本当に申し訳ございません(お待ちいただいていた方がいれば、ですが)
今回のネタなんですが、某アニメが今作執筆中にやってくれやがりまして、没にするかまよったのです。が、結局アップする運びとなりました。
楽しんで頂ければ、幸いです。
pixivにも投稿しております,
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9268217
雨が、しとしと傘を叩く午後の2時。
もう昼過ぎだというのに、気温はやたらと低い。
我慢できないほどではないが、念のために着込んで来た薄手のフリースに感謝する。それはテレビのコマーシャルでもおなじみの、洗えるフリースだ。色は黄緑。
辺りは静かだった。色んな音が、足元の水たまりに吸い込まれているようだ。
特に予定のない午後。
部屋で一人、暇を持て余していた私は散歩に出ていた。こうして、ゆっくりと街を歩くのはいつぶりか。越してきた初めの頃、近所にスーパーがあると聞いて探し歩いた時以来ではないだろうか。
結局自力では見つけられず、自転車に乗った警察官に道を尋ねたことも懐かしい。冬の雨とは、人をセンチな気分に浸らせるチカラでもあるのだろうか。
街は、薄いヴェールに包まれていた。その中を私は思うがまま歩く。風の吹くまま、気の向くままに……。
雨の中を歩いていると、幼い頃を思い出す。
妹と一緒に、雨の中を歩いたあの日。二人して大きな水たまりに飛び込むモノだから、洋服はどろどろ、足元はべちゃべちゃ。
履いていた小さな長靴も、黄色のレイン・コートも意味はなくて。帰宅した私たちの姿を見るなり、菊代さんが悲鳴を上げたことを思い出す。〝あの〟菊代さんが、あれだけ取り乱したのだから、あの時の私たちの姿は相当にひどかったに違いない。きっと、良くて捨て犬。悪くてぼろ雑巾か。今思えば、その時は丁度母が外出中だったのが幸いだった。お陰で、私とみほは〝命拾い〟をしたのだ。そんな慌ただしかった昔の実家を思い出して、思わず目じりが下がる。
ぺしゃりと、靴底が水を跳ね上げた。歩くスピードを少し緩める。
実家と言えば、家の柴は元気にしているだろうか。その犬は母の誕生日の朝、父が連れてやって来た。そういうことはからっきしだった父が、必死に絞り出したサプライズだったのだろう。
玄関で初めて見た時、その子犬は父の腕ですやすやと眠っていた。
『いぬだ!』とはしゃぐみほの隣で、言葉を失っていた母。その表情は今でも忘れない。嬉しいやら、恥ずかしいやら、困惑するやら――。今まで私が見たこともないような、いろんな色が混ざった顔だった。
父は父で、『3人目は毛むくじゃらだね』と、恥ずかしそうに笑っていた。私も、新しい弟が出来たようでうれしかった。
ただ、次の朝。両親が揃って寝坊をしていた理由は、未だに分からないままでいる。
◇
しばらく歩いていると、雨脚が強くなってきた。
足元はスニーカーだ。防水加工はされているが、この雨に耐えられるとは思えない。
私は、通りかかった公園に逃げ込んだ。屋根付きのベンチを見つけ、その下に滑り込む。傘を閉じて、水滴を払う。走ったせいでスニーカーには泥が跳ねていたが、中まで水が染み込む難は逃れたようだ。
一息ついて、ベンチに腰を降ろす。もちろん、濡れていないことは確認済み。
小さな休憩所の雨どいから流れ落ちる雨は、滝のようになっていた。いよいよ本降りになってしまったらしい。
腕時計を見ると、時刻は午後3時前。夕方までに弱くなってくれるだろうか……。
携帯は一応持って来ていたが、散歩に出ておいて帰りはタクシーというのもの格好がつかない。
まぁ、どうにもならなければ、その時はその時だ。濡れながらでも帰ってしまえばどうにかなるだろう。じたばたしても状況は変わらない。こうなればここで、籠城戦の構えだ。
私は背中合わせに配置されたベンチの片方で全身を伸ばす。寒さに縮こまっていた身体がほぐれていくのが分かった。その時、背後で何者かの声がした。人の声ではない。何か、もっと低くて唸り声のような……。
「ワン!」
「……!!」
それは犬の鳴き声だった。突然響いた大音量に、びくりと肩を震わせる。
ゆっくり首だけで振り向くと、小さな犬がベンチにいた。赤褐色の毛並みをした柴犬だ。小柄な体格なので、恐らく体重は6キロくらい。まだ子犬なのだろう。記憶にある実家の柴よりも一回りは小さい。耳をピンと立て、舌を出している。その柴犬は大きな黒眼で、じっと私を見ていた――。
「――ついて来るんじゃない」
すっかり夕方になった午後の4時過ぎ。雨もとっくに止んでいた。
お腹が空く前に、帰ろうとした時だった。
ベンチから腰を上げると、いつの間にか小さな柴が足元に移動していた。それから、ずっとこの犬は私の後を付いて来ている。私が歩けば、同じ速度で歩く。赤信号で止まれば、同じように止まる。
「だからダメだって言ってるだろう」
犬に向かって呼びかける私に、通行人の視線が刺さった。学校帰りの学生には、笑われていたような気もする。
だが、何度しゃがみ込んで〝帰宅〟を促しても、この小さな柴は知らん顔だ。後ろ脚で顎の下を掻いたり、前足を舐めたりするばかり。馬の耳に念仏なら、犬の耳にはなんなのだろうか。
部屋があるマンションは、一応ペットがOKとなっている物件だ。たまにエントランスで真っ白なウェスティーや、毛並みの良いダックス・フントを抱えている住人だって見かける。
しかし、だからといって家にペットの受け入れ態勢が整っているわけでは無い。
エサや寝床、犬用のシャンプーだってもちろんない。家に上げるわけにはいかないのだ。となれば隙を見て、逃げるしかない。
見ると、柴犬は道の脇を忙しなく嗅ぎまわっている。そこで私は、覚悟を決めた。一目散に走り出す。水たまりに片足が突っ込むがお構いなしだ。そのまま飛ぶように住宅街を走り抜ける。すると、急に走り出した私に驚いたのか、背後から吠える声が聞こえた。その声は次第に小さくなっていく。同時に、悲しくも。
後数メートル先の角を曲がれば、完全に犬を置き去りにできる――という所で、私の足は止まっていた。
私は小さく溜息を吐いた。
「まいったな……」
結局、私はこの犬を連れて帰って来てしまっていた。あのまま、振り返らずに走り去ることが私にはできなかった。
この犬は多分、捨て犬か迷い犬だろう。飼い主のいない、ストレイ・ドッグ。そんな境遇の犬の鳴き声に後ろ髪を引かれるのだ。自分で言うのもなんだが、私は相当な愛犬家らしい。
柴は汚れにまみれていたので、そのままにしておく訳にもいかなかった。とりあえず、シャワーで身体を洗ってやったは良いモノの、それだけで風呂場は酷い有り様だ。
この犬は水が嫌いなのだろう。もがいて、シャワーから逃げようとする犬に脚を取られ、転ぶこと3度。拭いてやろうとすると、また逃げ出してフローリングは水浸し。幼い頃の妹でも、まだ聞き訳が良かった気がする。この分だと、ソファーに歯型が付くのも時間の問題だろう。
だが、そんな私の心配はどこ吹く風。柴は座り込んで顎を掻いている。その前に、私はしゃがみ込んだ。
「なぁ、お前はどこから来たんだ?」
言葉が通じたのかは分からない。
だが、柴は動きを止めた。大きな黒眼に私の姿が映っていた。そのまま動かない。
この犬が人間の言葉をしゃべることが出来たなら、なんと私に言うのだろうか。飼い主への恨み言か、私への夕飯の催促だろうか。
一瞬、犬が身体を小さく震わせた。同時に、広がる〝水たまり〟
その意味をやっと理解しきった時、私は叫び声を上げていた。
◇
唐突に始まった犬との共同生活は、一言で言えば大変だった。
まずケージや首輪、ドッグ・フードに犬用のシャンプーなどの必需品を揃える。毎日の粗相の始末。それから獣医に連れて行き、念のため狂犬病の予防接種を受ける。子犬ならではの大変さだった。実家で犬の世話をしてくれていた菊代さんには、改めて頭が下がる。
しかもこの柴。身体は小さいくせに、気ばっかり大きいらしい。エントランスで出くわした他の犬にやたらと吠えるのだ。その上、甘噛みをする癖があるらしく、私の心配通り家の中のモノは歯型だらけになってしまっていた。リビングのソファーは、既に買い替えを検討中。
散歩に関しては、朝夕の私のランニングに付き合わせている。最初の頃は、すぐにへばって動かなくなるので結局抱きかかえて帰ってくることも多かった。
しかし、一週間もすれば立派に完走できるようになっていた。人間に比べて、犬は元々身体能力が高いのだろう。それが、少し羨ましくもあった。それから、名前は『虎太郎』にした。柴犬に『エリザベス』や『キャロライン』は似合わないから。ネーミングのセンスはともかく、だ。
しかし、いくら大変とはいえ、新しい家族が増えたようで何となく嬉しかったのも確かだ。家に帰れば〝誰か〟がいる、というのが、こんなにも落ち着くということを私は久しく忘れていた。
『虎太郎、行ってくるよ』
『ワン!』
『虎太郎、ただいま』
『ワン!』
たまに人の言葉を理解しているのではないか? と思うような時もあるが、それもまた楽しかった。
虎太郎はお酒の匂いをとても嫌がったので、それをお仕置きの代わりに鼻に近づけてやったりもした。
新しい住人が増えて、あっという間に2週間が経とうとしていた。
ある日のことだ。
いつものように、決まった時間のロードワークをこなしている途中。電信柱に張り付けてある一枚の紙が目に入った。
だけど、私は気にすることなく通り過ぎようとする。
しかし、その張り紙に感じた違和感。そのせいで、電柱を通り越して3メートル行ったところで引き返す。進行方向と逆にリードを引かれ、虎太郎がぐえとヘンな声を上げた。
これまで気が付かなかったということは、昨日か今日に貼られたモノだろう。
紙は、丁寧に電柱に張り付けられていた。その紙には、太いマジックでこう記されている。
『迷い犬 探しています』
その下にはでかでかと〝お尋ね者〟の写真。その写真の犬に、私は覚えがある。
「……虎太郎?」
思わず、口に出る。
「これ、お前か?」
私の問いかけに、そっぽを向いていた虎太郎が顔を上げる。私越しに、張り紙を見ているようだった。虎太郎は、アスファルトに座ったまま微動だにしない。
やがて、頭の上でカラスが一度鳴いた頃、虎太郎も小さく鳴き声を上げた。
◇
「良かったな、虎太郎。飼い主、見つかったぞ」
ソファに座ったまま、小さな身体を抱え上げる。
しかし、虎太郎は無言。
「どうした? 嬉しくないのか」
私の言葉に、虎太郎はまたそっぽを向く。フローリングに降ろすと、一人でケージに入りうずくまる。エサを入れたプラスチック製の容器を見ると、珍しく少し残っているようだった。
ロードワークの途中で見つけた迷い犬の張り紙。そこに書かれていた番号に電話してからは話が早かった。
まだ時間も浅かったせいだろう。1時間後に直接飼い主が引き取りに来る――とのことだった。
時計を見ると、時刻は夜の7時半を少し回った頃。あと30分もしないうちに、虎太郎の〝本当の〟飼い主がやってくる。
「おい、虎太郎。ご飯、食べないのか」
エサの残った皿を指先で滑らせて、ケージの入り口に持ってくる。覗き込んで呼びかけてみても、虎太郎は無視を決め込んでいるようだった。
やがて、インターホンが鳴った。時刻はきっちり夜の8時。
このマンションはオートロックなので、返事と共にカメラのモニターを確認する。そこには小さな少女を真ん中にして、左右に両親らしき人物が立っているのが映し出されていた。
少女は精いっぱい背伸びをして、カメラを見ているのだろう。最初は、もじもじとしているだけだったが、隣に立つ母親に背中を押されて決心したようだった。
『あ、あの……こんばんは!まっくす……犬のかいぬしです!』
「こんばんは。お待ちしてましたよ――」
言いながら、ちらりとケージの方を見る。
「――今、開けますね」
が、虎太郎はピクリとも動かない。
もう、さよならなんだぞ、虎太郎。
「まっくす!」
どうにもケージから出ようとしなかった虎太郎。それを何とか引っ張り出し、少女の元に連れ出す。少女は、虎太郎の姿を見るなり、床に転がるようにして虎太郎を抱きしめた。目は少しうるんでいるようだ。
彼女は相当に寂しかったのだろう。それと、再会の喜び。
「お姉ちゃん!」
「こら、失礼だぞ」
「いえ、いいんです。お父さん」
少女を咎める父親に頷いて見せて、私は腰を折った。少女と視線を合わせるためだ。
「まっくすを拾ってくれてありがとう!」
「こちらこそ。お役に立ててよかった」
「本当にありがとうございました」
「いいえ、この子も大人しくて助かりました」
「そうですか、そう言って頂けると助かります。ほら、もう一回お礼を言って」
そう母親に促され、少女は虎太郎を抱いたままぺこりと頭を下げた。
「じゃあわたし、帰るね!」
「うん。気を付けて帰るんだよ」
「本当にありがとうございました」
「いえ。こた……マックスも元気でな」
そう言って、少女の腕の中にいる虎太郎の頭を撫でてやる。その時だった、虎太郎が少女の腕の中で身を捩って地面に着地する。一目散に私の部屋の中に戻ると、ソファに思い切り噛みついた。今までにない、激しい噛みつき方だった。そして、一度だけ大きく吠えてみせる。
「虎太郎……」
それが他の人間にどう聞こえたかは分からない。
だけど、私には虎太郎が『俺のこと、忘れるなよ』と言っているように聞こえた。
◇
歯型の付いたソファの修理代だと、財布を取り出した少女の父親をなんとかなだめ、一人になったのは夜の8時30分過ぎ。部屋はいつも通りの静けさを取り戻していた。
もう、ばたばたと走り回ったり、エサの容器をひっくり返したり、あちこちで粗相をしたり、私が今座っているソファに歯形を付ける住人はいない。
主のいなくなったケージも、ぽっかりと口を開けている。
そこで、私は買い置きのアルコールがあったことを思い出した。虎太郎のエサを買いに行ったとき、一緒に買い物かごに放り込んだモノだ。
キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。すると、目論見どおりに缶が一本中央に鎮座していた。黄色を基調にしたラベルに、犬のイラスト。
プルタブを押し上げ、喉を鳴らして流し込むとグレープ・フルーツのみずみずしさと、塩のしょっぱさが全身を突き抜けた。良く冷えた、ソルティ・ドッグだ。
キッチンからソファを眺める。
丁度、噛みつく塩梅が良かったのだろう。四隅がぼろぼろになったソファ。
でも、買い替えるのはもう少し後にしようと思う。そうしないと、もし虎太郎がまたここに来た時、今度噛みつかれるのは私だろうから。
「しかし、マックス……だもんなぁ」
思わず、笑いが零れる。
「忘れるものか」
そう呟いて、私は残りのソルティ・ドッグを一気に飲み干してしまった。