貴船の山を下っていた暁明は、確かな確証を抱きながら歩みを進める。
言うなればそれは勘だ。他のことに関してはともかく、晴明に関してだけはそうそう外れない優れものである。
背丈の半分ほどの脇差しを背負いながら貴船の山を下る。
案の定、貴船の山間、開けたところに探し求めていた姿はあった。
地面に横たわる晴明。駆け寄りたいのに、どういうわけか足は地面に縫い付けられたように動かない。
叫びたいのに、凍てついたかのように喉が動かない。
最悪の事態が胸をよぎるが、わずかに上下している胸が生きていることを示していた。
「っ!?」
安堵したのもつかの間、唐突に胸の奥で鼓動が撥ねた。
晴明を包む青白い焔。自分を守ってくれる同じ焔が揺らめいている。
それは母より受け継いだ力。強い力だが、使いすぎれば人として破滅してしまう、諸刃の剣。
背負っていた脇差しを腕に抱えて握りしめる。
愛しく思った姫を助けるために、いるかどうかも分からない十二神将を使役に望み、実行している晴明。
彼女を助けることで、自分に贖おうとしていたという晴明。
あのときのことを、なんでお前が悔いる必要がある。
贖わなけければならないのは自分の方だというのに。
目の前の景色が遠ざかるような感覚に襲われた。脳裏をよぎるいくつもの景色。
自身の闇をさらし、毒を突きつけられ、穢れに苦悩して。
自らと向き合うことはとても心が痛くて辛くて、目を背けてしまいたくなるほど苦しいものだ。
見なかったことにしても、醜さはついて回り、ことあるごとに自身を苛む。
じくじくと痛く心に唇をかみしめながら、目を硬く閉ざし握られた拳を額に押し当てる。
それでも、晴明は自らの足で立ち、歩き、生きている。
体に流れる異形の血に、妖たちが住まう冥がりに染まりながらも、それでもまだ生き足掻いている。
疲れ切っているけれど、どこか穏やかな顔で何かを呟いた晴明が崩れ落ちた。
たくましい痩躯の男が晴明を受け止め、精悍な面差しを崩すことなく静かに晴明を見つめている。
唐突に、脳裏の光景がかき消えた。目を開けると、遠かった景色が目の前に広がっていて、体に戻った感覚が現実であると知らしめる。
「……お前が頑張ってるなら、俺も頑張らないとな」
自らを奮い立たせるように呟いた暁明はおもむろに顔を上げた。
橙色に染まる陽に照らされる晴明はぴくりともしない。
追いすがるように手を伸ばし、動きを止めた手。
その手に黒い靄のようなものがまとわりついていた。
静かに息をのむ間、気づけば同じような者が晴明の足にまとわりついている。
「は……?」
自身の手と晴明にまとわりつく靄を見比べ、それが同一の気配の者であることを理解する。
それは悪しきもの。身を蝕むもの。靄の濃さは手にまとわりついている方が上だ。
脇差しを小脇はさみ、試しに靄を引き剥がそうと伸ばした指は、しかし宙を切る。
両腕に、足に、体にまとわりついているらしいその靄に、暁明は困惑を隠せないでいた。
今までにはなかったはずだ。いつからあるのかも分からない。
ずっとあったのだろうか。ならばなぜ、突然認識できるようになったのか。
――…………。
耳の奥で誰かが嘲笑う声がする。
誰の者か考えるより先に、抱いた疑問は霧散する。
ただ、その靄が良くないものと言うのだけはわかった。
そしてそれは晴明にも何かしらの影響を及ぼしていると言うことも。
おそらく、師匠や父上、高尾さんにもあるのかもしれない。
その考えに至ったとき、暁明は木陰に隠れるように足を引いた。
樹に背を預けて、自身の足下を凝視する。
もっと早くに腹をくくっていれば良かったのだろうか。
それとも気づくのが遅すぎたのだろうか。
いろんなことから目を背けていた代償が、これか。
自嘲を含んだ笑みを浮かべ、暁明は息を吐いた。
「……もう、呼べないな……」
師匠と、父と、晴明と、高尾さんと。大切な人の名を呼ぶことはもうできない。
呼べば、この靄は皆を冥がりへと誘う。誰よりも晴明をこちら側へと引き込んでしまう。
人として生きて欲しいと願う思いを、踏み躙らせてしまう。
木々を挟んだ反対側で、地面をこする音がした。
強い力の気配が貴船の山に広がり、硬い何かが地面を叩く。
「安倍晴明。これより我ら十二神将すべて、汝が使役としてその命に従おう」
厳かな声に呼応するかのように、更に強い力がその空間を満たした。
焦り祈るような声と地面を踏みしめる音。突風が吹き上げ、晴明の気配が瞬く間に遠のいた。
誰もいなくなった空間で、暁明は静かに肩を落とし天を仰いだ。
紅に染まっていた空はやがて群青へと移ろう。
黄昏時を過ぎて、冥がりに住むものたちの時間だ。
「…………ごめん」
口をついて出た謝罪が闇夜に溶けて消える。
気づかなければ、知らないままでいられた。そして、己の愚かさを悔い嘆くことになっただろう。
気づいてしまったら、知らないままではいられない。そして、己の愚かさに苦しみ抗うことになる。
乗り越えて新たな道を歩むのか、絶えきれず押しつぶされて立ち止まりうずくまるのか。
心という者は誘惑に弱い。より楽な方へと逃れようとする。
逃れればさらなる苦しみが待ち受けていると分かっていながら、一時の安楽に身を委ねてしまう。
目を塞ぎたい。耳を塞ぎたい。知らなかったあの頃に戻りたい。でも、戻れない。
知らなかったあの頃に気づけなかったことを、知った今ならばできることがある。
安倍晴明は、人として生きる。それが父である安倍益材と師匠である賀茂忠行の願い。
そして彼と縁を紡いだ榎岦斎とどこぞの姫君と十二神将がそれを成す。
たぶん、そうなる。だから。
「…………お前はさ、ちゃんと生きろよ」
人として。友人と愛しく思う姫とともに。その命が尽きるまで、人として。
そのために、妖である自分は節度を守る。晴明が人ではないものになろうとするならば、この身を賭すことも厭わない。
この先、互いに歩む道が重なることはないだろう。
願う心は止められないけれど、そんな日は来ない方がいいのだ。
幹から背を離し、小脇に抱えていた脇差しを背負い直して暁明は山の頂に背を向けた。
「ごめんなさい」
大切な者たちへの思いを、脳裏に描いた面差しを心の奥底へと押し込めて蓋をする。
心を向ければさらなる闇を呼び込んでしまうから。遅いかもしれないけれど、今よりも事態が悪化するよりはずっといい。
だから、あえかな願いは置いていく。ここに、この場所に、もう一つの帰る場所だったここに。
ゆっくりと、確かな足取りで山を下りながら念じた。
瓜二つのその姿はきっと決意を鈍らせてしまう。
心を向けることがないように、星のきらめきにも似たいくばくもの思い出とともに宝箱にしまい置いていく。
その心に従うように空から降り注ぐ月の光に照らされた影がのびる。
幼さの残る顔立ちは、十代半ばほどの面立ちへと姿を変える。背丈も二尺ほど伸び、いつもよりも高くなった視線に困惑しつつ頬をかいた。
背が伸びない、成長しないということを恨めしく思ったことはあったが、よもや変化でどうにかなるとは。
予想外に叶ったひとつの願いに乾いた笑いをこぼし、息を吐いた。
こんな時でなければ狂喜乱舞するのだが。
貴船から下る川の辺へとおりたち、月夜に照らされた川の水をのぞき込む。
第一印象は、どこの不良だ、というものだった。切れ長の目、不機嫌そうともとれる険しい顔。黙っていればなく子も黙る鬼とでも言われそうな、そんな顔。
その顔を、見たことがある気がする。けれどどこで見たのかは思い出せない。
思い出せない事実をさらりと流し、新たに付き合うことになる自身の顔を頭に刻み込み暁明は立ち上がった。
軽い身のこなしで川沿いをくだり、都へと進入を果たし、物珍しげに夜の都を練り歩く。
妖になってからというもの、世間一般的な妖とは昼夜逆転の生活をしていたために、夜の都とはほとんど縁がなかった。
ひそひそと自分を伺う視線に居心地の悪さを感じながら、今後の拠点をどうするか思案する。
「あ」
間抜けな声をこぼし、暁明は足を止めた。
ようやく思い至った事柄に、思わず片手で顔を覆いうつむく。
「このあと、どうしよう……」
距離を置くことを選んだ。妖として冥がりを生きることを選んだ。
だけど、そこで自分は何をしたいのだろう。何を成したいのだろう。
心を向けることはできない。だけど、だからといって関わりを断とうと逃げ続けるのは嫌だった。
我ながらなんと愚かで浅ましく強欲なことか。
「なんだお前。おっかない気配してる割に、間抜けなのか」
緊張感のない快活な声が耳朶をついた。
目元を覆っていた手を離すと足下に栗鼠のような体躯の雑鬼が己を見上げていた。
「……開口一番耳が痛いな雑鬼」
「お前、妖だろ。おっかない割に分別のある新参者は大歓迎だ。間抜けだけどな」
「やっぱり新参者か。そういう情報はなかったから、わざわざ山越えでもしてきたのか? 間抜けだなぁ。人間が作った道はそれなりに通りやすいってのに」
「お、前らよくそんな態度とれるなぁ。新参者と言っても、おっかねぇものはおっかねえよ」
いつの間にやら大小様々な雑鬼どもに囲まれた暁明は視線を彷徨わせた。
どうしたらいいか分からねぇ。
雑鬼と言えばいたずら好きでからかい上手で良く弄ばれていた事しか覚えていない。
取り立てて仲が良かったのは、よく邸に転がり込んできた三匹トリオと、あとは猫の雑鬼だった香瑛くらいだ。
暁明は目を瞬かせ、やいやいと沸き立つ雑鬼どもに問いかけた。
「なぁ。子猫くらいの大きさの、香瑛という雑鬼って、今どこにいるんだ?」
思い返せば、妖になってから昼の都では見かけなかった。
猿と蜥蜴と丸っこい雑鬼どもは頻繁に見たけれど、香瑛の姿はとんと見ていない。
「かえい? 誰だ?」
「知ってるか?」
「知らないな」
「……それは、山猫のことかい?」
静かな問いかけに、雑鬼たちが水を打ったように静まりかえった。
ナマズのような姿をした雑鬼がのそのそと前に出てくる。
首をもたげる雑鬼の前にしゃがみ膝をつく。
「茶色の毛並みで、一見すれば子猫のようだけど妖で、力に比例して体が大きくなる特性をもつ妖のことなら、そうだ」
「やはり、そうか。……あやつなら、少し前にこの都から消えた」
「え……?」
「恩を感じ懇意にしていた力ある人間の子どもが、陰惨な妖に食われてな。……己の無力を嘆き、程なくして都から姿を消した。妖に食われたのだろうて」
それが、雑鬼と呼ばれる力なき多くの妖がたどるひとつの末路。
語られた事実に、暁明は口元を覆い隠した。
どうして、忘れていたのだろう。なぜ今まで思い出さなかったのだろう。
まるで意識の外へと追い出されたかのように、思惑により存在を認識させないかのように、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
「おぬし、あやつの知り合いか」
「……あぁ」
たまに言葉を交わせばからかわれて弄ばれ遊び返そうとして相手にされず何度も悔しい思いをした。
言葉を交わさずともただ傍らによく丸まって、軽口を叩きつつも自分を案じる心がそこにはあった。
「大切な友人なのに……なんで今の今まで忘れてたんだ……?」
今日という日は、本当に嫌なことばかりだ。
自分の醜さに辟易して、愚かさに嘆いて、現実に打ちのめされて。
それでも、気づかなかったことも気づけなかったことも自分の力が及ばなかったから、今の結果があるのであって、その現実から逃れることはできなかった。
「お前みたいなおっかない奴が、俺たちのような妖を友人と呼ぶのか?」
「友人と呼んじゃいけない理由なんて、どこにもないだろう」
血の気の引いた顔でありながら、怒りを宿した瞳に射貫かれて、雑鬼たちは顔を見合わせた。
弱い者同士結託することはあるけれど、強い者が弱い者を友と呼ぶことはまずない。
弱い者が庇護を求めることはあっても、強い者が弱い者を気にかけることはない。
おっかないくせに、おっかなくない変な奴。それが雑鬼たちの共通認識となった。
「……。ついてくるがよい、新参者」
ナマズはのそのそと身を翻し、ゆっくりと都を歩む。困惑し佇む暁明は無邪気にナマズのあとをついて行こうとする雑鬼たちに促され、立ち上がり足を踏み出した。
その肩に栗鼠の雑鬼が飛び乗る。尾でバシバシと背を叩きながら、栗鼠が不思議そうに問うた。
「おっかなくないおっかない妖はなんだって都に来ようと思ったんだ?」
「……妖として生きるために」
「なんだそりゃ。どっからどうみても妖だろお前」
「おっかないけどおっかなくない妖ってのは、俺たちみたいな有象無象と違って難しいこと考えるんだな」
「その点、俺たちは気楽に生きていられる幸せな存在だな」
明らかになった現実に沈む心が、雑鬼の気の置けない態度に少しばかり浮上する。
「そのおっかないおっかなくないという呼び方やめてくれないか。長いしわかりにくい」
「えぇぇ。でもお前おっかないけどおっかなくないからなぁ」
「ならさ、おっかなくないおっかない力をもつお前さんは、なんて呼ばれたいんだ?」
それなら、と名を名乗ろうとして暁明は口をつぐんだ。
その名は名乗るべきではない。願いも思い出も姿も大切にしまい込み、偽りの姿で生きていくことを選んだ。
ならば、偽るにふさわしい名前でなければならない。
つながりを想起させるような名ではない方がいい。
でも。
やばい、何も考えてなかった……!
行き当たりばったり感が否めず、自分の至らなさに遠い目をする。
ちょっと待てどうしよう。ここでなにか良さげな名を名乗らなければ、おもしろおかしい呼び名をつけられる気がする。
それは嫌だ。心の底からごめん被る。
考えろ、考えろ。考えるって言ってもでも、なんか良さげな名前ってなんだ!?
「えぇっと………あ、そうだ。
「あ、そうだ、ってお前、いま考えたのかよ」
「お前みたいな人の形をしたおっかない奴は名前があるものかと思ってたぞ」
「さっきから思うけど、やっぱなんか間抜けだな」
「うっさい!」
けらけらと機嫌良く笑い立てる雑鬼どもに一喝して、暁明改め暁の心は穏やかではなかった。
暁って、暁って、名前の下の漢字をとって読み方変えただけじゃないか!
いくらなんでももっと他に何かあっただろう、思い浮かばないけど!
考え無しにも程があるだろ流石に!
心の平静を保とうとすることに精一杯で、目的地に着くまでの道中にした会話のほとんどは覚えていない。
目的地というのは香瑛がねぐらにしていたという所らしい。ねぐらと言っても普通の廃屋。
そこを使っている、初対面の雑鬼たちにも軽く挨拶をして、自分もそこに住まわせてもらうことにした。
新参者の歓迎会だ、ということでその場で突如始まったどんちゃん騒ぎ。
酒があったわけでもつまみがあったわけでもない。歓迎会というのは口実で、騒ぎたかっただけなのは推測できる。
それでも、受け入れられたという現実が、香瑛のことを知っている者と話せたことが嬉しくあり、悲しかった。
胸に去来するいくつもの思いをのみ込んで、調子に乗ってからかい倒してくる雑鬼たちに吠え立てる。
「調子乗るなよこの野郎! 祓うぞ!」
「だー、やっぱり暁は間抜けだなぁ。俺たちは祓われる側だぞ」
「そーだそーだ。俺たちを祓うのは陰陽師であって、お前は陰陽師じゃないから大丈夫だな」
妖としての認識と、人として生きていた頃の認識とでは大きな差がある。
この世界に住むだけでやがて自分は人として生きていた頃のことを忘れていくのだろう。
言葉のひとつからしても、生粋の妖とは異なる価値観に暁は頭痛を覚える。
東の空が明るくなりはじめ、多くの雑鬼たちは自らのねぐらへと戻り、休息につく。
その廃屋に住まう雑鬼たちも一足先に眠りに落ちていて、起きているのは暁だけだった。
埃まみれの簀の子に腰を下ろして、山際に昇る日を見守る。輝かしい光に目を細め祈るように目を閉じた。
思いたいことは沢山ある。けれどもそれは、今の自分には過ぎたもの。
都に降り注ぐ暖かな陽の光に背を向けて、暁は部屋の奥へと姿を消した。
やばいぞ、なんか鬱々してる。
こんな予定じゃなかったのに、もうちょっと気楽な感じで晴明を見守り愛でるお兄ちゃんを書きたかっただけなのに。
はよう鬱から脱出して以前の暁明君に戻ってほしいものだ……