一人の青年が、俄雨に苛まれた昼の話。

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笑う俄雨

 頬を撫でるひんやりとした感覚に思わず見上げて、ようやく鉛を溶かしたような空に気が付いた。

 無感情に鞄をまさぐり、折りたたみ傘を探す。しかし二十秒弱で、ありそうにないという指の感触を信じることにした。

 忘れてきていたのか、と彼は舌打ちした。今の二十秒を無駄にしたことへ、些細ながらも苛立ちを隠せなかった。

 ちなみに彼は、元々そこまで時間に厳しい人種ではない。かといって、ルーズなわけでもない。時間感覚にしてはごく普通の人間だった。

 しかし、今の彼にはどんな些細なマイナスであっても、全部が一日前に繋がってしまう。例えば、彼が恋人と過ごした時間はまるで、今の傘を探す作業のようなものだったんだ、とか、そういう具合にだ。

 次第に雨とアスファルトの混ざった匂いが鼻をつき始める。鞄とスーツはすでに変色するほど濡れきっていたが、相変わらず彼は会社のベンチに座っていた。

 ────元々、偶然付き合うことが出来たような女性だったのだ。自分は上辺だけ整えて、さもいい人のように振舞っていたけれど、自分という人間は、一度近付いて皮を剥がしてみれば、その小ささが分かる。更に近づけば、もっと小さい人間だとわかる。所詮自分は、継ぎ接ぎだけ精緻に消されたマトリョーシカの様なものだった。

 それを忘れたまま、自分はもっと幸せが続くようにと祈ってしまった。自分に対して、自分の身の程を考え、慎重になることを忘れていた。その程度の人間だから、愛想を尽かされるのだ。彼女は何も悪くない、自分が不甲斐ないのだ。

 さっきの傘みたいに、自分が持ち合わせるはずのないものであることを忘れ、自分の理想の日々を求めてしまった。つくづく自分は頭が悪い。

 そんな逡巡が彼を満たしていた。

 雨は未だ強さを増している。雨の降るリズムと音が彼は好きだったが、今ばかりは指揮者もナンセンスだなと思わざるを得なかった。人の心などまるで考えず、フォルテシモで雨粒を叩きつけている。おまけに不協和音だ。コンクリートを叩く音、草を撫でる音、滴り落ちる音。それらが全て不快なノイズになって、彼には嘲笑うように聞こえた。

 君は愚かだ。無価値だ。傲慢だ。溺れて死んでしまえばいい。

 彼にはもう、そうとしか聞こえなかった。そして同時に、この雨をそうとは聞いていないだろう人々の全てが恨めしくなった。

 全て自分の至らぬせいだとしたって、ならば何故自分はこんなに持っていないものばかりなのに、世界はこうも色鮮やかな人ばかりなのか。こんなにも悩んでいるのに、世界はのうのうと回るのか。腹が立つ。ああ、腹が立つ。

 ちょうどその頃になり、ようやくにして彼の身体が寒さを叫びだした。そういえばさっきから体は震えだしていたような気がした。体に脳みそが付いていかない今の自分にさすがに恐怖を覚え、彼は立ち上がることにした。

 そもそも早めに仕事をあがったのは雨に濡れるためなんかじゃないのだ。落ち込みっぱなしで、まともに仕事に手がつかず、やむを得ず早退という形をとった。自分の心の脆弱さは昔から分かっていたから驚くことこそなかったが、初めて出来た彼女に捨てられたショックがここまで体に来ると、思わず自分に呆れてしまった。

 雨はまだ降り続いていたが、そのまま歩いて帰ることにした。豪雨の中を傘もささずに一人歩く姿は周りにはさぞ変人のように映っただろう。

 まだ昼の平日のバス停には、人は居なかった。時刻表を流れ作業で確認すると、次のバスまで十分ほどあった。

 水を吸って重たくなったスーツ姿で、どさりと椅子に座る。雨は屋根に弾かれて、彼に当たることは無かった。

 先ほどベンチでそうしていたように、俯いて時が去るのをぼんやりと待った。その動作に微塵のぎこちなさもなかったので、彼は一瞬本気で、こうして自分は人生を終えるんだろうか、と思った。こうして自分は何も持たぬまま、求められぬまま、俯いて死んでいくのだろうか、と。

 何なのだろう。

 自分はどう生きていけというのだろう。

 

 その時、その音は突然にやってきた。

 その音に彼が気付いたのは、数分前に自分が立てたのと同じ音だったからだ。水を吸いきって重たくなった服の、びしゃりという音がした。

 音の主は、彼と同じ、水まみれのスーツを着た女性で、彼の姿を認め、少し驚いた顔をしていた。

 彼もまた、予期せぬ来訪者に驚いていたが、互いに何を言うこともなかった。

 彼女は静かに彼の隣に座った。

 どさりという音がした。

 しばらくの間は、屋根を叩く雨の音と、二人の体から不規則に滴る雫の音しかしなかった。

 

 それがなんとも可笑しくて、二人はどちらからともなくくすくすと笑い出した。

 

 きっと彼も彼女も、同じ境遇と同じ不満と、同じ欠陥を持っていたのだろう。同じだけ上手くいかなくて、同じだけ体を濡らしたのだ。初めて会った人だけれど、それだけは分かった。

 そんな人間が、こんなにそばにいたという偶然は、何とも心地よく彼を勇気づけた。

 

「···傘、持ってますか?」

 

 ほぼ無意識に、彼は彼女に聞いた。

 彼女は笑いの余韻を残したまま、答えた。

 

「持ってるけど、持ってない事にしたいんです。···分かります、この気持ち?」

 

 なんとなく分かります、と彼も笑った。

 バスは雨に苛まれ、少し遅れているようだった。


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