今日は師匠が忙しいということで修業はない。
俺と違って根が真面目な弟は一人、ついさっきまで手習いに励んでいた。
そこは素直にすげーなと、思う。
褒められるのはうれしい。認められうのはうれしい。
でもたまにはぐだぐだしたいじゃないか。ぼーっとするのも楽しかった。
が、それだけで丸一日がつぶれるわけじゃない。何もすることがなさ過ぎて暇になる。
暇になりすぎてなにやることと言ったら、掃除だ。
まぁ、二人いる女房が俺たちに近づきたがらないから自分でしているだけなのだが。
生まれ変わって早数年といえど、未知なものはまだまだある。
ここが平安京という名前から平安時代だと知ったのはいつだったか。
現代を生きていた自分にとって、平安期と現代を比較するのも楽しい。
それに掃除しなきゃ埃がすぐ散らかるのだ。
修行を始めてから、いろいろ資料が増えた。
師匠にもらったものもあれば、手習いで自分が書いたものもある。
大切なものといらないものは一応分けてるみたいなんだが、弟が散らかすんだ、これが。
俺もそんなに人のこと言えないんだけど。
念のため内容を確認しながら紙を仕分けていると、ひょいっと一匹の雑鬼が顔を出した。
それは、昔助けてから自分に懐いている、力の弱い猫の妖だった。
一見どこにでもいそうな茶色の猫。
その体躯は子猫ほどの大きさだ。
その猫によると、体の大きさは力の強さに比例するらしい。
だから、身体が小さいということはそういうことなのだそうだ。
ちなみに、この猫の場合力が弱いと人の言葉も話せないらしい。
だから会話する時は、頭に直接語り掛けてくる。
それにも力が必要だから、一日から数日に一回くらいしか会話をしない。
今日来たのも二、三日ぶりだった。
『またおまえは弟の後始末か。病み上がりというのに大儀なことだ』
「しんぱいしてくれて、ありがとな」
『あたりまえよ。さすがに元気のないお前では遊べないからな』
「こらこら。俺であそぶな。俺と、あそべ」
『なら弟みたいにもう少し鋭敏になるんだな』
人で言うなら、にやりと笑っという表現がふさわしいのだろう。
そんな雰囲気を醸し出して、猫はぽてぽてと傍らに座り込む。
それができたら苦労はしない、とむくれて整頓へと意識を向けた。
かさかさと紙を仕分ける音だけが室内に響く。
こいつとのこういう時間は嫌いじゃない。
むしろ好ましいと思っている。
すぐ近くに誰かがいるって、いいなぁって思えるから。
『そういえば、下の若君がお前のことを呼んでいたぞ』
「っ……、それをはやくいえ!」
『忘れていた』
「そのかおぜったいわざとだ! けられるの俺なんだけど!?」
欲しいものはとりあえず唐櫃に、そうでないものは飛ばないよう硯を重しに机に置く。
またあとでな、と颯爽と去っていく後ろ姿を見て、くっと笑いをこぼした。
『忙しいやつだ』
下の若君と違ってころころと表情が変わる。
見ていてとても面白いと言うのに、なぜ人は双子を忌み嫌うのか。
狐の子だと、忌み子だと、人は陰で二人をののしる。
それがどんなに二人を傷つけているのかも知らず、恐れおののく人間たち。
馬鹿だよなぁと思わずにはいられない。
こんなにも優しく、まじめで、からかい甲斐があるというのに。
『そういえば、冗談だと言い忘れたな』
まぁいいか。そのうち戻ってくるだろう。
くるりと丸くなって目を閉じる。隙間風が毛を撫でて消えていく。
心地よい風にまどろむ中で、とたどたと足音を立てながらあの子が戻ってきた。
「かえい! よんでねーじゃんか! あいつにまた鼻で笑われたんだけど、どうしてくれんのさ!」
あぁ楽しい。これだから上の若君をからかうことをやめられない。
『すまんすまん。嘘だと言うのを忘れていた』
「わすれるなっ! 俺のいたいけな心が傷つけられていく……なんてりふじんな」
泣きまねをする若君。ほんとにこいつ六つなんだろうか。
疑うことせず鵜呑みにするたたりは子どもだが、そんな子どもが果たしてこう、おちょくるように泣きまねするのか。
肉体年齢に反して、精神年齢が上なのか下なのかまったくわからん。
その意味不明さも上の若君の魅力ではあるが。
「そのりふじんにしずめボケ」
「ぎゃぁっ」
あぁ、また始まるなぁ。
他人事のように構えながら、香瑛は耳をそよがせる。
「なにすんだこのやろう! 俺のりふじんさを思い知れ!」
「だがことわる」
「もんどうむよう!」
楽しそうな声に耳を傾けながら、尾を揺らす。
ここは本当に居心地がいい。
恐ろしいものだと教えられてきた人間に、救われる日が来るとは思いもしなかった。
いつものごとく取っ組み合いの喧嘩に発展する兄弟。
うっすらと目を開けて、その様子を眺める。
世界はこんなにも、まぶしく、輝いている。
◇ ◇ ◇
――おいで。
聞こえた声に、目を開けた。
あたりは暗闇に包まれいて、一寸先も見えない。
きょろきょろとあたりを見回すと、再び声が聞こえた。
――おいで。
甘いにおいが漂う。
甘ったるいのに、不思議と気持ち悪いとは思わない。
じん、と頭の芯がしびれて、何も考えられなくなる。
――こっちに、おいで。
ふらりと声がする方へ足を向けた。
呼ばれているから、行かなければ。
考えることをやめて闇の中、足を進める。
手招きしている手が見えた。
白い手がぼうっと浮かび上がり、緩慢に動く。
目の前に立つと手は差し伸べるように手の平を返す。
それに応えるように手を伸ばしたときだ。
どすっ。
「ぐえっ」
けったいなうめき声をあげて、声もなく悶絶する。
痛い。痛い痛い痛い痛い、めっちゃ痛い。
ってか苦しい。まじで、ちょっと息するのもつらい、かも。
咳き込めば、鈍痛が腹部にわだかまる。
深呼吸を繰り返して、肘で状態を起こしつつ、仁王立ちになる弟を睨みつけた。
「もっとおんびんに起こせよ……!」
「…………今、何をみていた」
「は?」
「……なんでもない。朝餉だ」
「え、うそ! 俺ねぼうしたのか!?」
跳ね起きて身支度を整える兄に背を向け、廊下へ出る。
そのままたたずみ、険しい顔で胸元の衣を握り締めた。
珍しく寝坊した兄の周りを黒いものが取り巻いていた。
嫌な予感を覚え、揺さぶったり叩いたりしたけどぴくりとも動かなかった兄。
かろうじて脈は感じ取れたものの、今にも消えそうなほどひどく弱弱しかった。
今思い返しても、すぅっと胸が冷える。
自分と違って、明るくて能天気な兄。
雑鬼にも好かれ、兄の周りはいつも騒がしい。
いや、本人が一番騒がしい。
自分のそうだが父上も師匠きっと、そんな兄上に救われている。
いまでも双子の片方を手放そうとしない父に、周りはいい顔をしない。
双子を引き離すよう説得するどころが師として自分たちに教えている師匠への風当たりも弱くはない。
双子というだけで、周りのものがこんなにも辛い思いをする。
もし、どちらか一方がこの都を離れるなら、それは自分の方だと思う。
兄ならうまく生きていけるだろうから。
だから、くれてなどやらない。
運命だと言っても、兄を冥府になどくれてやらない。
冥がりになど渡さない。
もし、その時があるのなら、その時は。
「あれ、待っててくれたのか。いい弟をもったなぁ、俺」
「ちがう。考え事をしていただけだ」
「照れるな照れるな。俺はちゃんとわかってるから」
「人のはなしをきけ」
さぁ、朝餉に行くぞと笑う兄。邸の空気が一気に騒々しくなった気がする。
兄のその騒がしさは嫌じゃない。むしろ安堵を感じている。
前を行く兄の背を見つめ、ついっと目を細めた。
その時は、何としてでも救い出す。
「――今日はここまでにしよう」
「ありがとうございました」
弟と二人そろって頭を下げたのち、正座を崩した。
あぁ、疲れた。甘いものほしいチョコ食べたい。
のどか沸いた、布団が恋しい。でも。
「足しびれたぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「うるさいっ」
すぱん、と弟に頭を叩かれ、口をへの字に曲げた。
「お前さ、すぐ手をだすのやめろよな」
「口で言ってしずかになるわけじゃないだろう」
「だからと言って、叩いたところでしずかになると思うなよ、えっへん」
「いばるな」
また頭を叩かれた。
まったく、言ったそばから手を出しやがって。
少しくらい忍耐という文字をかみしめてもいいと思うぞ、俺は。
怨めしげにすました顔の弟を睨みつける。
相変わらず不愛想だし、はたから見れば目つきは怖いけどさ。
昔に比べたら、すこし丸くなったような気がする。
…あ、今でも殴るし蹴るし喧嘩するし、気のせいだな。
「仲がいいのはいいことだが、上の童子は今日は身が入らなかったようだね」
「そんなつもりはないんですけど……」
ぽりぽりと頬をかき、あぁでも、と何かを思い出したかのように言葉をつづけた。
「夢で、誰かに呼ばれているような気がするんです」
どんな夢かは覚えていない。
でも、呼ばれているのだけは覚えている。
下の童子のぴくりと、肩が跳ねた。
兄の方へ視線を滑らせ、息を殺す。
師匠も兄も自分の様子に気づいた素振りはない。
それをいいことに、袂の陰でこぶしを握りしめた。
時折、眠る兄にあの影はまとわりついている。
今持ちうる知識を駆使して退けているが、根本的な解決にはなってない。
眠っているとき以外はいたって健康だから、父も師匠も気づいてはいない。
本来なら、父や師匠に相談すべきことなのだろう。
でも言うことはできなかった。
いや、言いにくい、言いたくないといった表現の方がふさわしい気がする。
「呼ばれている、とな?」
「はい。あくむってわけじゃないと思うんですけど、よく眠れてないのかも…」
「じゃあ、今日はこれを覚えておくといい」
悪い夢を祓う呪いを教えてもらって、兄がほっと息をついたようだった。
それに、ざわりと心が騒いだ。
言い表しようのない感情が胸の内に広がっていく。
ありがとうございます、と浮かべられるその笑顔に、今はただ腹が立つ。
自分の視線に気が付いて兄が不思議そうに首をかしげる。
「どうかしたか?」
「…いや、呪いを唱えずともお前ののうてんきさにあくむも呆れて去るだろうなと思っただけだ」
きょとんとした顔で目を瞬いたのち、へにゃりと兄は笑った。
「心配してくれてありがとな」
「………………………」
どこをどう曲解したらそうなる。
馬鹿か、と鼻で笑って視線を外した。
なにおぅ、と突っかかってくる兄の足をげしげし蹴る。
それににんまりと笑い、照れるな照れるなとつついてくる兄に一度拳骨を落とした。
今回はあまり加減しなかったので、兄は目に涙を浮かべている。
凹んだ様子にちょっとばかし動揺したが、素直じゃないんだから、という言葉にそっぽを向いた。