今更ながら、おめでとうございます。
気まぐれ更新ですが、のんびりとお付き合いいただけますと幸いです。
「のぉぉぉぉ、うわぁぁぁぁぁぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
全身で嘆き落ち込む様子を体現して見せる子ども。
言葉そのものに意味は持たないが、頭を抱え声を上げる行動は彼の心境を如実に表している。
文字通り転がりまわるそれも同様。
私を目の前にして、このような姿を見せる者など、神代の時代までさかのぼったとしても過去に例を見ない。
朋友と呼ぶほど親しいものもいるが、それでも無様な姿は見せることはない。
だというのにこの子どもは、現在進行形で見事、前例を作ってのけている。
無礼ではあるが、奇妙な行動を傍らで見るこというまたとない経験に、口角があがる。
「――随分と、面白いことをしているな」
「はっ、そうだ! 聞いてくださいよたかおさん!」
いいことを思いついたといわんばかりの顔で飛び起きたその子どもは、奇妙な行動を恥じることなく、鬱憤を晴らすかの如く滔々と語り始めた。
「人がせっかく、たかおさんに力の使いかたをおそわって変化もできるようになったっていうのに。
頭痛もなくなって、無事にげざんできるようになったっていうのに、なにあの仕打ち!
なんで、なんであんなにあいつ成長してんの!? いつの間にそんなに時間たってんの!?
俺だけ姿が変わってないとか、会おうにも会いづらいわ!
ぜったい、無言で冷たい目でみおろされて、なぐられた後に『おそい』って言われるんだ!
いつもいつも手より先に口を動かせって言ってるのに!」
畜生、と地団駄を踏むのは構わないが、よくもまぁ想像でそこまで腹を立てることができるものだ。
それが、貴船の祭神高淤加美神の率直な感想である。
そんなことを思われているともつゆ知らず、
「だいたい、父上とお師匠様にだってどんな顔して会えばいいのさ。あいつはともかく。
ただいまーって、子どもらしく元気いっぱいで帰ればいいのか?
それともおそるおそるといった感じで、帰宅時間とかにはちあわせするよう動けばいいのか?
父上もお師匠様も、かんるいきわまるだろうなぁ。あいつはともかく。
何年たったか知らないけど、久しぶりだから当然っちゃ当然だよな。あいつはともかく。
弟なら弟らしく『あにうえー』って、優しくかまってくれたって……うん、ないわ、あいつだし」
聞いて、と言ってはいたが、もはや独り言だよなと思いつつ、じっとその子どもを見守る。
普段であるならば、ここまで放置されれば機嫌を損なうこと必須。
今そうならないのは単に初めて経験するこの状況を面白がっているからだ。
目の前の状況に笑みを浮かべつつ、頭の中の冷静な部分がそう分析する。
興味があるうちは気に掛ける、つまり何かあったら守る。それが誓約。
だからと言って、この不躾な態度を許容するのは、また別の問題だ。
初めての経験とはいえ、その態度に興味を失ったといって切り捨てることもできたはず。
それをしないのは不快な感情より面白いという快が勝ったからに過ぎない。
なぜ快が勝ったか。それは気まぐれとしか言いようがない。
「あーあ、『兄上』ってまた呼んでくれないかなー。
呼んでくれたら、にやにやしながら出てってやるんだけどなー。
むりだよなー、一応仮にも兄である人をけりとばすようなやつだし」
拗ねた発言をかます暁明に、それまでの思考を打ち切った。
興味がある。面白い。長い時を生き、退屈していたのだから、この状況を享受する理由はそれだけで十分なのだ。
「本当にどうしたらいいと思いますか」
切実に訴えかけてくる瞳をようようと口を開く。
「さて。どうするかはお前次第だ」
「ですよねー。けっきょくは俺がどうしたいかなんですよね。わかってます、えぇ、わかってました。でもんなプレッシャー投げ出したかったんですよちくしょう・・・!」
そして再び心の赴くままに呻き声をあげる。
人が体感している時間と、神などの人よりも長生きしているものが感じている時間の流れは異なる。
今は人の括りを外れているとは言え、元は人として生きていた。
その子どもが唐突な時間の流れの変化に困惑するのも無理のない話ではある。
「あぁぁぁぁ、どうしようどうしよう。どうしたいんだろう。
父上とお師匠様には会いたい。でもあったらあいつにも会ってくれるかっていわれるんだろうな。
…今会いに行ったらほんとなぐられる気しかしない。もうちょっと、ほとぼりさめてからでもいいかな。
いいよな、いいよね。うん、そうしよう。
く……っ、『あにうえ』って呼んでくれるような懐っこい弟だったら、ここまでなやむことなかったのに…!」
どこで育て方をまちがえたんだ、と泣きまねをする子ども。
果たしてそれに何の意味があるのか理解に苦しむが、一人芝居は退屈を紛らわすのにちょうどいい。
独り言のつもりなのだろうが、それが芝居の解説にもなっているから、まったくわからないということもない。
意図せずしてここまで楽しませてくれるとは。
口には出さないが胸のうちで高淤は感嘆する。
暁明は両手で頬を何度かたたくと、まっすぐ磐座に座る女性を見上げた。
「力の使い方についてのごしどう、ありがとうございました」
「構わんよ。--今も面白いものも見れたことだしな」
「…あ」
しまった、という表情を作るがもう遅い。
変化の練習をしていたこの半年のなかで、想定外のことが起こると直情的に行動し、後々恥ずかしい思いをしたことが幾度となくある。
気を付けようと思っているのだが、いかんせん、その時になるとそこまで考えが及ばないのだ。
「あぁぁぁぁぁ、ごめんなさいごめんなさい。
はずかしいとこみせたのでわすれてくださぃぃぃぃっ」
「ふっ。断る」
「あぁぁぁぁぁぁぁ、俺のくろれきしがぁぁぁぁ」
がくりと膝と手をつきうなだれる子どもに、くつくつと声を立てて笑った。
それから数日。
直接会うのはいやだけど、父や弟の様子が気がかりで、連日気配を消して様子を眺めていた。
基本的に、父は仕事で、弟は師匠のところで修行、という日常に変わりはない様子。
あの雑鬼どもも、変わらず邸に入り浸っているようだ。
ただ、あの猫――かえいの姿はないけれど。
記憶にあるより、父も師匠も歳を重ねてる。
弟は背が伸び、声も低くなっており、さらには顔立ちも精悍なものへと変わっている。
いくつになったのかはわからない。ただ、そろそろ元服するんじゃないか、という話を小耳にはさんだ。
弟は相変わらず不愛想で、感情の起伏に乏しい。
いや、乏しいと言うより、世の中のすべてのことがどうでもいい、と言った感じか。
そうか、あのまま育っちまったか。でもまぁ、人のこと言えないよなぁ。
父上と、母上と、お師匠様と、仲のいい雑鬼どもと、弟と、たかおさんと。
雑鬼をひとくくりにしてしまえば、関心のある存在は両手でこと足りる。
わずらわしいというか、鬱陶しいしな。異形の子だと陰口叩いて勝手に怯えて、勝手に蔑んで。
どうでもいいと言い聞かせてたら本当にどうでもよくなったから、そこはよかったと思ってる。
いちいち傷ついて凹んでちゃ、こっちの身が持たないし。
……ただ、双子についての悪口は決して言わない。
言霊、という考え方がある。言葉には魂が宿り、魂が宿った言葉は、現実となる、というような考え方。
双子について悪口を言って、妻が双子を産んだら、という不安から口をつぐんでいるのだろう。
…それはわかるし、なにより陰口をたたくやつらの心情はどうでもいいんだけどさ。
父上も、お師匠様も、弟も、誰も“俺”のことを口にしない。
忘れてしまったのだろうか。みんな、俺のことを覚えていないのだろうか。
勇気を出せば会える状況で現実を見て、不安に駆られる。
初めは、殴られるのがいやだと、どんな顔をしたらいいのかわからないから、後にしようと思った。
でも今は、もうみんなの中に俺という存在はないんじゃないかと、覚えてないと言われることが怖くて躊躇する。
覚えていても、もう何年もたってるから、死んだ人が今更ひょっこり現れても迷惑なのかもしれない。
いろいろ考えてしまって、弟にだけでなく、父上にも師匠にも会うのが怖くなった。
お師匠様の邸の向かいの邸の屋根から、父と弟と師匠の姿を眺める。
人であった頃と比べて格段に耳がよくなった。だから、その距離でもなんなく音を拾うことができる。
元服する際の、後ろ盾はお師匠様がするらしい。
弟の表情的にはあまりのり気じゃなさそうだが、出仕を受け入れる様子。
元服について話し合う様子に、父も師匠も弟も、すごく遠い存在のように感じた。
いや、事実そうなのだろう。自分は人ではなくなった。
妖としての道を歩んでいる。――生きる時間が違う。
遠く感じて当たり前だ。むしろ、今までと同じように考えていた自分が間違っていたのだ。
「ほんと、ばかだよな…」
気づいてしまったら、これ以上、このまま様子を見ることが耐えられなくなり、暁明はその場を去った。
帰ってきてから膝を抱えて顔をうずめて微動だにしない子ども。
時々、手を握り締めては頭を振りかぶって、じっと何かに耐えている。
血縁者の様子を見に降りはじめた数日前から徐々に元気をなくしてはいた。
けれど、ちょっぴり寂しさを混ぜながらも嬉しそうに語る姿に大丈夫だと思っていたが。
磐座に背を預けて丸くなる子どもの後頭部を見下ろした。
何かがあった。でもそれは、この子どもが
思い出したのであれば、おそらくここにも寄り付かなくなる。あの時の様子を見ていれば、それくらいのことは想像がつく。
あの影のことを、この子どもは覚えてはいない。いや、覚えてはいるのかもしれないが、意識に上らない。
無意識下に押し込めているか。あるいは、あの男に押し込められている可能性も捨てきれない。
どちらにせよ、なぜ自分が妖となったのか、その原因たる存在を頭に留めおくことができていない。
だから、親しき存在に関して一喜一憂し、心を向ける。
もしも、再びがあったのなら、その時子どもはどうなるのだろうか。
絶望し、今度子をあの影を享受して闇に沈むのか。
それとも、立ち向かって未来をその手につかみ取るのか。
どうするのかは、その時になってみないとわからない。
だけど、その結末を見届けるまでは、退屈しのぎに気にかけてやってもいいかもしれないと、思った。