近いようで遠い存在だとわかっている。同じ時間を生きることができないのだとわかっている。
俺は母のようには割り切れない。いつかは終わると知りながら、父やお師匠様は年齢的にともかく、弟とも生きる時間が違う。同じ時間を生きていても、結局は自分を置いていく。
自分は、大切な人たちよりも、長い時を生きる。それが、たまらなく悲しい。
一度は目をそらした。耳をふさいだ。
でも、閉じた瞼の裏に、父上の優しく笑う顔が、お師匠様のまっすぐ自分たちを見つめる顔が、弟の不機嫌極まりない顔が浮かんでは消える。
知らない時間がある。弟と手合わせして負けたのはつい昨日のことのようなのに、彼らにとっては10年近く前の話。
さらには、父上もお師匠様も、年を重ねている。弟も随分と成長した。
変わっていないのは、自分だけ。人ではなくなった、という意味では変わったが、彼らが過ごした時間分の変化が自分にはない。
苦しい。自分だけが取り残されているこの感じが苦しくてたまらない。
弟は今日、成人する。元服して、帝に使える官僚となる。
似合わねー、と昔ならば腹を抱えて笑い転げるところだが、そんな気分に離れない。
成長していく姿が、自分よりずっと先にあるその背中が、置いて行かれている事実がどうしようもなく心に陰をおとす。
「……せめて」
せめて、確証があるなら。
9年という月日を経てもなお、受け入れてくれるという確証があったのなら。
「…………はっ。ないものねだりも、たいがいにしないとな」
そっとため息をついて、ぼーっと儀式の様子を眺める。
邸を出入りする人間。その人たちの表情は硬い。
化け物の子と恐れているから。その強大な力を恐れているから。
…だれも、あいつ自身を見ようとはしない。
両親を除き、お師匠様以外、誰も見てはくれなかった。
軽蔑する視線。恐れる視線。
うんざりしている様子を隠しもしない弟。
その様子に心配そうにしつつ、自分への畏怖や侮蔑の視線をものともしない父。
あんな化け物になぜ、と疑心の目を向けられても飄々としているお師匠様。
あぁ、なんて醜い。
なんて腹立たしい。
母が妖で何が悪い。持っている力が桁外れで何が悪い。
母が何をした。お前たち仇をなしたのか。
俺たちが何をした。力におぼれて迫害でもしたのか。
いいや。俺たちはただ在っただけ。
すべては、人の常識に、己の定める基準から外れたものを恐怖するお前の心。
それは人の防衛本能。力が自分に向くことが恐ろしいがゆえに抱いた心を持て余した結果が、異端を忌避すること。
力の使い方はその人次第。そうわかっている反面、強大な力に抗うすべなど持たないから、忌み嫌う。
あいつの為人をしれば、そんなこと歯牙にもかけないのはわかるはず。けれども、人は見たいものを見て、聞きたいものを聞く。
自分に都合の悪い事実には目を閉じ、耳をふさぐ。人を貶めて、優位に立とうとする。
そんなくだらない自尊心、へし折って粉々に砕いてやりたい。
唐突に、ひらめいた。
「……影ながらほうふくするって、ありじゃね?
ぶっちゃけていえば、お前らがひげしなけりゃここまで神経すり減らすこともなかったんだよな。
あいつが感情の起伏にとぼしくなることもなければ、生きることに飽いたようすをみせることもなかった。
おぉ、なんてすばらしい考えなんだ。さすが俺」
なるべく明るい声で呟き、けれども、心に落ちる陰にふと表情を消す。
わかっている。それが根本的な解決にならないことは、わかっている。
「…おいて行かれるのがさびしいからやるんじゃないんだい。確認したいから、やるんじゃないんだい。
気づかれなくたっていい。気づかないでほしい。ただ、俺がほうふくしたいからするんだ」
でも、気づいてほしい。
誰でもいいから、気づいてほしい。
父上でも、お師匠様でも、雑鬼でも。
――弟でも、誰でもいいから。
ぽたりと、落ちたしずくによって屋根瓦が円形に濡れる。
唇をかみしめ、こぶしを握りしめ、静かに濡れる瓦を見つめた。
自分勝手なのはわかってる。
考えすぎなのかもしれないこともわかってる。
臆病者なのもわかってる。
だけど、どうしてもあと一歩を踏み出す勇気を自分は持てない。
持てないけど、大切な人たちのそばにいたい。
覚えていなくても、そばにいたい。気づいてほしくて、以前のようにそばに。
相反する激情を抑え込むことができなくて、力を入れて目をつむり言い聞かせる。
気づかれなくても、忘れられていたとしても、この心が一方通行だったとしても、俺の心は、思いはみんなのそばにある。
自分だけがそれを知っている。知っていればいい。ないものをねだるより、今に満足すればいい。
求めるから苦しいのなら、求めなければいい。
でも大切に思う心を捨てきれないから、自己満足のために思い込んでいればいい。
馬鹿なことだと知っている。でも、そうしなければ自分を保てない。
だから、それでいいのだ。それで、自己満足のために、みんなの陰で生きていたらいいのだ。
毅然と屋敷を見据えた。
「首をあらってまってろよ、ばかども! 俺は…俺はっ、父上とお師匠様と、……っ、だいじな弟をさげすむやつはゆるさないんだからな!」
目じりから伝うものをぬぐうこともせず、誰にでもなく大上段に宣言すると、ぱっと身をひるがえした。
ふと、懐かしい声が聞こえた気がしてあたりを見渡した。
けれども、どこにも追い求める姿を見出すことはできなくて、小さく肩を落とした。
10年近く前にいなくなった自分の半身である双子の兄。
化け物に呑まれて、それ以降行方が分からなくなった、戯けもの。
生死を確認しようと占じてみても、星が見つからなくて生きているのか死んでいるのかもわからない。
普通に考えれば、呑まれて生きているはずなどない。
けれども、感情はその事実を受け入れない。
父も師匠がどう思っているかはわからない。自分もあまり話題に出そうとはしない。
あれが何なのか、よくは知らない。あの馬鹿は『かあさん』と言っていたが、あれが母であるものか。
父にも師匠にも確認を取り、あれが産みの親ではないことは確認している。
けれど、絶望した顔で、涙を流しながら抗うことをやめた兄の瞳に、嘘だとはっきり言い切ることもできない。
兄はなぜ、あの化け物を母と呼んだのか。化け物の姿をしたあの女を。
自分たちの知らないところで、何があったのか。何を知っているのか。
なぜ、すぐに諦めてしまったのか。
そんなに、頼りなかったか。
すぐに諦められるほど、自分たちという存在はあいつにとってちっぽけなものだったのか。
兄はいつも笑いながらちょっかいかけてきて、うっとおしく思っていた。
でも、明るくて元気で、自分と違って今を楽しそうに生きている兄を羨ましくも思っていた。
「せっかくの晴れ舞台に、なにを落ち込んでいるんだ、童子」
「…師匠。なんでもありません」
「なんでもないようには見えないが……まぁ、言いたくないなら言わなくて構わない。話したくなったらいつでも聴くから、一人で抱え込むなよ」
「ありがとうございます」
兄は帰ってこない。
きっと、二度と会えない。
会うことはかなわないだろう。
後悔があった。
だから、もし、もし願いがかなうなら。
「童子。何をぼんやりしているんだい?」
「――いえ。何でもありません、父上」
元服の儀が終わり、父の部屋に呼ばれた。
これから、童子という仮の呼び名ではなく、きちんとした名を授けられる。
「そうか。……名はな、お前の母とともに決めた名だ。あいつが呼ぶことのかなわなかったお前の名は、――晴明という」
「せい、めい」
「そうだ。――安倍晴明。今からそれが、お前の名だ」
「ありがとうございます」
安倍晴明。それが自分の名前。
なら。
「父上」
「なんだ、晴明」
「……、…………、…………兄上の名も、決まっていたのですか?」
静かに驚く気配がした。
ここ何年か話題に出すこともほとんどなかったから、なんとなく顔をあげづらい。
帰ってこない。星が見えない。探しても見つからない。逃げることをあいつは諦めた。ならば、生存は望めない。そう、諦めるようになったのはいつだったか。
知ったところで、帰ってくるわけでもない。
あれから十年近くの月日がたっている。
帰ってこれるのなら、とおに帰ってきているはず。
……帰ってくることを、あいつが望んでいれば。
そこまで考えて、静かに息をついた。
これ以上考えても詮のないこと。帰ってこない、それが事実。
それでも訪ねてしまったのは、心のどこかで期待している自分がいるから。
いまだに願っている自分がいるから。
「あぁ、決まっているよ。あの子の名は暁明だ」
「かつめい」
小さく名を紡ぎ、心に刻み込む。
暁明。安倍暁明。それが、兄の名。
益材の部屋から退室して自室に戻るなかで、ふと足を留めた。なんとなく庭へと視線を滑らせる。
示し合わせたように唐突に風が吹き抜け、庭にある木々がざわめく。
木の下で、探し求めていた人の姿を認めた晴明は、思わず手を伸ばした。
「兄上……っ」
けれども、瞬いた途端にかき消えた姿。
あれが、自分に見せた幻であると理解が及んだとき、伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。
声が聞こえた気がした。自分を呼ぶ声が。静かに泣く声が。
今、自分が見たものも聞こえたと思ったものも、すべてはまやかし。
こうで会ってほしいと願う、自分が作った幻想。
――なんて、救いようもないほど、愚かしいのか。
すべては、自分の驕りのせいだというのに。
嫉妬に駆られなければ、変な自尊心を抱かなければ、あんなことには。
「はっ……、何をむだなことを……」
怒っても、悲しんでも、後悔しても、兄は戻らないのだ。
自分にできるのは、ただ生き飽いたこの世を、父と師匠が望むから生きるだけ。
何かを求める資格は自分にはないのだ。
自分自身を嘲笑う表情を浮かべると、晴明は庭に背を向けた。