首元のマフラーに顎をうずめる。静電気で逆立った毛糸がチクチクと頬を刺した。疲労を絞り出すような深い吐息は白く色付いて、夜の空に薄く広がっていく。
寒さは身を斬るようだが、ジムで絞られて火照った体には心地いい。
とはいえ、シャワーを浴びたての身体だ。このまま、いつまでも12月の寒さを味わっている訳にもいかないだろう。風邪などこじらせてしまっては元も子もない。
私はコートの襟を合わせて、併設の駐車場に向けて歩き出す。すると、ポケットの携帯が鳴っていることに気が付く。
取り出した携帯電話。その画面に表示されている発信元の名前を見て、私は思わず眉間に皺を寄せた。
◇
「一体、どういうつもりだ」
「どういうって、どういう?」
「どうもこうもあるか。いいか……もう一度聞くぞ?一体、どういうつもりだ」
ハンドルを握りながら、私は少しだけ語気を強めた。
だが、隣に座る根無し草。風来坊。旅ガラス。流浪人。まぁ、この際呼び名はどうでもいい。――は、余裕たっぷりに答える。
「そんな怖い顔、貴女には似合わないよ。まほさん」
「そんな顔にさせたのはどこの誰だ?ミカ。他の誰でもない、お・ま・えだ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その責任の所在を明らかにすることに、何か意味があるのかな」
「分かった。分かった。もういい」
押し寄せる疲労感。正論など通じない相手だったのを忘れていた。
私は、青色に染まった溜息を吐いてハンドルを握り直す。アクセル・ペダルに置いた右足も踏み込んだ。
私たちを乗せるのは、メルセデスのゲレンデ・ヴァーゲン。その、4L V8直噴ツインターボエンジンが静かに唸りを上げる。スピード・メーターは、50マイルから60マイルへ。そして、ゆるやかに70マイルへ到達する。
カー・ラジオから流れるのは《Danger Zone》
もう11時近いと言うのに、未だ車の多い首都高速4号新宿線。その上で、タイヤをスタッド・レスに履き替えられた ゲレンデ・ヴァーゲンは一台、また一台と追い越していく。たった今追い抜いたのは、目も覚めるような黄色のフォルクスワーゲンだ。真っ赤なテール・ランプが、蛍火のように流れて見えなくなった。
「スピードの出しすぎは良くないよ、まほさん」
「ボディの堅牢さを確かめてみるのも悪くないだろう?」
「笑えない冗談だよ、まほさんらしくもない」
「冗談に聞こえたか?なら、謝ろう」
笹塚駅を左手にしながら走っていると、福永インター・チェンジが見えてくる。
私は、車をゆっくりと減速させながらハンドルを左に切った。
◇
「いいお湯だったよ」
シャワー室から出て来たミカは、薄い色をした下着だけの姿だった。
私は、几帳面に折り畳んだ服の山を指さす。
「とりあえず、何か着ろ。そこに私のジャージがあるだろう」
「見るに、こっちのセンスは相変わらずのようだね」
「何か言ったか?」
「空耳さ」
「いいからさっさと着ろ。家で風邪をひかれても困る。招かれざる……だが、一応客は客だからな」
「心配してくれてるのかい?」
「心配しているとすれば、それは自分自身の体調だよ。ミカ」
そう言って、私は対面を指さす。それは〝座れ〟の合図だ。
胸元にブランドのロゴがでかでかと印刷されたジャージを着て、ミカは対面のソファに腰を降ろした。
私は、手元の紙箱からタバコを取り出す。いつの間にか、中身は3本のみ。内心、舌打ちする。
「吸うんだね」
「私だってタバコくらい吸うさ。酒を呑む時、コーヒーを飲む時に考え事をする時。それと、胃が痛い時と〝誰かに説教をする時〟にね」
指折り数えながら懐から取り出したイムコ・ストリームライン6800で、タバコに火を点ける。肺に深く煙を落として、一気に吐き出した。すると、ミカが言う。
「じゃあ、それ消して貰っても?」
「私は、電話を無視しても良かったんだぞ。そうすれば、1時間前には温かい布団の中にいられた。余計なガソリンも使わず、これから〝余計なタバコも吸わずに〟だ」
「なるほど。そういう考え方もあるね。時間は有意義に使うべきだから」
「それについては全く同意見だよ。私も、つくづくそう思う」
タバコの火種が、ちりちりと紙を焼き焦がした。
ジムを出て、掛かって来た電話の内容。それは、余りにも突飛な内容だった。
『今、新宿駅にいるんだ』
話口に聞こえたのは不思議な〝報告〟
それを、私は聞き返すことはしなかった。そこに至るまでの経緯と、それからの出来事にはなんとなく予想が付いたからだ。
新宿駅で彼女の姿を見つけた時も、再開は久しぶりだというのに《私のハートはストップモーション》とはいかなかった。帰宅を急ぐ人の群れを掻き分けて、無言で近づき腕を掴む。そのまま車まで引っ張って行き、車内に押し込んだ。
我ながら少し乱暴だったとは思う。が、そうでもしないとあの場で口論を始めてしまいそうだったのだ。
灰皿に灰を落とす。細かな灰が、雪のようにふわりと舞った。
無造作に灰皿に置いたタバコ。それから立ち昇る煙は、空調に煽られて霧散する。掴みどころなく揺れては消えるそれは、まるで対面に座る年下の女性にも似ていた。
「なぁ、ミカ。別に私は、迎えに呼ばれたことも、お前を突然ここに泊めることになったことも別にいいんだ。怒ってなどいない、これは本当だ」
私は、自分に言い聞かせるように言った。
ミカの表情は変わらない。
「ただね、一つ質問があるんだ」
元々、お互い饒舌な方ではない。当たり前のように沈黙が落ちる。
『質問がある』そう言ってしまった上で、私は質問を躊躇っていた。どこかで、救急車のサイレンの音がする。聞こえる音は、それだけ。
視線の先で、伸びきった灰がポトリと落ちた。
「……どうして、ウチのスカウトを断った?不真面目な地方の選手を引き抜くだけにしては、待遇も破格だったはずだぞ」
それが、私が聞きたいことだった。
それは、ずっと引っかかっていたこと。
シーズン開始を前に、私はオーナーからミカをチームに招く構想があると聞かされていた。既に、獲得に向けて動いていることも。
しかし、ミカはそれを断った。そして、ふらりと何処かへ姿を消してしまっていた。誰にも行先を告げずに。そんな人物が突然新宿に姿を現して迎えに来いと言うのだ。タバコの本数だって普段より2割増しだ。
「それが、まほさんが怒ってた理由かな」
「怒ってはいないと言っただろう」
「どうかな」
「理由が聞きたい。ただそれだけだ」
「理由」
呟くようにミカは言葉を反芻する。彼女は天井を仰ぎ見た。視線を暫く泳がせて、続ける。
「別に、プロとして戦車に乗るのが嫌な訳じゃないさ。ただね、テレビで見るキミがあんまり必死そうに戦車に乗ってるものだから」
「必死は悪いことか?」
思わぬミカの言い草に、拳に力が入った。
しかし、素知らぬ顔でミカは言う。
「そうは言ってない。でも」
そこで、ミカは一度言葉を区切った。覗き込むように私の顔を見る。
「これっぽっちも〝楽しそう〟じゃないのさ」
◇
「楽しそうじゃ、ない?」
「ああ。そうだよ。しかも、これっぽっちもね」
「分からないよ、ミカ」
「私に分かって、まほさん本人が分からないワケがないさ」
困惑と動揺を隠しきれないままミカに問う。
だが、彼女はそんな私の様子を楽しんでいるようだ。
気が付くと、置き去りにされたタバコの火は消えていた。
「キミのそんな顔を見るのは初めてかも知れないね。スゴイ顔をしているよ」
くつくつと、ミカは肩を揺らす。
時計を見ると、日付は変わっていた。部屋にミカの声だけが響く。
「まだ分からないのかい?じゃあ言うよ。キミはね、学生の時のほうが楽しそうにしていたよ」
ミカは笑うのを止めて、一転真剣みを帯びた表情になる。
「そんなまほさんがプロになって、辛そうな顔をして戦車に乗っているのを見て……私がプロとして戦車に乗りたいと思うかい?他の人に、キミがどう映っているかは知らないけどね。少なくとも、私にはそう見えるのさ」
予期せぬ言葉だった。
戦車に乗る私が、ミカにはそう映っていたのか。
しかし、言われてみればそうかも知れなかった。きっと、彼女が見たのは前シーズンの映像か何かだろう。勝敗に拘り続け、命がけで試合に臨む。戦車とトレーニング漬けの日々。
結果を出すのがプロだ。そんな〝プロとして〟あろうとするばかりに、私の表情は般若のようになっていたに違いなかった。
「なるほど、そういうことか。理由が分かったよ、ミカ」
「そういうことさ。それにね、キミ……西住まほには、その表情の方がお似合いだよ。ファンの数だって、うなぎのぼりさ」
全てを理解した時、全身から力が抜ける。言いたかったことの全てが溶けてなくなったような心地がした。同時に、笑いがこみ上げる。
一頻り笑った後、私は立ち上がった。
「喉が乾かないか?普段なら水道水でも飲め、と言う所だが……今日は、何か一杯ごちそうしよう」
「本当かい?手作りの一杯が飲めるなんて、私はとても幸運かも知れないね」
呑気なミカの言葉を背中で聞きながら、オーディオ・プレイヤーの電源を入れる。
再生ボタンを押すと、流れ始めたのはKenny Logginsの《Footloose》
いつしか、忘れてしまっていた気持ち。それを、この人物から気が付かされることになるなんて思ってもみなかった。これからは、それを少しだけでも意識してみよう。
そうすれば、きっと今までよりも、もっと――色んなことがウマく行くはずだ。その感謝を込めて、カクテルを一杯振舞おう。それと、最後に確認を。
「なあ、ミカ。本当に、私と一緒のチームで戦車に乗る気はないのか?」
「その時はその時さ。また良い風が吹き始めたら、考えるよ」
「そうだな。その日が来るのを楽しみにしているぞ」
彼女らしい答え。それを聞いて私は笑う。ウチの優秀なスカウトは、これからも苦労することになるだろう。
戸棚に手を伸ばす。手に取ったのはドライ・ジンと、マラスキーノ。洋酒メーカーもスポンサーにいるらしい、ケイが送り付けて来たシロモノだ。それと、レモン・ジュースを冷蔵庫から取り出した。
それらを混ぜ合わせれば完成だ。出来たカクテルを机に置いたコースターに乗せる。
レモン色をした液体が、グラスの中で静かに揺れた。
「まほさん。これは?」
「これはな――」
目くばせをして、グラスを取り上げる。それは、乾杯の合図。
「――アビエイション、って言うんだ」