岸辺露伴は動かない [another episode] 作:東田
「最近
杜王駅前の、行きつけの喫茶店、カフェ・ドゥ・マゴ。店内はクーラーが効いており、長居をすれば肌寒さも感じるようになる。しかし文句も言ってられまい。ひとたび外へ出れば、そこは35度を超える猛暑。高い湿度も相まって、服や肌にしつこく熱気が絡みついてくる。多少寒くても、冷えた飲み物を片手に店内に居る方が圧倒的にいい。
「
対面に座る、学校指定のセーラー服を着た女性、山岸由花子に露伴は尋ね返した。
二人が居合わせたのは偶然だ。露伴が気晴らしにこの店を訪れたところ由花子とすれ違い、流れで相席をすることになった。
その由花子は、露伴に返答を返す代わりに頷いてみせた。
「自意識過剰なだけなんじゃあないのか?つけられてると思った理由は何なんだい」
「自意識過剰でも、勘違いでもありません。決して。最初は私もそう思ったわ。間違いがあるのは私の方なんじゃないかって。でもありえない。あいつ、どこにでもついてくるのよ!この前は学校の中までついてきたわ!そのときは先生を呼んで追い出して貰ったけど」
「そう怒るなよ。落ち着けって」
今にも立ち上がるかのような勢いで机に身を乗り出してくる由花子を尻目に、露伴はアイスティーを口元に運ぶ。
「君の妄言じゃないことは分かった。だが、それなら僕なんかよりも然るべき相手に相談しなよ。警察とかさ」
「もうとっくにしてるわ。それに、それですんなり解決していたならわざわざ先生にも話すことでもない」
「まだ続きがあるのか」
由花子が指を一本、顔の前で立てる。
「一つ。そのストーカー野郎が警察に捕まった後に、問題が発覚したの」
露伴は眉を潜めた。
「留置所に入れられたあのクソ野郎、二日としないうちに脱走したのよ。ニュースにもなってたでしょ?」
ああ、と露伴は頷く。何せ小さな町だ。昨日の夜からちょっとした騒ぎになっている。
「確かに大変な問題だな。だが放っておいてもすぐ捕まるさ」
気にするな。言いかけた露伴だったが、由花子は首を横に振った。
「いいえ、違うわ。本当に問題なのは――そいつが今も私をつけて、この店の中にいるって事よ、先生」
「何だって?」
露伴は咄嗟に店内を見渡した。暑さを逃れてやって来た客で店内はごった返している。
「私の三つ後ろの席に座ってるわ。あのベースボールキャップみたいなのを被っている奴よ」
由花子の肩越しに、露伴は相手の存在を視認する。男は由花子の背中をじっと見詰めている。露伴と目が合うと、男は慌てた様子で視線を外した。
「なるほどな。通報はしたのか?」
「してないわ。感づいて逃げられたら厄介だもの」
「なら」
露伴が立ち上がる。
「僕が話をつけてくるとしよう。君は安心して警察を呼ぶといい」
「あら。いつになく優しいのね、先生」
席を離れた露伴の背中に、由花子が意地悪く語りかける。
「ああ、僕は優しいからな。ストーカー行為に至るまでの人間の思考過程を知りたい、てのはついでだぜ」
露伴は由花子との間に割って入るように、男の対面に腰を下ろした。
「ああ、アンタの名前とか、そういうのには興味ない。僕が何者であるかを教える必要も無い。アンタは何も喋らなくていい」
「なッ」
口を開きかけた男に、露伴がヘブンズドアーを発動する。男は椅子にもたれるようにして気を失った。
「さてと。“大西 孝司”、こいつの名前はどうでもいい。ストーキングについてだ―これだな」
<彼女――名前は山岸由香子という。彼女の友達が、彼女をどう呼ぶかを聞いて知った――は、本当に美しい人だ。あのつり上がった目に、端正な顔立ち。艶だった佇まい。何より、美しく輝く黒の髪。一目見たとき、一瞬で心を奪われた>
「まあ、何というか」
出来の悪い私小説でも読んでいる気分だ。しかし当然ではあるが、露伴は読むことを止めない。
<彼女の交友関係を見るに、彼女にはどうやら既にボーイフレンドがいるようだ。コウイチ君、というらしい。まるで高校生とは思えない、小さな体をしている。あの子は彼女を幸せに出来るのだろうか。彼女はどうやら、えらくあの男に惚れているようだ。だがあの二人もまだ高校生。そのうち別れることになるだろう。そうなったとき、彼女の生涯を幸せなものにするのはきっと俺の役目>
「それがこじれてストーカー化したわけか」
露伴は溜め息を漏らす。
「分かってはいたが―独善的だな。異常に」
しかしまあ、ストーカーの心情を普通の人間が理解できるはずもない。露伴も、それらを理解することは端から念頭にない。その思考のプロセスが知れれば充分だ。
「さてと。思考に飛躍がある以上、ロジカルに理解しようとしても無理がありそうだな。
そうとなれば、もうこの男に用はない。露伴は振り返ると由花子に声をかけた。
「資料が手に入ったんだ。僕としては礼の一つくらいしてやってもいいって気分だが、どうする?」
「そう。じゃあ素直に戴いておくわ。そいつを痛めつけることは簡単だけど、危ないことはするなって言われてるし」
露伴は鼻を鳴らす。
「康一君にかい」
露伴は男に向き直ると“山岸由花子を視界に入れることはできない”と書き込んだ。
「先生、何て書いたの」
露伴が戻ると由花子は尋ねた。
「君を視界に入れられないようにした。君のことは忘れてはいない。ただし、永遠に君の姿を見ることは出来ない。これから長い間、叶わない恋を抱き続けることになるさ」
「そう...いっそ私のことを忘れさせた方が清々しかったのだけど」
「それじゃあ面白みがないだろ?心配しなくても、あの男が君に危害を加えることは二度と無い」
「そうね。タダでやって貰ったことに文句を言うつもりはないわ」
由花子はグラスを手に取ると、店に面する通りの人波を眺めた。
「それはそうと、警察は呼んだのかい」
「ええ。そのうち来るわよ。そしたらアイツを突き出して終わり」
視線をそのままに、由花子が答える。露伴は肩をすくめた。
*
それから三日が経った。19時、露伴が二階の自室でアンディ・ウォーホルの画集を眺めていると、チャイムが鳴った。訪問者の予定はないはずだ。大方、宅配か近所のガキのイタズラだろう。露伴はブラインドカーテンの隙間から玄関前の様子を覗いた。
「あれは――山岸由花子。何の用だ?」
連れは居なさそうだ。彼女が一人で露伴宅を訪れることなど初めてだ。由花子はしきりに首を回している。周囲を気にしているかのようだ。予定外の訪問者には居留守を使うことも多い露伴だったが、どうも彼女には事情がありそうだ。部屋を出て玄関へ向かう。
「後で全部話すわ。とにかく中へ入れて頂戴」
玄関を開くと、露伴が用事を尋ねるよりも早く由花子が口を開いた。口調に怒気を感じ取った露伴は、しかしあえて、挑戦的に出た。
「おっと、いきなり押し入ろうとするんじゃあない。順序があるはずだぜ、山岸由花子。それに態度もだ」
由花子が表情を歪める。
「ふざけてる場合じゃないのよ。ちゃんと説明するから、今は早く中に入れさせて」
「“親しき仲にも礼儀あり”だぜ。せめて挨拶の一つくらいしたらどうだい」
「いい加減にしろォッ!岸部露伴!!だいたい、元を言えばアンタの責任だろ―――ッ!!!」
由花子は露伴を指さし叫んだ。
「何だって?」
一体何の話をしているのか、露伴には心当たりがなかった。由花子は興奮した状態にある。これ以上玄関先で話しても不毛だ。露伴が先に折れる。
「茶は要るのか?まあ、僕が用意するつもりは毛頭ないがな」
客間に通し、由花子を座らせる。
「ごめんなさい、先生。少し興奮しすぎたわ」
由花子は額に片手を当て、うつむき加減で露伴に謝った。
「どうでもいいさ。そんなことよりも詳しく聞きたいな。僕の責任、とは何の話だ」
「ええ、そうね。まずはそれを確認しなくちゃならないわね」
「それ、ね。僕には皆目見当が付いてないけどな」
由花子の対面に、露伴が腰掛ける。
「この間カフェで会ったときのことだけど、本当にヘブンズドアーで書き込んだの?それを確認したいの」
「書き込んだ――?ああ、ストーカー男の話か。何だい、僕を信用しないってのかい」
由花子は首を横に振る。
「そうじゃないわ。でも疑わざるを得ない」
「心外だな」
露伴の表情が険しくなる。由花子はしかし怯まない。
「あのストーカー野郎、まだ私のことをつけてるのよ」
「何?」
あり得ない。露伴は由花子のそれを否定した。
「気が立ってるだけじゃあないのか?カウンセリングをおすすめするぜ。マジに」
「だったらあれは何」
由花子は自身の後方、窓の外を指さした。窓の外にあの男が立っていた。男は以前よりも深く帽子を被っており、その視線がどこを捉えているのか明らかではない。しかし予想は付く。おそらく......露伴の背中を悪寒が走る。
「馬鹿な。ヘブンズドアーは確かに書き込んだ――」
「確認―するしかないんじゃないのかしら。危険な香りもするけど」
「ヘブンズドアーが効かない――是が非でも原因を究明したいものだな」
露伴は呟くと窓まで行き、開いた。男は微動だにしない。
「ヘブンズドアーッ!」
衝撃で男は倒れ込む。“山岸由花子を視界に入れることはできない”。インクで記されたその文字が露伴の目に入る。
「いいや、ヘブンズドアーは有効だ――――どういうことだ」
露伴が振り返る。目が合った由花子は頭を左右に振る。
「もう少し、調べる必要がある」
露伴は部屋を回り、家の外へ出た。庭先で倒れる男の前で膝をつき、ヘブンズドアーで展開されたページを捲る。
「この間と変わった記述はなさそうだが...ん、これは新しいぞ」
<彼女がいなくなった>
この間読んだときにはなかった記述を発見する。露伴のヘブンズドアー発動後のものだ。
<学校にも、家にも居ない。世界は何も変わっていないのに、彼女だけが消えてしまった。どうしてしまったのだろうか。どうなってしまうのだろうか。彼女の居ない世界――俺は何を頼りに生きていけばいいのだ>
「理解できないな」
つまんだページから指を離し、露伴は立ち上がる。
「ストーカーってのは、どいつもこいつもこんな思考してんのか?」
しかし、と露伴は腕を組む。ヘブンズドアーが確実に発動しているのにも関わらず、この男が由花子をつけることができた、その原因は分からないままだ。
「ヘブンズドアーに隠し事は出来ない。この男はその原因を知らない――外部から何かが働いているということか」
どうやら少し、話がややこしくなってきた。開いた窓を介し、露伴は由花子に話しかける。
「応急的ではあるが、当面の対処はヘブンズドアーで可能だ――どうする。僕はまだ、それに見合うだけの対価を得てない」
「別に構わないわ。今度そいつがつけてきたら病院送りにしてやるだけだから。まあ、その後で康一くんには事情を話すでしょうけど」
「おいおい、冗談だって。勘弁してくれよ」
露伴は引き攣った笑みを浮かべると、男に書き込んだ。
<山岸由花子に関する全てを忘れる。二度と思い出すことはない。存在を知ることさえない>
「これでいいだろう。恐らく根本の解決には至っていない。だが現状ではこれが限界だ。何も分からない」
露伴は家の中に戻ると、椅子に座った。
「警察を呼ぶといいさ。今度ばかりは、しばらくは出てこれなくはなるんじゃあないのか」
「そうね。先生、ありがとう。お礼はまたするわ」
「マジで勘弁してくれ。無償で手伝わなかったと康一君に思われたら怒られる。それはご免だ」
*
その日の真夜中のことだった。固定電話の着信で、露伴は目を覚ました。壁掛けの時計に目をやる。時刻は午前三時。誰だか知らないが非常識な奴だ。露伴は寝返りを打つと、枕元のクーラーのリモコンを手に取り、設定温度を一度上げた。それから布団に戻ると、そのまま無視を決め込むことにした。
十数秒。留守電のメッセージ録音に切り替わる。
『露伴先生!居ませんかッ!!!出てください!!!』
聞き覚えのある声――露伴は飛び起きた。受話器を手にする。
「康一君かッ!どうした!!」
『先生!!説明は後でします!!とにかく今すぐ外に出てきてくださいッ!!』
「分かった!少しだけ待っててくれ!すぐ行く!!」
露伴は即答すると通話を切り、寝間着から普段着に着替えた。階段を駆け下り、玄関を飛び出る。
「先生ッ!」
玄関先で、スマホを片手に康一が立っていた。露伴が駆け寄る。
「康一君、どうした!」
「移動しながら説明します!とにかく急ぎましょう!!」
康一が一人夜道を走り出す。
「急ぐって、どこへ行くんだ!!」
康一を追いかけながら露伴が尋ねる。
「由花子さんの家です!!僕もまだ完全に理解したわけじゃないんですけど、“ストーカーを捉えた。露伴先生を連れて早く来て”って電話で」
「“ストーカー”だと!?」
「おかしいですよね」
康一の隣に露伴が並ぶ。
「僕も少しだけ話は聞いてます。さっきなんですよね、捕まったの」
露伴は頷く。康一はそれを見ると首を傾げた。
「同一人物、じゃないのかもなあ。短期間に三回も留置所から脱走するなんて、そんなの不可能だよ」
康一の携帯が鳴った。
「由花子さんからだ!」
携帯を取り出し、康一が通話口に出る。
『康一くんッ!?お願い急いで!こいつ、鼻から何か――キャァァッッ!!!』
電話の向こう側で由花子が叫んだ。
「由花子さん!?大丈夫!!?」
『何よこいつッ!!気持ち悪いわ!!――――わたしの髪に落ちてるんじゃねえェェェェェッ!!』
康一は思わず耳から携帯を遠ざけた。
「待ってて由花子さん!!もう君の家が見えてる!!今行くよ!」
由花子はそれに答えない。怒号が、風に乗って二人の元まで届いた。
「あの家です!」
康一が前方の住宅街を指さす。
「あの、二階に電気が点いてる家!ちょうど由花子さんの部屋もあそこです」
康一の指している家を露伴は見付ける。カーテンは閉められているが窓は開いている様子だ。声もそこから漏れてきている。
「由花子さん、どこから家に入ればいい!?」
『玄関が開いてるわ!勝手に入ってきて!』
「わかった!入る!!」
由花子の家に到着する。康一は躊躇なく玄関を開けると、靴を脱ぎ捨てて家に侵入した。露伴も続く。階段を駆け上がり、二階の廊下左手のドアを叩く。
「由花子さん!?」
康一が呼びかける。ドアが内側から開かれる。二人は部屋の中に飛び込んだ。
「康一君!!」
扉に背を向けていた由花子が振り返る。額に汗がにじんでいる。
「そいつだね、ストーカーって」
康一は部屋の中央、
「康一くん、待って!近付かないで!!」
由花子がしかし、その行く手を遮る。
「こいつ、さっき虫を吐き出したッ―――!!」
「虫?」
由花子の髪の毛が触手のように動き、細長い“何か”を二人に見えるように持ち上げる。
「こいつよ!気色悪いわ!!このストーカー野郎の鼻から出てきて、わたしに飛び付こうとした!!咄嗟に髪で拘束するしかなかったわ!!チクショオォォォォッッ!!!!どうしてくれるのよ!!触れた部分の髪、後で全部切らなくちゃあならないじゃないッ!!!!!」
“虫”は全身をくねらせ、由花子の髪から逃れようとしている。
「うげえええ」
康一はそれを目にすると、口を押さえて思わずえずいた。
「なんだあ?こいつ。回虫みたいな見た目だな」
康一の背後から露伴が顔を覗かせ、その虫を詳細に観察する。虫の全長は15㎝ほど。少しくすんだ白色をしており、露伴が言った通り回虫に似ている。
「無害な虫じゃあないわ!明らかに!わたしを襲おうとしたッ!!」
「それは聞いた。問題はこいつが何か、ってことだ」
露伴がヘブンズドアーを発動させる。白紙だ。理性も、記憶も無い。本能だけの生き物。
「露伴先生......?」
康一が不安そうな面持ちで露伴を覗く。
回虫に似ている。男の口から出てきた。由花子を襲おうとした。手がかりとなり得るのは、この三つの情報だけ。
「お手上げだな」
露伴は肩をすくめる。
「僕が引き取ろう。色々、図鑑やらをあたって調べてみたい」
「それはいいけれど――このクソ野郎はどうしようかしら...今度見かけたときは容赦しないと、そう決めてたのよねぇ――ッ!!」
「由花子さん!!」
青筋を立て、男をきつく締め付けようとした由花子の腕を、康一が握る。
「由花子さん、落ち着いて。何か対策を立てよう。この男がまた脱走してこないように」
「ヘブンズドアーは効力をなさないぜ、康一君」
露伴がヘブンズドアーを発動し、男に書き込まれた文字を見せる。
「ヘブンズドアーは依然発動している。こいつは今、山岸由花子の存在を知らない。二度とストーキングはできないはず、だった」
「それじゃあ、なんで―」
「さあな」
露伴は首を横に振る。
「案外、その虫が原因だったりするかもな――冗談だよ、康一君。そんなに真に受けるな」
外から風に乗って、パトカーのサイレンが聞こえた。
「手際がいいな」
露伴が感心した風に由花子に言う。
「何回も同じ目に遭って慣れたかい?」
冗談だよ。二人に睨まれ、露伴は顔を逸らした。
*
「康一君、こっちだ」
カフェ・ドゥ・マゴの店内、入店した康一と由花子を見付けた露伴は、大きく手を振った。露伴に面して、二人は並び座った。
「先生、話ってなんですか」
露伴に呼ばれた理由を、二人はまだ知らない。とは言っても、何のことだか察しは付いている。
「例の回虫似の虫のことだが――」
二人の前に数枚の写真を出しながら、露伴は話し出す。
「現物は...原型を留めていないからな。持ってこなかった」
一枚目の写真を二人に示す。二人が見たものと、様子に変わりはない。
「“
露伴が人差し指を立てる。
「宿主が“恋”をしていることだ」
「「恋......?」」
二人は声をそろえた。
「詳しい説明の前に一つ確認させてくれ。あの夜以来、ストーカー男は現れなくなったんだな?」
由花子が頷く。
「だから、そういうことなのさ」
露伴は話を中断すると、通りかかった店員を呼び止めた。
「アイスティーを一つ。君たちも何か頼むかい?」
康一と由花子が、それぞれコーラと紅茶を注文する。店員が下がると、露伴は話を戻す。
「ハリガネムシっているだろ。カマキリなんかの宿主を操って、水に飛び込ませるんだ。自分が体外に出るためにね。目的は違うが、愛虫も同じように宿主を操る」
別の写真を二人に示す。
「これは海外の論文からとってきた写真だ。愛虫が宿主の頭の中に寄生しているのが見えるだろ。この白いのだ。こいつは宿主の脳内にとあるタンパク質を流し込み、それで思考を乗っ取る。乗っ取られた人間は、特定の行動だけを繰り返すようになる。“意中の人物に近付く”。それだけを繰り返す」
飲み物が運ばれてくる。三人は同時に、飲み物を喉に流し込んだ。
「それだけだ。それだけしかしない。だが逆に、それだけは
康一が、合点がいったようで手を打つ。
「だからどれだけ警察に捕まっても、由花子さんのところまで来たのか」
「そう、そういうことだ。物分かりがいいぞ!康一君!」
「でも、おかしくありませんか?」
由花子はしかし、納得がいっていない様子だ。
「今のは、ヘブンズドアーが効かなかった理由にはなっていない。あの男がわたしのことを記憶から失った以上、わたしは“意中の人物”ではなくなるんじゃあないんです?」
「これを見てくれ」
三枚目の写真を露伴が提示する。真っ白な背景に“山岸由花子”という文字と、由花子の顔写真だけが浮かんでいる。
「あのとき捕まえた愛虫にもう一度ヘブンズドアーを使ってみた。そのときに見付けて、顕微鏡で拡大したものだ。小さすぎて見逃していたよ」
これが何を示しているのか。
「まさか――」
二人とも気付いたようだ。
「山岸由花子。君のことを、あの男は確かに忘れていた。ヘブンズドアーは発動していたんだよ。間違いなく」
だが。
「記憶してたのは、愛虫の方」
露伴に代わって由花子が答えた。露伴は頷く。
「対策の施しようがなかった、ということらしい。そして最後のピース」
コーラの中の氷が溶け、カランと音が鳴る。
「愛虫は人間にしか寄生しない。ただし、中間宿主と終宿主は存在する。まあ、ここまで話せば大体分かるだろ。中間宿主は恋をしている人間。今回の場合で言うストーカー男。そして終宿主はその恋の相手。山岸由花子、君だ」
露伴は由花子を指さした。由花子が眉間にしわを寄せる。指をさされたことが気にくわなかったらしい。
「もっとも、本来そうなるはずだった、と言うべきだな。今回の場合は。現に君への寄生は失敗しているからな」
指を畳む。
「中間宿主から終宿主へ移動するには、その二つの個体が接触する必要がある。二人が接触したことを愛虫が認識すると、愛虫は中間宿主の体を脱出し終宿主に移動。終宿主の生殖器の中、精巣や卵巣に寄生し、体内の養分を吸いながら生殖を行う。生まれた幼体は精子や卵子に寄生し、宿主が生殖を行って誕生した子が次世代の中間宿主となる。幼体は中間宿主の体内で長い期間をかけて成長し、およそ20年後に成体となり、そして次の終宿主を探す。危ないところだったんだぜ、二人とも」
「接触......記憶にないのだけれど」
「触れてたじゃあないか、髪の毛が。あの男は何より君の黒髪に惚れてたんだぜ」
「そう...」
由花子は自身の髪を指に巻き付け、くるくると回した。
「どうしてあんな状況になってたの?由花子さん」
しばらくぶりに、康一が口を開く。
「気配がして、目が覚めたのよ。夜中のこと。部屋のドアの前にアイツが立っていた。どうやったのか分からない。玄関から堂々と侵入していた。だから咄嗟に締め上げた。不可抗力よ」
「由花子さんのことは責めてないよ――そっか。そんなことが」
「ま、その辺の謎は君達で解いてくれよ。邪魔者は早々に消えておくぜ」
伝票を片手に露伴が立ち上がる。由花子がそれを止めた。
「露伴先生、待って。その代金、わたしが払います。今回の件で沢山お世話になったし」
露伴は一瞬由花子を見詰め、それから伝票を机に戻した。
「そうかい。じゃあそうしてもらうよ。ま、君達の分を奢るつもりは最初からなかったけどな」
ひらひらと手を振りながら、露伴は店を後にした。
愛虫。人間に寄生する寄生虫で、その繁殖方法は少しばかり残酷である。しかし繁殖が成功する例は非常に稀であり、世界中のどこにでも生息しうるにも関わらず個体数は1000匹程度と言われている。人類の脅威となり得ることはないと判断されており、そのため一般には全くその存在を知られていない。
「しかし、何より怖いのは」
人通りのない脇道にそれる。
「愛虫に寄生されているわけでもないのに、ストーカーとなる人間が存在するってことだ。それも、愛虫の個体数よりも圧倒的に多く」
露伴はふと足を止め、振り返る。
「それで?君はどっちなんだい?」
後方を歩く細身の若い女性に、露伴は尋ねた。
ご無沙汰です。
最近の荒木先生の台詞回しは本当に独特のリズムがあって、真似しようとしても真似できるものではなさそうです。しかし、今回はできるだけそれに寄せることを意識して書きました。いかがだったでしょうか。
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