清涼な風が頬を撫でる。
磐座に腰を下ろして静けさを堪能するのが良い。
今宵はみごとな望月というのもあり、気分は上々。
そんな時、山腹あたりに気配を感じた。
各地を彷徨い姿をくらます、朋友の気配。
……否、朋友と同じ気配。
清廉な気が乱れ、木々がざわつく。
静けさを乱され、眉をひそめた。
山腹で揺らめく妖気はおさまることを知らない。
出向こうと思ったのは、ただの気まぐれだ。
安定しない妖気があるところで降り立ち、ほう、と感嘆した声を上げた。
年半ばもいかぬ子供だ。
妖気のなかにわずかばかり霊気の残滓がある。
ということは、人の子か。
どういうわけか妖の力を目覚めさせ、呑まれかけているらしい。
「――ん? これは…」
暫しの間思案する素振りを見せた。
無情ではないが、虫の居所が悪ければ追い出すこともあるくらいには非情だ。
そういう自覚はあるし、元来そういうものなのだ。
だが、もしかしたら面白いことになるかもしれない。
確立としては低いだろうけども、待ってみるとしよう。
収まることの知らない力を、自身の力をもって抑え込み、その子どもを連れて姿を消した。
徐々に意識が浮かび上がる。
重い瞼を緩慢に開けば目の前に紫紺の中に輝く数多の光が広がる。
緩慢に目を瞬き、身体を動かした。
思っていたより体が重く、関節がぎしぎしとなる。
ようやく起き上がれたとき、上から聞きなれない声が降ってきた。
「起きたか、子ども」
誰だ、と声がした方を仰ぎ見て、思わず言葉を失った。
船の形を模した磐に、一人の女性が座っている。
それが、今までお目にかかったことがないほど、美しい顔立ちをしていた。
腰よりも長く癖のある薄紫色の髪。
すらりと伸びる手足は細く華奢な印象を与える。
身にまとう衣は、なんと形容すればいいのか、言葉が見つからない。
胸元には深い色合いの大きな玉が首から下げられている。
宝石だろうか。あんなに大きな玉は見たことがない。
瑠璃色の双眸がすっと細められた。
「いつまで呆けているつもりだ」
「――うわぁぁぁぁぁっ、見惚れてましたごめんなさいっ」
我に返り目にもとまらぬ速さで土下座した。
鼓動はいまだに激しいままで、頭を下げながらもう目が回りそうだ。
母上は可憐って言葉が似つかわしい人だけど、この人は。
なんていうかこう、うん、妖艶っていうか艶やかっていうか。
母上とは次元の違う美しさだ。
脳裏に焼き付いた彼女の姿に、頬を染める。
異性に興味なんてなかったし、むしろ嫌悪すら抱いていたけど、なんなんだこの緊張は!
「見ればわかる。気にするのはそれだけか」
「へっ? えー、えぇぇぇ、えーっと……?」
そろそろと顔を上げれば、あおい瞳が自分を見つめている。
ほんとに綺麗だよなぁ…。目は青いし髪は紫っぽいし、どこの国の人なんだろう。
ってそうじゃないそうじゃない。気にするって、なにを気にすればいいんだ?。
きょろきょろとあたりを見渡す。
うん。ここがどこか知らないし、気にするといわれてもさっぱりわからん。
何かが変わっていたとしても、変化なんてわからないぞ。
場所の違いに気づけってことじゃないのかな。
必死に考えをめぐらせていると冷たい夜風が頬を撫でた。
わー冷たいなー、としか思わなかったが、視界の隅にむき出しの素足が視界に入った。
……………………、そういうことか!
ようやく答えを見つけてもう一度ぐるりと周りを見渡す。
そして自分とあたりを見比べて、もう一度目の前の美女を見上げた。
うん、やっぱり寒そう。というか見てるこっちが寒いです。
男として気遣いをもてと言いたかったんだね。すっきりしたぁ。
水干に手をかけて、着物を脱ぎ腕に掛ける。
飛び跳ね磐の端を掴む。――が、つるりと手が滑ってしりもちをついた。
ぱちぱちと目を瞬かせてむっと顔をしかめる。
今度は背を伸ばして落ちないようにぐぐっと腕に力を入れる。
しかし、どうやら腕力が足りないらしく、耐えられなくなり再び地面に落ちた。
打ち付けた所をさすりつつ痛い、と小さくうめく。
予想だにせぬ行動に静かに女性は目を瞬かせた。
断りもなく寄ったことについては、面白そうなことを考えていそうなので、今回は目をつむることにする。
自分の手を見下ろして更に顔をしかめる子供。
面白い玩具を見つけたとでも言うように目を細め、ようようと口を開いた。
「何をしようとしている?」
「…………お隣に行きたかったんですけど…」
不貞腐れた顔で童子は自分を見下ろした。
力が、いやでも俺まだこども。できるほうがおかしいか?
とにもかくにも、どうやら自分で掛けてあげることはできないようだ。
「これ、寒いと思うのでどうぞ」
言葉とともに差し出された衣。あぁやはり、と女性はわずかに口角を釣り上げた。
その目はふざけているようなものではなく、本心からそう持っているのだろう。
なかなか面白い子どもだ。久方ぶりに、退屈せずに済みそうな気がする。
「その心意気だけはもらっておこう」
「寒くないのですか?」
「問題ない」
よかった、と安堵の息をつく子どもをじっと観察する。
もとより人間が持つような感覚を持ち合わせていない。
その点に関しては問題はないのだが。
「あ、寒かったら無茶しないでくださいね」
「お前、私を何だと心得ている」
「?」
きょとんと目を瞬かせたかと思うと、童子はわずかに首を傾げながら、おそるおそる口を開いた。
「えぇっと、きれいなひとだなぁって思って…ます」
だって、お姉さんほど綺麗なひとを見たことない。
美女って言おうと思たかもだけど、綺麗の方がお姉さんにはふさわしいなぁって。
至極真面目な顔で告げられた内容に、思わず肩を震わせた。
どうやら、いろいろと本気で気づいてないらしい。
ここまで鈍感なのもいっそ見事だ。
この後、面白いことことが見れるのを期待しつつ、ついっとある方角を指さした。
「あちらに川がある。そこへ行け」
「かわ、ですか?」
「そうだ」
首をかしげつつもわかりましたと丁寧にお辞儀をして、子どもは言われたほうへ向かう。
夜風に身をさらし、しばしの間の静寂を堪能していると、人よりも鋭い聴覚が素っ頓狂な声をとらえた。
それに、やはり、と唇をゆがませた。
人でありながら妖の、神に通ずる力を持つ天狐の力をもった子ども。
彼は、人であることをやめ、妖として生きる道を選んだ。
だが人の身ではその力に耐えられず、肉体は朽ちる。
だから、年月をかけて肉体を変質させた。
妖としての力に耐えうる肉体へと作り替えたのだ。
それが成功するかは、その人の心次第。
失敗すれば、あたりに害を及ぼすだけの、自我のない化け物へとなり果てていた。
人が鬼へと堕ちた話は聞く。鬼が人に成り代わった話は聞く。
だが、自らの肉体を作り替えて妖となった話は聞いたことがない。
だから興味本位で、その子どもを保護した。
見事生還した少年。だが、まさかその変化に気づかぬとは思いもしなかった。
あの妖気に耐えられたのだ。もと霊力は桁違いだったはず。
だというのに、自分の力が変質していることもわからぬ愚か者だと、だれが想像できようか。
ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を吐きながらがんぜない子どもが戻ってきた。
走ってきたのか、髪は肌に張り付き、汗が流れ落ちている。
よほど衝撃的だったのだろう。
ある程度息が整ったところで、子どもはばっと顔をあげた。
「なんですかこれは!?」
両手で頭に生える耳を押さえながら、愉快そうに微笑む美女を見上げた。
言われた通り川に行けと言われて行ってみれば、水鏡に移った己の姿は変わり果てていた。
いや、顔立ちや年齢は変わらないのだが、頭の上にぴこぴこと動く獣の耳が生えていた。
引っ張ると痛い。そのうえ取れない。意識をすれば動く。
嫌な予感を覚えつつ、そろそろと臀部に手をやれば、案の定、もふもふしたものが触れた。
恐る恐る手にもって前に持って来れば、ふわふわした獣の、それも狐の尻尾。
言葉が出てこなくて、二の句が継げないとはこのことかと、現実逃避したのは記憶に新しい。
いろいろ訳が分からなくて、その場から逃げるようにしてこの場所へと戻ってきたのだ。
「なんで、なんでこんな……っ」
こんな姿じゃ帰れない。狐の耳と、尻尾をはやした状態じゃ帰れない。
違う。こんなの俺じゃない。違う。俺は獣じゃない。
違う、ちがう。俺は、……っ、おれは……!
「俺は、にんげん、なのに……っ、にんげん、っ……だったのに…!」
どうして、と泣きじゃくるその子どもを、静かに見つめた。
目が覚めたら妖でした。それで受け入れろというのは無理な話。
人間だったことを覚えているのであれば尚更。
どれほどの時を、見守っていただろう。
声をあげて泣いていた子どもはやがて、俯いて鼻をすするまでに落ち着いた。
それでも顔をあげないのは、この現実を受け入れたくないからだろうか。
そうだとしても、現実ならばいつかは受け入れなければならない。
逃れることなどできやしない。
「――子ども」
「っ……は、い…」
「その姿は、人と、妖の姿が混ざり合ったもの。人の血と妖の血が混ざりあうがゆえになったのであろう」
天狐は、文字通り狐。
生まれながらにして天狐であるものと、長き年月を生きた狐が神格を持つようになるものと、二種類存在する。
どちらにせよ、本性が狐であることに変わりはない。人の姿は、変化しているに過ぎないのだ。
しかし、人はどうだろう。
人は変化することはできない。力を使って自らの認識を
人から妖になるにあたって、肉体を改変するとはいえもとは人間。
二足歩行から四足歩行に変えるのには体に相当な負担がかかる。
ただでさえ妖気に耐えうるのも危うい器が、それに耐えられるとは考えにくい。
その結果、人であるけれど、妖としての特徴を反映した今の姿になったのだろう。
「人の血と、妖の血……。…まさか、母上…?」
呆然と、自分の手を見下ろした。
自分を包み込んでくれた青白い炎。それを自分は、母のものだと思った。
狐の子だと噂されていた。父は人間。ならば母がそうなのだろう。
火のないところに煙は立たないという。自分から聞くこともしなければ、父から言うこともなかった。
母がそばにいないのは確かに寂しいが、父が、弟が、師匠が、雑鬼がいたから、それでよかった。
ぎゅっと手を握り、目を固く閉じる。
過去に二度感じたことのある温もりが、自分の中に根付いている。
不安だったとき、怖かったとき、恐れていたとき、この温もりに安心したことを覚えている。
大丈夫だと、愛しているよと優しく語り掛けてくれた声を覚えている。
思い出して絶望した自分を、引き上げてくれたことを覚えている。
ゆっくりと目を開き、目尻に残るしずくをごしごしと拭い去った。
深呼吸をして、ゆっくりと女性を見上げた。
「今のおれは、あやかしですか?」
「そうだ」
「にんげんに戻れるかのうせいはありますか?」
「ないな」
「この耳と尾を、かくすことはできますか?」
「変化のちからをお前が使えるようになればあるいは」
「変化の仕方、わかりますか?」
「さてな」
うっ。やっぱりわからないか。でもこの姿のまま帰ることはできない。
せめて、ちゃんと人の姿をとれるようになってからでないと。
どうしたら取れるのかな。想像したらできるのかな?
耳としっぽなくなれ、と念じながら人であった頃の姿を想像したものの、まったく変わらなかった。
やべぇ、凹む。こつが全く分からない。
「――己が力の流れを知れ」
「力のながれ?」
そうだ、とうなずく女性。
じっと手を見て思案する。
そもそも、俺の力ってなんだ。
頭で考えてもぱっとは出てこなくて首をかしげる。
これは長期戦になりそうだ。
「あの!」
「なんだ」
「ちゃんと変化できるようになるまで、ごしどういただきたいのですが、ごつごうはいかがでしょうか」
「……子ども。私をなんだと心得る?」
「え? えーっと…?」
ふわりと冷たい何かが体をまとう。なんだろうこれ。まぁいいや、それより質問の答えだ。
さっきも同じことを聞かれたよな、と内心首をかしげつつ、自分の答えを口にする。
「きれいなお姉さん。じゃなきゃ、ようえんなお姉さん。…あれ、ようえんってほめ言葉だったっけ…?」
妖しく艶やかな人。貶してはない、よな?
「――まぁいいだろう。気が向いたら見てやらないこともない」
「ありがとうございます。えーっと……、あ、俺は暁明といいます。あなたは?」
「……、………高淤と呼ぶことを許そう」
「たかおさんですね。あらためて、ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
ちょっと修行してくるので、気が向いた時にまたお願いします、と頭を下げる子どもに一つうなずき、その背を見送った。
「なかなか、面白いことになりそうだぞ、我が朋友よ」
この国のいずこかにいる、異国の少女に思いを馳せながら高淤は、――貴船の祭神・高淤加美神は天を仰いだ。
2017年9月22日 一部修正