お酒にまつわる、エトセトラ   作:駄犬@

12 / 21
今回は少しだけ難産でした。
アッサムとローズヒップの話です。
どうぞ、お付き合いください。
ちなみに、前編です。
ピクシブにも掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8752792


シャンパンを、雪に抱いて

 私は、ようやく大地に脚が付いたことに安堵した。何度乗っても飛行機には慣れない。

 太平洋に落ちるようなことはない。と、頭では分かっているつもりだ。

 だけど、心のどこかで『あんなモノが空を飛ぶなんて!』と疑っているのだろう。

 私は、その飛行機を見上げた。

 停止したばかりだというのに、白い身体には薄っすらと雪が積もり始めている。この大きな金属の渡り鳥は、翼を畳むことも出来ないのだ。

 降り立ったのは――北欧、フィンランド。首都であるヘルシンキから約270キロほど北に位置する、ユバスキュラという森と湖の街だ。

 滑走路では除雪車が忙しそうに右往左往していた。なんでも、今年は例年にない降雪量らしい。今着ている厚手のダッフル・コートが、大いに活躍してくれることだろう。

 私は、携帯の機内モードを解除して振り返る。背後でそわそわと落ち着きのない同行者を咎めるため。言葉はため息混じりだ。

「きょろきょろするのはお止めなさいローズヒップ。この間も〝偶然テレビを見ていたらしい格言好き〟から、電話で笑われたばかりでしょう?」

 しかし、私の言葉は彼女には響かなかったらしい。

「……でも!雪ですのよ!雪!」

「雪ぐらい降るわよ。ここは北欧で、今は冬ですもの」

 はしゃぐローズヒップ。そのせいで、立ち往生を余儀なくされている私を、外国人が次々と追い抜いていく。

 こう言っては何だが、恐らく〝カタギ〟ではない。雰囲気からして関係者だ。業界人か、またはマスコミか、それともスタッフか――までは分からないけれど。

 幸いなことに、その中に選手やコーチはいなかった。

 ここまで1年間、12戦も競い合ってきたのだ。お互いに顔を知っている者もいる。こんな滑走路のど真ん中だ。そんなところで行う視線の応酬は、神経を無駄にすり減らすだけだ。私はローズヒップをもう一度呼ぼうとした。その時だった。

「あっ……」

「おっと……」

 タラップを降りて来ていた最後の一人。初老の男性。彼と、ローズヒップがぶつかった。

 体勢を崩したローズヒップは滑走路に尻もちを突く。

「ローズヒップ!!」

 私は慌ててローズヒップに駆け寄る。自然と抱きかかえるような格好になった。

「ケガはない?」

「大丈夫ですの……それより、ごめんなさいですの。おじいさん」

 地べたに座ったまま、ぺこりと頭を下げるローズヒップ。先ほどまでの元気はどこへやら、途端に水を被った捨て犬のようになってしまっている。

 しかし、そんな彼女とは対照的に男性はゆっくりと笑って言った。

「いや、私の方こそ悪かった。ちょっと考え事をしていたんだ」

 60代も半ばだろうか。その男性からは紳士的な雰囲気が漂っていた。長身で、髪はごま塩混じり。だけど、きっちりと整えられている。

 私は、立ち上がった。彼に向かって深々と頭を下げる。

「本当にごめんなさい」

「いいんだよ。二人は見たところ日本人のようだが、旅行者かな?」

 男性は、終始穏やかな笑みを浮かべてそう言った。私は答える。

「そんなところです」

「そうかね」

『じゃあ、良い旅を』そう言って、彼は歩き出す。その背中に、私はもう一度頭を下げた。もちろん、ローズヒップも一緒に、だ。

 彼は、片手を軽く上げて去って行った。

 その背中が見えなくなった辺りで、私は言う。

「さ、行きましょう。ローズヒップ。あんまりゆっくりもしてられないわ」

 私は右腕の時計を見た。ホテルのチェックインの時間が迫っている。

 

 

「部屋が空いてない?」

 静かなホテルのフロントに、私の声だけが響いた。

 カウンター越しのコンシェルジュが、眉間に皺を寄せて小さく頷く。

「いや……だって、予約を……」

 ローズヒップの不安げな視線を背中に感じながら、慌てて携帯を取り出す。掛ける相手は、私たちのチームのゼネラル・マネージャーだ。数回のコールの後、応答があった。

『はい』

「はい、じゃないですよ。マネージャー。ホテルの部屋が取れていないんですが……」

『そんなワケないだろ?アッサム。君たちの分の部屋はちゃんと取った筈だぜ。ホテルを間違えたんじゃないか?時差ボケには慣れてるはずだろう?』

「慣れてるからこそ、そんな間違いはありませんよ」

『んー……だよなぁ。ちょっと待ってくれ。確認してみるよ』

「お願いします」

そう言って電話を切る。

「アッサムさま……?」

「大丈夫よ、ローズヒップ。貴女は何も心配しなくていいの」

 そう言って、頭を撫でてやる。そうしても、ローズヒップの表情は曇ったまま。

 このイベントの時期、周辺の宿泊施設は観光客や、それこそ関係者で一杯だ。だから、チーム丸ごと同じホテルに、という訳にも行かない。個別でホテルを取ることも珍しくはなかった。

 だが、それが原因で選手の宿泊先が確保出来ないということが他のチームで起こったことがある――とは、聞いたことがある。

 嫌な予感が脳裏を駆け巡る。まさか……。

 しばらくすると携帯が鳴った。画面に表示されているのはマネージャーの名前だ。

 私は、ローズヒップから少し距離を取って通話のボタンを押す。

「もしもし」

『まず謝らないといけない』

「まさか……?」

『ああ、そのまさか。だよ。本当に申し訳ない。ホテルの手配に、明確にミスがあった』

 怒りの言葉が出て来そうになるのを、私はぐっと呑み込んだ。

「分かりました。こちらで何とかします」

 努めて冷静にそう言って、携帯を鞄に放り込む。背中を嫌なモノが伝った。

 何とかする。そう言ったはいいものの、どうすれば良いのだろうか。ここはフィンランドであって、日本ではない。簡単に泊まることが出来るような宿泊施設など、そうそう見つからないだろう。

 しかも、私達は――ただの観光ではないのだから。

 

 私たち二人が、雪の降る極寒のフィンランドに来たのには理由がある。それは、3日後にユヴァスキュラで行われるワールド・タンク・ラリー・チャンピオンシップ、通称〝WTRC〟に参加するため。

 1年を掛けて世界の各地を転戦するWTRCは、戦車を使ったレースのワールド・カップとも言えるレースだ。

 あらゆる気候条件、あらゆる路面状況について対処しなければならないため、選手とチームの本当の地力が試される。名実ともに世界の頂点を決めるレース――合法的な公道最速を掛けて、私たちはここにいる。ローズヒップはドライバー。私は、彼女の付き人として。

 今日は火曜日だ。

 明日はコースの下見をして、木曜にはシェイク・ダウン。金曜日からは本番だと言うのに、ドライバーであるローズヒップすら泊まる所がないのはハッキリ言って緊急事態だ。

 私は、ゼネラル・マネージャーに任せっきりだったことを後悔した。これでは、付き人として失格ではないか。

 既に12戦は終えている。このフィンランドで行われるのは最終戦。ここまででローズヒップが獲得しているドライヴァーズ・ポイントは十分に表彰台を狙える位置だ。そんな選手をベスト・コンディションでレースに送り出せない可能性がある。それだけで、私がここにいる価値はない。これまでに感じたことのないような不安が襲う。

 そんな時、声がした。

「アッサムさま」

 ローズヒップだった。私の顔を覗き込んでいる。私は、我に返った。

「ああ。ローズヒップ。ごめんなさい、貴女の宿が本当に取れていなかったらしくて……これじゃあ、付き人失格ね」

 どんな叱責も受ける覚悟だった。私は、それだけのことをしたのだから。

 しかし、叱責は飛んでこなかった。代わりに聞こえて来たのは溌剌とした声だった。

「大丈夫ですわよ!アッサムさま。これしきのこと、私にとっては路傍の石、ですわよ!」

「ローズヒップ……」

 そう言って、ローズヒップは自分の胸を叩く。

 使い方を間違った日本語。それに、叩いた力が思いのほか強かったのだろう。彼女は咳き込んだ。その姿に、私は唇を強く結んだ。拳を握る。

 確かに、彼女の言う通りだ。もう起きてしまったこと。大事なのは〝これからどうするか〟だ。私は何かを振り払うように首を振った。

「泊まるところがないなら野宿でも、ですわ!!」

 そう言って、勢いよくローズヒップはフロントを飛び出して行く。

 呼び止めようとした時には、遅かった。

 

 

「それは災難だったね。ゆっくりしていっておくれ」

「ありがとうですわ!!」

「ローズヒップ?」

「お世話になります……ですわ……」

「そう畏まりなさんな。ここにあるものは自由に使ってくれて構わないよ」

 そう言って笑うのは、空港でローズヒップがぶつかったあの紳士だった。

 

 ――1時間前、フロントを飛び出したローズヒップ。

 彼女は、また誰かにぶつかったのだ。地面に尻もちをつく彼女の姿に、私は強烈なデジャブを覚えた。そして、その既視感の正体がもう一つ。

 ローズヒップがぶつかった相手は、空港の滑走路でローズヒップがぶつかった紳士だったのだ。

 なんという運命のいたずらだろう。私はそう思ったものだったが、それは相手も同じだったらしい。ホテルが取れていなかったと話すと、個人で経営しているロッジに泊めてくれるという。藁にも縋る思いで、私はその申し出に甘えることにしたのだ。そして、私たちは彼の車に乗り込んだ。

 彼はビルと言った。運転しているのは深緑の古いパジェロ。1インチほど車体がリフト・アップされた、雪国らしい仕様だ。

 パジェロに揺られて30分ほどで彼のロッジに到着した。彼のロッジは、大きな木材をこれでもかと使ったログ・ハウスだった。この時、私は初めて本物の丸太を使ったログ・ハウスに脚を踏み入れた。

「素敵な建物」

 第一声が、それ。

 隣のローズヒップもそうだったらしく、相変わらず動きが忙しない。何か見上げたり、覗いたり――

「ログハウスに入るの、初めてですの!」

「気に入ってもらえたかな?」

「はいですの!」

 この辺りの針葉樹をハンド・カットして使っているのだろうログ・ハウス。

 だからだろうか。この木造の建物からは、コンクリート造りのそれよりも随分と温かみを感じることが出来る。

 リビング中央の壁際には、立派な鋳物の暖炉が備え付けられている。その中では、薪に炎がまとわり付いてゆらゆらとダンスを踊っていた。

 サービスは一流でも、無機質なホテルの部屋に泊まるよりはゆったりと身体を休めることが出来るだろう。

 驚くべきことに、立地も良かった。レースの本部まで、車で30分しか掛からない。しかも、歩いて数分もすればコースにだって出ることが出来る。

 私は、ほっと胸を撫で下ろす。これで、明日以降もなんとかなりそうだ。

 ビルが、パイプをふかしながら言った。

「何か飲むかね?」

「はい。お言葉に甘えて……甘えっぱなしで心苦しいですが」

「いいんだ。二人はお客さんだよ。それに、そっちのお嬢さんとは一日に二回もぶつかったんだ。日本のドラマなら、恋が始まってもおかしくないだろう?私は、今日運命というものを再確認したよ。二人は、もう友人さ。気にすることはない」

 そう言って、彼は笑う。そして、キッチンへ向かう。

 ビルはグラスを取り出した。そのグラスに注がれる琥珀色の液体はバーボンだ。それに、ソーダ。出来たのは、簡単なバーボンのソーダ割りだ。比率は6と4。それを彼は 私と、自分に。

「ええと。彼女には、そうだな……」

 次に酒棚から取り出されたのは透明な瓶――ウォッカだ。冷蔵庫から出て来た黄色いボールはグレープフルーツ。

 大胆に半身にされて絞られるグレープフルーツの香りが、部屋に充満する。ビルが作ったのはソルティ・ドッグだった。しかも、ウォッカの比率の高い、少しだけドライな作り方。

「はい。これは君に。ソルティ・ドッグだよ」

「ソルティ・ドッグ?なんで私はこれですの?」

 ローズヒップは、ぽかんとしている。

 すると、ビルはいたずらっ子のような笑顔を見せた。

「だって、君は落ち着きのない子犬のようじゃないか。バウ!バウ!バウ!ってね」

 私は思わず噴き出していた。彼の犬のモノマネはそっくりだった。

 

 暖炉の火でグリッリ・マッカラが炙られている。

 机の上には、トナカイのシチュー。二つとも、日本ではなかなか食べられない食事だ。シチューを、木製のスプーンですくいながらビルが口を開く。

「そういえば、君たちがフィンランドに来た理由を聞いてもいいかな?」

 私はスプーンを置いた。

 隣のローズヒップは、フォークに刺したマッカラにふうふうと息を吹きかけている。

「ラリー・フィンランド」

 短くそれだけを言った。すると、今度はビルがスプーンを置く。

「ラリー・フィンランド……」

 私の言葉を繰り返して、ビルは手元のバーボン・ソーダを一気に飲み干した。

「見物客?」

「違います」

「メディア?」

「それも、違います」

「じゃあ……ドライバー?」

 私はゆっくりと頷いた。

「ただし、ドライバーはこの子ですけども。私は、付き人です」

「そうか……」

 マッカラの皮が弾けた音がした。ぱちりと、小さい音。

 ビルが窓の外に視線を移す。私も釣られて窓の外を見た。外では、深々と雪が降り続いている。ガラスに映るビルの顔には、何とも言えない表情が浮かんでいる。

「頑張れよ」

 スプーンを置いた彼の指が、宙に円を何度も描いていた。

 

 

 翌日。

 私は、セットしたアラームよりも早く目が醒めた。隣のベッドで寝ているローズヒップは、まだ夢の中だ。起こさないように、ゆっくりと一階に降りる。客室は二階にあるのだ。すると、既に暖炉には火が入っていた。かすかに油が弾ける音。キッチンからビルが顔を出す。

「おはよう。朝食の匂いに釣られたかな?」

 ビルは赤いチェックのエプロンを付けていた。それが、長身の彼にはなんとも言えず滑稽で、私は笑う。

「そうかも知れません」

「ちょっと待ってくれるかな?もうちょっとで目玉焼き用の卵が三つ生まれそうなんだ」

「もしこのロッジで出る目玉焼きが、全部〝ビル産〟のモノなら遠慮願いたいわ」

 くすくすと笑いながら椅子を引いた。目の前にコーヒーが差し出される。

「冗談さ。〝フロム・ショッピングストア〟これでも飲んでてくれ。モーニングは、その後にしよう」

 ビルは再びキッチンに戻った。

 淹れたてのコーヒーを嗅ぎながら、窓の外を見る。外は曇りだが、雪は降っていないようだ。暫くすると、ローズヒップが階段を降りて来た。両眼を手の甲でしきりに擦っている。

「おはようございますですわ」

「おはようローズヒップ。よく眠れた?」

「はいですわ。もう起きたくない位ぐっすりと……」

「バカおっしゃい」

 流石のローズヒップも、朝と夜だけは弱い。このやりとりも慣れたものだった。

 

 ビルが作った朝食を食べた後、私たちは彼のパジェロで大会本部へ向かった。

 到着してみると、すでに多くの関係者がいる。

 私たちはビルにお礼を言うと、関係者の群れに飛び込んで行った。チームのメンバーを探すためだ。

 お祭り会場のようになっている大会本部。その周辺をしばらく歩いていると、ようやくマネージャーの姿を見つけることが出来た。既に、他のドライバーはコースの下見に出ているらしい。彼は、無線で忙しそうなやりとりを続けている。

 私は声を掛けた。

「ごきげんよう、マネージャー」

 マネージャーは私の声に気が付くと、無線を切った。

「ああ、アッサム。それにローズヒップ。ホテルの件だが、本当にすまない。なんとかなったようで、こちらも安心していたよ」

「ええ、お陰様で。シャンパン・ファイトの準備だけは入念にしておいて貰おうかしらね」

「キツイなぁ。でも、ここからのケアはバッチリやらせて貰うよ」

 そして握手。私はローズヒップの方を見た。

「ローズヒップ?準備は良くて?」

「もちろんでしてよ。アッサムさま」

 ローズヒップは力強く頷いた。

 

 WTRC最終戦、ラリー・フィンランド。このレースは、毎年一番過酷だと言われている。極寒の北欧で、林道を走るグラベル・コース。道幅は広く、路面もスムースなので走りやすいコースではある。

 だが、それだけに、超が付くほどの高速レースになりやすい。また、自然が作りだしたジャンピング・スポットがいくつもあるので、足回りが早々にやられてしまう車両も多いのだ。

 上手くそれを切り抜けたとしても、着地点に待ち構えるのは見通しの悪いコーナー。進入する角度、姿勢のコントロールを間違えば、一瞬でクラッシュしてしまう。まさに最終戦を飾るに相応しいコースだろう。

 私は、前を行くクルセイダー巡航戦車を追いかけるように走っている。そのクルセイダーは外装こそチーム・カラーのそれだが、中身はノーマル。テスト走行で競技用車両は使わないのだ。

 私は、チームメイトが運転する車の助手席で無線機を握った。

「こちらアッサム。ローズヒップ?調子はどうかしら。どうぞ」

 カリカリと雑音が入った後、応答があった。

「アッサ!……ごほん。こちらローズヒップですわ。早く本番でカッとばしたいですわ。どうぞ」

 無線を受けた車内に、ローズヒップの声がスピーカーで響く。彼女はいつもの調子のようだ。本番は明後日だが、特段気負いのようなものは見られない。これも、ビルのお陰だろうか。私は、ここにいないビルに小さく頭を下げた。

 ローズヒップがこの世界に飛び込んで2年。その間、彼女は国内のタンク・レース・シーンを総ナメにした。

 〝スーパー・ノヴァ〟と周囲は騒ぎ立てたが、私はそうは思わなかった。学生時代から、彼女の操車技術を知っていたからだ。それは、もはや動物的な勘、天賦の才と言ってもいいかも知れない。付け加えるなら、素直さ――それが彼女の絶対的な武器。新しいこと、知らないものを愚直に吸収しようとするローズヒップは、まさに乾いたスポンジだった。見たなら、見ただけ。教えられたら、教えられただけ彼女は成長する。

 正直、底が知れなくて私自身彼女を恐ろしく思う時がある。だからこそ、名乗りを上げたWTRCへの挑戦。まだ、経験が豊富とはお世辞にも言えない。

 だが、それ故の期待感。そして、あのコンディション。

 私は、助手席で確かな手ごたえを感じていた。

 

 

 ロッジに戻ると、煙突からは煙が上がっていた。すっかり覚えてしまったマッカラの香りが周囲に漂っている。

 隣で、ローズヒップが鼻をひく付かせた。

「アッサムさま!また、きっとあの美味しいやつですわ!」

「そうね。さ、早く入りましょう」

 そう言ってドアを開くと、やはりマッカラが暖炉で炙られていた。

「ほら!ですわ!」

「指をさすのは止めなさいローズヒップ」

「お帰り。寒かったろう。マッカラはもう食べごろだ。すぐ飲み物をいれよう」

 にこやかに言ってソファを立つビル。

 暫くすると、豪勢な食事が机に並んだ。お礼を言って食べ始める。すると、不意にビルが口を開いた。

「今日、コースには出たのかい?」

 私は食べる手を止める。

「ええ。今日はレッキでしたから。入念に」

「手ごたえは?」

 ビルの質問。それには、ローズヒップが答えた。

「ばっちりですわ!」

 その言葉に、私も頷く。全くの同意見だった。

「そうか……」

 そう言ったっきり、無言になるビル。

 私は聞いた。

「何か、気になることでも?」

 私の質問に、彼は一瞬しまったという顔をした。数秒して、再び口を開く。

「夕食の後、少し時間をくれるかな」

 

 

 夕食後、ビルはバーボン・ソーダを飲みながら私にコースの地図はあるか、と尋ねた。

 私は頷いて机に地図を広げる。

 ビルは地図を指さして言った。

「このヤンプス、着地後何キロでコーナーに突っ込んだらロールするか分かるかい?」

 唐突な質問だった。

 当然答えは出ない。ビルは続けた。

「それと、ここ。何メートル飛ぶと、サスがお釈迦になるかな?君もペース・ノートは作っているはずだ。でも、そこまで詳細な情報が書いてあるだろうか?」

ビルは淡々と言った。彼は、私の目をじっと見ている。

 思わず息を呑んだ。

 薪が弾ける。その音がやけに大きく聞こえた。

 私は遂に答えられなかった。

 やがて、ビルが首を横に振る。

「ああ、すまない。こんなつもりじゃなかったんだ。楽しかった夕食が台無しだ」

 彼は苦笑している。

 私は言った。

「ビル。質問しても?」

 顔を上げるビル。彼は頷いて私を見た。

「貴方は、WRTCの関係者?」

 ビルは、目を細めて答える。

「違うよ」

 その眼には、〝ある色〟が浮かんでいる。それは過去を懐かしむ懐古の色だった。

「じゃあ何故、私たちを泊めてくれたの?」

 私の質問に、ビルは指で宙に円を描いた。どうやら、それは彼が何かを考える時のクセらしいことに私は気が付いた。

 やがて、指が止まる。

「少し、昔の話をしようと思う。構わないかな?」

 私は頷く。隣のローズヒップも、小さく頷いていた。

「ありがとう」

 ビルは満足そうに微笑むと、ゆっくりと語り出した。

「まず、私は……WRTCはハイ・スクールの時に見て熱を上げた、ただのファンさ」

「……」

「もう、病気だった。あの日、テレビで見た興奮を直に見られるなら、どんなに幸せだろうと考えるようになった」

「……」

「そして、ハイ・スクールの時にラリー・フィンランドを見たのが最初。テレビの画面でしかみたことがなかった風景は、真面目な学生だった私に、アルコールの味を覚えさせるくらい素晴らしかった……」

 そこで、ビルはグラスに口を付けた。とても美味しそうに、二口。喉を鳴らして飲んだ。グラスを置く。

「でも、それ以上に素晴らしかったのは……ある女性との出会いだった。彼女は私の2つ上のフィンランドのドライバーだった。見かけたのは、シェイク・ダウンの日。真っ赤なレース・ウェアが良く似合う人だった」

「その人と、恋に落ちた?」

 と、私。

 ビルは、微笑しながら頷いた。

「まぁ……結果的にはそうなった。私の一目ぼれだったけれどね。運が良かったのは、向こうも私に好意を持ってくれたことだ。直接レースを見に来るようになって2年目に、そういう関係になった」

 と言って、ビルは再びグラスを持ち上げた。

 今度は飲むでもなく、氷をグラスの中で回すだけ。

「彼女も世界を飛び回る選手で忙しい身だった。フィンランドにいるのは本当に僅かな期間だけだったよ。それでも、短い暇を見つけては二人で色んな所に出かけたりもしたよ。父親から譲ってもらった、あのパジェロに乗って……」

 ビルの目は、ここではない――どこか遠くの日を見ていた。私も、出されていたバーボン・ソーダに口を付ける。

「……その恋の結末は?」

 と聞いた。ビルは、遠くを見ながら答える。

「別れたよ……。私が、遂にプロポーズを決心したその年。3年目のラリー・フィンランドまではもたなかった」

「なぜ?」

「彼女が、フィンランドを離れてしまったからさ。チームを移籍することになったんだ。そして、私は彼女を追いかけて行くことができなかった。そして、プロポーズの言葉と、指輪の代わりに渡そうと思っていたシャンパンはお蔵入りになった」

「その理由は?」

「単純さ。それなりの年齢だった親を置いていくことが出来なかったんだ。そして、その年、彼女がフィンランドに来ることはなかった。調子を落としてしまった、と聞いたよ」

「なるほど……じゃあ、ロッジをやってるのは?」

「それも単純さ。ここがラリー・フィンランドを見るには適した場所だろう?だから、土地を紹介された時、すぐに決めたよ。そして、ログ・ハウスを建てた。ロッジにしたのは、〝元〟恋人がいつ泊まりに来てもいいように……かな。その後すぐに仕事の都合で国を離れてしまったけどね。毎年、このレースだけは見に来ているよ。かつて、ただのファンだった少年は、ラリー・フィンランドに関しては〝オタク〟のようになってしまった……」

 とビル。

 暖炉の中の炎はいつの間にか姿を潜めていた。今は、薪の中でくすぶっている。ビルの昔の恋のように……。

「まあ、そんなところかな。下らない昔話に付き合ってくれてありがとう」

 ビルはバツが悪そうに頬を掻いた。

「そんなことないわ。悲しいけれど、ロマンチックな話だった」

 ビルは、目を閉じた。

 ローズヒップは、無言でぶんぶんと首を縦に振っている。こういう時、なんと言えばいいか分からないのだろう。

「さぁさぁ」

 二人で押し黙っていると、ビルが手を叩いた。

「明日も早いんだ。シャワーを浴びて、ゆっくり寝なくちゃいけないよ」

 その表情は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。

 

to be ‎continued

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