最近、話の概要だけ思いついて細かい部分が大雑把にしか書けない状態に陥ってる事を自覚して徹底的に治療するため書いてみたらやりすぎました。細かくなりすぎて大部分がオリジナルみたいになってしまいましたわ…反省。
早く中庸に戻りたいです、本当に…。
神聖王国ヴァリスは、二百余年の歴史を重ねたロードス島中南部に栄える国で、北東部の千年王国アラニアと南東部を支配するカノン王国に次いで三番目に古い歴史を誇っている。
その政治形態は他の国々とは全く異なっており、この国の主は国王ではなく、至高神ファリスを崇めるファリス教団の長たる大司祭であるとされ、教団から世俗のことを委任されているのがヴァリス国王であり、その配下に神聖騎士団がいるという名目で成り立っていた。
現在この国では、一つな政治的問題が持ち上がっており、それに付随する形で別の政治的問題が持ち上がりつつあった。
その一つを解決するため、その日ヴァリス聖騎士団の若き騎士隊長ファーンは、ファリス教団の高司祭ジェナートの私室へと招かれていた。
「ごぶさたしております」
聖騎士ファーンは磨かれた床に片膝をつき、部屋の主人に向かって深々と礼をした。
この部屋の主であるファリス教団の高司祭ジェナートは、背が低く痩身であり、まだ三十代後半の男盛りのはずが十年は年老いて見える、一見すると頼りない初老男性に見られやすい人物だったが、実際に目の前に立たれると存在感の大きさにファーンは圧倒させられそうになる。
形式主義に陥っていたファリス教団の改革に、長い時間と労力を捧げてきた彼の人生が、そう思わせるにたる貫禄を纏わせていた故だったのだろう。
ファーンは、才能だけでは及ぶことが決してできない優れた年長者に対して自然な敬意を抱かされた。彼の前で跪いたとき、そこに単なる礼儀作法以上のものが込められていたことは彼にとって目上に媚びいる恥だったとは思わない。
「よく、来てくれたな。若き騎士隊長殿よ」
彼を迎え入れてくれた部屋の中には、ジェナートの他に“二人”の先客がいた。
一人は若い女性だ。ファーンには初めて見る顔で、太陽のように明るく輝く金髪を短く刈っているのが惜しいと思えるほど瑞々しい美しさが特徴的だった。
一方で彼女は神官戦士であるらしく、ファリス教団の紋章入り神官衣に身を包んでいるが、その下に鉄と油の匂いがかすかにしたことから鎖帷子を着込んでいることがファーンには察せられた。
そして、強い。おそらくは熟練の騎士とでも互角に戦えるほどの技量と腕前を持っていることを、ファーンはその人並み外れた能力と才能によって見て取れていた。
「こちらの女性は、フラウス。先日までアダンの街の神殿で、次祭を務めていた」
ファーンの視線に気がついたのだろう。ジェナートから女性を紹介されて、初対面の二人は丁重に挨拶を交わし合ってから―――やがて示し合わせたように、残る最後の一人へ目をやった。
「・・・・・・」
無言のまま、二人に向かって丁重に一礼だけしてきた謎の先客に対して、二人は程度の差こそあれ不審の目と思いを向けずにはいられない。
何しろその客は、フードを目深にかぶって顔を隠し、挨拶をしてくる時にも顔を見せようとはせず、声すら出そうとしなかったのだから。
この様な非礼をしてくる者を前にして、なにか後ろ暗いことがあるのではと疑わないことはファリスの教えにおいて人の美徳とされていない。他人を偽ることはファリスの教えにおいて罪であり、悪とされている行為だからだ。
背格好から見て少年のように思われるが、なぜそんな歳の子供がこの場に同席を許されているのかという疑問もある。
それでも二人が声に出して先客の非礼を咎めないでいるのは、どちらも共に相手より後に入室してきた客人たちだからで、部屋の主たるジェナートが許している客の非礼を同じ客の身分で自分たちだけが咎め立てするのは筋が通らないと感じた故であった。
また、ジェナートが素顔を隠したまま同席を許可していると言うことは、そこにも何らかの理由があり目的があるのだろうと察せられる程度には二人とも世慣れていたという事情もある。
少なくとも現時点では、ジェナート自身の口から言及されるまで珍客に対しての対応は判断保留にしておくべき問題だと、二人は同じ結論に達していたのだった。
「ファーン卿に来てもらったのは、他でもない。三角州の離宮についての話だ・・・・・・」
そのことか、とファーンは思い、予測していた内容でなかったことに内心で密かに安堵していた。
豊富な水量でヴァリスに豊かな実りをもたらしてくれる聖なる河ファーゴの河口に浮かんでいる三角州。
そこへ十年ほど前、負傷した王子を療養させて住まわせるために建てられた離宮は、そこに住む王子共々このヴァリスにとって悩ましい問題であり続けてきた難題であった。
事の起こりは、ちょうど十年前のこと。独特な政治形態故に40を過ぎてからの即位となった当時の国王ワーレンⅠ世にとって最初の王子が戦の訓練のため狩りをしていたところをミノタウロスに襲われ、王子が殺されてしまった。
そこまでなら悲劇ではあっても、その時代だけで始まって終わる悲劇の一つに過ぎなかっただろう。事件から十年後の今になってまでジェナートが思い悩む必要性も、ましてや解決のためにファーンが呼ばれる理由など何一つとして有りはしない事件で終われたことだっただろう。
だが、むしろ問題となったのは悲劇が終わった後に起きた出来事だった。
激しい戦いで二人の騎士が死に、残る騎士も全員が手傷を負う犠牲を払い、やっとの思いでミノタウロスにも瀕死の重傷を負わせて地に伏させ、安全が確保できたと思っていた矢先のことだ。
国王が草の間に倒れたまま動かないでいる王子の体を抱え起こし、そこに幼い王子の顔が無くなっているのを見た瞬間。ワーレン王は発狂してしまった。
それは至高神の与えた慈悲だったのかもしれない。五十を過ぎてから、ようやく授かった息子のことを王は特に溺愛していたし、ヴァリス国民にとっても自分たちの王が狂気と憎しみに取り憑かれて暴君となることが幸せであろうはずがなかったのだから。
正気を失った王は、殺された自分の息子の骸を打ち捨てると、息子を殺した瀕死のミノタウロスを逆に治療するように命じて城へと連れ帰らせた。息子の死を受け入れられなかった王の精神が、王子を殺して生き延びていたミノタウロスの方をこそ己の王子だと信じさせたからである。
あるいは王は、信じたのではなく、“信じたかっただけ”だったのかもしれなかったが、彼以外の人間たちにとって王個人の気持ちの問題や行動動機などは大した問題ではなかった。行動そのものが大問題だったからである。
この前例のない事件によってヴァリス宮殿は大いに揺れ動かされたのは当然のことで、国王を退位させようという意見も当然ながら存在したのだが、それが叶わず国王のそれまでの善政を知る騎士たちの意見の方が通ったのには理由が訳がある。
真におかしなことだが、ワーレン王は己の息子としてミノタウロスを住まわせるために離宮を三角州に建てるよう命じた問題を除けば、以前と全く変わりがないように周囲には見える行動を取り続けられていたのである。
政治上の決済も外交面における判断でも、これといって大きな間違いを犯すことは一度もなく、ただ王子を護衛するため離宮に配した騎士たちから「王子様は元気である」と報告を受けるだけで満足し、自分から王子に会うため離宮へ赴こうともしなかった。
こうして、ワーレン王の残留を支持して国内治安を預かる騎士たちとしては、「王は実は正気なのではないか?」と考えたがる者が出てきたとしてもも不思議ではない政治的状況が形成されていくことになる。
問題を問題として認識したまま、解決は先送りされ続け、遂には十年が過ぎて今に至り、ようやくにして神殿側も抜本的解決策に乗り出さざるを得なくなる“切っ掛け”を王自身からもたらされる日が訪れたというわけだった。
「先日、ワーレン王より、この大神殿に一通の親書が届けられた。その親書には、王子殿下に花嫁を娶らせたい旨が記されていた。
それによると、花嫁の資格は神聖魔法を唱えられる司祭であること、そして十八歳以下の乙女であることだそうだ」
「陛下が、そのような新書を・・・・・・」
ファーンは胸に痛みを感じながら喘ぐように言葉をつぶやいた。
代々の国王は息子や娘を、聖職者と婚姻させる例がヴァリス王家には多いことをファーンは知っていた。だからこそ、国王もそれに倣おうとしていることがハッキリと伝わってきて心に激しい痛みを覚えたのだ。
(・・・陛下は本当に王子殿下がまだ存命のままで、生きて幸せな成人を迎えられることを望んでおられるのだな・・・)
そう思うと、一人の男としても人間としても無心ではいられなくなるのが聖騎士ファーンという男であったから・・・・・・。
「誤りは正すべきときがきたとは思わないかね?」
沈痛な思いで顔を伏せかけていたファーンに、ジェナートから声が掛かり、彼はうなずかざるをえない決意を抱かせた。
ミノタウロスは邪悪な存在であり、根絶すべき闇の生き物といえよう。そのミノタウロスをこの神聖王国が養ってきたのである。特例とはいえ、教義に反する状態をいつまでも放置しておくわけにはいかないのだ。
なぜならファリスは法と秩序を司る神である。それゆえ光の五大神のなかでも主神と認められているのである。
法と秩序を守らせるべき者たちが、率先して自ら定めた法を犯していたのでは秩序も正義も成り立たなくなってしまう。自分たちが犯した過ちは自らの手で正されるべきなのはファリス信徒ならずとも人として当然の義務であろう。
「このことは、宮廷には?」
「大臣たちには、話を通しておいた。納得してもらえたよ」
ジェナートの返事を聞いて、この件で傷つく者たちがミノタウロスと、ミノタウロスを王子と思い込んでいる国王以外にいないのだと保証されたファーンは、些かの後ろめたさを伴いながらも正直な気持ちとして安堵もしていた。
この事件によって、これ以上多くの者たちに被害を及ぼしたくはない・・・高潔な騎士として名高いファーンにとって、それが嘘偽らざる正直な気持ちであったから・・・。
――が、しかし。
それならそれで別の問題と疑問が生じてしまうのが人の世というものでもある。
「それでは、なぜ、わたくしをここへ?」
些か間の抜けた質問に聞こえる者もいるかもしれないが、騎士として国仕えるファーンとしては当然の疑問だった。
「この件は、至高神の教団と神聖王国の騎士とが共同で果たすべきだとは思わないかね?」
ジェナートは答え、それはファーンにも理解できた。
そうしなければ禍根を残すことになろうし、城と神殿との間に不和を生じさせる切っ掛けにもなってしまう。ヴァリス王国全体にとって憂うべき事態を到来させることになったのでは本末転倒もいいところだろう。
だが、その答えは論点がズレている。彼が問題にしているのはそこではない。
彼が聞いたのは、この件の解決に「なぜ教団が聖騎士を頼ったのか?」ではなくて、「なぜ自分が呼ばれたのか?」だ。そこが高潔な騎士である彼には解らない。
「この役は、離宮警備の騎士たちに任せるべき役目ではないかと思われます」
ファーンは毅然とした口調で、そう言った。
離宮には王子の警護という名目で、警備役の騎士たちが交代で務めていた。十年間ずっとである。
無論、彼らが務めている真実の役割とは、外部の者たちに離宮の真相を知られるのを防ぐことなのは勿論のこと、その任務の中にミノタウロスが離宮を脱走して人々に害をもたらす存在となると判断した際には未然に始末する処刑役の任も含まれていたこともまた言うまでもあるまい。
それが、事件が起きた当時に国王の狩りに護衛として同行して役目を果たすことのできなかった騎士たちが負うべき義務であり、責任の取り方であった。
ファーンとしては今更自分が出る幕を感じてはいないし、十年間ずっと辛い役割を真摯に果たしてきた先達たちから役目を奪い取ることで彼らの罪悪感が軽減されるなどとは微塵も思うことはできそうにもない。おそらく彼ら自身もそれを望まないだろう。
騎士の覚悟に余人が手を出すものではないと考えるのは、騎士であるファーンにとって当然の考え方だったのである。
「分かっておる・・・・・・」
だが、ジェナートの返答は苦悩に満ちた苦々しい声による、遠回しな否決だった。
「分かっていて、私はお前を呼んだ。その意味をくんではくれまいか?」
「それは・・・・・・、しかし・・・・・・」
ファーンは言葉を詰まらせたが、同時にこう思ってしまう気持ちも避けることはできなかった。
―――やはり、その話になるのか・・・・・・と。
ジェナートが何を言いたいのかを察した彼ではあったが、納得するのは難しかった。
否、むしろ事情をわかってやれる彼だからこそ受け入れることが難しかったと言うべきであろう。
「過ちは正さなければならないのだよ・・・・・・。そしてそれは私一人の力では、難しいこともある」
ジェナートは窓の外へ視線を向けて、懺悔の言葉を漏らすように一人、そうつぶやいた。
室内に重い沈黙が降り注ぎ、その場に居合わせた全員の肩に無形の重荷を背負わせてきているかのごとくファーンには思われた。
彼の見る視線の先では、ヴァリスの王都ロイドの街を暖かく照らしている・・・・・・。
「ファーン卿がお引き受けにならないなら結構ですわ。私が一人で参りますから」
沈黙が部屋を満たす中で、それまで無言だった二人の内、若い女性――フラウスが突然、鋼が鳴ったような毅然とした声でそう言った。
一瞬の間を開けた後、冷静さを取り戻したジェナートが驚くファーンに事情を説明してくれた。
「彼女は王子の花嫁として国王陛下に紹介するつもりの女性だ」――と。
ファーンも予想はしていたが、至高神の教団からは彼女が派遣される役目を仰せつかっていたのである。もちろん花嫁というのは名目であり、本当の役どころは離宮の主人を討つための戦士に他ならない。
「他人を偽るのは、神の教えに反することですが、死にゆく人間への手向けとなるならば、神もお許しくださいましょう」
彼女はそう言って、今の教団からはファリスの教義に反することとされている真の目的を隠して偽の身分を自称する行為を行うことを宣言した。
ファリスの教義に寄れば、嘘をつくことは大罪であるとされている。
実際、己の利益を考え、嘘をつく者は多く、嘘によって他人を傷つけてしまうこともあるだろう。
だが、相手を慮って偽りを言う場合だってあるだろう。ファリス神は、そんな嘘まで罰しろとまでは教えていない。
だが今のファリス教団は、それさえ罪と定めて罰を与えてしまう。硬直した形式主義に偏りすぎるあまり、『なぜ嘘をついてはいけないのか?』を考えることなく、ただ『嘘をついてはいけないと決まっているから裁いてしまう』そんな集団に成り下がりつつあるのが現状におけるファリス教団の実態だったから。
「同感です」
ファーンはフラウスの言葉に強くうなずいて賛成を露わにした。そして勇気ある女性だとも思った。この女性なら自分が役目を断って、本当に一人で赴くことになったとしても前言を翻すことは決してないだろうと。
だが、女性を一人で危険にさらすのは騎士の規範に反する行為である。離宮警備の騎士たちの気持ちが気にかかるが、これも神が与えたもうた試練かもしれない。
「かしこまりました。この試練、お引き受けいたしましょう」
「そうか、やってくれるか」
ファーンが畏まって答えるのを聞いてジェナートは、ほっとしたような感謝の笑みを浮かべる。
その後、フラウスには名目上だけとはいえ、王子の花嫁になりにいくに相応しい特上の花嫁衣装を用意してあることを告げて、ファーンには形式的にはこれから未亡人になりに行こうとしている彼女をもらってやってはくれまいかと冗談めかした中に微量の真実を含ませた口調で言ってから、彼は最後に今回の一件で両立は不可能と諦めていた残る懸念材料のすべてを一挙に解決しうることが可能な最強のカードを手に入れていたことを、ここに来てようやく二人に明かすことを決意した。
「それとだがな、ファーン卿。今回の件では君たちの他にもう一人、随行者として名乗り出てくれた者がいる。その人物を今回の任務に同行させることを許してやってくれまいか?」
「―――それが、彼に与えられた役目だと言われますなら、私に異論はございません」
ここに来てファーンは、フードを目深にかぶった人物の正体をようやく察して、多少に外気分を味あわされてしまった。
要するに彼は、自分たちが使命を果たすのを見届け人であり、王子が確実に死んだことを確かめるため死体を調べる見聞役であり、狩りに自分たちが失敗したときには処刑人の役目を果たすために正体を明かさず、名前も名乗らず、ただ黙ってこの場に同席していた人物だった・・・・・・そういうことなのだろうと、フラウスよりは政治に慣れているファーンはそう解釈したのである。
高司祭の立場を思えば、付けられて当然の役所の人物だと理解はできるのだが、感情的には先ほど以上に受け入れがたい人物であることも確かであり、彼の表情も口調も自然と苦いものに変わらざるを得ない。フラウスが先ほどまでとは一転して、非難がましい厳しい視線で上司であるはずのジェナートを睨んでいるのも、おそらく同じ理由によるものであろう。
だが、二人からの非難に対してジェナートは軽く笑って、少しだけ楽しそうな笑顔を見せて彼らに向かって笑いかけた。
彼らよりずっと長い間、腐敗した教団内部のこういったやりとりに慣れてきていたせいで、他人が穿った考え方で物事を悪い方向に解釈してしまうのを見たときに、本当はただの『善意に基づく良いこと』でしかないという真実を自分だけが知っているという状況は、普段と真逆で久しぶりすぎて面白く感じてしまった結果として自然に沸いて出た笑いだった。
「君たちが何を懸念しているか、大方の想像はつくが心配はない。そういう役目を負った人物ではないことは、神の名において確約させてもらおう」
「・・・では、彼はいったい何者なので・・・?」
ファーンが半信半疑といった表情で訊き、フラウスもまた曖昧な表情を浮かべたままジェナートを見据えて沈黙し続けている。
仮にもジェナートはファリス教団の高司祭であり、嘘をつくときに誤魔化すため神の名を持ち出すような人物では決してないと知るが故に答えがわからなくなって混乱したのだ。
ジェナートは笑いをおさめると、フードの人物に向かって頷いてみせることで二人に対して素顔をさらすよう意思を伝える。
やがて二人の視線が、この部屋にいた自分たちとジェナート以外ではただ一人の人物に対して集中して注がれる中。
フードを目深にかぶって顔を隠した少年は、ジェナートに対して礼を伝えるように頭を下げてからフードに手をやると、自分の顔を隠していたおおいを剥ぐ。
途端に零れ落ちた、黄金の滝を目にした瞬間。
不覚ながら聖騎士ファーンの意識は一瞬だけとはいえ、自らが先ほど心の中で称えたフラウスの金色の髪の美しさを忘却の底へ完全に追放してしまっていた。
「・・・・・・可憐だ・・・」
思わず呟いてしまった、感嘆のつぶやきの平凡さが彼の驚きの程を表していた。
とても宮殿内に出入りするたび、宮中に住まう貴婦人方や侍女たち、路傍の町娘に至るまで溜息をつかせてしまう、剣だけではない美男子としても名高い騎士隊長の発した言葉とは思えないほど平凡極まる美しさを表す単語。
だが彼には、彼女を相手に美を表す用語の美しさなどという小手先の技術で『美』を競い合おうという気には、到底なれなかった。
それほどまでに美しい髪と面立ちを持つ少女だったのだ。
その髪はさながら黄金のごとく輝いて波打ち、顔立ちも姿も玉石を彫り込んだような端正と艶を誇り、肌の色をたとえるなら花開いたばかりの薔薇色で、瞳は草原を閉じ込めた宝石のように果てのない雄大さを感じさせる緑色・・・・・・。
自分のような無骨者では到底表現しうることのできない、絶世の美少女が目の前に立ち、穏やかで曖昧な笑みを浮かべていた。
あまりにも整いすぎた美しさは、やや非人間的なものを感じさせる域に達しかけており、人や人に連なる者たちの間に生まれた子ではなく、神の手になる造形物に魂を封じ込めた疑似生命体だと言われた方が、むしろファーンとしては納得できてしまったかもしれないと、この時彼はそんな馬鹿げた思いを本気で抱いてしまうほど『神子』の美しさに圧倒されていたのである。
尤も、この時にファーンが抱いた感想はあながち間違いとも言い切れず、別の見方をするなら過大評価もいいところだったと言えるのかもしれない。
事実として『神子』は、神によって創り出された、この世界とは異なる神の愛し子とも呼ぶべき存在である。その造形には、神が自分の子にふさわしいものを与えるため最上級の美のみで形作られている。
故にファーンの抱いた感想の前半部分は正鵠を得ていたわけだが、残りの後半は微妙だった。
なにしろ『神子』は、創造主たる神の期待に背いて使命を放棄してしまっている。その体に与えられた美も、長すぎる年月の中で朽ちるに任せ、無限の輝きを放ち続けられたはずの魂は見る影もないほどに劣化して久しい。
年老いて枯れた、大木になっていたからこそ『神子』の美しさは“この程度”にまで下がっていたのである。
本当の意味で神の手になる造形物として完成していたならば、その美しさは文字通り人の作った言葉では表現できない域にまで達していたはずなのだから、ファーンの評価は見当外れな過大評価だったと言っても間違いではなかったのである。
「初めまして、聖騎士ファーン卿。そしてフラウス次祭。
まずは初対面で素顔をさらさず、挨拶もしなかったことへの非礼を謝罪をさせていただきたい。
エルフ族であり、人間の文化と風習に慣れておらず、騎士や神官といったエルフの文化には存在しない職業の方々に対して正しい接し方というのが解らず、気づかぬうちに侮辱に当たる言葉を口にしてしまわぬよう配慮した結果ではありましたが、非礼は非礼であり、お二方にもジェナート高司祭殿にも無礼を働いてしまったこともまた事実。
改めて謝罪を受け取っていただけることを望みます。本当に申し訳ありませんでした」
この世ならざる絶世の美しさを持った美少女から、丁寧な物腰で頭を下げられたファーンはらしくもなくドギマギさせられながら「あ、ああ・・・」と意味のない言葉を口に出すぐらいしか頭が回らなくなってしまう。
そして、あまりにも美しすぎる存在が目の前に突如として出現したため意識のすべてが『美』に持って行かれたせいで、見た瞬間には気づかなかった存在に遅ればせながらようやく気づいて口元を引きつらせた。
「エルフ・・・だったのか」
金色の滝の隙間から、人間のものとは明らかに異なる先端のとがった長い耳がくっと伸びていることに、ようやく気づいたファーンが納得したような声を出す。
相手がエルフならば、少女が持つ幻想的なまでの美しさにも納得できると判断したからである。
一般にロードス島においてエルフ族は、その全員が美しい者だけで構成された種族だと信じられている。流石にここまでの美しさを生まれ持っている種族だったとはファーンも思っていなかったし、また実際に目の前に立つハイ・エルフの転生少女『神子』の美しさは同族内でも並ぶ者がないと称されていたのだが、エルフを見ること自体が生まれて初めてのファーンにそこまでの内情がわかるわけもない。
彼はただ素直に神子の美しさに見惚れ、感嘆の吐息を吐いて感心した。それだけであった。
少なくとも彼が神子の『美しさ』に与えた評価は、それだけに留る程度のものでしかない。彼が興味を抱いたのは神子が持つ別の要素についてのほうが大きかったからである。
「彼女は、ハイ・エルフ族の姫君で『神子』殿と言うらしい。人の国の政治に振り回されない者として、我々に力添えしてくれることを確約してくれた。
思うところはあるかもしれないが、できれば任務を共にする間だけでも仲良くしてくれると助かる。ヴァリス王国のために」
言われてフラウスは、開きかけた口を閉じ、唇を固く結んで振り返ると、強い視線でジェナートを睨み付ける。
「高司祭様、私の記憶違いかもしれませんが、至高神の教団と神聖王国の騎士とが共同で果たすべき任務だとおっしゃったのは高司祭様ご自身だったと思われますが?」
「無論、覚えているよフラウス次祭」
悠然と答え、彼が二人に告げた『神子』の役割はファーンの予測したとおり、非常に魅力的で聖霊使いならではの魅力的なものだった。
曰く、『露払いだ』―――と。
「露払い・・・ですか?」
「そうだよ。ボクたち聖霊使いは精神に干渉する魔法を得意としているからね、君たちが試練を終えるまでの間、警備の騎士たちに幻を見せて夢の国へと誘い出し、騎士の名誉を守った上で王子様を病死させるぐらいはわけないさ」
ジェナートに訊いた質問を神子に横取りされて答えを教えられ、その内容の悪辣さに潔癖症なところのあるフラウスの柳眉が急角度に跳ね上がる。
「ましてボクが使った魔法には、たとえ相手が熟練の聖騎士だったとしても抗しきるのは難しい。
あらかじめ精神を集中させて備えていたなら話は別になるけど、油断しているところをチャームなり睡眠なりで一時的に幻を見せておくぐらいは造作もないし、夢から覚めた後も意識を奪われてたときのことを大して重要視しない風に持って行くぐらい簡単なことだ。
それで万事解決。王子様は花嫁を迎えた結婚初日の夜に不幸にも病死された、悲しむべきことだ、お悔やみ申し上げる。王様は愛する息子の病死を痛く悲しむだろうけど、それ以外の人たちは誰一人として傷つくものは誰もいない・・・・・・」
「それは詭弁です!」
フラウスは大声で怒鳴りつけ、神子の方法論を完全否定した上で持論を主張した。
これは神の与えたもうた試練であり、正々堂々とした手段で乗り越えてこそ意義がある。
騎士たちの名誉を嘘によって守り、偽りによって作り出された真実によって人々に幻想の夢を見せ、誰も傷つかないから等という詭弁によって自らの所業を正当化してなんになるのか、とフラウスは強く熱く語り続けたが、その情熱の炎は神子の枯れてしまった老木のような心に飛び火して、再熱させるほどの熱量までは残念ながら持つことはできていなかったらしい。
「嘘というなら、この事件には最初から嘘しか存在していない。嘘だけで形作られている歪な事件だ。
本当の王子様はとっくの昔に死んでいて、あそこに居るのはただのミノタウロスで、王様が正気じゃないのを知りながら政治的には問題ないからと騎士たちがミノタウロスを王子様と嘘吐いたまま生かし続けて、問題だとわかっていながら十年間放置し続けて、いつしか関係者たちの心の中でミノタウロス退治は国の大問題にまで発展したように感じられてしまうようになっていった。
王子様を殺す役目は、十年も前にミノタウロスが果たし終えてる出来事なのに、この件を誰も終わったなんて思っていない。今もなお“王子様を殺す役目は誰にするか”で揉めてしまうほどに・・・・・・」
「そ、それは・・・・・・」
フラウスの情熱の炎は、神子の氷壁のような断崖絶壁に突き当たり、目に見えるほどに勢いを衰えさせて目を逸らし、言葉を探して視線を泳がす。
畳み掛けるように、と呼ぶには意欲も勢いも悪意さえも感じられない、神子からの淡々とした事実語りが彼女の心に鋭く響く。
「この事件は試練なんかじゃない。とっくの昔に終わってしまった王子様が殺されてしまった悲劇の残響だ。
それが十年という時間をかけて隠され続けたことで、隠してきた人たちの中では大事のように感じられるようになっただけの事件だ。十年という年月が哀れな王子様の死を、醜い化け物退治という別物にすり替えさせてしまっただけなんだ。
まるで呪いのように、とっくの前に死んでしまった一人の男の子の悲劇が十年間も国を捕らえ続けて、国に住む人たちに悪い影響を及ぼしてしまう危険因子でありつづけたせいでね・・・・・・。
―――そういうの、ボクは嫌いだからさ。今回の件では自分の方から売り込ませてもらったんだ。そうしないで見て見ぬフリしちゃうと、ボク自身がこの先を生きていくのが余計に息苦しく重いものを背負わされちゃいそうでイヤだったからさ・・・・・・」
長い長広舌を終え、自分自身が疲れたかのように溜息を吐いて肩を落とし、神子はフラウスとは真逆の、唐突に静かになって黙り込む行動を選ぶ。
フラウスは自分が、相手に対して言い負かされたことへの反発心を抱いていることを自覚しないでもなかったし、あげ足取りじみた質問を協力するため申し出てくれた相手にすることに躊躇わないでもなかったが、それでも結局自分の若さが勝ってしまった。
「今回は、ね」
その詰問するかのような上げ足取りの言葉に対して、ファーンとジェナートはわずかながら眉をしかめさせた。
そのような些事に拘っているときと場合ではなかったし、それを今聞くことで損以外に得られるものがなにもないことが解らないほど愚かな人間では二人ともなかったからだった。
ただ同時に、二人ともが意外だった利益として、フラウスが存外に幼さを残した年頃の娘らしい心の持ち主だったことがわかったのは思わぬ収穫だった。二人の中でフラウスの印象は先ほどまでと少し違うものに変わってしまっていたが、それは決して悪い方向への変化でなかったことだけは確かだった。
神子の方でも、フラウスが発した先のつぶやきが深刻な疑惑によるものではないと察していたし、正式な疑問として聞かれたわけでもない、単なる独り言の体を取ったつぶやきだったこともあり、肩をすくめただけで丁重に無視する行動を選ぶと、彼女の疑惑に取り合うことなくジェナート高司祭とファーンから任務に必要な情報を教えてもらえる範囲だけ教えてもらって出立の準備を急ぐことにした。
ファーンにとって、美しいけれど癖があり、頼りにはなるが心配事も起こしてくれそうな奇妙な仲間が旅の道中に加わって、フラウスは若干機嫌を損ねたようではあったが、彼女の参戦にそれ以上の反対意見を口に出すこともなく、黙々と丁重に必要最小限のやりとりだけして神子の参加を彼女なりに妥協した。
――――三人が去った後、ジェナートは先ほどまでは賑やかだったが、今では静かになった後に部屋に一人残って椅子に座し。
天井ではなく、何もない宙を見上げながら一人だけで思考の海に沈み込んでいた。
・・・・・・これでいい。と、彼は思った。
自分たちの世代が残してしまった負の遺産の後片付けを若い世代に押しつけてしまうことは心苦しいが、それを乗り越えることで新しい世代が負の遺産を、新しい国を造っていくための踏み台として使い捨ててくれるのなら自分たちの徒労もわずかばかりは報われる―――と。
そして彼は、思い出の記憶を振り返らせる。
それは十年前の忘れられない出来事の記憶である。
あの当時、ミノタウロスに王子を殺され発狂したワーレン王が三角州に離宮を建ててミノタウロスを息子として住まわせる決定を下してしまったときのこと。
あのとき教団側からは、ミノタウロスを処分して国王を退位させようとの意見が出され、それを最も強硬に主張したのはファリス教団から派遣されていた宮廷付きの司祭だった。
それが良くなかった。後々まで続く禍根を生む切っ掛けとなってしまった。
司祭の意見は受け入れられずに王の残留が決定されて、政治的には問題がないことから国王は正気なのではないかと考える騎士たちまで出始めてきた頃になると、もはや問題は王子の死やミノタウロスそのものとは全く別の異なる次元に発展してしまっていたことに、果たして幾人のものが気づいたであろうか?
民草の知るところではないだろうが、既に当時の宮廷内にとって王子として飼われているミノタウロスの一件は、ファリス教団と聖騎士団との間で繰り広げられていた政治闘争における最強のカードに過ぎないものへと変貌してしまっていた。
権力を求めた上級騎士たちにとって、ミノタウロスは教団の敗北と妥協を余儀なくさせ、法と秩序を守らせるべき神の信徒自らがファリス神の教えに背くのに協力している最大最強の動かぬ証拠であり、教団側からすれば自分たちから委任されて国の治安を守らせていただけの騎士たちに敗北しただけでなく、至高神への信仰心まで否定されたも同然の屈辱であり、それらの感情はごく自然に教団の復権と騎士たちに不当に奪われた権限を取り戻す方向へと向かっていき、やがて自然な流れとして変質する。
手段と目的が入れ替わり、ミノタウロスの件を口実に使って不当に犯されていた神の正義を敷くための権限を取り戻すという方針から目的が消え失せ、手段だけが残り、やがて手段が当初からの目的であったように誤認されていく・・・・・・。
まさにミノタウロスの一件は、ヴァリス王国の今に至るまでのファリス神殿の腐敗が最も進んでいた時期と、騎士団との対立が最も激化していた時期にほぼ重なり合ってしまっていた。
自分がやったのは、ただ自分たちが犯してしまった過ちの後始末をし続けていただけであり、決して人に向かって誇れるような業績ではなかった。
騎士たちにしてもそれは同様だ。本当の意味で国を憂い、ミノタウロスを危険だと考えるなら、王には内緒でミノタウロスを殺した後も「王子様は元気です」と報告し続けさえすれば解決できていた問題だったのだ。
それが十年間も続いてしまったのは、すべて自分たち世代の落ち度だったと、ジェナートは断定できるし、自分を何度断罪しても償いきれるものでは決してない罪の重さを理解してもいる。
・・・だが、どこまで行っても今更の問題にしかならないのもまた事実であった。
あのエルフ娘が言っていたとおりだ。この一件は本当はとっくの昔に終わってしまっている。自分たちが解決すれば全て丸く収められる王子殿下殺しのミノタウロスなど今となってはどこにも居ない。
だからこそファーンに任せたのだ。この一件は、必ずや彼の今後を後押しする力添えとなり得るだろう。十年前の亡霊でしかないミノタウロスを殺すことで、この一件はようやく正規な終わりを迎えられるだろうが、それは形式が伴われるというだけの意味しかない。
実質的にはとっくの昔に終わっていた事件が、形式的にも終わりを迎えたというだけの結末に、何の変化をもたらす力があるというのだろう。
―――もし、この一件に意味があるとするならば。
それは過去ではなく、これから起こるであろう未来の問題で大きな武器となり得るか否か、その一事に尽きるのではないかとジェナートには、そのような予感がしてならないのだった。
やがて彼は吐息を吐いて、この問題が起きてしまう切っ掛けとなった人類に神が下した命題についてまで、思いを馳せざるを得ない心地にさせられる。
「すべては真実を見抜く目を人々が持つことができぬが故に起きてしまったことではある・・・。
だが、それを持つことが叶わない人間の身であるから神の教えは必要なのではないのか? 我々人間は愚かで未熟なればこそ、何が正しく、真実なのかを自分なりに考えて迷いながら間違えながら少しずつ学び、進んでいく生物ではなかったのか?
すべての人々が真実を見抜く目を生まれながらに持ち合わせ、正しく生きることが当たり前になった完成された世界において、最も必要ないとされてしまうのは我々『人として正しく生きる道』を説く、聖職者であるべきではないだろうか?
人々が正しく生きられるよう教えを説き、導く存在が神である以上、我々人間に間違えることなく正しく生きられるようになる日は未来永劫訪れないのではないのか?
神ならざる身で、神と同じ結果を望み求めることは神の教えに背くことになりはしないのだろうか・・・?
私には答えが出せそうにもない・・・。この世には私程度で分かることが少なすぎる・・・」