母の姿を見なくなってから、六年の月日が流れた。
初めは不安で不安で仕方がなかったけど、父は母と同じような愛情を向けてくれた。
俺たち二人に、向けてくれた。
それに答えたくて、俺は笑い続けた。
狐の子だと、不気味がる人がいる。化け物だと、蔑むものがいる。
それに耐えきれなくなった弟は笑うことがない。
父は庇いたってくれるけど、それでも悪意はその盾を乗り越えて届く。
動物を、雑鬼と呼ばれる、チビどもを通じて。
彼らは噂話を持ってくる。見たこと、聞いたこと。
どこで何があったのか、誰がなにをしただとか、そんな些細な話も持ってくる。
それだけではない。最も大変なんは、人の心の声までが届くこと。
我慢していた。耐えていた。けれども、幼い子どもがそれにいつまでも耐えられるわけがない。
父が気付いた時には、弟は笑わなくなっていた。俺は、そんな弟に、気づかなかった。
父の助けになることばかりを考えていて、弟のことが見えていなかった。
そうして、俺は弟の笑顔を奪ってしまった。
俺まで暗くなってしまったら、父は悲しむだろう。
だから、笑い続ける。いたずらして、バカやって。身を粉にして俺は動く。
そのうちに、父の友人だという賀茂忠行という人に陰陽術というものを教わった。
そうすれば父が喜んだ。父と同じく、自分をきちんと見てくれたその人も、――師匠も喜んだ。
喜んでくれるのがうれしくて。認めてくれるのがうれしくて。また頑張ろうと思えた。
そんな自分たちに、師匠から仕事している所を見てみないかと言われたのが、三日前。
すごく楽しみで、わくわくして指で数えながらその日が来るのを待っていた。
待ち遠しにしていたのに。
「そう落ち込むな、童子」
「でも、わたしもいきたかったのです」
ぶすっと頬を膨らませて答えた。
父が困ったような空気をまとうので、落ち着かなきゃとは思う。
頭ではわかっていても、感情が追い付かない。
「このくらい、なんとも……げほ、げほげほげごほっ」
「無茶はいけないよ。感冒は悪化させると大変だからね」
なにを隠そう、俺は風邪をひいてしまった。
よりにもよって、師匠のお仕事を見る大事な日に!
「うぅぅぅぅ、せっかく師匠がつれてってくれるって…けほっ」
「また次があるさ。だから、今はゆっくりとお休み」
父の言うことはわかっている。でも、うらやむ心は止められない。
風邪をひいてしまったのは自分だけなので、いたって元気な弟は予定通り外出中。
自分のうかつさを、運の悪さを呪わずにいられるかっ!
風邪をひいた原因が、楽しみのあまり夜もなかなか眠れなくて免疫力が落ちた結果だとは、なんとも間抜けすぎる。
陰陽師とか妖怪とか、知識として持っていても、実際にどのようにしてかかわっているのか見るのは初めて。
知らない世界。未知の世界に足を踏み入れることに、わくわくしないわけがない。
え、雑鬼? 知らない知らない。あれ無害だし、あれはあれ。これはこれ。
あぁぁぁぁ、悔しい悔しいくやしい。
見たかったのに、行きたかったのに、体験してみたかったのに。
風邪をひいた俺を鼻で笑って出てった弟、許すまじ。
うざかろうが、邪険にされようが、なんとしてもかじりついて様子を聞き出してやる。
高確率でけられるし、うるさいと殴られるけど、めげるものか。
弟に殴られる兄。なんとも情けのない絵面だが、譲れないものがそこにはある。
おぉ、俺、いまかっこいいこと言った。
--……やべぇ。思考回路やべぇ。熱に浮かされて変なことになってる。
どこの厨二病のガキだよ。あぁでも、バカやるにはちょうどいいんだよなぁ。
あれ、それなら思ってるより平常運転?
…………いや、まさか。熱に浮かされておかしくなってるだけだよ。
そうだよ。そうに違いない。厨二が俺の素というわけではない。断じてない。
ないったらないんだい。
くそう、頭くらくらしてきた。
行けなかったことへ不満を抱きつつ、体のしんどさを思い出して袿を頭からかぶる。
行きたかった行きたかったいきたかった。
自分のアホ。ばーかばーかばーか。
どーせ、おれなんか、どーせ。
不貞寝の体勢でいじけているうちに、いつの間にか眠り落ちた。
◇ ◇ ◇
気づいたら日にちが変わってた。
眠る前の記憶では日が傾き始めていたとはいえ、高い位置にあったはず。
どんだけ寝たの、俺。寝すぎでしょ。
東の空が白み始めている。
いつもなら、隣で寝ているはずの弟の姿はない。
弟の褥が部屋の隅に残されていることからして、おそらく昨日は帰ってこなかったのだろう。
言ってたもんな師匠。逢魔が時に妖の活動は活発になる。
だから、一緒に行くのであれば遅くなるぞ、と。
人生初のお泊まりを、弟は一人で体験したのか。
……うん。しめよう。
兄をさしおいて自分だけいい思いするとか、言語道断。
勉強は苦手じゃないけど頑張る自分とは裏腹に、俺ほど頑張らなくとも知識の吸収が早い弟。
座学では負けるが、体術ではまだ自分のほうが勝手いる。
いつ追い越されるか、ひやひやしてるけど。
ってか弟に頭も力も越された日には、兄としての面目なんて丸つぶれだけど。
いや、そもそも兄と思われているのかも微妙だ。
呼び方はおい、とかお前だし。どこの関白亭主やねんって突っ込むくらい、兄と呼ばない。
へらへらしててうざい、と言われたことがあるけど、やっぱりそのせいなのかね?
お兄ちゃんは悲しいよ、弟よ。
そんな血も涙もない子に育てた覚えはないのに……!
「育てられたおぼえもない」
冷ややかな声とともに足蹴りにされた。
じんじんと痛む背中を抑えながら、声の主を振り返る。
案の定、仏頂面で仁王立ちしている弟の姿がそこにはあった。
「なにもけることはないだろう!」
「だまれ。うるさい。さわがしい。ねる」
「ひでぇ! 弟の兄にたいするあつかいがひでぇ! こんなにもけなげでまじめでやさしい兄を……って、きけぇ!」
ものの見事に無視をきめこみ、褥をしいて横になる弟。
完全に寝る体制の弟に、この野郎と目を眇めた。
大人しく寝させてやるものか。
子どもの嫉妬は恐ろしいんだぞ。
にやり、と不気味な笑みを浮かべて、転がる弟に突撃した。
「ぐぇっ」
「ふはははは! つぶれたかえるみたいな声してやんの!」
「ぅっ……お前……!」
横になる自分の上でいい笑顔で笑う片割れを鬼のような形相でにらみつけた。
だというのに、腹立たしいことに片割れは飄々と笑っている。
頭おかしいのかこいつ、と思ったことは幾度となくあるが、頭おかしいのではなく、もはやこれは別次元の生物なのではなかろうか。
そうだ。きっとそうに違いない。でなければ、人が寝ようとしているところに、勢いつけて乗るような真似はしない。
「おりろ!」
「やなこったー。あっかんべー」
ぶち、と何かが切れる音がした。
なぁにが兄だ。やってることはそこらのガキと何ら変わらない。それでどうして兄と思えようか。
実は、上と下は逆なのではないかと疑っている。
これが兄とか、たまったものじゃない。ありえない。
「ぐほっ……やるな、弟…」
「ひとのあんみん、じゃまするな…!」
「やーだねーだ! おれをおきざりにしてひとり師匠とでかけたお前からはなしをきくまでねさせないもんね!」
「とうじつにかぜひいたどこかの馬鹿がわるい」
「なにおぅ! お前もいっしょにひけばよかったんだ!」
「だれがそんな馬鹿なことをするか! 馬鹿はおまえだけでじゅうぶんだ!」
「馬鹿っていったほうが馬鹿なんだぞ! やーいやーい。ぷぷっ」
「こんの……っ!」
殴り合い、蹴りあいからの追いかけっこ。
部屋をぐるぐる回り、廊下に出て走り、庭に出て取っ組み合う。
騒々しいこの兄弟喧嘩。なにかとくだらない理由でよく勃発している。
やれ弟の態度がわるいだの、やれ片割れがお馬鹿で腹立つだの。
…同じ理由で、毎日毎日、飽きもせず喧嘩を繰り返す。
本人たちはいたってまじめ。互いに互いが気に食わないから、けんかになる。
そのまえに、手を出すより話し合いを、と双子の父や師匠は言っているのだが、いかんせん聞き入れない。
どちらかでも、と思うのだが、どちらも譲らないので平行線。
でも、終わった後にはすっきりした顔をしていることが多い二人。
ため込まずに動いて蟠りを発散する子どもなりの対処だろうとここは割り切り、度が過ぎないように見守るのが大人の役目。
手を挙げるのはお互いに対してだけで、ほかの人間あるいは生き物に対して奴当たるようなこともないから放置。
4年ほど言い続けてきたが、いつぞやに二人の喧嘩への思いを聞いてから、口うるさく言うのはやめた。
――うごくと、きぶんがすっきりするとおもったから。おこらせないとうごかないから、おこらせる。
――ちかくにいるのに、とおい。でもけんかしているときだけは、ちかくにいて、ちかいから。
お互いに、お互いの何かを感じている。それゆえの喧嘩。
「上の童子も元気になったみたいでなによりだ」
「行きたかったのに、とずっとぼやいていたよ。それくらい、楽しみにしていた」
「下の童子は、無意識のうちに姿を探す様子が見られたよ。それに少し機嫌が悪かったかな」
「仲がいいからね、ふたりは」
「そうだなぁ。なんだかんだいいながら、お互いのことが大切なんだろうな」
泥だらけになりながら、肩で息をしながらも、今なお取っ組み合うふたり。
その根底にある思いは、互いを思う心。
それを、こういう形でしか表せない。二人そろって不器用である。
「わざわざ送ってくれて、ありがとう、忠行」
「気にするな。……下の童子の秘められている力はすごいな。おそらく、上の童子も」
「……そうか。そちらの面は引き続き頼む」
「当たり前だ。途中で投げ出すつもりはないよ」
「ありがとう」
邸をあとにする友を見送り、益材は庭へ視線を滑らせた。
二人とも地面に転がって動かない。
今日の取っ組み合いは無事終了したようだ。
この光景を見ることができるのはあと1年もない。
下の童子を、播磨へとやる事実を、まだ伝えられずにいる。
また今度、と先延ばしにしているうちに何年もたってしまった。
早く、覚悟を決めなければならない。
二人は悲しむだろうか。父を恨むだろうか。
この時がいつまでも続かないその現実が、たまらな寂しい。
そっと嘆息して、庭に足を向けながら考えを巡らせる。
伝えるならば早いほうがいいのはわかっている。
それでも、どうしても願ってしまう自分が浅ましくて、吐き気がした。