瓦解都市 作:匿名
――膿の臭いが、鼻の奥に纏わり付いて離れない。
冬が過ぎて春が来て。真っ白の雪が汚れた雪駄と靴に踏まれて泥に塗れて。覗いた土塊、持ち込まれた油。混ざり混ざって汚れに汚れ、遂には、日向。重なり合った屋根、瓦、積み上がった瓦礫、積み木の城……色めく城郭。廻廊、中庭、突き出した煙突から上がる煙は――あの煙突は、台所。何れ食事の知らせが来る。
一つ、一つ。目に見える景色を確認する。それくらいしかやることがない、なんて。住処と職場を兼ねたこの場所に居て、何を言っているのだろうかと、手の中にある毛玉を撫ぜる。
撫ぜるのを、躊躇う。撫ぜて良いのか、触って良いのか。肋の形がよく分かる。呼吸の度に膨らむ身体と、閉じた瞼。拭いてやっても、拭いてやっても目脂が溜まる。閉じた瞼の先、薄っすらと覗く目玉は、白く……膿んで、僅かに膨らんでいる。この城郭に獣医は居ない。人間相手であるならば、医者も産婆も控えていたが。
本来ならば、親猫が舐め取ってやるのだと言う。それが無い故に、この子の瞼は開かぬまま。親猫は何処へ消えたのか。知性も慈愛も有ると言う、人間ですら、此の城、此の街、この様。猫を責めるにも徳に欠ける。
生き死に等に、一つ一つに目を掛けてやる程の暇は、此の街には無い。それが有るのは、富裕層の連中くらいだろう。結局は、富に飽きた先、生きるに飽きた先にしか、悟りなんてものは無いのだろう。この巨大な遊郭は、他よりも裕福であるらしい。
「猫かい。愛らしい」
聞き慣れた声。私よりもずっと年上の。
「死にかけよ。目も開かない。腐ってるかも知れない」
「それでもさ。
「アレは獣医じゃ、ないよ」
同じだろう。断定の口調は、いつ聴いても小気味良くて好きだった。時折、間違いさえ押し通す嫌いはあるものの。
「人と豚はよく似てるんだとか言って、にやにやしてやがる奴だよ。薄気味悪い。人と豚が同じだって言うんなら、猫くらい見れるだろう」
悪い奴じゃないがね。そう吐き捨てて、障子の向こうへ去っていく。客が入っているんだろう。よく、彼女を呼ぶ客がいる。私が知るだけでも、長い付き合いだ。化粧は段々と厚くなっていく。彼女も何れ、此処を去っていくのかも知れない。
猫を抱き上げ、彼女が開いたままで行った、障子を潜り廊下へと出る。着込んではいるが、それでも寒い。冷え切った床の冷たさが、足袋の先から染み出してくる。抱いた子猫を懐に包み、歩みを進めた。
「嬢、俺は獣医じゃあねぇんだ」
「姐が、先生に診て貰えって」
「都合のいい時ばかり先生呼ばわりしやがって。猫は」
悪態を吐きつつも、手を伸ばしてくる。痩せて、骨張った手だ。枯れた柳が動き出したよう。
「これ」
手渡した猫に、真ん丸の眼鏡の先に、目を細めて。
「駄目かもしれんなぁ」
「やっぱり、駄目?」
「歯が生え揃ってら。その割に、小さ過ぎる」
逸れたのか捨てられたのか。猫の事情なんて、知るはずも無く。
「どうすれば良い」
「捨てても咎めんだろうな、誰も」
「出来るだけ生かしてやりたい」
「好きにすればいい」
ぶっきらぼうな。しかし、言葉とは裏腹に何か、資料であるらしい冊子を取り出し始める辺り、やっぱり、面倒見が良いのだろう。
乾いた紙を捲る音がする。
「その、冊子は?」
「前にも居たんだよ、子猫を飼いてぇってやつがさ。下らねぇことでも記録は取るたちでな。真っ白い奴だった。毛玉みてぇな奴だったよ。猫は、しばらく預かってやる」
お前の仕事が終わるまで。彼は言う。
彼女がそうであるように、私にだって、客がいて。それにしても、嗚呼――
敷いた布団の上で、子猫に餌をやり続ける。
仕事の中で掛けられた言葉も、触れる手も。虚ろなままに時計は進み。演じるように絆されて、歌うように突き放す。湿った音も、振動も。熱も、声も、痛みも、全て。海の匂いに呑まれて消える。
好いていると。愛していると。
その人が私の夜を買ったのは、一度、二度のことでは無い。惚れているのだと言う。言うが、互い。熱に浮かされ漂う中の言葉では、酔いの中の妄言と同じ。
「死んだって良い。君のためなら、殺されたって」
軽はずみな言葉。大言壮語、巧言令色。言葉を花に飾っても、飢えて死ぬのは何処までも惨く。その言葉と抱いた思いに嘘、偽りはないのだろう。まだ、私は若い。この城においては、商材の一つ。故に、ある程度の自由が認められるのであって。それを持ち出し、逃げるというなら。その末路は。
故に、
ここには自由がある。私たちは籠の鳥であっても、籠の外に広がるのは汚穢の海。腐敗した肉と混ざり合った化学薬品、油の放つ香りに満ちて煙った大気。生きるに飢えた獣と同じ、殺すを罪と思わぬ群。
そんな中へと引きずりだそうというのであれば。それは、酷く残酷なこと。彼らの当たり前は、私たちの当たり前で無く。逆も、然り。私たちは、彼らが当たり前に死んでいく中で、当たり前に客を取り、当たり前に生きていて。
そんな、普段と全く同じ挙動を今日も繰り返す。ただ、違うのは、弱り切った猫の姿が頭の隅にちらつくことで。そんな中でも私たちは、疲れて、果てて、それで終い。着崩れた衣も、乱れた呼吸も。何もなかった、なかったように取り繕って。そうして、自室。医者の元から帰ってきた猫は、目の膨らみが僅かに和らぎ。膿を出したのだという。洗ってもやったのだと。こんな巨大な遊郭を、一人で視る人間だけあって面倒見がいい。礼として出した幾らかの紙幣は、対価としては十分な値であったらしい。引き換えに渡されたのは、針の無い注射器と、餌。火を通す前の、練り物のような……それを、注射器に詰めては、猫の口に運び。食べ物であると認識していないのか。目は、やはり見えていないのか。鼻が利かないのか。時折開いた口に注射器を入れ、餌を押し出し。そうしてやっと、水を飲むように飲み込んでいく。
少しずつ、少しずつ。これだけの量をやれば良いと、言われただけの餌、尽きるには、まだ掛かる。片手に収まる小さな毛玉。赤子よりもまだ小さい、まだ軽い。
死ぬのかもしれない。成長なんて、しないのかもしれない。肋の浮いた獣の子供、弱弱しい姿。育ったところで、此処は排気瓦斯と汚れた水と。荒び汚れた人の心、身。得体のしれない病が蔓延り、血と死の穢れに満ちた街。
それでも、生かしてやりたいと思ったのは。こんな世界、こんな生でも。私自身が、捨てきれないからなのだろう。この城でなら。私達、人ではない猫ならば。本当に自由に生きていられると……そんな姿が見たくもあった。
私自身は、生きたくて生きているのか、死にたくなくて死なないのかも、分からないけれど。
「育ってくれるといいな。中庭に、もう一匹猫がいるんだ。真っ白の猫が」
語れど、人語は分かるまい。言葉で、この子を勇気付けることは出来ない。故に、これは。私自身に向けた言葉なのだろう。
「ふてぶてしい奴だよ。人の上に平気で陣取るような奴だ。此処なら、みんな可愛がってくれるよ。お前たちは愛らしいからね」
猫を撫ぜる感覚は、人肌に触れる感覚とは違う。猫に対して感じる情は、人に抱く情とは違う。それを欲しただけなのかもしれない。所詮は、只の、我儘なのかもしれない。
思いながら、餌をやり終わる。随分と掛かった。夜も遅く。眠気が来る。
「育つといい。育つといい。そうして、きっと。気儘な、自由な」
布団に、身を横たえる。小さな命、冷えないように抱いたまま。
赤子を抱いて眠るなら、きっと、こういう風なのだろう、と。叶うならば、潰えることなく生きてほしいと。
生きてほしいと、そう思った。
けれど。膿は除かれ、体は洗われ。だというのに、矢張り、嗚呼――
一日、二日、三日と経って。一日に数度、食事を与える。糞を出させる。手頃な箱に布を敷き詰め、暖を取るため湯湯婆に、風呂の湯を入れて置いておく。やっていることが正しいのかなど、分かるはずもなく。只、只。医者の言葉と、猫を育てたことのある、姐達の言葉を頼りに振る舞う。
けれど、けれども。秤に乗せれど、重さは増えず、痩せたまま。一日、一日。更に衰えていくようにさえ。食べ切る餌の量も、日に日に。
死ぬのだろうか。このまま、この子は死ぬのだろうか。どうにかならないのだろうか。そんなにも、この世は無情なのだろうか。
人の生き死に、獣の生き死になど、それこそ、茶飯事。極々、当たり前の事。其処に不思議は一つとしてなく、当たり前に過ごしてきて、否、今も尚、当たり前に過ごしている。振る舞いに一つ、猫の世話が増えただけ。私の言動、一致するのはその一つだけ。それ以外は、常と変わらず。
当たり前に食事をし、当たり前に客を取って。生きる為だと嘯きながら、当たり前を繰り返す。
丁度、拾って一週間目の朝には、抱いて眠った腕の中で、猫は呼吸を止めていた。私が意識を落として、どれだけの間、息を続けていたのかは知れない。どれだけの間、私が死骸を抱いて眠ったのかは知れない。
一頻り泣いて、中庭に墓を作って埋めた。
それさえも。そういうふうに振舞いたかっただけなのかもしれない。猫が一匹死んだところで、私の日常は当たり前のまま続いていく。自由なままで、苦しみを知らず。苦しかった呼吸も、目元の痛みも。本心であったかなど。
変わらず。客を取り、当たり前、当たり前。喘ぎ、震え、乱れ。全て、全てが、常のそれ。廊下の向こう、欄干の先。向こうの窓も、格子も、煙突も、見下ろす中庭も、歩く男女も、何一つとして変わらず、同じ風景、当たり前。だというのに、何故か。だというのに、嗚呼。嗚呼――
――膿の匂いが、鼻の奥に纏わりついて離れない。