引き金を引くだけの機械と化した。
最終ポイントを車が通過したとの連絡が入る。つまり今から1分以内に標的は、死ぬ。
車のヘッドライトが見えてきた。暗視スコープの下方が赤く染まる。その赤の奥に、標的の身体が見えた。
あと少し、もう少し。
まだ顔は見えない。
首が見えた。もう少しだ。
やはり確実に仕留めるならば頭部。脳を貫通させるに限る。
──捉えた。
瞬間、目の前が白くなった。同時に銃身が横に弾かれて危うく銃を落としそうになる。
──なんだ!?
バードストライクか!?
いや、今の衝撃は──
だが、気にしている場合ではない。狙撃の猶予は1秒程しかない。
すぐに狙撃ポイントに照準を合わせるも、既に標的の車は通過した後だった。
──任務、失敗。
脳内が現実に引き戻され、仕事を邪魔された悔しさと苛立ちが押し寄せる。
「くそっ、誰だ」
悪態をつきながら銃身、バレルの部分を引き寄せて見ると、鉛がこびり付いていた。
それは、銃弾の痕。
つまり──狙撃だ。
身を屈めて辺りを見回す。だが、この場所を狙える位置は、800メートル以上離れたビルの屋上くらいしか無い。
となると、その狙撃手は、その距離から銃身を狙ったことになる。
白狼が成功させた最大の狙撃距離は700メートル。それも辛うじて標的の肩に当てただけ。
状況を理解してしまった。途端に恐怖が心を侵す。
狙われる。撃たれる。自分よりも格上の、超遠距離射撃に長けた狙撃手に。
出来ることは、身を屈めつつ不規則に歩いて的を絞らせないだけだ。800メートルの距離ともなれば、引き金を引いてから着弾までに1秒はかかる。その1秒の間に、弾道から外れればいい。
銃なんて放ったらかしでいい。まずは命だ。
と。
腰の辺りに軽い衝撃が走った。と同時に銃声が聞こえた。
やばい。撃ってきやがった。
素早く横に跳ぶ……あれ。
ズボンがずり落ちて足の動きを阻害し、そのままコンクリート張りの屋上に顔から倒れ込む。
その時、顎の下のコンクリートが弾け、銃声が響く。
助かった、外れてくれた。
……いや、外してくれたのか。
まさか。
彼の他に誰もいない筈の屋上に、携帯電話の着信音が鳴り響く。
誰かいるのか、いや……「いた」のか!?
懐からチーフスペシャルを引き抜いて腰だめに構え、音の方へと歩み寄る。
『よう、久しぶりだな、ポチ』
携帯電話のスピーカーから音声が発せられた。
「誰だ」
この問い掛けに答えが返ってくるとは思っていない。此処まで狙撃手の行動を読み、手の込んだ仕掛けをしてくるのだ。相手も間違いなくプロだ。
『おいおい、お前忘れたのかよ。あんなに濃密な夜を過ごしたってのに、つれない奴だなぁ』
「……は?」
濃密な夜、だと?
『じゃあヒントをやろう。ハチミツ、男もっこり、記念写真──』
「え? あ……ああっ!? き、貴様、冴羽か!?」
『ピンポーン、正解〜。思い出してくれたか』
「……忘れる訳ないだろう、あの屈辱を」
十年以上も前になる。
組織から依頼された暗殺を冴羽に阻止され、捕縛された白狼は全身にハチミツを塗りたくられて、三日三晩、屈強なオカマさんたちに弄ばれたのだ。
思い出した白狼の皮膚が、その時に植え付けられたトラウマでぶつぶつと粟立つ。
『なら、俺が伝えたことも覚えてる、よな?』
──二度と俺のテリトリーに入るな。入ったら──
「……あ」
記憶が鮮明に蘇る。
「ま、まて……すぐに日本を発つ。だから……」
『ダメダメ〜、約束は約束だかんね?』
「待ってくれ……きょ、去勢だけは許してく──ぎゃうんっ」
白狼が言い終わらない内に弾丸が飛来する。その着弾地点は……ズボンがずり落ちて剥き出しとなった、股間。
「うぐ……っああああぁ」
白狼はたらたらと血を垂らす股間を押さえて蹲る。
『ま、今回はこれで許してやるか』
「き、貴様……」
『なんだよ、片玉じゃあ足りないのか。ならもう片玉も──』
「わ、分かった、分かったから……それだけは勘弁してくれ……」
──冗談じゃない。
新宿が冴羽のテリトリーなんて知らなかった。知っていたら今回の依頼は受けなかった。
片玉は潰されてしまったが、命を取られるよりはマシだ。
とっとと逃げよう──
ホテルの一室、股間を包帯でぐるぐる巻きにした白狼は急いで荷物を纏める。
と、部屋のドアが四回ノックされた。
「お届け物でぇ〜す」
ドアの向こうに立っていたのは、深紅のパーティードレスに身を包み、サプレッサーを装着したイングラムM10を構えた……屈強な大男だった。