岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:11 《麻積村》

 無意味なことだとは百も承知だったが、それでも木村は腕時計に何度も目をやった。願わくば時間よ止まってくれ。遅刻だけは絶対に避けなければならない。仮に遅刻でもしようものなら、また次回会うときまで皮肉の嵐が続く。

 

 電車が止まってから30分が経つ。木村は溜息を吐くと天井を見上げた。S市の駅の近くに宿を取った選択が失敗だった。だがまさか、平日の日中にこうなるとは予想もできまい。そもそもこんな過密なスケジュールになったのは上司の無茶ぶりが――いや。責任の所在を求めたところで無駄だ。木村はそれ以上考えることを辞めた。どのみち、遅刻をするのは自分なのだ。“彼”にとって重要なのはそこだ。木村の事情など“彼”には関係ない。

 

 停止後四度目のアナウンスが車内に流れる。復旧までもうしばらくかかるらしい。遅刻は確定だ。

 

「申し訳ありません、露伴先生」

 

 いつもの打ち合わせ場所、杜王駅前のカフェ・ドゥ・マゴに駆け込んだ木村を、露伴は冷ややかな目で迎えた。木村が頭を下げる。

 

「電車か?」

 

「ええ。人身事故があったみたいでして」

 

 露伴は目を瞑り、既に冷め切ったコーヒーを口に運ぶ。

 

「遅刻の責任を君に問うことはしない。まあ昨日のうちに杜王町に来ておくとか、対策はいくらでもできたんだけどな」

 

 簡単に許された。木村はほっと胸を撫で下ろした。安堵の表情を確認した露伴は、そのまま腕時計に目をやる。

 

「一時間と十五分。何をきょとんとしているんだ。君が遅れた時間だよ」

 

 文字盤を人差し指で叩く。

 

「何の咎めもなしに僕が許すとでも思ったのかい?君もつくづくだな。僕の担当になってそろそろ一年だろ?」

 

「といいますと...」

 

決まっている。どうせこの負い目をダシに無茶ぶりをされるのだ。

 

「何か面白そうなネタを提供してくれよ。この一時間と十五分の遅刻を埋められるくらいの面白いネタをさ」

 

 木村は今日二度目の安堵をした。何という幸運だろうか。木村には奇跡的に、露伴を満足させられるであろう面白い話が一つあった。

 

「“鬼”って、先生は信じますか?」

 

 表情にこそ出さなかったが、特に困った様子もなく木村の口からあっさりと話題が出てきたことに、露伴は内心驚いた。

 

「“鬼”?ってのは、どういう鬼を言ってるんだい」

 

「――?とは?」

 

「“鬼”だなんていう定義の広い単語を出されて、信じますか?なんて聞かれても回答に困るんだよ。君の言っている“鬼”はどの“鬼”なんだ?」

 

 木村は困惑する。

 

「種類と言われましても...俺は“鬼”という名詞しか知りませんよ。“鬼”に種類なんてあるんですか」

 

 あるよ。木村は露伴に対し感心して見せた。木村にとって“鬼”といえば、桃太郎に登場するような悪さをする怪物としてのイメージしかない。

 

「まあ、今そんな話をしたところで話題の脱線だ。ほら、話すのは君だろ」

 

 木村は本来の話の流れを思い出し、はっとする。露伴の向かいの椅子に座り、咳払いを一つした。

 

「その、“鬼”についてなんですけどね。“鬼”の住む村っていうのがあるらしいんですよ。N県の方なんですけど」

 

「待て、知ってるぞ。麻積(おづみ)村だろ」

 

「え、ええ。ご存じでしたか?」

 

「鬼信仰の根強い村だろ?その信仰の方針ゆえ、今でも村外の者は歓迎されない。ロケに訪れたテレビ局に暴行を加えることだってある」

 

「なんですか、それ。事件じゃないですか」

 

 木村は露伴の言葉を怪しんだ。自分の知っている限りでは、麻積村にそんな話が合った覚えはない。

 

「先生、適当なこと言ってないですよね。それって割と話題になりそうですけど」

 

「当たり前じゃないか。そんな()()()()()()、わざわざ自分から世間に晒してどうする。少し寝かせてから作品のネタにしようとするだろ」

 

 木村が首を傾げる。露伴の言葉が理解できないのだ。

 

「じゃあ、先生はどこでその話を知ったんですか?」

 

「知るも何も、僕は当事者さ」

 

「は?」

 

 木村は呆けた声を漏らした。

 

「おっと、期待するなよ。これは僕だけが知っているものだ。例え担当の君であろうと、作品にならない限り教えるつもりはない」

 

「冗談でしょ、露伴先生。これじゃあまりにも蛇の生殺しだ!」

 

「おいおい、そんなに怒るなよ。僕だってこれで生活してるんだぜ。君の好奇心を満たすためのネタじゃあない」

 

 というよりそもそも、露伴の好奇心を刺激するような話題の提供が話の本筋だ。しかし、木村は止まらない。

 

「なるほど。じゃあ先生、こうしましょう。そのネタを次週に、もしくは次の短編に使う。これで解決です!」

 

「なあなあなあなあ。だから落ち着けよ。勝手に話を進めようとするな」

 

「普段の先生だって同じようなものじゃないですか」

 

 露伴はしかめ顔をとる。

 

「君がそこまで言うならいいだろう――余計教えようと思わなくなったよ」

 

 机の上に広がったノートやペンを纏め始めた露伴を、木村は慌てて引き留めた。

 

「ごめんなさいって!待ってください露伴先生!まだ来週の連載の打ち合わせが!」

 

「そこの紙に全部書いてあるよ。打ち合わせって言ったって、これまで一度も修正が入った試しはないんだ」

 

 露伴は後ろ手にテーブルの上を指さした。ノートから切り離された紙が一枚置かれている。木村はそれを拾い上げた。次週の連載の構成が纏められている。自分は何のためにここまで来たんだ?露伴は既に店を出ている。

 

「クソが」

 

 思わず木村は悪態をついた。

 

 

 一方で、店を後にした露伴もまた不機嫌だった。麻積村。正直思い出したくもない記憶だ。木村にした説明もほとんど嘘だ。作品にするつもりなど毛頭ない。あまりにおぞましい。この岸辺露伴でさえ、どうにも胃がムカムカとしてくるような事件だった。早々に話題を切り上げたかったのだが、そのために彼の事件のことを口にしたのは失敗だった。墓穴を掘ったにも等しい。

 

 もう四年も経つというのに。露伴は自分の弱さを感じたように思えて、少し呆れた顔をした。

 

 

 そう、それは四年間の出来事。露伴がとあるテレビ番組の出演依頼を受けたことに始まる。メディア露出には積極的でない露伴だったが、番組の内容を聞くと途端に目の色を変えた。

 

 鬼信仰の色濃く残る、俗世から隔離された村へのロケ。N県の山間にぽつりと存在する麻積村の名前を聞いたのはそのときが初めてだった。曰く、現代社会から完全に外れた世界。曰く、本物の“鬼”が住んでいる。

 

 如何にも、な謂れ。胡散臭さがぷんぷんと漂ってくる。しかしその村へ赴けるとなれば、露伴が食いつかないはずもなかった。俗世から隔離された村。その一文だけでも十分な動機となる。番組を知った露伴は出演を飲んだ。

 

 

 杜王町を出で、S市から新幹線に乗り都内へ。都内で番組スタッフや共演者と合流すると、ロケバスで現地へと向かった。バスに揺られること四時間、麻積村に到着する。

 

「ああ、やっと着いたのか?」

 

 露伴の三列後方に座っていた男が、欠伸をかきながら目を覚ます。大嶋という、多くの番組に顔を見せるようになってきたばかりの芸人だ。年齢は四十。露伴とは一回り以上離れている。

 

「いやはや、自分ではまだまだ若いつもりでいるんだがな。長時間座っていると腰が痛くてかなわねえ。な、――えっと。漫画家の岸辺さんよ」

 

 大嶋は座席から立ち上がると、通路から露伴の肩に手をかけた。

 

「こんな山奥だしさ。下道でバスが揺れるのなんの。体に悪いぜ」

 

「そうだな。正直疲れたよ。漫画に活かせる良い体験というわけでもなかったしな」

 

 へえ。大嶋が二度ほど頷いてみせる。

 

「なるほどな。今一番売れている漫画家――えっと、岸辺露伴。あんた、プロフェッショナルだな」

 

 クククと低く笑いながら、大嶋はバスを降りた。

 

「何だ?あいつ」

 

 露伴もバスを降りる。

 

のどかな田園地帯だった。刈り時が近いであろう麦や、レタスやキャベツをはじめとする高原野菜が栽培されている。田園の各地に古民家が点在しており、集落としてまとまっている様子はない。日本アルプスの山あいにい位置するだけあって、気候は冷涼だ。六月の頭だというのに薄手の長袖では寒さを感じる。

 

「なかなかどーして、寒いじゃない」

 

 大嶋は両の二の腕を擦りながら、露伴とはまた別の共演者に話しかけた。出演者は全部で三人。露伴と大嶋の他に静宮という若手女優が出演する。大嶋に対し彼女は愛想笑いで対応した。

 

 集合がかけられ、三人は手始めに最寄りの民家へと連れて行かれた。田園の端に、ひときわ目立つ大きな建物がある。元々の地主の屋敷だろうか。屋敷周りは高い塀によって囲われており正面に構える大門には守衛らしき人影もある。

 

「おいおい、ホントにここは21世紀の日本か?」

 

 大嶋が笑う。あまりに時代錯誤が激しい。守衛が露伴たちに気付き門を叩くと、内側から門が開かれた。門の奥には古風な庭園が広がっている。松の木が石畳の遊歩道を覆うように植え付けられ、蛇行しながら玄関まで続いている。門の先に男が一人立った。服装は屋敷の雰囲気と合った和服だ。男は一行に深々と頭を下げ、それから踵を返した。門の中へと促すように、守衛が手で案内をする。プロデューサーが先頭に立って門を潜った。和服姿の男に続き玄関を通り、屋敷の奥へと進む。大広間へと一行は案内された。

 

 大広間には大勢の男が集っていた。おそらく村の人間なのだろう。ほとんどは着物ではなく、比較的カジュアルな服装だ。彼らは広間の中央を空けるように、壁際に規則正しく並んでいた。広間最奥に一人、際だって豪華な着物を着た男が鎮座している。30代にも見える、短く髪を纏めたその男が、この場で一番の権力者であることは間違いない。一行は部屋の中央、その男の目前に座るよう促される。

 

 一行、正確な数字を言えば四人のスタッフを合わせた七人が座ると、正面の男が会釈をした。おそるおそる、一行も会釈を返す。露伴だけは異様に堂々としている。その上、睨む勢いで男のいでたちを観察した。

 

「このようなへんぴな地へ、ようこそおいで下さいました。私、この村を取り纏めております森上(もりがみ)家主人、森上 幸之助と申します」

 

 露伴の視線に気付いていたのか、露伴に対しニッコリと笑顔を向け、男は口を開く。

 

「事前にお話は伺っております。この村を世の皆様に紹介していただけるとのこと。つきましては、村の者総出で皆様を歓迎させていただきたく存じます。なにぶん皆様お疲れのことでしょうし、明日まで日程は余裕があるとのこと。本日はご馳走や宿をご用意いたしますので、是非ごゆるりとおくつろぎ下さい」

 

 森上が手を叩く。大広間の両脇の襖が一斉に開かれ、十五人程度の女性が現れた。七人の前に女性達が御膳や酒を運ぶ。

 

「この村で採れた食材のみを使用した料理でございます。栽培から調理に至るまで、山の雪解け水が染み込んだ湧き水をふんだんに使用していることも自慢です。是非ともご堪能下さい」

 

「おお...これはすげえ」

 

 大嶋が感嘆する。料理も勿論見栄えからして素晴らしいのだが、それ以上に食器に目が奪われる。全体に金箔がちりばめられた漆器や陶器の数々は圧巻だ。

 

「さ、どうぞお食べ下さい」

 

 森上が一行を促す。露伴達三人は顔を見合わせた。

 

「いただきましょう」

 

 プロデューサーが箸を手に取った。それを見た他のスタッフも料理をつつきだす。

 

「そーゆー流れみたいだな。俺も腹減ってきてるしな。いただくとしよう」

 

 大嶋も手をつける。露伴と静宮も続いた。

 

 

 

 

 

 はっと、露伴は目を覚ました。

 

 ほんの数メートル先で燃えさかる、二本の大きな篝火。その炎が天井のゴツゴツとした岩肌をなめる。篝火の向こうから聞こえてくる読経のような声。声の方向へと首を回す。男が一人、座禅のような姿勢で目を瞑り何かを唱えている。森上だ。森上の後方では大勢の人間が頭を地に擦りつけるように平伏している。洞窟か何かの開かれた場所のようだ。

 

 夢か?脳が追い付かない。上体を起こした露伴は、四肢に鎖が結びつけられていることに気付く。

 

「何だと...」

 

 状況は未だに理解できない。が、その身に危機が迫っていることは確かだ。露伴の脳は急激に活動を開始した。

 

 露伴の周りには六人が同じように鎖に繋がれていた。彼らも目を覚ましたものの、突然の光景に混乱している様子だ。拘束されていることに気付いた静宮が悲鳴を上げる。森上が唱えるのを止め、立ち上がった。静宮の元へ歩み寄り、そして顔面を殴打する。衝撃で床に叩きつけられる。

 

「おい!!!!」

 

 大嶋が叫んだ。森上は、今度はその大嶋を殴った。

 

「下劣な奇声を発するな。“小角(おづみ)”様のお気に障るだろう」

 

「何が目的だ」

 

 露伴が問う。森上は踵を返した。

 

「お前達には“小角様”の贄となってもらう」

 

「贄だと?」

 

「そうだ贄だ。“小角様”は活きのいい人間が大の好物であられてな」

 

 露伴の額に汗がにじむ。人間が好物だと?

 

「何なんだ!そいつは!」

 

 大嶋が叫ぶ。と、森上が勢いよく大嶋に詰め寄った。

 

「大声を上げるんじゃあない...!次はその舌を切り落とすぞ」

 

 大嶋の頬を鷲掴みにし、額同士がぶつかり合いそうな距離で睨み付ける。気圧された大嶋がコクコクと頷くと、森上はその手を離した。

 

「“小角様”はこの村の守り神であらせられる。数百年の昔から、我々に安定と、平和と、繁栄をもたらしてくださった。数多の災害や、外部の人間の好奇の目を払いのけてくださった。だが一つだけ難点があってな。“小角様”は我々に、見返りとして生け贄を要求してくるのだ。年に一度、数人を貢がなければならない」

 

 森上が台を離れ、元の位置に座る。

 

「毎年毎年、何人も村の人間を生け贄としていては限界があるだろう?だからこの村を訪れた部外者に、仕方なく身代わりになってもらう他にないのだ。古くからのしきたりだ」

 

 静宮が嗚咽する。

 

「い、嫌なら生け贄そのものを廃止すればいいのでは――」

 

 プロデューサーが口を開く。

 

「廃止だと?できるものならとっくのとうにしている。だがそういうわけにもいかないのだ。“小角様”なしにしてこの村は生きてはいけない」

 

 森上が俯く。

 

「この村に来る時に分かっただろう。ここは現代社会から取り残された地なのだ。地理的にも、文明的にも。“小角様”の加護がなくなれば、この村は一代と持たずに滅びる」

 

 そこまで言わせる“小角様”とは一体何者なのだ?森上の様子からするに、ただの虚像ではないのかもしれない。

 

「お前達はこれまで現代社会で何不自由なく生きてきたのだろう?もう充分だろう?大人しく我々の糧となってくれ」

 

 森上が右手を挙げる。後方に控えていた村人たちがそそくさと退場する。

 

「さよならだ」

 

 最後に森上が去る。閑散とした空間に七人だけが取り残された。

 

「待てゴラアアァァァァァァァァァッ!!!」

 

 大嶋のその叫びを皮切りに、露伴を除く六人は喚いた。だが返答はない。空間の中で空しく反響するだけだ。

 

 ゴトンと、背後で大きな音がした。六人は口を閉じた。続いて、何かを引き摺っているような音が響く。恐る恐る、露伴達は音のする方へ首を回す。洞窟の奥、壁だったはずの所にぽっかりと穴が空いていた。その奥から音はする。穴の中は暗くて見えない。

 

炎に照らされ、音の主の姿が浮かび上がる。人?いや、それにしてはそのフォルムは歪で、しかし獣と呼ぶにはあまりにも人に近い姿をしていた。静宮が叫ぶ。

 

「何だ...こいつは...」

 

 足を引き摺るように二足歩行をする“それ”の姿を一言で形容するならば、“化け物”と呼ぶのが正しいように思える。全身に瘤のような突起があり、ゴツゴツとした岩のような印象がある。筋肉が異様に発達しているのか、体型は横に広く太い。身には布の一枚も纏っていない。皮膚の表面は爛れているようで、全体的に下に垂れ下がっている。下の筋組織が露出しているのにも関わらず、全身黒ずくんでいる。長い間汚れを洗い落としていない証拠だ。顔面は酷く腫れ上がっており、その腫れが眼孔すらも覆い隠している。額の両側には特に発達した瘤があり、それが目に付いた。

 

 七人が縛り付けられた台に“それ”が近付く。鎖を外そうともがくも、簡単に外れるほどやわなものではない。そうこうしているうちに、“それ”が台の前までやって来た。

 デカい。見上げた露伴の額から汗がしたたる。背丈は三メートルをゆうに超えそうだ。

 

「お前は――人間なのか?そもそも」

 

 “それ”は答えない。一旦露伴に視線を投げるも、興味を失ったのか直ぐに視界から外した。ヘブンズドアーを発動させたいところだった。だが距離がまだ遠い。射程外だ。“それ”は露伴以外の六人をじっくり眺め渡すと、一番手近に居た大嶋にその手を伸ばした。

 

「止めろ!来るな!触るなアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 大嶋は必死に抵抗した。しかし、甲斐なく“それ”に足を捕まれる。“それ”は片手で大嶋の体を持ち上げた。鎖が伸びきり、手足が引っ張られる。大嶋は吠えた。“それ”は力を緩めない。大嶋の右足を両手で掴むと、鎖に繋がれた足首を()()()()()。声にならない叫びをあげる。

 

「何だと!?」

 

 どれだけの怪力なんだ。マズい、殺される。

 

 静宮やスタッフが嘔吐する。阿鼻叫喚、まるで地獄だ。大嶋は更に、残りの手足も引き千切られた。“それ”は大嶋を担ぎ上げると、穴の中へと戻っていった。しばらく聞こえていた大嶋の叫びも、やがて途絶えた。

 

 広場にはスタッフや静宮の嘔吐く音だけが残る。突然の非現実に誰もが衝撃を受けている。それは露伴も例外ではない。だが、ただ呆けているわけにもいくまい。露伴は思考を働かせる。あの巨大な生物は何者なのか。見当は付いている。

 

「“小角様”――」

 

 森上が言っていたその存在が奴なのだろう。だが“小角様”とは一体何なのだ?あの見た目、人間ではない。

 

「何なのよもおぉぉぉッ」

 

 静宮が叫んだ。もはやその形相は正気のものではない。だが無理もない。あんなものを目の当たりにして正気で居られる方が異常だ。

 

 穴の奥から再度足音が聞こえた。五人の表情が悲壮に染まる。この重い何かを引き摺るような音。間違いなく、大嶋を攫っていった“それ”だ。露伴を除いた五人は必死で拘束から逃れようとのたうつ。しかして、“それ”が姿を見せる。ゾクゾクと、露伴の背中を悪寒が走った。

 

 赤、赤、赤――

 

 “それ”の両手や顔周り、胸元が赤黒く染まっていた。間違いなく血である。それもまだ新しい――――誰の血だ?炎の反射で怪しく光彩を放つ様子が余計に生々しかった。静宮が一際大きな叫び声を上げて失神した。スタッフ達男衆の顔からも血の気が失せている。

 

「“鬼”だ...」

 

 プロデューサーが震えた声を発する。そういえば。露伴は気付く。

 

「“麻積村”。鬼信仰の根強い村、“鬼”が棲み着く村――」

 

 単なる俗信だと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。

 

 “それ”が台の前に立ち、残りの六人を吟味するかのように眺め回す。その目が、気を失った静宮で止まる。露伴と静宮との距離は二メートルとない。やるなら今だ。“それ”が静宮に手を伸ばしたその瞬間、露伴は叫んだ。

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 “それ”の手の甲から上腕にかけての皮が捲れ、ヘブンズドアーによる“ページ”が出現する。“それ”の動きが停止した。露伴は即座に書き込む。

 

《何者にも危害を加えられない。そして動けなくなる》

 

「さて」

 

 スクリと立ち上がり、鎖の伸びきる限界まで“それ”に近付く。突然動きを止めた“それ”の様子に、スタッフ達の思考は追い付けていないようだった。ヘブンズドアーによって露わにされた“それ”の記憶を読む。

 

《朕は“小角様”である。他に名前があった気もするが、長らく呼ばれぬうちに記憶から失われた》

 

 やはりこの化け物が“小角様”だったようだ。この化け物の他に何者かが存在する可能性は薄い。だからそれさえ分かれば脱出には十分だった。しかし露伴は止まることなく読み進める。“小角様”とは何なのか。露伴は既に好奇心に捕らわれていた。

 

《朕が何者だったのか、それも今となっては覚えていない。ただ暗闇の中、朕は一人だった。時に空腹を感じると、どこからともなく人間の声が聞こえてきた。その方向へ向かうと“食料”が置いてあった。一人は侘しいものだが、食料が絶えないのは悪いことではない》

 

「岸辺先生...?」

 

 プロデューサーがおそるおそる露伴の名を呼ぶ。露伴はハッと我に返った。彼らは自由になりたいはずだ。露伴としても鎖に繋がれてばかりだと動きが制限される。

 

《全員の鎖を破壊しろ》

 

 露伴が書き込んだ。小角様は先ず、露伴の手に繋がれた鎖を握り引き千切った。しばらくの間もなく四肢の鎖から解放される。スタッフ達が目を丸くした。小角様が露伴の隣のスタッフに向く。男は恐怖した。

 

「落ち着けよ。もう害は加えない。僕を見てたら分かるだろ」

 

 そうはいっても、だ。しかし鎖のせいで逃げるにも逃げられない。小角様が男の鎖を掴む。男が絶叫するのを尻目に鎖を破壊する。四つを破壊し終えると、小角様は次の男に取りかかった。三人も鎖が外れると、スタッフ達も小角様が既に無害なことを理解した。静宮を含む六人全員が拘束から解かれる。全てが終わったところで、露伴は再び小角様の記憶を探った。大嶋がどうなったのかも確認する必要がある。再度動きを止めた小角様に近付く。

 

《活きのいい食料が七個も置かれていた》

 

 最新の記述を見付け、目を通す。間違いなく露伴達のことだ。

 

《最初に一匹の雄を食した。どうもあまり肉付きは良くなかったが、あと六個も残っている。問題ない》

 

「喰った...のか。やはり」

 

 人の死に目には何度か直面したことのある露伴だったが、そんな彼でさえその事実には衝撃を受けた。露伴とは言え人の子だった。“人を食らう”ことには本能的な嫌悪感、恐怖を感じた。

 

「岸辺先生、逃げましょう!今のうちに!」

 

 プロデューサーが出口に向かう。気絶した静宮をカメラマンが背負う。露伴は一瞬の逡巡の後に小角様の元を離れた。

 

 小角様をどうするのが正解だったのか。露伴にはどうも分からなかった。小角様の記憶を読んだ露伴は一つの仮説を立てていた。麻積村が小角様の被害者なのではなく、小角様が麻積村の被害者だったのではないのだろうか。小角様の記憶を読んだ限り、小角様は決して、自ら生け贄を求めてはいなかった。というよりもむしろ、小角様はあの暗い洞窟の中に幽閉されているような、そんな気がした。かつて己が何者であったのか、小角様はそれすらも忘れていたのだ。そして暗闇の中で一人だと嘆いていた。

 

 森上の言っていたことは嘘ではないのか。麻積村は小角様の加護がなければ存続できないのではなく、小角様がいる限り現代社会と接触する必要がないだけなのではないのか。小角様がいれば、自然の驚異も、人間の脅威も被ることはない。それだけの話。

 

 もっとも露伴の推測だ。森上やその他村人の記憶を読んだわけではない。真相は謎だ。しかしどちらが真実だったにせよ、あの村には底知れぬ闇が広がっていそうだ。

 

 その後何事もなく、どうにかして市街地に辿り着いた後で、露伴は六人の記憶を書き換えた。麻積村の横には麻積山という山がある。世間では、大嶋はその山中で遭難死したということになっている。

 

 後で知ったことだが、麻積山は“日本で最も登頂が困難な山”として、登山家の間で有名な山だった。決して標高が高いわけでもなければ、斜面が険しいわけでもない。ただ行方不明者が多いのだ。日本アルプスの間に位置するという地理的条件のために天候の変化が激しいのだろう。研究者による見解だ。だが真実は違っているのかも知れない。

 

「麻積――鬼棲み。なるほどな」

 

 単純が過ぎる言葉遊びのようではあるが、その実本質を捉えているようで露伴は納得していた。

 

 四年の歳月が過ぎたが、以来今日まで麻積村は一度も話題に上ったことはなかった。木村の口からしばらくぶりにその単語を聞き、少なからず露伴は動揺していた。ふとスマホを取り出し、ここ数年の麻積山での遭難者の数を調べる。行方不明者20人。今も小角様への献上は行われているらしい。

 

 木村からの着信があった。顔をしかめながらも露伴は応答する。もし件の話題だったら速攻で切ってやる。

 

『先生!修正箇所がありましたよ!』

 

 露伴が通話口に出るや否や、木村が叫んだ。露伴は携帯を耳から遠ざけた。

 

「うるさいなぁ。いきなり叫ばなくても聞こえるぜ」

 

『修正ですよ、修正!先生の纏めた短編の構成に穴があったんですよ!』

 

「だから聞こえてるって言ってるじゃあないか。どうして君はそう、いちいち僕の神経を逆撫でしようとするんだい」

 

 とにかく、早く本題に入ってくれ。黙り込んだ木村に詳細を尋ねる。大した修正ではなさそうだ。露伴は口頭で指示を出した。

 

 気が付けば、空は日の入りを迎えようとしていた。秋の黄色がかった夕日に照らされた町影が、露伴の行く手に広がった。




 





 お久しぶりです。お待たせしました。

 











 書くことがなくて困っています。次の投稿予定だけ報告してお終いにしましょう。


 次話の投稿予定は未定です()

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