その日、暁明は今までにないくらい衝撃を受けた。
「あいつがお友達と祭りに出てる……!?」
それがたとえ、仕事終わりに岦斎に引きずられるように連れ出された結果だったとしても。
あの、出仕も度々サボり屋敷にこもってばかりで人間嫌いを絵に描いたようなあの、晴明が。
家族や師匠以外と外出。しかも仕事じゃなく、催しに参加している。
暁明は口をぱくぱくさせて、やがてゆっくりと顔を覆った。
「なんて人間らしい……!」
感動のあまり視界が涙でゆがむ。
友達と一緒に祭りにでて、買い食いする。
なんてことない祭りの日にはよくありそうな光景なのに、それを晴明がしているその感動はおして図るべし。
機嫌が悪そうだったから、振り切って帰りそうだと思っていた。
祭りに誘われて嫌そうに鬱陶しさを隠そうともせず、けれども丸め込まれた晴明。
なんだかんだ言いながら岦斎という存在を許しているというのには気づいていたけれど、まさか一緒に祭りに参加するほど許しているとは思わなかった。
流石、と言うべきか。岦斎という存在は、晴明にいい影響を与えている。
雑鬼たちが、歳を重ねるごとに丸くなったとは言っており、それも一理あるとは思う。
けれど暁明は、それでも厭世的な晴明の生き方は変わらなかったのは知っている。
今でもそういうところはあるけれど、赤の他人というものを受け入れる程度には悪くはないと思っているのだろう。
暁明は遠目で二人の姿を見ながら、ため息をついた。
「いいなぁ……」
なぜ今、晴明の隣に自分はいないのだろう。
恐ろしくて隠れることを選んだのは自分だけれど、それでもうらやむ心は止められない。
最近、特に榎岦斎という人間が晴明の周りに出没するようになってから、よく考える。
あからさまな害意はなりを潜めていて、平穏と言えば平穏だ。
そして晴明は人らしい道を歩み始めている。
果たして自分は、いつまでこうしているのだろう、と。
師匠も父上も晴明も、みんな自分のことなど忘れているのだろう。
自分だけが、あの日々にとらわれている。
暁明は顔を伏せて息をついた。
「友達、かぁ……」
そういえば、友達と呼べる者を、自分は持っていない。
自分の世界は師匠と父上と晴明とたかおさんから成っていて、逆に言えば親しい者など挙げたものだけ。
友達というよりも家族という感覚で、友と呼べる存在はどんな者であったのかも思い出せない。
いや、もしかしたら心の底から友だと思っていた者がいないのかもしれない。
その事実にたどり着いたとき、暁明は自分の孤独に膝を抱えた。
悲鳴のような者が聞こえて視線を向けると、暴れている牛車があった。
いつもなら対応する晴明をはらはらしながら見守るのだが、どうしてかそんな気分になれないでいる。
逃げた化け物。牛車の中の様子をうかがう晴明の姿。
あたりを警戒する岦斎。
羨ましいのに、あそこに自分がいる光景を思い浮かべることができなくて。
予感がした。晴明は今から人との縁を繋いでいくのだと。
その縁に、自分は含まれていないのだと。
「~~~っ!!」
暁明はぱっとその場を飛び起きてかけだした。
長く続く縁もあれば、すぐに薄れていく縁もある。
願うだけじゃ消えてしまう。
紡がれていく縁に飲み込まれないように、たぐり寄せておかないと。
でないと。そうでないと。
本当に置いていかれてしまう。
「それで、血相を変えて飛び込んできたわけか」
「頼む、いい案がないな一緒に考えてくれ!」
泣きそうな顔で駆け込んできてどうしようと半泣きで取り乱す様子を見て何事だと思ったが、なんてことない、単にこじれているのを更にこじらせようとしているだけだった。
影から見守ると決めたのは本人だが、その先のことは深く考えていなかったのは想像に容易い。
「手っ取り早く会いに行け」
「それはいやだ、殴られる!」
面と向かって会ってしまえば、おどろおどろしい空気を背に絶対零度の視線をもって睨まれる。
それより先に少なくとも拳が1発降ってくる。
暁明は唇を尖らせた。
「兄というものに敬意の"け"の字くらいほしいよな、まったく」
「果たして、お前が思うように殴ってくれるほど、その人間はお前のことを覚えているのか?」
暁明から表情がすっとかき消えた。
ひやりとしたものが胸をなでる。何か言わなければと思うのに、喉は凍てつき音にならない。
今までだって、何かあれば口より先に手を出されて喧嘩になったのだ。
だからそうでなければならない。
そうでないなららば、何だというのだ。
会ったらきっと、晴明は怒った様子で殴って。
暁明はつぶらな瞳を見開いた。
想像しようとするのに、他人を見る晴明の瞳しか思い出せない。
冷や水を浴びせられた気がした。
どうやって、晴明と喧嘩してたっけ。
どうやって、晴明と話してたっけ。
どんな顔して晴明と、会っていたっけ。
俺はどうやって晴明と関わってた……?
以前のように過ごせることを夢見ていた。
以前のように殴られるのだと信じて疑わなかった。
人間だったあのころと違うのに。
晴明は人として生きているのに、何も変わらることなどないと現実から目を背けていた。
血の気の引いた顔で呆然とする暁明を高淤は興味本位で眺めていた。
鈍感な人と妖の子がどのような答えを導き出すのか。
頭では理解していても感情はまったく追いついていない。それ故に、愚かなまでに何度も現実から目を背け、けれども諦めきれずに幻想を抱き続けていた。
それが、崩れた。
向き合わなければ押しつぶされて落ちるか、その身をむしばむ呪いにのみ込まれる。
現に、暁明の体内では呪いと天狐の力がせめぎ合っている。
「どーしよう……」
どうしたらいいんだろう。どうすれば良かったんだろう。
恐ろしくて目を背けた。傷つきたくなくて自ら歩み寄ることを諦めた。
その結果など、わかりきっていることだったのに。
俺は一体、何をしたかったのだろう。
晴明から逃げ、父上や師匠からも隠れて、それで以前のようにと夢を見るのは道理に合わない。
夢のような未来を捨て去ったのは自分なのだ。
師匠も、父上も、晴明も、雑鬼たちとも関わることすらしなかったのは自分自身。
置いて行かれるのは当然のこと。
手を伸ばせばそこにあると思っていたもの。それが手の届かないところにあった事実に、暁明はどうしようもない孤独感に苛まれる。
じわりじわりと活性化する呪いに天狐の力が押し負け始めているのを高淤は感じていた。
そろそろ止めに入らなければ、呪いはがんぜない子どもを闇へと落とす。
眠らせようと力をまとわせた腕を持ち上げる。
「ひとりは、嫌だ……!」
絞り出された言葉に、高淤はぴくりと動きを止めた。
耳を塞いで嫌だ、と肩をふるわせる暁明を待とう呪いの気配が強くなる。
気に食わない。
不機嫌そうに目を細めた高淤は傍らの鬱陶しい陰の気を払うと、嘆く子どもの頭に手を乗せ、乱雑にかき回した。
「わ、わわっ!」
上げられようとする頭を押さえながら、高淤は立ち上がる。
「一人がいいならばそうすればいい」
普段とは違う冷たい声音。頭の上の重みが消えて、恐る恐る首を巡らせる。
先ほどまでそこにあったはずの人影を、暁明はみつけることができなかった。
「高尾、さん……?」
さぁっと、やや湿り気を帯びた風が山間を通り過ぎていく。
「高尾さん……、高尾さん、どこだ!?」
目に見える範囲で見つからず、磐から飛び降りて暁明は山の中を探し回った。
夜通し山を駆けずり回っても見つからず、磐座まで戻ってきた暁明は座り込んだ。
「どこ……行ったんだよ………高尾さん……」
貴船にいるときはいつも彼女がいた。
一方的に話してばかりだけど、いつも話を聞いてくれた。
この場所に訪れる度に出迎えてくれた。
辛かったときも楽しかったときも、いつも。
俺は高尾さんに救われていたんだ。
磐座に寄りかかるようにして座り込む。
ずっと探し回っていたせいか体が重い。
声も枯れて、喉が悲鳴を上げている。
頬を滑り落ちた雫が衣に染みをつくる。
愛想を尽かされてしまった。
呼んでも返事はない。探しても姿は見つからない。
――嫌われた。嫌われて、しまった。
晴明も、父上も、師匠も、高尾さんも、みな、いなくなってしまった。
この手には何も残っていない。残らない。
――………に……………で……。
声が聞こえる。呼ぶ声が。誘う声が。
焦点の定まらない目で立ち上がった暁明はよろめきながら足を踏み出す。
なんで何も残らないのだろう。
どうして全部こぼれ落ちていくのだろう。
どうしたら、この手に何かを残せるのだろう。
どうすれば失わずにすんだのだろう。
どうして、なんで。
――まったく、危なっかしい。兄様、こっち。
傾いだ体を受け止めるものは誰もなく。
音を立てて暁明の体は地面に倒れた。
闇に包まれたその空間で、その者は安堵の息をついた。
その腕には青ざめた顔で眠る暁明の姿がある。
「一段落ついたから見に来てみれば、いったい何をやってるんだか」
若い女のぼやきか闇に消える。
その闇はただの闇ではない。夢殿とよばれる、夢の中のもう一つの世界。
そこを通じて、呪詛にのみ込まれかけてる暁明の意識を刈り取るという暴挙を成し遂げてた彼女は、片腕で抱えていた暁明をそっと横たわらせた。
暴挙を成し遂げるべく利用した刀を傍らに置き、彼女もその場に座り込む。
困ったように首をかしげ、がしがしと頭をかきむしる。
「……干渉のしすぎは怒られるが、でも兄様だからな」
多少の過干渉は大目に見てもらいたいものだ。
「そっちに行くから、頼むから、捕らわれるなよ。…それに、呼んでくれたらいくらでも手を貸すんだけどな」
眠る暁明の頭を、軽く何度も叩く。
すねた子どものように、何度も何度も叩く。
呼んでくれと、意思を表示するかのように。
いくら叩いても全く反応を示さない暁明に口をへの字に曲げた。
頭を叩いていた手で、眠る暁明の頬を摘まむ。
そのまま頬を揉み続けているうちに、への字に曲げた唇が尖る。
極めつけと言わんばかりに額をちょっと強めに叩く。乾いた音が一回、夢の果てに消えていく。
彼女はため息をついた。暁明は目覚めない。
叩いて乱れた暁明の髪を整えつつ、その頭を指先でなでた。
愛おしむような暖かい視線を向けて、そのものは薄く微笑を浮かべた。
「またね、兄様」
その言葉を合図に、互いの夢は切り離された。