冥府、ハーデス神殿。
ハーデスが座する玉座がある王室を二つの影が疾走し、時には交差する。
影がぶつかり合うたびに強烈な衝撃波が室内を駆け巡り、柱や床、天井を砕いていく。
《フン!》
「ラアッ!」
ハーデスの降り下ろした鎌の一撃と、深紅の鱗に包まれたロイの拳がぶつかり合う。
お互いの得物が弾かれ体勢を崩すなかで、ロイは鎌の柄を掴んでそのまま強引に投げ飛ばす。
凄まじい勢いで飛ばされたハーデスだが、壁に激突する間際に勢いを殺し、ゆっくりと壁に両足をつけ、屈伸の要領で力を溜める。
ロイが右腕にオーラを集め、放った瞬間、ハーデスは壁を砕くほど力を爆発させ、勢いのまま飛び出していく。
「ッ!」
ロイの放ったオーラを切り裂き、減速なしで放たれたすれ違い様の一閃を、上体を大きく後ろに反らして避ける。
振り抜かれた鎌の余波で壁が真一文字に斬られ、 部屋の天井が僅かに傾く。
そんな事には目もくれず、ハーデスは鎌を降り下ろす。
今度は横に転がって避ける。
「はぁ……はぁ……。くそ……!」
表情を険しくさせながら、脇腹に手をやり悪態をつく。
ほぼと言っていいほど治った背中はともかく、アガリアレプトに抉られた脇腹はいまだに治りきっていなかった。正確には、内側を含めて焼いてしまったため、治癒が出来ない状態になっているのだ。
ロイ自身も、ここまで響いてくるとは予想していなかったのか、思わず苦笑する。
痛みを感じにくいとはいえ、多少は感じるのだ。
ツヴァイ、アガリアレプト、死神数百体、最上級死神数体。
日を開けての戦闘なら大丈夫だったのかもしれないが、ほぼ休みなく戦い続けた彼の体は、限界が近かった。
だが、極限まで追い詰められた彼の精神は、激情から再びの冷静さを取り戻し始める。
「とにかく、やるしかねぇよな……」
体から深紅と白のオーラをたぎらせ、黒い火の粉を舞わせながら、痛みを無理やり誤魔化す。
より強くなっていく白いオーラを一瞥し、ハーデスはロイに勘づかれないように心中で笑みを浮かべた。
《そうだ。お主か私。残るはどちらか片方しかあり得ぬ》
ハーデスが告げた瞬間、ロイが黒い火の粉だけを残してその場から消える。
最上級死神程度では見失う速度だが、ハーデスは彼の動きを捉えていた。
僅かに、本当に僅かにだけだが残像が見えるのだ。慣れてくれば、完全に見切ることも容易いだろう。
ロイが背後に回ることを察知したハーデスは、体を反転させる勢いで鎌を振るう。
完全な不意討ちのはずだが、その攻撃は空を斬った。
何者も捉えなかった鎌の一撃は、余波たけで再び壁を切り裂き、天井を僅かに低くさせた程度に留まった。
ずれた天井の極小の破片が舞い散るなか、ハーデスは気づく。
反転した彼の背後に、ロイはいるのだ。
ハーデスの動きを読んだロイは、わざとバレるように背後に周り、ハーデスの反転に合わせて瞬時に回り込んだ。
すべてはこの一撃。この一瞬のために。
「オォォォォォラァァァァァァァッ!」
《チイッ!》
雄叫びと共に放たれたロイの渾身の拳が迫るなか、ハーデスは再び反転すると、鎌を差し出す。
その瞬間、ロイの拳がハーデスの鎌を捉えた。
凄まじい衝突音が王室に響き渡り、次に響いたのは、鎌が砕け散った音と、骨が砕けた音の二つだった。
破片がハーデスの顔に襲いかかり、いくつもの傷を刻んでいくが、そんなものお構いなしに自身の影から次の鎌を取りだし、残像を残しながら連撃を叩き込む。
顔や腕、首と体に無数の切り傷を刻まれながら、最後の一閃を紙一重で避け、ハーデスの腹に蹴りを叩き込んで無理やり間合いを開かせる。
ハーデスは床を何度もバウンドしながら勢いを殺し、再びロイを睨む。体中から白い靄が漏れ、ぱきぱきと乾いた音を出しながら、飛び出た骨が皮膚の下に収まり、体中の傷が焼き塞がれる。
痛みはないが、彼の体は火傷だらけだった。
━━継ぎ接ぎだらけだな……。
ロイが自分のことの筈なのに、どこか他人事のように思うなか、ハーデスの眼光が僅かに曇る。
それに気づいたロイは、脇腹を押さえながらハーデスに言う。
「どうした。いまさらビビったか」
《……まだ足りぬか》
「あ?」
ハーデスの呟きがロイに届くことはなかったが、ハーデスは少し声を大きくして彼に問う。
《━━なぜ怯まぬ。なぜ退かぬ。なぜ死なぬ。お主は、一体なんだ》
「………」
今の自分は何か。ハーデスの問いに、思わず考えこんでしまうロイだが、彼の視界にリリスの姿が映る。
先ほどよりも消耗しているのか、苦し気な息づかいで、顔色も余計に悪くなっていた。
あの子を苦しませる元凶が目の前にいる。
その事実を再び認識し、激情の渦に呑まれそうになった矢先、
「━━っ!」
右腕に絡みつくラインが消え、意識が飛びかけた。部屋の中の酸素が失われたかのような錯覚に陥り、息が苦しくなり、視界が歪む。
立ちくらみを起こし、片膝をついたロイを見て、ハーデスは怪しく笑んだ。
《激情に身を任せたらどうだ?本能を無理やり抑え込むことに、意味はない》
「……!」
歯を食い縛り、感情を押し殺す。
だが、彼の内に巣食う何かが叫ぶのだ。『全てを壊せ』と、『全てを憎め』と。
白い靄が彼の体から放たれ、空間を砕く。
ハーデスの眼光がほんの一瞬強くなり、同時にドス黒く禍々しいオーラの放たれる魔方陣が展開された。
消えかける意識の中で、ロイは驚愕をあらわにするなか、魔方陣から何かが姿を現す。
頭部、胴体、黒い羽に十字架。いや正確には十字架に磔になっている何か。
体を強烈に締め付けている拘束具、それにも何か文字が浮かび、目にも拘束具がつけられ、隙間から血涙が流れている。
そして続けて姿を現した下半身は鱗に包まれていた。
『オオオオォォォォォォォォォォ………』
「……サマエル……!?」
ロイは片膝をつきながら、ハーデスに驚愕で見開いた目を向ける。
ハーデスは一度頷き、鱗に包まれたロイの腕を指差しながら言う。
《今のお主は半分ほど龍なのだろう?ならば、こいつも十二分に驚異となりえるはずだ》
サマエルの一挙動一挙動に気を配りながら、ロイはふらつく足を踏ん張って無理やり立ち上がる。
そんなロイを嘲笑うかのように、ハーデスは告げた。
《━━喰らえ》
ハーデスの指示を受けたサマエルが口を開き、超高速で舌を伸ばす。
「ッ!」
ロイが避けようとした瞬間、舌が彼の目の前で反転し、その矛先を変える。
舌の行き先。そこにいるのは一人の
「リリス!」
ロイが飛び出すよりも早く、リリスの体を黒い塊が包み込む。
ゴクン……ゴクン……。
塊と舌が脈動し、何かがサマエルのほうへと流れ込んでいく。
立ち尽くすロイを見下ろしながら、ハーデスは言う。
《先ほどまでは魔方陣を介して喰わせていたが、時間がかかり過ぎたのでな。この際直接吸出すことにした。で、どうする、蝙蝠
「……」
ロイは何も答えず、膝から崩れ落ちる。
追撃と言わんばかりにハーデスは続ける。
《このままいけば、間違いなくあの娘は死ぬぞ?》
ハーデスの言葉を受けても、ロイは反応しない。
《やれやれ。だったこれだけのことで心が━━━》
ハーデスが肩をすくめ、やれやれと首を横に振った矢先、彼の右腕が吹き飛び、巻き込まれる形でサマエルの片翼が根元から吹き飛ばされる。
《ぬう!?》
『オオオオォォォォォォォォォォ………!』
ハーデスだけでなく、サマエルさえも痛みの声を漏らし、舌を引っ込める。
ハーデスは解放されたリリスを一瞥すると、ロイに目を向ける。
彼は白いオーラを纏う左手をそちらに向けていた。
予備動作はおろか、オーラを溜めた素振りさえも見せず、彼は何かを放ったのだ。
ロイは左手を下げるとゆっくりと立ち上がり、ハーデスとサマエルに目を向けた。
その瞳はハイライトが消え、白く染まり、焦点がずれているのか、どこか危険な雰囲気を放っていた。
ハーデスは小さくて笑う。
━━ようやく。ようやく始まったか。
サマエルは舌を伸ばしてロイを狙うが、彼は再び左手をサマエルに向けてオーラを放つ。
サマエルのどす黒い舌とロイの放った白いオーラがぶつかり合い、壁や天井をさらに砕く。
二つは拮抗━━することはなく、白いオーラをサマエルの舌を押し返して顔の右半分を吹き飛ばす。
『━━━━━!』
声にならない悲鳴をあげながら、サマエルの体が倒れかける。
《やはり駄目か》
サマエルを魔方陣の先へと返しながら、ハーデスはピストル型の注射器を取り出す。
中はどす黒い液体で満たされ、あからさまに危険な雰囲気を放っていた。
「……」
ロイは左手の矛先をハーデスに変え、再びオーラを放つ。
ハーデスは瞬時に動きだし、余裕をもって放たれたオーラを避ける。
オーラの直撃を受けた神殿の天井は吹き飛ばされ、冥府の空を覗かせた。
ロイは瞬時に照準を正すが、ハーデスの接近のほうが一瞬早かった。
注射器の針がロイの首に刺さり、中の液体が流し込まれる。
ロイは目を見開きながらもハーデスを殴り飛ばし、注射器に刺された首を押さえる。
━━が、特に気にする様子もなく壁に叩きつけられたハーデスに目を向ける。
体中の骨にヒビが入り、息も絶え絶えになったハーデスに歩み寄りながら、左手にオーラを込めていく。
《はぁ……はぁ……。これで、目的は果たされた……》
「………!」
ロイは苦しげに自分の胸を押さえ、その場でうずくまった。
息が荒れ、視界が歪む。体の中を溶岩が流れているかのよう錯覚するほど、体の底が熱くなる。
心臓が破裂しそうなほど鼓動し、先ほど打ち込まれた液体が全身に行き渡っていく。
「ああ、ああああああああああああああああああっ!」
先ほど打ち込まれた液体の正体。それはトライヘキサの血液だった。
因子を仕込まれた男に、微量とはいえ血液を流し込めばどうなるか。
《ファファファ……ファファファファファファ!》
ハーデスの笑いがこだまするなか、ロイの体が白く発光しながらどんどん大きくなり、形が変わり始める。
両腕が前足へと変わり、尻尾が生え、頭から後ろ向きに巨大な二本の角と、鼻先から一本の巨大な角、そして小さな四本の角が生え始める。
そして、白い光が弾けとんだ瞬間━━━、
『ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
そこにいたのは全長二十メートルほどの、小柄な西洋のドラゴンのような姿をした怪物だった。
体は深紅の鱗に包まれ、背中には一対の巨大な翼。目からは絶えず血涙が流れ落ち、その瞳には憎悪の色で染まっている。
隙を見て物陰に隠れたハーデスを探し、部屋を破壊していく怪物の体から、絶えず漏れ出る滅びのオーラは鱗粉となって舞い散り、神殿を侵食して少しずつ溶かしていく。
体内にあった因子が度重なる戦いで活性化していき、血液がトドメとなり、獣としての力が完全に覚醒したのだ。
ロイを戦わせた続けたのは、この瞬間へと導くため。
リリスを拐ったのは、休みなく戦わせることでさらに追い詰めるため。
飛びかける意識を懸命に繋ぎ止め、ハーデスは部屋に仕込んだ転移魔方陣を起動させた。
この状態の彼を冥界に送り込めば、リゼヴィムと合わさって壊滅的な打撃を与えられるだろう。
多くの部下の命が失われたが、保険の一手も打ってある。そちらと合流出来れば、冥府を持ち直すことも━━。
ハーデスの淡い期待は転移魔方陣と共に切り刻まれた。
彼の横に降り立ったのは一人と一匹。
《……狗、か》
「…………」
ハーデスの呟きに、鳶雄と
彼らを氷の壁が囲むと共に、ラヴァニアとオルクスが現れた。
《ハーデス様……》
《やはり、おまえか。ファファファ。裏切るとは思っていたがな……》
暴れまわる怪物から身を隠し、鳶雄はハーデスに詰め寄る。
「ハーデス殿、部屋に仕込まれていた転移魔方陣は斬らせてもらいました。……単刀直入にお聞きします」
壁を破壊して外に飛び出していった怪物に目を向け、目を細めると死にかけのハーデスを睨みながら訊く。
「……どうすれば止められる」
もはや敬意を払う素振りを見せず、一方的に問いかけた。
ラヴァニアの拘束術式で体を縛られながら、ハーデスは苦しげに言う。
《……止まらぬよ。ここを全て破壊すれば、どちらにしろ次は冥界に行く……。お主らの働きは、所詮は時間稼ぎにすぎぬさ……》
鳶雄の表情が険しくなるなか、ラヴァニアが彼の肩に手を置く。
「落ち着いて、深呼吸をするのですよ。似たような状況は、何度か経験済みなのです」
《あなた方がどのような経験をしたのかはわかりませんが、これと似た状況とは一体……?》
一人困惑するオルクスを他所に、鳶雄は顎に手をやり、氷の壁越しに部屋を見渡す。
そして、一ヶ所違和感を感じるものを見つけた。
玉座の横に、なぜか崩れていない場所があるのだ。怪しげな輝きを放つ魔方陣だけが見ることが出来た。
オルクスが何かを察したのか、ハーデスに言う。
《先ほどサマエルをお使いしましたね。あの子に使ったので間違いはありませんね?》
リリスが因子を抑え込む一因だったことは確かだ。そのリリスが弱りきっているから、覚醒の時間がさらに早まった。
そう考えたオルクスは深く息を吐き、二人に告げた。
《私はサマエルの元に向かいます。どうにかすれば、リリスのオーラをある程度なら戻すことが出来るかもしれません》
「本当にそんな事が?」
鳶雄が問うと、オルクスは頷く。
《食べたものを吐き出させればいいだけのことです。少々危険が付きまといますが、一応は可能かと》
「お願いします。もしかしたら、あなたが頼みの綱になるかもしれません」
「それでは、私たちが時間を稼ぐのです。神殿は壊れてしまうかもしれないですが、それは先に謝ります」
《構いませんよ。冥府が滅びれば、それどころではありません》
オルクスの言葉に二人は頷き、氷の壁を越えて怪物のほうへと向かっていった。
《オルクス……》
ハーデスがオルクスに目を向けると、オルクスは落ち着いた様子で言う。
《ハーデス様。我々はもっと互いに歩み寄るべきだったのです。冥府は、冥府にしかなれません》
《サマエルから龍の力を取り出すなど、自殺行為だぞ》
《ご心配、ありがとうございます。ですが、死神の誰かが命を懸けなければ、我々は後の世にも大罪人として語り継がれてしまう》
《………》
もはや喋る気力もないハーデスに、オルクスは強い覚悟と共に告げた。
《私には、愛する娘がいます。あの
オルクスはそれだけを告げると、特殊な転移魔方陣を展開してどこかへと消えていく。
一人残されたハーデスは、力なく冥府の空を見上げた。
《……これで、見納めになるかもしれぬな》
孤独になった
━━━━━
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
怪物の咆哮と共に放たれた熱線が、冥府の山々と、無謀にも挑んでいった死神たちを無へと還していく。
怪物が再び熱線を放とうとした矢先、それの足四本が凍り付く。
「あまり暴れては駄目なのですよ」
ラヴァニアの
その氷像の力で、怪物の四肢を固めたのだ。
「では、あとはお任せするのです」
ラヴァニアが告げると、闇の世界が始まった。
その闇の中心に立つのは一人と一匹。鳶雄と
闇に包まれる鳶雄の口から、呪詛のような呪文が紡ぎ出される。
《━━人の
闇の侵食は止まらず、辺り一面を覆いつくしていく。
《━━
鳶雄の四肢に闇が張り付き、異形のものへと作り替えていく。
《━━遠き深淵に届く名は、極夜と白夜を
《━━汝、我らが漆黒の魔刃で滅せよ》
闇に包まれた鳶雄の頭が、顔が、狗のように変わっていく。
鳶雄の横に狗の形をした闇が姿を現し、その数を際限なく増やしていく。
鳶雄の周りに生じたのは、狗の大群だった。
《━━儚きものなり、超常の
鳶雄が最後の一節を口にすると、彼に応えるように狗たちが遠吠えをしていく。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン………。
現れたのは闇を纏った人型の獣。
その周囲を囲むは漆黒の狗たち。
鳶雄は足元の闇から大鎌を取りだし、器用にくるくる回すと、それに呼び出されるように地面から次々と刃が生えていった。
狗たちはその刃をくわえると、口に対して横向きに構えていく。
『
だが、この男、幾瀬鳶雄は、それをさらに研磨し、
『━━
これこそが、幾瀬鳶雄だけの境地。
今の彼と、彼が率いる漆黒の旅団であれば、神々ですら容易く屠るだろう。
『ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
だが、今回の相手は神ではない。
その神ですら殺しきれなかった獣の子供であり、彼にとっては仲間の一人でもある悪魔の男。
鳶雄はゆっくりと息を吐き、眼前の獣に告げる。
『いきます。今回は、手加減なしだ……!』
『ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
神をも殺す旅団である、漆黒の狗たち。
神をも越えた獣の子供である、深紅の龍。
二つの力は、冥府を舞台に激突する。
「━━すべては『
彼らを眺める、少年の存在に気づくことはなく。
誤字脱字、アドバイス、感想など、よろしくお願いします。