『――これから、どうなるのだろうか』
そうキーボードを叩いた所で、私は背もたれに思い切り身体を預けた。
初めて座った時から頼りなかった背もたれは、ぐぎ、と悲鳴をあげる。
いよいよダメか、とは思ったが無視を決め込んだ。
腕を投げ出して、上を見上げる。
だからどうした、というワケでもないのだが、これが私なりの開放感の表し方だ。1日が、ようやく終わった開放感……。
見上げた天井は暗い。
パソコン画面の右下を見ると、とっくに終電などない時間だ。オフィスに他の同僚の声がしないのもうなづけた。今頃、同僚や上司たちはベッドで夢の中――もしくは、アルコールに顔を赤らめていることだろう。別にそれをうらやましいとは思わないが、想像するだけで疲れがドッと押し寄せてくる。
私は誰もいないのをいいことに、大きなあくびを一つ。
終電がないのならどうするか――会社で寝ることになる。
編集者、とはキツい仕事だ。
業界の仕事なので、勘違いされることも多い。世間のイメージのように、華々しいなんてことはさらさらない。その実、とても泥くさくて体力勝負。
企画立案から誌面の作成。それによる校正と校閲作業。繰り返される会議と打ち合わせ。社内外問わない人間関係の構築……要は接待だ。
およそ、人間がこなせる量ではない膨大な仕事が、締め切りと共にやってくる。そして、それに追い回される。
まさか、終戦後の日本でデス・マーチを経験することになるとは思っていなかった。それも、毎週のように……。
今、未来の編集者を目指している学生がいたら、一旦考え直して欲しいところだ。
「……山。秋山~」
「あ、はい!
「なにボーッとしてんの。お茶くんない?カンカンに熱いやつ」
「はい、すぐに!」
私は返事をして立ち上がった。いそいそと給湯室に向かう。換気扇の下には、山盛りになった灰皿がそのままになっていた。
まだ新人である私は、こういう雑務も仕事だ。というよりは、押し付けられる。
ここ数年、新卒はおろか中途でも〝続く〟新人がいないらしい。私が入社してから何人か新しい人も来たが、例によって長くは続かなかった。
上司に退職を告げる、彼らの死んだ魚のような目。それを思い出すだけで寒気がする。なので、今でも私が一番下っ端だ。
ケトルに水を入れて、戸棚から茶筒を取り出す。それを開けると、少し葉っぱが古くなっているのか、緑のにおいは薄くなっていた。
さっき、私にお茶を頼んだのは後藤さん。私の直属の上司だ。いつもよれよれのワイシャツに、くたびれたジーンズ姿。あごには無精髭を生やしている。出社するなりスポーツ新聞を広げ、1時間おきに煙草を吸いに行く。
デスクにいても、キーボードを叩いている様子はまるでない。指示をくれるのは1日に何回か。それ以外は、私がいれたお茶をすすっている。
私が激務なのは、上司が仕事をしないから。と、私は密かに思っている。
ふと、視界のすみに雑巾が見えた。いつか見たドラマを私は思い出す。溜まったうっぷんを晴らすため、お茶汲みのOLさんが上司の湯飲みに雑巾から滴る水を――
その時、ぱちりと音がした。お湯が沸いて、ケトルのスイッチが戻った音だ。
私は、それまでの不穏な妄想を、頭を振って追い出した。
「どうぞ」
「ありがとう。そこ、置いといて」
後藤さんは新聞から顔を上げずに言った。
ぺこりと頭を下げて、デスクに戻る。椅子を引いた所で声がした。
「秋山~」
また、後藤さんだ。相変わらず、顔は新聞に隠れたまま。
「なんでしょう?」
そこで、初めて彼は新聞から顔を覗かせた。何故か口の端がつり上がっている。
「雑巾、絞ってないよね?」
ぎくりと肩を震わせて、私はただただ首を縦に振った。
◇
1日ぶりに帰ってきた自宅で、私はベッドに飛び込んだ。そのまま枕に顔をうずめる。
最近、掃除もまともに出来ていないせいだろう。部屋がほこりっぽい。
「うー……」
疲労困憊だった。学生時代、戦車に乗っていてもここまで疲れたことはない。装填手として、重い砲弾を抱え上げるのも苦ではなかった。楽しくて仕方がなかったのもあるだろう。
だが、戦車に乗るのと、デスク・ワークでは勝手が別次元だ。
ブルー・ライトに目をさらし続けた続けたせいで、まぶたがやたらと痙攣する。キーボードを間断なく叩く指は腱鞘炎寸前。ずっと同じ姿勢でいることが多いので肩は凝るし、座りっぱなしの腰も痛い。
月曜から金曜までひたすら働いて、休日は泥のように眠る。それが、私の1週間だ。
自分で望んでこの仕事に就いたとはいえ、流石に疲れていた。目の下にできたクマを見るのが恐ろしい。
入社した時に、上司が『まず、1年頑張ってみようか……いや、半年でもいいか。それを越えたら3年ね』と、言っていた意味が分かった気がした。
だが、どれだけ疲れていても、このまま眠るワケにはいかない。熱いシャワーでも浴びて、ビールでも飲むことにしよう。私はのろのろと浴室へ向かった。
くせっ毛にドライヤーを当てながら、くしを入れる。
戦車の駆動輪を象った時計を見た。まだ帰宅してから1時間と経っていない。それなのに、針は日付を越えていた。
髪の毛が乾ききったのを確認して、机に積まれた雑誌を1冊抜き出す。すると、うず高い雑誌の塔がぐらりと傾いた。それを慌てて押さえつけ、安全を確認する。いい加減、片付けもしなくてはいけない。部屋を改めて見渡すと、散らかりっぱなしだ。
溜息を吐いて、手に取った雑誌をながめる。愛読書の戦車道専門誌【steeL】だ。その、先月号。そして、この雑誌はウチが手掛けている雑誌でもある。
確かこの号は、その年のルーキーたちを追った企画を組んだはず。当然、私の企画ではないけれど。
インデックスに目を通しても、私が出した企画など1つもない。かろうじて最後のページに名前が『Editor:秋山優花里』と、クレジットされているだけ。不服というワケでもないし、親は喜んでくれた。
だけれども、あれだけ毎週企画会議を開いているのだ。私も、その度に企画書をいくつも作っている。どれか1つくらい通っても――という、思いはある。それだけで、モチベーションもかなり違うのに、とも。
私は、雑誌を閉じて立ち上がる。熱いシャワーのせいか、喉が渇いていた。
冷蔵庫を開けると、何本かあったはずのビールが最後の1本だった。秘蔵の瓶が並ぶ戸棚を開くことも考えたが、この時間から深酒をするわけにはいかない。明日は平日。出勤だ。ひょろりと長い、500ミリの缶を取り出す。銘柄はアサヒ。
冷蔵庫に寄りかかり、プルタブをかちかちと指先で鳴らす。
視線の先には、一枚の写真があった。金属製の写真立てに入れられたその写真は、高校の卒業式で撮ったモノ。写っているのは、鼻も目も真っ赤にしたあんこうチームのメンバーだ。
誰が撮ったのかは、もう覚えていない。遊びに来た角谷前会長だった気もするし、違う気もする。
だが、それはとてもいい写真だった。青春の1ページ――なんて言葉で片付けてしまうのは簡単だろう。たしかに、他人から見ればそうかもしれない。
でも、私にとっては1ページどころか、何ページも詰め込んだ写真だ。思い出、とか。出会い、とか。キレイなモノをかき集めて薄く伸ばしたようなその写真は、卒業から数年経った今でも色鮮やかに見えた。
少しだけ、鼻が痛痒い。
指先に力を入れると、缶のプルタブが持ち上がる。
ひとりの部屋。空気の抜ける音に重なって、鼻をすする音が響いた。
◇
電話が鳴り響き、キーボードを叩く音がする。合間を縫って聞こえるのは、コピー機がのうなり声。それが、私のオフィスの日常だ。
時刻は、午前10時30分。
出社すると、まだ他の同僚は誰も出社していないようだった。嵐の前のようにオフィスは静けさに包まれている。
私は、手帳を開いた。スケジュールを確認するためだ。
今日のマスを見ると、小さな文字がびっしりと並んでいる。13時から企画会議、14時半からデザイナーとの打ち合わせ、16時がメールマガジン用のミニ・コラムの締め切り。それ以降も予定が詰まっている。
しかし、泣き言を言っていても始まらない。
――仕事は、やらねば終わらない。
「んー……」
迎えた13時。企画会議のため、私のチーム・メンバーは額を寄せ合っていた。会議室で、後藤さんは赤ペンで頭を掻きながら言った。眉間には、深くシワが寄っている。
「あのなぁ、秋山」
「は、はい!」
急に話の矛先を向けられる。慌てて返事をすると、彼は続けた。
「……コレ、読んだけどさ。〝売れる!〟と思って書いた?」
そう言って、後藤さんは手にした紙の束を指先で弾く。それは私が作った企画書だった。
「い、一応……」
質問の意図が分からない。そのせいで、返答はしどろもどろだ。視線も宙を左右に泳ぐ。
上司の低い声が会議室に響いた。
「あのね。それじゃあダメなんだよ、秋山。お前のコレね、企画会議のための企画になってる」
大きなあくびをしながら、後藤さんは立ち上がった。『じゃあ、そういうことで』と言い残し、会議室を出て行く。
ぞろぞろと他の同僚が後に続く中、私は椅子に縛られたように動けなかった。
◇
下から吹き上げる風が頬を度々切りつけて行く。
見下ろす街の風景はビクともせずに、普段通りの光景を繰り返していた。多分、私がここから飛び降りたって、道を走る車の数はいつもと変わらないのだろう。
私がいる屋上は、いつも開放されている。お昼時になれば、ここでお弁当を食べたりしている人もいる。
だが、今は自分のほかに誰もいない。辺りは真っ暗で、今は夜。腕時計を見れば、後数本で終電という時間だ。
手すりに背中を預けて、空をながめる。
最初の方こそ、何度も漏らすことができたため息。それすら、もう面倒くさく感じられた。無言で、空をながめ続ける。
「やめようかな……」
ため息の変わりに零れた言葉に、自分自身驚いた。
けれども、同時に納得もしていた。
激務に疲労。通らない企画に、意味の分からない上司の言葉。それだけで、辞める理由になるのではないか。きっと、私は向いてなかったのだ。その内、新しい人だって入ってくる。私がいなくても、誰も困らないだろう……。
「よし」
そうと決まれば、色々と早い方が良い。引き継ぎのための資料を作らなければ……。今日も社内泊で構わない。そう決めた私が、手すりから身体を起こした時、背後で足音がした。気だるそうな声も一緒に。
「おー、いたいた。生きてたか、秋山……って、寒ッ」
振り向くと、後藤さんだった。置かれたベンチに座り、胸ポケットからタバコを取り出している。あれは確か、ハイライトだ。給湯室の灰皿をいつも山盛りにしているのも、ハイライト。
「何やってんの、こんなとこで」
と、煙草に火を点けながら、後藤さん。
「なんでも、ないです」
「そうか……」
言葉と共に吐き出された煙が、夜空にゆるりと消えていく。大げさに息を吐く音がしたきり、後藤さんは黙っていた。
――色々と早い方がいい
さっきの決意を思い出した私は、大きく息を吸い込んだ。
どうせ遅かれ早かれ、直属の上司には辞意を伝えなければいけない。ならいっそ、今ここで……。
しかし、私の声よりも先に屋上に響いたのは上司の声だった。
「……で、辞めるの?」
私は息を呑む。
「んま、それもいいかも知れんね。それは自由。俺は止めないよ?引き止められるような材料もないし。ただ、ちょっと答え合わせしようか」
後藤さんは息を吐いた。
聞こえる救急車のサイレンが、次第に遠く聞こえなくなって行く。
「今日の会議のことだ。俺が言いたかったのはね、企画、ってのは自分が一番見たい、面白そう。って思えるようなモノじゃないとダメってことなの。どんな記事だって、最初に読むのは本を買った読者じゃあない。実際書いた自分でしょ?その最初の読者が、読みたい!と思える記事や、見たい企画じゃなかったら誰が本を買う?もちろん、本は売れるに越したことはないよ」
そこまで言って、後藤さんは煙草を咥える。
「けど、面白い本と売れる本は違うんだ、秋山。お前、言ってたじゃないの。最初の歓迎会の時さ。『面白い記事書けるようになります!』って。レモンサワー飲みすぎてグデングデンだったけど……覚えてるよ?俺はね」
ゆっくりと、1つ1つを確かめるように後藤さんはそう言った。
「身を粉にして働け!とか、残業しろ!とは言わんさ……結局、好きなことを好きなようにして欲しいワケ。こんな業界だもの、好きじゃないと続かないんだよ。辞めてく子が多いのは、仕事との板挟みで好きなことが分からなくなっちゃうから。企画だって同じ。働くための企画……会議のための企画って、そういうことなんだよ」
そこまで言って、後藤さんは煙草を灰皿でもみ消した。それから腕時計を見る。
「っと……喋りすぎた。終電ないだろうからタクシー使っちゃってよ。コレ、渡すから。領収書、忘れずにね。今月競馬でスってピンチなんだ」
懐から取り出された一万円札が、上司の指先で揺れている。
「いいんですか?」
「もちろん」
頭を下げて、万札を受け取る。
「ありがとうございます」
「ま、他の仕事の負担も減るよう調整するからさ。晴れてお茶汲みも卒業だ。それから、辞表を出すにしても明日以降にしてね。今日はもう働きたくないんだ」
そう言って、後藤さんは頭を掻いた。ベンチから立ち上がり『じゃあ』と、手を振る。――ポケットに片手を突っ込んで、気だるげに。
彼が階段に脚をかけた時、私は口を開いた。
「あの!」
ぴたりと、後藤さんの足が止まる。その表情は、困ったような笑みを浮かべていた。
「どしたの。やっぱり、今日じゃなくちゃダメ?」
「いえ……そうじゃなくて、お茶汲みは大丈夫です。私、やりますので!それに、ありがとうございました!」
「そう言って貰えると助かるね」
手を挙げて階段を降りて行く上司。やがて、頭の先まで見えなくなる。
最後に、彼の声だけが聞こえた。
「お前の淹れるお茶はウマいんだよ」
◇
翌日の午前11時ちょうど。
電話が鳴り響き、キーボードを叩く音がする。その合間を縫って聞こえるのは、コピー機が紙を吐き出す駆動音。いつものオフィスの日常だ。私も既に、デスクでキーボードを忙しなく叩いている。
だけど今日は、そんなオフィスの風景が少しだけ違って見えた。
昨日、後藤さんに退職を止められていたなら、きっと私は辞めていただろう。
けれど、あの気だるそうな上司は、わたしを止めはしなかった。
彼がしたのは、ほんの少しの昔話とタクシー代をくれたこと。
後藤さんの言う通りだ、たしかに私は仕事ごと、大好きな戦車も嫌いになりかけていたのかもしれない。『好きなことを好きなように』、その言葉で気が付かされた。
『――ご提案させて頂きます』と、キーを叩いた所で手が止まる。いつもの気怠げな声が聞こえたのだ。
「おはよーさん」
「おはようございます」
「ああ、秋山。おはよう……ん?」
彼は、通りがかりに、私のモニターを覗き込む。
「なになに?〝安全神話を創った男たち〟……。カーボンの織り手に迫る、か。なるほど」
画面から目を離して、後藤さんは無精髭の生えた顎をさする。そして、無言。
――もしかすると、また……。
背筋に緊張が走った。思わず目を閉じる。
だが、聞こえてきたのは思いがけない言葉だった。
「そっちの方が、よっぽどお前らしいよ」
こん、と。私のデスクに何かが置かれた。見ると、肝臓の機能を促進するドリンクだった。小さな茶色い瓶に、デフォルメされた内臓のイラスト付きのシールが貼ってある。
「ほい。それ、プレゼント」
そう言うと、そそくさと後藤さんはデスクに着いた。そして、すぐさまスポーツ新聞を広げている。耳には赤ペンを差して。
「あの……これは……?」
「仕事が終わったら、仕事だぜ……ってね。今日、20時から接待。こないだの会社な、もう一つ上のお偉いさん、引っ張り出したから。本音を言わせるには、アルコールが一番なんだよ。これは経験ね。お前はレモン・サワー飲みすぎないでね?」
そう言う上司の顔は、新聞に隠れて見えない。
だが、その声色はいつもよりほんの少しだけ弾んでいるように聞こえた。後藤さんは続ける。
「その企画書見せるよ。体裁整えといてね。終わったら出力よろしく」
「はい!」
私は勢いよく立ち上がった。声の大きさに、オフィス内の視線が集中する。
でも、今はそんなこと気にならなかった。
まだ、修正は間に合うはずだ。
おととい書いた記事の締めの文句に、少しだけ付け加えよう。
『今から、とても楽しみだ――』と。