いらないなら、生まなければよかったんだ。
* * *
「克寿! 晴香に謝りなさい!」
「だってはるかがぼくのほんを」
ぱん、と乾いた音が響いた。
ひりひりと痛む頬に、目に涙を浮かべる。
どうして僕が殴られなきゃいけないの?
晴香が悪いんだよ。僕の本を破るから。
なんで僕ばっかり怒られるの?
「なんでお母さんの言うことがわからないの!?」
「ご、ごめ……なさ…」
「聞こえない。ちゃんとはっきり言いなさい」
「ごめん、なさい………」
なんでわかってくれないの。
どうして晴香ばかり構うの。
僕の話も聞いてよ、お母さん。
「大丈夫、晴香。ほらいたいのいたいの、とんでけ~」
泣き止んだ晴香が僕を見て笑った。
びしりと、不吉な音がなった。
* * *
「どうしてあんたはなにもできないの!?」
期末テストの結果を前に、あの人が怒る。
赤点ばかりのテスト。いつものことだ。
そして、双子の妹であるあいつが高得点であることも。
「まったく、晴香を見習ってほしいものだわ」
何も知らないくせに。俺が努力していたことなんか、知らないくせに。
始めの頃は勉強だけでもと頑張っていた。だから成績はあいつより良かった。
負けず嫌いなあいつはそれが気に喰わなかったのだろう。
でたらめを言って、テストの成績がいいのはカンニングしたせいだと豪語した。
反論はした。そんなものしてないと言い張った。
でも、顔が広く先生の覚えもいいあいつの言い分を皆信じた。
友達も、先生も、親も、みんな。
卑怯者というレッテルを張られて、何もかもがどうでもよくなった。
誰も、信じてはくれない。
誰も、味方なんかしてくれない。
誰も、助けてはくれない。
誰も。誰も――。
それ以来、何もしなくなった。母とも呼ばなくなった。
学校には行くけど、勉強も部活も何もしない。
家事も、手柄をはるかに取られたあの日から、自分のことしかしない。
ぴきっと、ひびが入るような音がした。
* * *
「かっちゃんめーっけ」
「……ちぃちゃん…」
「またないてるの?だいじょうぶ?」
膝を抱える自分の傍にしゃがみこむ。
曲がったことが嫌いなちょっと気の強い幼なじみだ。
晴香とは仲が悪いのに、なにかと自分に話しかけてくる。
始めはしつこくて嫌いだった。
晴香と仲が悪いから、晴香に何か言われるんじゃないかと怯えていた。
でも今は、本音で会話できる唯一の友達、……だとおもう。
「ちぃちゃん、なんではるかばっかりほめられるの」
なんで晴香とおんなじことをしたら、僕だけが怒られるの。
なんで晴香が僕と同じことをしても、僕のように怒られないの。
なんで晴香ばっかりお母さんは見ているの。
「がんばってはなそうとしても、ぜんぜん聞いてくれないの」
タイミングが悪くても、晴香にだったら時間を作るのに。
晴香のだったら、何かしながらでも話を聞いてるのに。
どうして僕の話は聞いてくれないの。
言いたいことを全部言って、ぽろぽろと涙をこぼした。
どうしたらいいの。どうすればいいの。
慰めるように自分の頭を撫でる手が、とても嬉しかった。
でも。
ブレーキ音とどん、と何かがぶつかる音が後ろから聞こえた。
何事だと振り返り、愕然と目を見開く。
多くの悲鳴や救急車を、という声が遠くに聞こえる。
その傍らに、おびただしい血だまりがある。
そのなかに倒れる、先ほどわかれたはずの幼なじみ。
真っ青な顔で震えている晴香がいた。
唐突に、場面が切り替わった。
呆然としていると、晴香に蹴飛ばされた。
がん、と床に頭をぶつけて声もなく呻く。
「あのおんながしんで、なにがかなしいのかさっぱりわからないわ」
その言葉に頭に血が上った。
なんでそんなことが言えるのか。
人一人殺しておいて、どうして笑えるのか。
お前が殺したくせに。
お前が突き飛ばしたくせに。
ちぃちゃんを殺したくせに。
「ちぃちゃんにあやまれ!!」
悔しくて、苦しくて、腹立たしくて、悲しくて。
もう、唯一の友達に、会えない。
殴りかかればばたばたと自分の部屋に逃げ込む。
悔しさにだん、と床を叩いた。
何度も何度も、感情をたたきつけるように拳を落とす。
泣き疲れてねむくなり、布団にもぐりこんだ。
その夜、帰ってきた母に暴力はいけないと言いながらたたき起こされた。
先にあいつに蹴られたことを言っても、信じてはもらえなかった。
それから、ちぃちゃんを馬鹿にしたのは自分だということになっていた。
もう、いいよ。あいつはもう、どうしようもない。
ぱしん、と強度に耐えられなくなったガラスがたわむ音がした。
* * *
高校2年の修学旅行。
年間行事の中でもこれが一番嫌いだ。
だから、学校で自習する道を選んだ。
あいつと俺の差は、たったそれだけ。
しかし、その差がその時刻における生死を分けた。
修学旅行の先で、バスが横転したらしい。
それに後続のバスや自家用車などが巻き込まれたという。
そして、横転したらしいバスにあいつが乗っていたのを家に帰って初めて知った。
あの人はすでに連絡を受けていたのだろう。
事故当日からしばらくの間、家に帰ってくることはなかった。
数日後、帰ってきたあの人は酷くやつれていた。
あいつが死んだことはテレビで見た。
罰が当たった、としか思わなかった。
あの人と会話なんてものは中学校に入った時点でしなくなっていた。
日常会話どころか挨拶すらもしない。
入れ違いに学校に行こうとして、唐突に首を絞められた。
玄関で自分に馬乗りになり、首を絞めてくるあの人。
どこにそんな力があったのか、爪を立てればひるんだのか、ようやくわずかながら力が緩む。
けれども、油断はできない。
跳ねのけようと腹筋に力を込めた時だ。
「どうしてお前が生きているの……!?」
よもやそんなことを言われると思わなくて、動きを止めた。
見計らったように、再び首を絞める腕に力が入る。
「なぜできそこないのお前が残っているの。
どうしてお前じゃなく晴香が死んだの。
お前なんかどうして産んだの。
晴香だけでよかったのに。お前なんかいらなかったのに」
ばきん、と済んだ音を立てて何かが崩れ去る音がした。
* * *
暗闇に揺蕩う中で声もなく涙を流す。
そうだった。俺は産みの親に殺された。
首を絞められて殺された。
お前なんかいらないと言われながら殺された。
どうして忘れていたんだろう。
どうして忘れることができたんだろう。
どうして思い出そうとしなかったのだろう。
いらないんだった、俺は。
生きてはいけないんだった。
死ねばよかったんだ。
消えてしまえばよかったんだ。
あぁ、そうさ。
俺なんて闇にまぎれて消えればいい。
どうせ、誰も悲しんでくれる人なんか。
――
唐突に、暖かなぬくもりに覆われた気がした。
傷つき凍てつこうとしていた心が、解けていく。
このぬくもりには覚えがあった。
昔、自分に家族というものを教えてくれた人。
自分たちを慈しみいとおしんでくれた人のもの。
「ははうえ……?」
――恐れることはない。私も益材も、お前たちふたりを愛している。
それは昔。生まれて間もないころの話。
生まれたばかりで、生きていることが苦しくて、これからあるであろう受難に押しつぶされそうになっていたあの時期に、母からもらった言葉。
その時からの記憶があることを誰にも言っていない。
ふつうはその時の記憶はないものだから、愛していると言ってくれる人に怯えられたくなくて、言っていない。
普通であれば持たない記憶を封じ込めてしまいたかった。
その時のことを忘れ、ふつうに生きてみたいと思っていた。
でも、今ほどこの記憶があることに感謝の念を感じたことはない。
「………………うん」
暖かい記憶だ。ずっと昔の記憶を塗りつぶすように、楽しくて、うれしくて、幸せな日々。
生まれてからのことを忘れたいと、普通でありたいと思う気持ちが完全になくなるわけではないけれど。
――おまえは決して、いらない存在ではないのだよ…。
「……うん、ありがとう、母上」
非凡でよかったと、初めて思うことができたよ。
本当にありがとう、母上。俺、帰らなきゃ。
俺を待っている人たちのところへ。
穏やかな気が、自分を纏う。
母上の気配がするそれに、顔がほころんだ。
青白い炎。それは弟にまとっていたもの。
一つ深呼吸をして、なにもない暗闇を睨みつける。
母上。どうか力をお貸しください。
父上の、師匠の、弟のところに帰る力を。
ぎゅうっと目をつむった瞼の裏が白く染まった。