深い深い闇の中に沈んでいく自分を感じる。禄でもない自分が、もっと禄でもないナニカに生まれ変わらせられていくのが実感できる。
手足が縮む。顔が歪む。ただでさえ醜くてブ男だった自分自身が、内面の腐り果てた性根と融合して矛盾なく腐った生き物へと変わっていく過程を感じ取れるのは悪い気分じゃない。俺みたいなクズには相応しい末路だった。
ーーもうじき俺は消えてなくなる。別の誰かになったとき、俺は俺自身でなくなっているだろう。例え記憶を引き継げていたとしても、其れが俺ではない誰かの物になって居るであろうことだけは今の時点で確信できる、不思議でならない現実だった。
今から俺は別の世界で生きる誰かになる。現代日本で生きていた俺という存在が死ぬことで、地球ではなく現代でもない異なる時代の異なる場所で第二の人生を送らされる。
願わくば来世においても今生以上にクッソくだらない、俺に相応しい人生と最期が用意されていますように。フッァキンゴッド・クソッたれアーメン。
「ーー様。・・・お嬢様。・・・・・・セレニアお嬢様」
「・・・ん?」
自分の名を呼ばれていることにようやく気が付いた少女は、思考を止めて現実へと意識を引き戻す。どうやら考えることに没頭していたらしく、従者であり今日は御者役も務めてくれているバトラーの青年からの呼びかけに気がつけなかったようである。
見ると御者席に座る青年が人の良さげな顔立ちに苦笑を浮かべ、身体は前を向いたまま目線だけ自分の方へと振り向けて「相変わらず困った御方だ・・・」と目で苦言を呈してきていた。
「これは、失礼」
軽く目礼を施して反省の意を示す。適当に過ぎる対応だったが、彼女がここまでざっくばらんに対応するのを許されるのは家の仕える使用人たちの中でも一握りに過ぎない事実を知る青年としては強く出るわけにも行かない。
「いえ、分かってさえ頂けるのでしたらそれで」
そう言うだけで前へと視線を戻すしかないのが貴族出身とは言え使用人の限界であり、これ以上は分を越えてしまう。この世界の倫理観と常識において、其れは許されざる悪徳であった。
だが、それをギリギリのところで踏みとどまれずに限りなく黒の側のグレーゾーンに足を踏み入れてしまうのが彼の仕える主の性質であり、彼ら一部の使用人以外ほぼ全てが他家と政府の密偵で埋め尽くされざるを得ない惨状を呈する原因ともなっていた。
「・・・・・・感謝は・・・しているのですよ? こんなんですけどね」
ボソリと聞こえてきた“貴族から格下への”感謝の言葉。
其れを耳にしてしまった御者はギョッとして振り返ってしまう。今度は視線だけという訳には行かない。身体中全体を幼い主の方へと向き直り、やや咎める感情を声に乗せて諫言する。
「あまり滅多矢鱈なことは仰いますなセレニア様。御身をもっと大切になさってください。わたくし如きが言わずとも分かっていることだとは思われますが、貴女様は神聖帝国の大貴族ショート伯爵の長女にして唯一無二の落とし種。周囲の目と耳を気にしなければならないお立場なのだと言うことを決してお忘れなきようお願い致します」
「・・・・・・」
「ましてや先年急死され、お嬢様が当主の地位を継ぐことになった前御当主様の死には明らかすぎる陰謀の臭いが漂っておりますれば、何卒ご自重のほどを」
「・・・・・・・・・はーい、分かりましたごめんなさい。自重させていただきます」
「お嬢様・・・・・・」
本当にしょうがない人だと溜め息を付きながらも、使用人に心労ばかりかけてくる主のダメさ加減こそが自分たちにとっての希望の光となっている手前、何とも微妙な気分にならざるを得ない彼であった。
「ーー余計な些事に時間を費やしすぎましたね。出発いたします。もうじき自由都市サイオラーグに到着いたしますので、ご休憩時に供するお茶は到着後に」
暗に「安心できる宿屋に付くまでは公の姿勢を示しているよう」釘を差してくる使用人の有り難いお節介に彼女は感謝の気持ちを示すためにも大人しく従うことにする。
現代日本の幸福ぶりを知る者として、この世界の歪さを嘆きながらも口を噤んで大人しく黙り込む。
それが現実味のない知識しか持ち合わせていない、半端者の転生者セレニア・ショート伯爵令嬢の限界だったから。
家柄しか持ち合わせていない、記憶だけは引き継げただけでしかない、平凡きわまる能力しか持っていない前世を生きてきただけのTS転生者である彼女には、この歪みすぎて狂った世界に影響を与える力など身体中すべてを搾り取っても滓すら出てきたりはしないのだから。
(・・・『歴史とは終わらないワルツのようなもの。戦争、平和、革命の三拍子がいつまでも続く』ーーでしたか。昔聞いたときには子供にしてはよく言うと感心しただけの台詞が、今となっては妙に寒々しく感じられますね。
少なくともマリーメイア・クシュリナーダの言ってた言葉の後半は完全に“間違っていた”ことが実証できる世界に生まれ変われた訳ですからね・・・)
道行く先に聳える自由とは名ばかりの軍事独裁都市国家サイオラーグへ、異民族の侵攻に協力して都市を襲い始めた農民による一揆勢へ対処するため帝都から派遣されてきた名ばかりの参事官。その立場から現代日本で得てきた知識と、自分自身のひねくれ思想で分析した現状異世界の惨状ぶりは目に余る物がある。
ーーだからと言って、何が出来るというわけでもない。
長子存続。男児継承。絶対男尊女卑社会。
それが基本理念として成り立っている異世界の神聖帝国で誰かの、もしくは誰かたち複数の思惑が重なり合って共食いしあい外れまくった結果として、少女の身でありながら亡き父の地位と爵位と領地と権益を継承する羽目になってしまった“だけ”の少女貴族には能力以前に性別の時点で越えられない壁が多すぎてしまい出来ることが殆どない。
と言って、「やってもどうせ無駄だから」で片づけて、何もしないで見物しているだけの自分を許せるほどには前世の自分に対して好意的感情を有していない彼女には与えられた責務を最大限果たすぐらいしかやるべき事も出来ることもない。
「不便なものですよねぇー・・・無能な転生者って言うのはさぁ・・・」
誰にともなく呟かれる、おそらくは異世界中の誰が聞いても意味が通じないであろうボヤキ。それが空気に紛れて消え去るまでの間にも彼女たちを乗せた馬車は街道を東へ東へと進んでいく。
民衆の代表である評議員たちが統治して、国に属しておらぬが故に権力者の都合に左右されない衛星都市国家。
先々代の評議長が公平な選挙によって選ばれると同時に、神聖帝国を中心にして形成されている複数の専制国家の連合体『自由帝政連盟』に加入した連盟傘下にある特別自治区、『皇帝独裁を嫌った自由を愛する平民たちの生活共同体』自由都市サイオラーグ。
矛盾に満ちたこの街で一人の運命との出会いが待っていることを、セレニアも相手の男もまだ知らない。
時に、聖歴555年。繰り返される戦争平和革命のワルツから未だ逃れ得る手段を持たない異世界は今、戦争の後の革命を待つ準備期間『平和』の直中にいる。
この次にくる必然の革命が、戦争に繋がるものとなるのか否か。その答えを知る者は現在はまだ誰もいない・・・・・・。