烏なき島の蝙蝠─長宗我部元親(ただし妹)のやっぱりわたしが最強★れじぇんど! 作:ぴんぽんだっしゅ
父上が率いるのは五百。
「全軍ッ!進めぃッ!」
「「「応ーッ!!!」」」
小昼は中島隊に預けられて遊撃隊ポジション。ここに五十。国康叔父さんズは百。
「我らも続くぞっ!」
吉田重俊に百。
「遅れを取るで無いぞ。親秀なんぞ、この槍の一触れよ!」
江村と福留に五十ずつ。
「では親政どの、我らも続こう」
「そうするか。皆ども抜け駆けをする奴は俺の太刀の錆にしてやるぞ!福留の武みせてやれぇっ!」
これが香宗我部との合戦への割り振りとなった。
対する香宗我部は当主秀通本陣が三百。右翼に池内が五十。左翼に池宮が五十。
「ご報告します!敵陣は川の向こう、更に敵陣奥には別に隊が!その数、およそ百!」
続けざまに入る偵察の報告によると、更に離れたところに百ほど控えているということなのでこちらが別動隊の村田や、芦田がいるんだろうか。
芦田というとどうやら陰陽道に通じる陰陽師らしい。ってもラノベの陰陽師のような万能なチートとは違う、いたって普通の陰陽師だ。占いとか、天気予報をしたり医者だったって伝わってるくらいでその程度のことが出来たんじゃないかな。
医者って言っても独自の薬学があって薬が作れたくらいだろうから薬師なのかも。
何にせよ、前線に出張るような部隊じゃなさそう。
後方支援のための出陣なんじゃない?
それから間もなく両軍は物部川を挟むように対陣した。
物部川は剣山の辺り、土佐東部の白髪山から西へ流れ、土佐中央部山田方面で流れを変えて香長平野を東西に割って南へと流れる。
物部川の激流が、上流から肥えた上質の土を香長平野まで運び、天然の沃土を作り出したのでしょうね。
我が長宗我部勢が配置に着く頃には川向こうに壮観な光景が広がっていた。
あくまで小昼的にはという意味で。
それは、
「わあ、凄い……」
思わずその状況に、感嘆の声がそんな風に、こぼれてしまった事でもわかってもらえるじゃないかな?
そこに広がっていたのは、川岸を埋め尽くす旗。旗には割菱の家紋。割菱じゃこの興奮がいまいち伝わらないね?じゃあ、その割菱が武田剣花菱にソックリだったらどう?
「知識としては知ってたけど、武田花菱なんだ」
「あれは割菱ぞ。元親どの」
赤地に黒の割菱の旗が、河原を吹き抜けていく強風に煽られて、バタバタと激しく揺らめいていたんだよ。
剣花菱なんだよ、武田ソックリ。
まさか、土佐で、武田の旗を見るなんて思わなかった。
思ったままを口についつい出して言葉にしちゃったから、中島隊の誰かに軽く突っ込みを入れられる。
けど、まてよ?
確か秦氏は甲斐武田の家臣とかで本貫地は元々はあっちなんだよね、つまり長宗我部も剣花菱を使ってたっておかしくないはず?
香宗我部は甲斐武田の一条家が後裔ということで、乗っとり食らって服属するまでは戦で香宗我部の旗というと武田剣花菱だったというわけで、今の目の前の光景に繋がるのですよ。
それにしても、凄い景色。
ぶるりっ
武田軍の戦うみたいで、変な身震いしてくる。
別物なんだけど、ある程度の知識がある分この花菱を見たら武田だ!って思っちゃうじゃん。最強武田だもん!それなりに威圧感を放ち出すってわけ。
たかが旗で。たかが家紋なのにね。
一条(房基や兼定の五摂家じゃない。)の後裔だったから、岩崎とか、内藤とか、馬場とか武田家臣が甲斐を追われた後にこっちに移り住んだりしたんだろうね。ん、でも岩崎って安芸家臣やってるはずだよね、今頃は。先に土佐に出てきて前例作ってたわけか。
武田花菱、武田割菱をへて三階菱が岩崎家にあったことで平成の三菱グループのシンボルの見慣れたあれが出来るというのは、歴史の流れは凄い。武田は滅んだけど平成まで家紋が繋がった。そのままは残って無いわけなんだけど。
そんな、知識の擦り合わせで新たな発見をして興奮をしてる内に新たな報告が飛び込んでくる。
「中洲に敵左翼、進出の構え。その数三十!」
既に敵左翼に動きがあり中洲に進出しているという。
報告を聞いて、父上の考えを頭の中をすっぱ抜いたようにビジョンが浮かぶ。
虎であって、人でない、思ったら即行動なタイプの父上ならやりかねないんだよ。だから、あえて釘刺して牽制しておこうか。
「父上に伝言を。川を渡るのはご注意を、と」
川は流れが緩やかに見える。けど、水深は浅くは無い。
土佐馬が120センチくらいなので、馬を降りて入水することになる。渡るのは危険だね、これは。
房基から日向の駿駒を譲って貰って、父上と小昼だけは一回り大きい馬を与えられているけど、暴れ馬で、まだ馴れていないから小昼としては乗りこなせなくって留守を預かる城番の桑名に見て貰っている。
父上は無理やり乗りこなしてるようだから、いつも通り走るとは安易に考えそうで怖い。駿駒と言え、大型馬なんで土佐馬みたいに従順で優しい子と思わないで欲しい。
人馬一体にでもなれないと渡河なんてやってやれるものじゃない。流れだってこの物部川は一定じゃなくて基本けっこう早い。底だってけっこう深い。
浅知恵で中洲を今の水流で急襲しようとしたら、流されるか振り落とされて溺れるのが関の山。目に見えてる最期だ。だから、あえて釘を刺すんだ。
深さや水流だけじゃない。川岸から弓矢が降り注ぐだろうし、香宗我部は非が無いのに攻めこまれたいわば被害者だ。
不当だ、と触れ回ってこの周囲の勢力の援兵も来るかも知れない。この辺りだと、援兵は下司や公文で決まりかな。
岡豊を出発して半日で遅い兵列でも物部川が見えた。
前日は川から離れた天満宮にて陣を敷き、戦勝を祈願している。
神の助けこそ必要と戦国に生きる人たちは思っている。虎と言われていても、父上もそれに漏れたりしない。慣習としてあるんだから、省けない事柄なんだろうね。
昨日も、今日も雨は降ったり止んだりなのは初夏だから、梅雨の時期だから。
そのせいか物部川の回りは泥たまりと湿地とになっていた。
河原にまで行けば砂利と小石の足場が確保できるんだとは思うけど、近寄れば弓矢のいい的でしかない。考えろ、考えろ。
もちろん、戦力として水増しできる新しく増えた領民は今回は連れてきていない。そんなには。
急いで訓練のまあまあの仕上がりを見せた数十といったところが精々なのです。
この数十にはまた後ろを取って貰いたかったのですが……。
さすがに今回、敵陣に孤立した伏兵は死んでくれと言い渡した囮のようなもので、用途がわかると引き受けてくれる人は数人しかいませんでした。
武士とその他の民の意識の違いもあるでしょう。
彼らは死を超越した歴戦の兵ではないんですから。
無理は言えませんよね。
強いられているんだ!って喜んで死んでくれる人は居ないでしょー?
さて、そうしてる間に膠着していた戦況が変わったようです。
別勢力が横入りらしいので、
「ご報告。川の南の手より新手、その数五十!国康隊と敵左翼の間に陣取る構え」
旗色から物部川の南の手からの勢力・公文の兵との報告。
マズイ、マズイですよ……。
公文の参戦は、別の勢力を呼び込むことに為りかねませんから。
「いい?父上に伝えて。公文を叩き出すべき、と」
我が長宗我部勢は中洲を囲むように布陣。
数百メートルの間が空き、それぞれ北から、中島隊、吉田隊、本陣、江村隊、福留隊、国康隊。
南から横入りした公文隊は、国康隊より更に南に布陣して香宗我部と国康隊を睨む。
公文を放っておくと、このチャンスに香宗我部を支配下に。と細川が出陣してくる可能性が微レ存とはいえある。
陣触れは十日出ていた。
細川が察して準備していないと思う方がよっぽどおかしい。
……漁夫の利は最もおいしいんだもの。
細川にとっては元々、全部自分の家臣。言って聞くようでは無くなったとは言え権威を取り戻したくないわけがない。
取り戻しせるなら、チャンスと見れば横入りしてきて美味しくいただこうと考えるはず。
小昼ならそう思うし、常識としてもそうだろうし。
更にいやな報告。
「大津から出陣。天竺隊と津野の両勢でその数、およそ三百!」
うわぁ、長宗我部勢か香宗我部勢、どちらに天竺が付こうがこれじゃ乱戦必死だもん。
後ろを押さえられ兼ねないんだけど?
こちらに策があってもリスクを抱えることに違いないんですよ。
父上が先走ったってわかんだね。
細川の田村城にも動きがあるらしい。
と、ここまでで夕暮れになった。運の良いことに、仕切り直しだ。公文の兵が引いていく。
中洲の香宗我部兵はそのまま陣炊きを始めたようで、いくつも煙があがっていた。
小昼の属しているとこの中島隊は……監視に川側のぬかるみの無い平地を見付けてここに陣を立てる。
父上は天満宮まで帰るだろうし、ここらに五百が安全に寝てられる平地は無いからね。
中島隊を残して全軍が物部川より一時間くらい戻った天満宮に着陣と伝馬が届いた。
ただし、その命令に噛みついて是非とも残ると言ったのは江村親家だった。
彼らは一家の十数人を再編成して残りを福留隊に預けてこっちに合流してきた。
「功が欲しい。奴等、夜駆けしないとも限らんからな……中島隊に入れば首取り放題と、俺の勘が言っている」
香宗我部に馬場とか有名どこの末裔が居た。岩崎が武田。ってことを知ってからは川岸のシーンは決まってました
平成の歴女が見たら身震いするだろうなって、のことで
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