瓦解都市 作:匿名
碌でもない街があったものだ。
錆び付いたパイプ、吹き上がる蒸気。大気河川土壌の汚染、詐欺強盗に麻薬に銃声、強姦売春人攫い、見世物小屋に奴隷商。魔都というなら確かにそう。しかし、彼の租界と異なるのは、警察組織と政治の腐敗。倫理と道徳に眼を瞑り、見かけだけの華やかさを振りまいたその裏に、暗い暗い闇を隠した繁華街。突き抜ける煙突の群れ、積み重なった積み木のような建築物。汚れた大気の映しだす紅い月の明かりの中で、不気味なシルエットを浮かばせるそれは、巨大な魔物の姿にも似て。
誰が、こんな世界にしてしまったのか。誰が、こんな世界を望んだのか。遥か昔は、建ち並ぶ木造建築、広がる田畑。人々の笑顔に溢れる、そんな暖かな国であった筈。道を踏み外したその日に何があったのか等、最早、知ることさえ叶わない。
現実と幻想の境界さえも緩み。噂は体を持って徘徊し。人の街、というにはもう、内包する存在が多すぎるこの世界。パンク寸前にあってさえも、まだ、広がり続ける魔都が、其処にあった。
空から降り注ぐ日の光。狭く、青の無い空。灰色の空。香るのは吐き気を催す排気ガスの匂いと、未だ降り始めぬ雨の匂い。左手にぶら下げた赤茶色に錆付いた蝙蝠傘の重みを確かめながら、通りを歩く。気の触れたような格好をした者もいれば、ぼろ布を纏った者もいる。籠に詰まれた農薬塗れの果物と引き換えに金を差し出す者もあれば、その背後に隠れながら、掴んだ商品を懐に隠す子供の姿も見受けられ。転がる空き缶を蹴飛ばす者もいれば、灰から溢れる煙草の煙を空目掛けて吐き出す者もいる。張られたテントの下で売られる香辛料塗れの肉、乱雑に詰められた野菜、何処の国のものだかも知れぬ言語の印刷された袋。それら全てが輸入品であることからも、この街の生産性が皆無であることが窺い知れた。
絶望的である。しかし、誰も気に病むことなど無い。この街の未来など、皆どうだって良いのだ。それは、私も変わらず。とりあえず、今日の空腹を満たすことが出来れば。その場限りの欲を満たすことが出来たならば、それで。そんなことを考えながら、その場に立ち続け。
日が、暮れ始める。
人々は足早に帰路を歩み、商売人たちは自身の広げた商品を仕舞い込んでは、逃げるように姿を隠す。降り始めた夜の帳は、そんな人々を追うかのように。彼らの逃げ込む建造物の裏を、切れ掛けた電灯の照らす門を。影を。黒く、黒く塗りつぶして行き。
私は、一人。人気の無くなった通りに立ち尽くす。
目的などは無かった。未来への希望も、辿って来た過去への執着も無かった。残っているのは、今、生きているという実感のみ。否。その実感さえ、もう、湧き出すことは無い。
このまま眼を瞑っていたならば、そのまま消えてしまえるのではと思うほどに。どうせ、夢か現かも分からないようなこの世界。眠っていたほうがまだ、幸福な世界で過ごせるのだから。このまま此処で眠りについても良いのかもしれない。
夜が迫る。人ではない者たちが目を覚ます時間。話によると、彼らは人を食うらしい。この街にある唯一の図書館……治安なんてあったものではないこの街で、最も安全な無法地帯の一角に存在する図書館に収められた本によれば、彼らのことをこの地では古く、妖怪などと呼んできたらしい。昔話の挿絵に描かれたその、妖怪たちの姿はなんとも恐ろしく、そして、何処かコミカルで。そんな彼らにならば、この貧相な血肉、分け与えても構わないのではないか、なんて。呆とした頭で考えながら、只管、その場に立ち続ける。
夜の闇に呑まれる。ポツリポツリと落ち始めた雨粒が、私の髪を、服を、肌を塗らす。その朧気な感覚だけに、身を委ねて、私は視界を闇に染め。
静かに。その、暗闇の中で瞳を閉じた、私の手を。
誰かの。小さな、柔らかな手のひらが、掴んだ。