ーー弟の様子がおかしい。
そのことに気付いたのは晩餐会が終わって、部屋へと戻る途中の階段から夜空を見上げてウットリしながら手を伸ばしていた彼の姿を見かけてからだ。
「・・・飛び降りるのか?」
「ーー飛び降りません!」
無論のこと冗談のつもりだったのだが、思いがけず激しい反応を返されてオレは少し戸惑わされる。
・・・昨日までは、世の中に飽いたような悟りきった作り笑いしか浮かべず、感情など有って無きが如しとしか思えない人形じみた性格の持ち主だった弟になにがあったのか。
オレは大いに興味をそそられたのだが、奴が次に発したオレへの質問を聞いた瞬間その気は消え失せていた。
「・・・ところで兄上様。一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ? おまえがオレに質問とは珍しいな。おまえはこと知識量において並ぶ者なしと自負していたのではなかったか?」
「ふっ・・・昔の話です。僕は今夜、生まれて初めて星を取ろうと手を伸ばしても、掴み取ることは決して叶わない己の腕の短さを理解したのですよ・・・」
ここまでは素直に感心できる内容だった。ーー多少、歌劇的な語句が多いのは弟の趣味として前々から受け入れられてたし。
問題はこの後。オレに聞きたかった内容についてだ。
「で? オレに聞きたい事というのは?」
「兄上・・・・・・愛って・・・なんなのでしょうね・・・? 本を読んでも載っていないのです。
ああ・・・好きとか嫌いとか、最初に言い出したのは一体誰だったのでしょう・・・? 僕は今すぐその人の元に飛んでいって、その定理を聞いてみたいと心の底から願う気持ちでいっぱいなのです・・・」
ここまで聞けば誰でも分かる。弟がおかしくなった理由についての察しがつく。
ーー弟は今、生まれて初めて恋煩いを経験しているのだろう。これまで他者を見下すのに使ってきていた捻くれ理論による優位性を放り投げ、自分と同じ高さにいる相手の目線を直視している。
それは彼が、人としての成長を果たしたという事だ。兄として誇らしい。
オレのこの感情もまた、生まれて初めて弟に抱いた兄弟愛なのだと理解できたことも含めて喜ばしいことだった。
「・・・弟よ。それで、相手はどんな女性なのだ?」
他意はなく、弟を初めて弟と思えた嬉しさから素直に聞いた好奇心故の質問だった。
重ねて言うが、他意はない。ある訳ない。絶対にない。
ウットリと夜空の星々を眺めながら弟は、夢見る気持ちに顔を蕩かすながらバラ色の吐息を吐き出すような口調で伝えてくる。自分の惚れた女性の姿形を。その麗しさを。
「・・・子供のように小さく、やや寸胴ながらも小柄な背丈。
胸は真夏の果実のように瑞々しく実り、揉めば愛と優しさの海で溺れ死ぬこと疑いなし。
雪のように白い肌、凍土の如く銀色の髪、永久に終わらぬ冬をもたらす魔女と見紛う冷たき蒼茫。
可憐な唇が紡ぐ言葉は真冬の吹雪を思わせる冷厳さと冷たさに満ちていて、一度でも彼女の言葉を聞けば如何なる愚か者も変わらずにはいられなくなる絶対的な恐怖を纏いし冷酷非常なアイスブルー・プリンセス・・・・・・。
ああ、セレニア・・・。
僕は今、間違いなく貴女に恋している・・・」
「いや、間違いなくそれは恋じゃなくて変だ」
弟が正しくおかしくなったその夜にオレも変わり、完全無欠に見えた弟のもつ一面を知ったことで新たに一歩階梯を昇り、弟もまた独自の道を歩み出した。
今、宮廷内に以前までのギスギスした雰囲気は残っていない。弟がハッキリと「王位は兄の物である」と表明したのも大きかったが、父の子を身ごもったと嘘をついて愛人を幾人も囲っていた側室たち数十名をまとめて放逐したことも大きかったであろう。
父の王位継承の際に押しつけられ、流血をみずに済ませる代償として貰ってくれなどとほざいていたらしい叔父上殿たちには呆れて物もいえんのだが、宮中の風通しが良くなったことに関しては素直に喜んでおくとしよう。
これも今までは保身優先で、誰にでもいい顔をしては八方美人などっちつかずを繰り返してきた弟だからこそ出来たこと。
すべての勢力の、あらゆる弱みを知って利用できるポジションに居続けていたことが非常に大きい。
その弟が、嫌いな相手にどんな条件を提示されても笑顔のままでハッキリと、
「すみません、僕はあなたのことが嫌いみたいなのでお味方する訳には参りません。力を貸して欲しいのでしたら、どうか別の方の元へお急ぎください」
そう言って、相手を丁重に部屋から追い出し、第二とはいえ王子への悪態をブツブツつぶやきながら宮廷内の廊下を歩いているところでバッタリと俺や父上に出くわす隠し通路になっているのだから性質が悪い。
そんな風に、冷酷非常なさわやか悪意王子となった弟だが、ここ最近はいつにも増して浮かべる笑顔が胡散臭い。羊の皮をかぶって群へと近づく狼を連想させられる捕食者の笑みで満ち足りている。
近々、なにかイベント事なんてあったかな?
せいぜいが王侯貴族の伝統として士官アカデミーへの入学式が一ヶ月後にある程度だと思うが、そんなものどこの国でもある常識だろう?
「んっふっふ~♪ ・・・ああ、セレニア・・・どれほど僕はこの時をまち焦がれ続けてきたのだろうか・・・?
ほんの数年、されど数年。君と出会い、恋したあの日より僕の時間は君のいない場所だと特にすすむ時間が遅く感じられてしまうのだよ・・・。千年一夜のたとえが現実のものとなって欲しいと星に願わずにはいられないほどに・・・・・・。
ああ、セレニア・・・。あのときの僕は、この気持ちを言い表す適切な言葉を持ってはいなかったが、今なら君を前にハッキリと伝えられることだろう。
セレニア! 僕は君を・・・・・・愛している!!!!!!!!!!!」
ざっぱーーーーーーーーっん!!!!!!
・・・・・・・・・何故なのかはよく分からないのだが、弟はわざわざ幻影魔術を高度な魔力制御で操ってまで、妙な山と妙な船が浮かぶ、妙な津波の上でポージングをとる自分の姿を王族以外は入ることを許されない特別室の中で俺相手に見せつけてきていた。
ーーーーま、いいや。それよりもだ。
「弟よ。大事なことを聞きそびれて今日まで来てしまったのだが・・・・・・お前、愛しき姫君セレニア嬢へ手紙なり贈り物なりを送り、学校への入学時には待ち合わせなりの約束ぐらいは取り付けているのだろうな?」
婚約者はいても政略結婚故に未だベッドの上以外で話したことすらない俺ではあるが、それでも最低限ふつうの男女による仲の深め方ぐらいは知っている。
そしてその常識的視点から見て、我が弟がそれらのことをしている姿を見たことがないのが気にかかり、あり得ないと思いつつも念のため入学式の前日に確認を取っておく。
「は? いきなり何を当たり前なことで確認取ってきているのです? 兄上様」
両目を大きく見開いてパチクリとさせる弟。
なにアホなことを言い出してるんだ? この人は・・・と言いたげな口調と表情に俺はホッとして安心させられる。
うむ、そうだよな。この程度は常識だよな。
「示し合わせて再会する運命の恋人など存在しません。
一度あっただけの相手を想い続け、会える日を信じて待ち続ける。そのことを知らない相手が、自分のことを想い続けて再び会えるのを心待ちにしてくれていた相手と学校の入学式で運命の再会・・・。
このことを指して今の時代の文化では『再会イベント』と呼び、結ばれるべき運命にある恋人たちにとって通らずには済まされない試練なのですよ。
愛の女神に仕えた古い時代の神官たちが書き記した愛の古文書『ときめきの書』に、そう書いてありましたからね。
ーー作為的な出会いではない、偶然にも相手の方からやってきて偶然にも再会した相手の想いを知ってこそ僕に対する恋心が芽生えるのです。
相手がどこにいて、いつ自分のいる場所にくるかわかっていたのでは悪巧みと変わらないではありませんか。ダメダメですよ」
「見つけて貰うことで相手に恋心が芽生えるのにか?
・・・・・・矛盾しているようにしか見えるんだがな・・・・・・」