「悪いな、なにからなにまでお世話になっちゃって」
窓の外を流れる景色。それから運転手の横顔に視線を移して、千代美は頬をかいた。
運転手は小さく笑って頭をふる。頭の動きに合わせて、サングラスが日の光を反射した。
「いや、いいんだ。気にするな」
「気にするよ。今回は、本当に助かったんだから」
「困った時はお互い様、だろう。それに、請求書はきっちり送るよ」
その言葉に千代美はぎょっとした。「冗談だろ」と、頭の中で、ものすごいスピードで電卓が弾かれる。
「交通費……宿泊費……食費……」
ぶつぶつ言いながら指折り数えても、いくらになるかなんて見当も付かない。そんな千代美の様子に、ついにまほは吹き出した。ハンドルさえ握っていなければ、腹を抱えて転げ回っていたかも知れない勢いだ。
「安斎……いや、すまん、冗談だよ」
「あのなぁ」と、千代美は唇を尖らせた。
「本気で、親にお金の無心をするところだったよ」
目元こそサングラスで隠れているが、まほはこういう冗談を〝クソ〟が付くような真面目な顔でいってのける。そのせいで、冗談が冗談に聞こえない時が、ままあるのだ。
口元から笑みを消さずに、まほが言う。
「兵は詭道なり」
「それは西住流?」
「いや、わたし流」
「門下生は?」
「わたしだけ」
そう言って、まほはおもむろにサングラスを外した。偏光グラスの奥に隠れていた瞳があらわになる。まほは、サングラス・ホルダーにレイバンのつるを差し込んだ。そのまま器用に片手をハンドルから離し、ドリンク・ホルダーの缶コーヒーに手を伸ばす。口を付けて、こくりと一回喉を鳴らす。一連の動作を眺めていた千代美がぽつりと言った。
「西住、お前、変わったよな」
「なにが」
「人を困らせるようになった」
「その言い方は心外だな」
ちらりと千代美を一瞥して、まほは唇を尖らせた。
だが、その表情には優しい笑顔が浮かんで見える。
千代美は大げさに腕を組んで、あごに指を当てた。
「そうだな……じゃあ……」
「じゃあ?」
「……人間らしくなった」
「もっと心外。私はジャンクの山からオイルとサビにまみれて生まれたわけじゃないぞ」
尖らせた唇に続いて、頬まで膨らませるまほ。千代美は小さく笑う。肩の揺れに合わせて、ツインテールも軽く揺れた。
「まぁ、そういうことだ」
「どういうことだ」と、首をひねるまほを千代美はたしなめる。
「まぁ、つもる話は?」
「一杯やりながら」
「そういうこと」
「また、言った」
不満そうな声を上げたまほに、千代美は微笑んだ。
「西住。窓、少し開けてもいいか?」
「構わないよ」
パワー・ウィンドウのスイッチを指先で少しだけ押し込む。すると、わずかに開いた窓からひんやりとした空気が流れ込んできた。鼻先を都会の匂いがかすめて行く。
着慣れないスーツ・が窮屈に思えて、千代美はシャツの胸元をもう一つ開けた。
「寒くないのか?」
「ああ、寒くない。足元はすーすーするけどな」
冷えた空気が、千代美の暖房でほてった頬にはちょうど良かった。目を細めると、見知らぬはずの東京の街並みが、どこか懐かしい。そう感じるのは、まほと一緒だからだろうか。
左手には、水をたっぷりと湛えた堀が見えた。
「今、どの辺りなんだ?このデッカいのが皇居ってのは分かるんだけど」
と、指をさしながら千代美は聞いた。まほが答える。
「今は、大手町って所だ。もう見えてくるぞ、武道館」
その言葉に、千代美は「へえ」と感嘆の声を上げた。
「案外、近いんだな」
「東京駅からなら目と鼻の先だよ。地球の裏側まで行こうってわけじゃないんだ」
「違いない」
「なんなら、今から行くか?地球の裏側」
そう言って、まほは悪戯っぽく笑ってみせた。
千代美は首を振る。
「シュラスコは確かに魅力的だけどな、やめておくよ西住。カイピリーニャも捨てがたいけど」
「そうか、残念だ」
「あのな、近所のコンビニにジュースを買いに行くのとはワケが違うんだぞ」
「そうだな……でも……」
何かを言いかけてやめたまほに、千代美は食い下がった。
「でも?」
まほの方を向くと、いつの間にかまたサングラスが目元を隠していた。少しだけ間を置いて、まほが言う。
「まぁ、そういうことだよ安斎」
「あっ、ずるいぞ」
「お互い様だよ。ほら、見えたぞ」
そう言って、まほは車をゆっくりと減速させた。前方に見える信号が、赤になったらしかった。
ハンドルに身体を預けたまほが指差した方向を見ると、独特な作りの八角形が見えた。
「If I needed someone to love・・・」
「ビートルズ?」
「正解。よく分かったな」
まさか一発で言い当てられるとは思っていなかった。ふふんと自慢げに鼻を鳴らすまほに、千代美は心底感心してしまう。
「……っと」
気がつくと、信号が青に変わっていた。後ろから鳴らされたクラクションに、まほは車を発進させた。
「もう着くからな安斎。降りる準備を」
そう言って、まほはぐいとコーヒーを飲み干した。
まほの運転するメルセデス・ベンツのGクラスは近代美術館を右手にしながら走って行く。見えてきたのは、北の丸公園第三駐車場と書かれた看板だった。まほは緩やかに車を減速させ、黒い巨体を駐車場に滑り込ませる。空きスペースに、全幅1700ミリ近い車がするするとバックで収まって行く。
「西住は駐車も上手いんだな。こんなに大きい車なのに」
「ティーガーに比べれば、全然余裕だ」
その言葉はどことなく白々しかった。用意していた解答、とでも言おうか。少し、突っついてみよう。千代美は、口元を歪めて覗き込むように言った。
「本当は?」
「たくさん練習した」
じわじわと後退していた車体。そのタイヤが車止めに当たり停止する。同時に、まほは大きなため息を吐いた。
「未だにどきどきだよ」
北の丸公園第三駐車場は、武道館にほぼ隣接した駐車場だ。大きめのキャリーを引きずって来ていた千代美には喜ぶべき立地だった。
「本当にすまないな西住」
「これもまた、戦車道だからな」
テール・ゲートを閉めながらまほが言った。
自信満々でまほが口にする、その言葉の意味を千代美は未だ掴めずにいる。というより、掴めている人間がいるのだろうか。あるいは西住流の奥義、という可能性もある。が、馬鹿らしくなって聞くことはしなかった。
「お、伝家の宝刀」
「ばかにしたな安斎」
「してないよ」
そうして、顔を見合わせる。静かな武道館の広い敷地に、二人の小さな笑い声が響いた。
千代美は思い出したように腕の時計を見た。あと10分ほどで14時になろうとしている。ちょうど、受付が始まる時間だ。
「もう行かないと」
「昼食とかは良かったのか?途中寄ってくれば良かったな」
「眠くなってもいけないだろ。ウトウトしてると徹甲弾が飛んできそうだから」
「確かにな。じゃあ終わったらまた連絡してくれ。迎えに行くよ」
「了解」
そう言って、千代美は首のマフラーを巻き直す。
一歩踏み出すと、履きなれないヒールに足を取られそうになった。つんのめりそうになるのを必死に耐える。地面に転がるのを何とか回避し、後ろを振り向く。すると、まほは吹き出しそうになっているらしかった。両手で、口元を押さえている。
「いつもの安全ブーツに履き替えなくていいか!?」
「うるさいぞ!」
茶化すまほに、腕を振り回して抗議する。
ほう、と息を吐いて片手を挙げる。それに、まほはうなづいて応えた。「行ってきます」の合図だ。
まほの着ているタートルの白いニットは、吐いた息と同じ色をしていた。
◇
千代美が、日本武道館に来た理由は一つだった。
柔道の選手権に出るためでもなく、流行りのアーティストのライブを見るためでもない。戦車道の公認2級指導員としての資格をえるためだ。そして、今日はその講習会の日。それを受けるために、栃木くんだりから大都会東京まではるばるやってきた、というわけだ 。
指 定されたカリキュラムを地方の連盟で受講し、レポートを本部に送付する。そして、検定試験を日本武道館で受ける。これが現在の日本戦車道連盟の指導者資格試験だ。
試験とは言っても、まだ2級の試験。T・レックスが受けるのでなければ、そんなに難しいモノではない。
学力を測るわけではなく、モラルやマナー。競技の規定やルール。歴史や一般教養などが中心の試験だ。高校の時のテストに比べれば、大分マシ。
とはいえ、2時間ほども座りっぱなしでは流石に肩がこる。
千代美は、武道館の2階フロアで自販機に小銭をつっこんだ。なんとなく目に留まったカフェ・オレのボタンを押す。すると、勢いよく落ちて来たペットボトルが、取り出し口から顔を覗かせた。それを取り出し、隣に設置されている椅子にどかりと腰掛ける。
フタをひねると、ぱきりと小枝が折れたような音がした。飲み口からは甘い香りが立ち上る。一口だけ含むと人工的な甘みがいっぱいに広がった。
試験が終わった解放感だろうか、普段口にするものよりも2割増しで美味しい気がするから不思議だ。
「西住、よぶか……」
そう呟いて、胸ポケットから携帯を取り出す。通知はない。電話帳を開く。
正直なところ、疲労感よりも、空腹感が限界だった。
◇
「お疲れ様」
「ほんとに疲れたよ。スーツは窮屈だし、会場の椅子は硬いし」
千代美はそう言いながら、上着を脱ぐ。脱いでしまって、掛けるところがないことに気が付いた。なので、上着は丸めて太ももの上。
「でも、顔はそうは言ってないぞ」
「顔?なんかついてるか?」
「そうじゃないさ。安斎、嬉しそうな顔してる」
途中で購入してきたのだろう。缶コーヒーを口に運びながら、まほは言った。
「嬉しそう?」と、千代美はオウムに聞き返す。
「なんていうのだろうな、難しいけど、とにかく嬉しそう」
「そう言われると恥ずかしいな。私が浮かれてるみたいだ」
ふいと、顔を外に向ける。首都高速4号線の上を、ゲレンデ・ヴァーゲンは走り抜けていく。時刻はもう夕方だ。
2月と言えど、まだまだ日は短い。遠くに見える太陽の下端は、地平線に届きそうになっていた。
光は、真横からさしこんでいる。世界の全てが、真っ赤に染まっていた。見渡す町並みも、前を走る車も。窓ガラスに映る私の顔もだ。それに、見えないけれど、まほの顔も。ぜんぶが、黄昏に染め上げられていた。
千代美は、身体をよじって腕を組んだ。腰を上げて、座席に座り直す。
確かに、まほの言う通りかもしれなかった。
とにかく試験は終わったのだ。結果が出れば、指導員としても確実に一歩進むことができる。横のつながりが増えれば、教え子たちにも、もっとレベルの高い指導ができるだろう。そのツテで、新しい車両だって手に入るかも――そんな未来への期待が、顔に出てしまっていたのだろう。
車のオーディオからは、静かにラジオが流れている。誰かのメールが読み上げられているらしかった。
「西住のお陰だよ」
「私は何もしてないぞ」
「ん、そうだな。一番頑張ったのは、コイツだった」
千代美は、ダッシュボードをぽんぽんと叩いた。
「安斎知ってるか? 車はアクセルを踏まないと進まないし、ハンドルを切らないと曲がらないし、ブレーキを踏まないと止まらないんだぞ。自我を持った金属生命体じゃあないんだ」
不服そうに指先でハンドルを叩くまほを見て、千代美は「冗談だよ」と笑う。
「今西住が言ったことな、知ってるよ? 全部。でもそれ以上に分かってるのは、西住は〝めちゃめちゃ〟いいヤツだってこと」
千代美がそう言った所で、車内が静まり返った。ラジオでは3通目のメールが読まれている途中。
「うー……」
唸り声がした。まほの唸り声だ。
「どうした?」
「不意打ちだった」
助手席から見るまほの横顔は、茜にやけた世界よりも更に赤く染まっていた。
◇
「おい、西住」
「なんだ、安斎」
「いや。送り迎えもして貰った上に泊めてもらう身分の人間が、こういうこと言うのもどうかとは思うけどな」
そう言って、頭を掻く。ツインテールは、もうほどいていた。
「じゃあ言わなくてもいいんだぞ」
「いや、やっぱり言う。お前、ほんとに人間か?いや、前々から怪しいとは思ってたんだけどさ」
「そこまで言うか」
「言うよ。これを見れば、誰だって」
そう言って、千代美が取り上げたのは棚を開くなり雪崩のように押し寄せて来たレトルトのカレーだった。
「いや、カレーだけじゃないだろ?」
「なんで自慢気なんだよ。レトルトのカレー、レトルトのカレー、また、レトルトのカレー。それにレトルトのカレーとレトルトのカレーに、レトルトのカレー。んで、カップ麺と大量のプロテインにビタミン剤。それに、大量のアルコール類……復帰を決めたランボーでも、もうちょっとマシな食生活してたぞ」
「それだけあれば生きていける」
「お前、現代風修行僧か何かなのか?」
千代美は呆れを通り越して感心していた。まほがカレーが好きなのは知っていた。
が、これはそれだけでは説明が付かない。ちょっと見ない間に、カレー以外を受け付けない身体に改造されてしまったのだろうか。この量のレトルトがあれば、カレーのお風呂にでも浸かることができそうだ。
「ある意味ではそうかも」
「だから、胸をはるところじゃないって」
千代美はためいきを吐きながら立ち上がる。握っていたレトルトの袋は、シンクに置く。
この時、心の中に一つの感情が湧いていた。
――この友人を、この食生活から救い出してやらねばならない。それは、もはや使命感にも近かった。
壁に掛けられたまほの上着をハンガーから外す。時刻はまだ19時前。時間は十分にある。
「ほら、これ着て」
「どこかに行くのか?」
まほは首をかしげる。どうやら、本当に分かっていないようだった。
「かいものだ!」
◇
買い物から帰って来てからは早かった。
まほがどこからか引っ張り出してきた〝新品〟のエプロンを首から掛けて、千代美は調理に取り掛かった。
お湯を沸かしながら、野菜を洗う。フライパンを温めて油を引く。ボウルでドレッシングの材料を混ぜて、肉に切れ目を入れた。
長い髪は、ポニーテールに縛られている。流れるような手つきだった。
まほは手持無沙汰のまま、リビングをうろうろする。そして「手伝うぞ」と言っては、
「座ってろ」と千代美になだめられる。そんなことを繰り返している内に、机には所狭しと料理が並べられていた。
「完成だ」
エプロンを脱ぎ、リビングへと戻って来た千代美にまほは言う。
「なぁ、安斎。作ってもらってなんだが、これは作り過ぎじゃないか?」
「そんなことない。これでもまだ足りない位だ。ビルトインのオーブンレンジが泣いてたぞ」
「体重計に乗るのが恐ろしくなるよ」
かぼちゃのスープと、たっぷりのレタスにトマト、ベビーリーフを乗せたグリーンサラダ。ドレッシングは特製のフレンチ・ドレッシングだ。それに、パスタは合挽肉ににんにくを効かせたボロネーゼで、オーブンを使ってじっくり焼き上げたチキン・ステーキには、輪切りのレモンが乗っていて、塩だれの香りが食欲をそそった。
いつもは無地のキャンパスのような机の上が、見たこともないような色で埋め尽くされている。ほかほかと湯気を上げる料理は、とても美味しそうに見えた。
「もう少しスパイスを買ってくればよかったけど、なんとかなったよ」
千代美は、そう言いながらワインのコルクを抜いている。
普通、若い女の子がするような危なっかしいやり方ではない。しっかりと腕に力が入っている。とても手馴れたやり方だった。やがて、コルクが抜ける音がした。
「さ、食べよう。パスタが冷める前に」
と、千代美。
銀のボウルからサラダを取り分け、チキン・ステーキを目の前の皿に乗せた。まずは、まほの皿。次に千代美の皿に。そして、まほのワイングラスに真っ赤なワインを注ぐ。
「これ、なんて読むんだ?」
まほは、ボトルのラベルを指さした。あまりワインを飲みつけていないまほは、銘柄には疎かった。自分のグラスにワインを注ぎながら、千代美が答える。
「ぺポリ、って読むんだ」
「ぺぽり。小さい怪獣みたいな名前だ」
「ぺぽり」と、もう一度繰り返して、まほは笑った。
「だけど、味は保証付きだぞ。それに、大体どんな料理にも合う。さっき行った所、たまたま売ってたんだよ。流石は東京」
「へえ」と相槌を打って、まほはグラスに満たされたワインを眺める。透明なグラスの中で、真っ赤なワインはルビーを溶かしたようだった。
「なんに乾杯する?」
グラスを取り上げて、千代美が言う。
まほは同じようにグラスを持ち、上を見上げる。なにか、考えているようだった。しばらくして、口を開く。
「素敵な食卓と、安斎の試験合格に」
「まだ、合格かは分からないけどな」
千代美の言葉に、まほほおどけてみせる。
「じゃあ、君の瞳に?」
「西住。それは古いよ」
肩の力が抜けたような気がした。
「分かった。素敵な食卓と、変わらない私たちの……」
そこまで言って、まほは何かを言い淀んだ。何故か頬が赤い。何を言おうとしているのだろう。
「私たちの?なんだ?」
「……友情に!」
声を張り上げたまほに、千代美は目を丸くした。
突飛な発言だった。
しかし、不思議と茶化す気は起きなかった。目じりが下がる。
「ああ……友情に」
「……そういうことだ」
「そういうこと、だな」
口癖のようになってしまっているまほに、今度こそ笑いがこぼれる。そして、どちらともなくグラスを差し出す。間接照明のあたたかな光が部屋の中を満たしていた。窓の外は、もう暗くなっている。
「じゃあ、素敵な食卓と」
「友情に、乾杯」
「乾杯」
そうして、二人がグラスを合わせる直前、千代美の手が止まった。大事なことを思い出したのだ。まほは不思議そうな顔をする。
「あ、メルセデスのエンジンにも」
まほは微笑んで、うなづいた。
「ああ」
かちりと、軽い金属音がした。
◇
「ごちそうさま。美味しかったよ」
まほは正直に言った。
千代美は満足そうに頷いて、白い歯を見せる。そして、実際に満足していた。千代美自身でも不可解だったが、なにかの勝負に勝った気さえしていた。
「いいか西住、あれが〝食事〟だ」
「じゃあ私が今までやってきたのは?」
「〝作業〟だよ」
と、千代美は言い放つ。すると、まほはそれを復唱した。
食器を片付けた二人は、再びテーブルに向かい合って座っている。千代美が言った通り、ぺポリの味は確かだった。ワインのボトルは、半分ほど空いている。つまみにしているドライ・ソーセージの薄切りにも良く合った。
「辛辣だ」
「悪かった。言い方を変えるよ。養分の摂取」
「さっきとあまり変わらない」と笑いながら、まほは立ち上がる。
リビングのオーディオの方に歩いて行き、CDラックから無造作に引き抜いたのはS・ワンダーのアルバム〈Natural Wonder〉だった。その2枚目をプレイヤーに飲み込ませる。まほが席に戻ってしばらくすると、スティーヴィーが〈Dancing To The Rhythm〉を唄い始めた。
ぷつりと会話が途切れる。春先に凪いだ、海のような穏やかな沈黙だった。
まほは、その沈黙を〝アテ〟にして、ワインを口に運ぶ。華やかで、コクのあるぶどうの味が口いっぱいに広がった。ほんとうに、いくらでも飲めそうだとまほは思った。
飲み込んでグラスを置くと、ことりと音がした。
まほが口を開く。
「なぁ、安斎」
「どうした?改まって」
それまで、グラスを指先でもてあそんでいた千代美が、手遊びを止めてまほを見る。その表情は、とても真剣だった。だから、机に突いていた頬杖も、やめる。
まほが息を吸い込んだ。意を決したように口を開く。
「ウチに、こないか?」
沈黙が今度は色を変えて落ちて来た。息の詰まるようなグレーの沈黙だった。
千代美は、その言葉の意味が分からなくて、訳もなく親指の爪を撫でたりつまんだりした。顔を上げて聞く。
「それは、どういう?」
「言葉通りの意味」
まほが続ける。
「安斎は、いずれ1級から国際まで公認を取る気なんだろう?そのためには東京にいた方が都合が良い思うんだ。それに、今ウチのチームは指導者が不足してるんだよ。安斎は有名だし、私が推薦すればチームのコーチとして迎え入れることもできる。そうすれば、リアルな話だけれど、収入だってずっと増える。シュラスコだって、好きな時に食べに行ける。それに、家が見つかるまではここにいてもいいし……そうすれば、私も何日もレトルトカレーで過ごさなくてよくなる」
見ると、机の上に置かれたまほの拳は少し震えている。それで、今まほが冗談を言っているわけでは無いのが分かった。そこまで言ったところで、まほはグラスを掴んで中身を一気に飲み干した。
まほの提案は、間違いなく魅力的で建設的な提案だった。何一つ間違っていない。
だけど……。
千代美はゆっくりと口を開いた。
「最高の提案をありがとう、西住。多分、私が今〝ただの戦車乗り〟だったら飛びついてたよ」
千代美が紡ぐ言葉を、まほは黙って聞いていた。
「そう……〝ただの戦車乗り〟だったらね。でも、違うんだ西住。私は、お前が言った通り〝指導者〟なんだよ。まだまだ子供たちに教えないといけないことが沢山あるし、私自身、まだまだ教え足りないんだ」
そして、にっと笑って見せる。
「確かに、西住の今後の食生活は不安だし、プロの世界で指導者としてやってみるのもいいかもしれない。だけど、これが今の私の戦車道。甘いって思われるかもだけど……ご飯なら、いつでも作りに来てやるからな」
と、千代美が言葉を締めくくると、まほは首を横に振った。
「やっぱり、安斎は安斎だな」
オーディオからは〈Stay Gold〉が、ゆったりと流れ始めていた。
「安斎の気持ちの大きさとか重さを、私が図ることはできないよ。安斎にとって、それが大切なら、それが24金だ」
まほの言葉に、千代美はゆっくりと頷いた。そして、右手を差し出す。まほは少し驚いたようだったが、同じように右手を差し出した。短く、けれど堅い握手だった。
「帰ったら、子供たちに自慢するよ。プロにスカウトされたぞ!って」
「生徒募集の張り紙にも書き加えないとな」
最後の一切れになったドライ・ソーセージを摘まみ上げて、まほが言った。空になった皿を脇にどける。
「じゃ、最後に、もう一杯」
と、千代美が言った。ボトルを持ち上げて、ワインを2つのグラスに注ぐと、ちょうどボトルは空になった。一杯をまほの方に押し出す。二人は、それぞれにグラスを持つ。
「今度は、なにに?」
「それぞれの金色に」
まほの言葉に、顔を合わせて笑い合う。まほがグラスを掲げたのに、千代美も応える。今度はグラスを合わせることはしなかった。
スティーヴィーが〈Stay Gold〉のサビをしっとりと歌い上げていた。
fin
今回、作中BGMとしてスティービーワンダーを選んでみました。
「Dancing To The Rhythm」と「Stay Gold」です。両方とも素晴らしい曲で、歌詞も今回の話のイメージにピッタリだったのでコレを選びました。
久々の投稿で、文体もメチャクチャな上、消化不良感も凄いですが、楽しんで頂けたなら幸いです。