そばで歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
私は顔を上げる。
どうやら、急に降り始めた雨に、会社員のグループが上げた嬌声らしかった。同時に、街中が浮足立つのが分かる。私は、これ見よがしに準備していた折り畳み傘を広げた。天気予報さまさまだ。
広げたオレンジ色の傘を小雨がぽつぽつと叩く。私は、道をぽつぽつと歩く。
雨は、次第に強くなって来た。この天気だ、雪になるかも知れない。
指定したお店のカウンターで待つこと15分。指定した時刻ちょうどぴったり。恐ろしいほど正確に、その人は姿を現した。
「あら、ペコ。早かったのね」
「後輩の努め……ですかね。すみません、お呼び立てしてしまって」
「いいのよ。私も丁度飲みたい気分だったの」
ダージリン様は備え付けのコート・ハンガーに上着を掛ける。掛けられた真っ白なコートは、雪を塗り付けたように白かった。私の隣に彼女は座る。
「いいお店ね」
隣で、ダージリン様が呟く。今日、私がこの日のために選んだお店。それは、どうにか彼女のお眼鏡に叶ったようだ。
場所は横浜市の中区。サンフランシスコ・スタイルのロング・カウンターが特徴的なお店だ。小さく流れるBGMは《virtual insanity》
「私たちは隣どうしの席でよかったのかしら。離れて座った方が……」
「グラスを端から滑らせる……なんてことを考えてないですよね」
「この店からグラスがなくなってしまうわね」
自分で想像してツボにはまってしまったのか、ダージリン様はくすくすと笑う。
「とりあえず、何か飲みましょうか」
「そうね。じゃあ私は、ワインでも」
「私も同じものを」
「ペコも大きくなったわね……」
「なんですか」
「いえいえ。三日会わざれば……と言うものね」
グラスを黙って磨いていたマスターに目くばせする。すると、彼は無言で頷いた。彼の手元のグラスには、一点の曇りも見えなかった。
「あら、美味しい。ペコが選んだお店だけあるわ」
ダージリン様の言葉に、マスターが小さく頭を下げた。
「前に、先輩に連れて来てもらったことがあるんです」
「そこで口説かれた?」
「違います。チームの先輩ですよ。入団祝いに、って」
「無粋な先輩ねぇ。こんなにかわいい女性を前にして、口説き文句の一つも出て来ないなんて」
「からかわないでくださいよ。素敵な先輩なんですから」
「私よりも?」
唇を尖らせるダージリン様。何となく感じる優越感。
学生時代にはできなかったような会話が、妙に心地いい。
「ま。それはそうと」
ダージリン様が続けた。
「今日は、なんの用なのかしら?」
彼女らしい単刀直入な質問だった。
私は無意識に視線を逸らしていた。ダージリン様の眼差しが、私の横顔を斬りつけるのが分かる。
逸らした視線の先には色とりどりのボトルが並んでいた。ブラウン、グリーン。ホワイトにコバルト・ブルー。それらは、店内の薄明りに照らされて万華鏡のように輝いて見えた。
「それは……」
言い淀む。
こういう所は流石だ、と思った。他の人とは鋭さが違う。勘とはまた違った、嗅覚にも似た独特な感覚。彼女のそれは、学生時代よりも鋭敏になっているようだった。
「失礼するわね」
隣でダージリン様がタバコに火を点けた。フリント式で細身のガスライターは、キャサリン・ハムネット。〝らしい〟チョイスだ。唇から吐き出される煙が漂い、空調に掻き消されては消える。
「本当は辞めたいのだけれどね。ワインの味も分からなくなると言うし」
と、ダージリン様ははにかんだように言った。それが、彼女なりの緊張のほぐし方だろうことはすぐに分かった。学生 時代にも何度かその表情にお世話になったことがあったからだ。
私は、グラスに残っていたワインをぐい、と飲み干す。『話します』の合図だ。
「実は、相談がありまして」
「何かしら?子猫の里親募集なら、生憎だけれど……」
「そうじゃないんです。仕事のことで」
「随分と深刻ね」
「深刻です」
「話してごらんなさいな」
ダージリン様は正面を向いたままだ。先ほどから、彼女はワインに手を付けていない。グラスの中はもう温くなってしまっているだろう。
「来シーズンのことです」
「もうすぐだものね」
「はい。私、ファームから上がれるのかなって……」
私が今日彼女を呼び出した理由はそれだった。来シーズンへの不安をぶちまけるため。そのために彼女を呼び出したのだ。ダージリン様は黙っている。
いつの間にか、BGMは《Cosmic Girl》に変わっていた。確か、このミュージック・ビデオに登場する紫のランボルギーニ・ディアブロは、事故で大破してしまったはずだった。
ダージリン様は、一本目のタバコを灰皿でもみ消した。一拍間を置いて喋り出す。
「ペコの目標は何かしら?」
「え?」
「目標よ。1億円プレイヤーになる、とかブガッティ・ベイロンをキャッシュで、とか。殿堂入りする、とか自分のチ
ームを持つとか、そういう目標」
「そういうのは、まだちょっと……」
「まだ、ね」
ダージリン様は二本目に火を点けた。
薄暗い空間で、ゆらゆらと揺れる火種が蛍のように見える。彼女は続けた。
「多分、貴女は焦ってるのよ。ペコ」
「焦ってる?私がですか?」
「そうよペコ、焦っているのは貴女。他の誰でもないわ。貴女はプロ何年目かしら?」
「一年目です」
「そうね、一年目。しかし、本人は聖グロきっての装填手。ダージリンの後継者。同期には、あの〝首切りウサギ〟の澤梓。活躍を期待されながらも、今はファームでの調整を余儀なくされる……でも、〝一年目〟」
そう言って、半分ほどになったタバコをもみ消すダージリン様。そのフィルターには、柔らかなピンクのグロスが張り付いていた。
全てが図星だった。私は唇の裏を前歯で噛むことしかできない。
「焦り……というか。背伸び、にも近いかしら」
「背伸び、ですか」
「そう、背伸び。人間の価値は、絶望的な敗北に直面して、いかにふるまうかにかかっている」
「ヘミングウェイですか」
「そう。でも貴女はまだ負けたわけじゃない。今、何が出来るか……するべきかを考えるべきよ。私が知ってるオレンジペコは、もっと我慢強くて、目標を持っていて、目先の利益では動かない聡明な女性だわ」
何と言葉の回りくどいことだろうか。
しかし、今の私にはそれで十分だった。十分すぎた。
喉に刺さった魚の小骨が食道を流れていくように、ストンと自分の中に何かが落ちる。
『自分らしく、出来ることを』
言葉に詰まったままダージリン様を見る。すると、彼女は笑っていた。
「すべての道はローマに通じてるのよ、ペコ。それを忘れないことね」
そう言って、三本目のタバコに火を点けるダージリン様。彼女は、一時見ないうちに相当なヘビー・スモーカーになってしまわれたようだ。
「ご注文は?」
マスターの声がした。私は顔を上げる。
「――ギブソンを、こちらの女性にも」