岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

13 / 22
another:13 《五重塔》

 国内には仏教や神道の祭殿ともなる木造寺社が数多く現存する。京都や奈良、鎌倉には広く名を知られた建築物も多く、また各地域にも有名所が点在している。だが、それらを除く殆どは無名だ。無論、岸辺露伴の在住するM県S市にも多くの寺社が存在するが、地元民にさえその全てを把握している者は一握りと居ない。立派に社が建ち、住職など管理者が敷地内に常駐していれば世間に名前が知られていなくてもまだマシだ。人目につかない民家と民家の間に存在する小さな稲荷神社などがあれば、近隣住民やその道の研究者でなければ認知すらされないだろう。露伴が目の前にしている五重塔も、そんな無名ものの一つだった。

 

 その日、露伴は盆の墓参りに市内の寺院を訪れていた。埋葬されているのは親族ではなかったが、露伴は毎年の墓参りを欠かさなかった。墓の前に供え物を置き手を合わせていると、顔馴染みの住職が露伴を見かけて寄ってきた。小柄で温厚な、糸目の彼は露伴のことをえらく気に入っているらしく、この寺を露伴が訪れる度に彼を茶の間に誘うのだった。

 

「最近はどうかね」

 

 弟子の僧侶が和菓子と湯飲みを二人の前に運ぶ。住職は露伴に近況を尋ねた。例年のことだった。特に変わりありません、と露伴はさしあたりのない返答を返した。これもまた毎年の流れだった。それでも住職は笑顔を絶やすことなく、そうかそうかと嬉しそうに頷くのだった。まるで、久々の孫の帰省に喜ぶ実家の祖父だ。露伴はどうも居心地の悪さを感じていた。この肩身の狭さはまるで実家そのものだ。―久しく実家には顔を覗かせていないが―露伴の憂慮にも住職は気付いていない様子だ。もしくは気付かぬふりをしているのか。どちらにせよ。露伴はまだ冷め切らぬ緑茶を一気に飲み干す。見透かされているようでどうも落ち着かない。気分転換に外の空気を吸おうと思い立った露伴は裏庭へと出た。その背中を住職が不思議そうな顔で眺めた。

 

「どうしたかの?」

 

 無言という答えを送る露伴に、住職は小さな吐息を一つ残して部屋を出た。露伴が一人になりたいのだろうと思ったのだ。それは見当違いではあったのだが、結果として露伴の、閉塞的気分からの開放には一役買ったのだった。

 

 裏庭から続く林を露伴は一心に眺めた。庭の石畳を、八月の強い日差しがジリジリと焼く。林の中からけたたましく響いてくる蝉の音が、一層その季節感を強めた。風通し良く作られた建物だったが、それでも露伴周辺の気温は30℃を超えている。庇の下で、露伴の意識は少しずつ溶けていった。

 

 蝉の声が遠のいたかと思うと、突然正面の林が視界いっぱいに広がった。そのまま露伴の全身を包み込む。と同時に、激しい目眩が露伴を襲った。全身から力が抜けてゆき、何かを考える間も与えられず、露伴の意識は闇の中へ落ちた。三秒も経っただろうか。ごく短い闇を体感したかと思うと、露伴の視界は一気に開けた。意識を刺激する冷たい林風。ひんやりと足の裏を伝わる土の感触。相変わらず鼓膜に響く蝉の合唱。気付くと、目の前にその塔があった。

 

 振り返った背後に先程まで居たはずの寺院の建物はなかった。視界の続く限り林が広がっている。状況がよく呑み込めない露伴は、周囲を一通り見渡した後に困惑した。杜王町内であれば、一通りの場所は知っているはずだ。しかしここは全く覚えのない土地だ。例の寺院の周りにこんな木造建築物があったという話も聞かない。とりあえず塔の周りを一周してみる。手入れが行き届いているのか、状態は非常に綺麗だ。林の中にあって湿気は酷そうだが、壁の木に腐敗した様子も見られない。頭上を見上げる。高さは10階建てのマンションくらいか。ざっと30メートルといったところだろう。国内の有名な五重塔と比べても遜色ない規模だ。この規模のものが市内にあれば記憶には残りそうなものだが。

 

 正面に戻る。入り口の扉がぽっかりと口を開けている。露伴は少し考え込む。五重塔は本来、お釈迦さまの遺骨―仏舎利―を祀る目的の建物だ。その宗教的性質上、普通であれば一般人が上層階に立ち入ることはできない。これにしたってその決まりは例外ではないだろう。監視の目は周囲にはなさそうだが、これだけ管理が行き届いていそうなところを見れば、人がやって来てもおかしくない。

 この場合、ルールや風習は露伴にとってさほど問題ではない。滅多に見られない五重塔の内部。危険を冒してまで見学するほど露伴の好奇心をくすぐったかどうか。それが重要だ。答えは勿論

 

「Yesだ」

 

 自然と口をついた。一瞬躊躇いはしたものの、露伴は塔の中へ侵入することを選択した。内部には冷え込んだ空気が充満していた。半袖では肌寒い。壁に一切の隙間がないのか、塔の中を照らす明りは露伴の背後、入り口から射し込む心元のない木漏れ日だけだ。影の部分が多く、全容はうまく掴めない。露伴はスマホを取り出すと、そのライトを頼りにした。内部の装飾は非常に簡素だった。中心に櫓を組むように立てられた四本の支柱。本来であればその中心の台座に本尊の姿があるはずだったが、光は真っ直ぐと反対の壁ばかりを照らした。壁も柱も全く塗装されていない。全てが同色の、わずかに木目の筋合いや影ばかりが光景に強弱を付けるだけの、どこか圧迫感さえある空間だ。

 壁伝いに四方を照らす。その光が、上層へと伸びる階段を捉えた。旧来の木造建築によく見られる、勾配の急な階段だ。手摺りなしで昇るには困難を極めそうだ。まるで梯子だ。その階段に直角な壁の床にもぽっかりと口が開いている。地下が存在するみたいだ。下を覗き込む。五重塔に地下が存在するというのは聞いたことがない。新しい発見だ。露伴は心躍らせた。

 

 さて、と一旦落ち着きを取り戻した露伴は、上へと続く階段の方へ視線を動かす。先に上階から見学するとしよう。足をかけ、階段の傾斜に沿って体を這わせるようにして上へと登る。上階に頭だけ出すと、頭上に光を掲げて室内の様子を探った。天井までは3メートルばかり。数本の柱が縦横無尽に交差している。1階層と同様、何かが安置されていることもない。正面に見える壁の奥手にはやはり階段が。螺旋を描くように階段は設置されているらしい。蝉の声が急に遠くなった。どうも防音のような効果が壁にあるのか。

 様子を伺い終えた露伴は階段を登りきり、思い出したように部屋の様子を写真に収めた。1階と地下の様子も帰りに取り忘れないようにしなければ。次の階層へ向かう。3階も4階も、全く同じ構造をしていた。相変わらず何もない。露伴にとっては期待外れな結果だった。もっと何か、仏像やレリーフなんかが保存されているとばかり考えていた。だがまあ、1階に本尊がなかったことを考えればその結果も妥当なものなのかもしれない。ここには何もないと考えておいた方が良さそうだ。埃ひとつない床の様子なんかが、特にこの建物が大事にされているように錯覚させていただけなのだろう。4階の写真も撮り終え、5階層へと向かう。階段の1段目に足をかけたその瞬間、バタンと何かの閉まる音が下から響いた。露伴は一度階段から足を外すと、階下を見下ろした。

 

「まさか、入り口が閉まった訳じゃあないだろうな」

 

 1階に射し込んでいる光はここまでは届いてこない。事の詳細は不明だったが、しかし露伴は物怖じするような性格ではなかった。どうせ後ではっきりする。気を取り直し、再び上へと向け階段を上がった。登りきり、5階の床上に立つ。と同時に、ぼっと火のたつ音がした。突然室内が明るく照らされた。露伴はスマホを構えていない方の腕で目を覆った。顔の直ぐそばで、ちりちりと何かが焼けるような音がする。恐る恐る目を開けると、壁伝いに取り付けられた松明が確認できた。部屋の中は炎の明りで満たされている。露伴の他に人影はない。誰が灯したんだ?それとも何か仕掛けでもあるのだろうか。不要になったスマホのライトを消し、一番身近な松明をじっくり観察する。何の変哲もない、油を染み込ませて燃やしただけのものだ。更に視線を横にずらす。上階へ続く階段があった。もう一つ?てっきりここが最上階だとばかり考えていた露伴は虚を突かれ驚きを露わにした。ここが戦を想定した天守なら、隠し階を含め6階層目が存在しても納得できる。だが仏教的建造物にその性質が必要なのか?どうも不思議だ。興味本位で、露伴はその階段を登った。やはり松明の明りが煌々としている。だがそれ以上に、もっと奇妙な点がその6階層にはあった。部屋の中心に正方形を作るように立てられた四本の柱。その奥の観音開きの扉。構造の何もかもが1階にそっくりなのだ。そして露伴は、更に上階へと続く階段を見付ける。流石におかしい。塔の高さと天井の高さを加味すれば8階層くらいまであってもおかしくはない。だが、外見が5階層であるのに対して7階以上が存在する意味が掴めない。何に対するカモフラージュなのだ?

 何か嫌な予感がする。露伴は階下へと引き返した。そのまま一気に1階まで下る。1階の扉はやはり閉め切られていた。松明も上階と同様に存在する。駆け寄って扉を開けようと試みるも、押しても引いてもビクともしない。閉じ込められたようだ。

 

「まずいぞ」

 

 露伴はぼやく。助けを呼ぶしかなさそうだ。だがそれには問題があった。露伴は自分が居る場所の正確な位置を知らないのだ。気付けばこの場所に来ていた。あの寺院とはどれくらい離れているのか。―いや。露伴は閃く。スマホには位置情報取得機能があるじゃないか。便利な時代になったものだ。地図アプリを開き、位置情報を得ようとする。が

 

「参ったな」

 

 スマホの現在地を示すポイントは先程まで居た寺院の中だった。それはあり得ない。露伴が幻覚を見ていない限り、ここは寺院とは全く別の空間だ。

 

「そもそも助けを呼ぼうにも圏外か。どうやらただ事じゃなくなってきたな」

 

 電波強度は圏外を示すそれだ。まるでホラー映画のお決まりのような展開だ。足掻いても仕方ない。露伴は地下へと続く階段に足を向けた。身動きが取れないのであればせめて、己の好奇心を満たすことにしよう。それに、地下には脱出経路があるかもしれない。一縷の望みを抱え、階段を下る。

 

「...」

 

 2階以上とやはり同じ構造の空間が広がっていた。多分に漏れず階下へ伸びる階段も見られる。流石の不審を感じつつも、露伴は更に下へ降りることを決心する。こうなれば、とことん下まで行ってやろうじゃないか。B2階、B3階...無心に下を目指す。木造建築でこれほど地下へ掘り下げられている異常性は露伴の危機感を煽るには十分だった。B5階層に降り立つ。そこは地上1階と全く同じ間取りだった。部屋の中央の四本の柱。観音開きの扉。

 

「馬鹿な...」

 

 階段はまだ下へと続いている。露伴は地上1階目指して階段を駆け上った。何かがおかしい。露伴は一度、部屋中央の台座の縁に腰を下ろした。一旦整理したい。もしかすれば、露伴は今パラドクスな空間に閉じ込められているのかもしれない。情報も少なくあくまで憶測の域を出ないが、仮に1階から5階までがループしていたとすれば?

 

「ペンローズの階段...」

 

 だまし絵なんかに見られるそれだ。登っても降りても永遠に同じ位置に戻される階段。その不可能図形はそう呼ばれる。

 

「お困りかな」

 

 突然の背後からの声に露伴は飛び上がった。台座の中心に男が一人立っていた。外見は40代から50代。背丈は160㎝程度。

 

「ヘブンズドアーッッ!!」

 

 露伴は反射的に能力を発動させた。普通の人間ではないことは、状況からしてほぼ明らかだ。男の顔の表皮が本のように捲れ、仰向けに気絶する。露伴は警戒を解くことなく男に近付くと、曝け出された情報を読んだ。

 

 男の名前は(あくた) 祥司(しょうじ)。建築家らしい。生まれは1846年――1846年?思わず露伴は二度見した。1946年の間違いではなく?指で文字をなぞりながら何度も確認する。間違いないようだ。ヘブンズドアーに嘘はつけない。ならばこの男、ゆうに100歳を超えているはずだ。だが外見はどう見ても50前半に見るのが限界だ。若作りにもほどがある。だが、この空間が仮説立てたようにパラドクス空間であれば。何かそれと関係があるのかもしれない。露伴は疑問を無理に頭の隅に追いやると、続きの記述へと意識を向けた。

 

「なるほど。この塔の制作者か」

 

 であれば何か重要な情報を握っていそうだ。とりあえずの危害はないことが確認できた。念のため“安全装置(セーフティーロック)”をかけた上で、芥を解放する。

 

「お困りかな」

 

 直前の記憶がない芥は同じ質問を繰り返す。露伴は芥に対し探りを入れた。

 

「出口が開かなくなってね。閉じ込められて困っている」

 

 芥は大きく頷いた。

 

「だろうな。ここを訪れた者は皆そうなる」

 

「何か知っているのか」

 

 やはりこの男、秘密を握っていそうだ。無意識のうちに露伴の表情は険しくなっていた。

 

「閉じ込められれば最後。自力で脱出することは不可能だ」

 

「何だと?」

 

 脱出不可能の言葉を聞いた露伴の顔色が変わった。考えている以上にまずい状況かも知れない。どういうことだと芥に詰め寄り、詳しい説明を求める。

 

「最上階までは登ってみたかな?もしくは一番下まで降りたか」

 

 露伴は首を横に振る。そもそも。露伴は直近の疑問をぶつけた。

 

「終わりはあるのか?上にも下にも」

 

「ない」

 

 帰ってきたのは期待とは真逆の、しかし予想通りの返答だった。

 

「その様子だと、ある程度は理解しているみたいだな。そうだ。5階の上はここ1階だ。同様に地下4階の下もここ1階になっている」

 

 露伴の推測通り、ペンローズの階段構造の空間らしい。つまり、どれだけ登っても、どれだけ下っても、永遠にこの1階層に戻され続ける。

 

「ああ、理解した。だがそれ以上に僕が知りたいのはここからの脱出方法だ」

 

 芥は“自力での脱出は不可能”と言った。芥の助けがあれば出られるのか。

 

「そうか」

 

 芥は後ろ手を組むと扉の前に立った。

 

「この塔は私が建てた」

 

「何が目的だ」

 

 なかなか核心を突かない芥の態度に業を煮やした露伴は敵意を剥き出しにした。芥は怯まない。

 

「目的か―そうだな。誤解されたまま話を進めても双方に良くない。ここではっきりさせておくことにしよう。この塔を建てたのは確かに私だが。だが私が建てたのは5階層の、最上階が存在する塔だ」

 

 ここにはそれが存在しない。芥はあくまでこの現象が己の意思の元にあるものではないと言い切った。

 

「だったらこれは何だ。何やら知ってるんじゃあないのか。無理矢理口を割らせることだってできるんだぜ」

 

「まあはやるな。誰も教えないとは言ってないだろうに」

 

 芥は露伴に向き合った。

 

「君は仏を信じるか?」

 

 質問に質問で返された露伴は顔を歪めた。露伴は明らかな嫌悪感を表に出していたが、意にも介さぬ様子で芥は言葉を続けた。

 

「お釈迦さまの説いた“末法思想”というものがある。仏教の正しい教えが伝えられなくなり、滅び行く時代がやがて訪れるというものだ。この国では既に平安時代には末法の世に突入したと言われている。動乱の始まりの時代だな。それからおよそ千年近くが過ぎる。神仏習合を乗り越え、仏教はあるべき姿に戻ったかに思われた」

 

 芥が何やら説き始めた。露伴は早々に呆れ顔だ。

 

「だが実態は違った。国家は神道を国教とし、仏教は形こそ残ったもののかつての勢力を失った。人々の心は今、仏教から離れつつある。今の世が正に、お釈迦さまが危惧した末法にあるのだ」

 

 心酔した様子を見せる芥に露伴は後じさった。仏教を否定するわけではないが、ここまで宗教に入れ込んだ相手の言い出すことに良い予感はしない。独善的な思想を見せなければいいが。

 

「この塔は、そんな現世を救うべく遣わされたものなのだ」

 

 悪い予感は的中しそうだ。芥の意識に既に露伴は居ない。

 

「仏教を失った今、人々は、現世は煩悩に溢れている。煩悩に縛られる限り、人々は生と死を繰り返す輪廻に捕らわれ続ける。人々は永遠に苦しまなければならないのだ。そう、まさにこの塔に閉じ込められるように。出口のない、永遠のサイクルに封じられてしまうのだ」

 

「なあ、まだ続くのか?それ。僕が聞いてるのは脱出方法だ。くだらない説法を聞きたいんじゃない」

 

 露伴は痺れを切らした。芥に詰問する。しかしそれでも芥は持論を説くことを止めない。

 

「煩悩を捨て去り輪廻から解脱したとき、人々は初めて救われる。現世には今、解脱が必要なのだ。この塔に備わる不可思議な力はそのために与えられたものなのだ」

 

 突然、芥が露伴を見据えた。

 

「煩悩を捨てるのです。それが、それこそがこの空間から脱出し、末法の現世において輪廻から抜け出せるただひとつの方法だ」

 

 どうやら残念な方だったらしい。露伴の嫌っていた独善の状態だ。露伴は大きく溜息を吐いた。

 

「他にはないのか?」

 

 煩悩を捨てろ、などと抽象的な情報を教えられても露伴としては困惑が増すばかりだ。

 

「ない」

 

 芥はばっさり切り捨てた。

 

「私がこれまで何人の迷い人を救ってきたと思っている。2175人だぞ。私は脱出方法を知っている。誰に教えられたわけでもなく、私が決めたものでもなく。最初からそうであったことを、初めてここへ誘われた瞬間に私は理解した。だからこそ私は救世主なのだ。現世の、末法の世の浄化が私の使命なのだ」

 

「ヘブンズドアー」

 

 芥は再び気を失って倒れる。これ以上の会話は無駄だ。露伴は芥の記憶から直接脱出の手を探ることにした。

 

〈煩悩を捨て去れ。完全に捨て去った後、基点階層から上階へ、数えて階段を358段登れ。一切の煩悩が再び生じなければ、それは解脱の時だ。現世への帰路が開かれる〉

 

 芥が言っていた方法についての記述を発見する。煩悩を捨て去るだけでなく、もうワンステップが必要らしい。露伴は部屋の隅にひっそりと佇む階段を見やった。358段。骨が折れそうな数字だ。

 

 再度芥に目を戻し、別の方法を探す。記載はない。この男が他のものを知らないか、そもそも存在しないかのどちらかだ。自力で別の方法を探すか?どれだけの時間を要するかも分からない。素直に芥の示す方法に従うしかないのか。だが露伴には気がかりなことがあった。煩悩とは何だ?勿論言葉の意味は知っている。だが具体的に煩悩を捨てろと言われたとき、どこまでがその煩悩に当てはまるのかが分からない。三大欲求を捨て去るだけなら簡単だ。ヘブンズドアーでそう書き込めばいい。だがもし、己のマンガに対する情熱をも捨てなければいけないのであれば?捨てられないことはない。同様に自分に書き込めばいいだけだ。だがそれを露伴のプライドが簡単に許すはずがなかった。それは敗北の選択だ。

 芥を解放する。

 

「煩悩とは何なのだ?」

 

 回答が得られない。露伴は尋ねた。

 

「簡単に言えば“欲”のことだ」

 

 芥が答える。

 

「自己中心的な考え、物事への執着―現世に生きて何かを成そうとするときにその妨げとなりうる心身の働き。それを煩悩と呼ぶ」

 

 つまり。噛み砕いた上で質問を重ねる。

 

「例えば、マンガ家が自分のマンガを多くの人に読んで楽しんでもらいたいと思うのは煩悩なのか?」

 

「マンガ家なのか?君は」

 

「なあ、僕の話はどうでもいいんだよ。今質問をしているのは僕だ」

 

「そうだな。それも煩悩のひとつと言えよう。そのひとつの欲求に執着して他の要素を見失うようであれば、それは立派な煩悩だ」

 

 君がどうかは知らないがね。露伴は素知らぬ顔で受け流す。

 

「その“煩悩を取り除く”ってのは、具体的に何をするんだ。まさかお経を唱えろって訳じゃないだろうな」

 

「解脱とは即ち悟りだ」

 

 芥は露伴の茶化しを一蹴した。

 

「長い時間をかけて悟りを開くのだ。こんな空間ではできることも限られているからな。瞑想によって悟りを得た者が最も多い」

 

「どれくらいかかるんだ?その悟りを開くのには」

 

「恐らく数十億年か―長ければ百億年ほどだろう」

 

「おいおいおい。冗談だろ」

 

 思わず失笑する露伴。

 

「冗談ではない。現世の僧侶達がどれほどの修行を積んでると思っている。何十年の歳月をかけて悟りを目指したところで、あの弘法大師でさえ一生のうちに悟りを開くことはできない。弥勒菩薩が悟りを開くのに56億7千万年かかるのだぞ。現世での肉体の寿命の範疇で解脱が完成すると思ってはならない」

 

「それじゃあ、解脱を果たしたところでまるで人間じゃあないぜ。第一なんだ。何十億年もこの空間で過ごせって言うのか」

 

 言われてみれば、解脱を果たすことは仏に近付くということだ。事の重大さに気付く。

 

「時間こそかかれど、ここを出られなかった者は居ない。安心していい。煩悩を捨て去ることのできた暁には脱出できる」

 

「安心しろだと?無理だね」

 

 露伴の心は既に決まっていた。

 

「僕は“誰かに読んでもらう”ためだけにマンガを描く。それが煩悩だと言うのなら、その心が邪だと言うのなら、それを捨てて高尚な存在になっても僕には何も残らない。マンガに向き合うこの気持ちを捨てることは僕にとって“死”だ!マンガ家として死ぬくらいなら、僕は“敗北”の道を選ぶ!!」

 

 このパラドクス空間には恐らく時間の概念はない。何千人もの人間を、数十億年かけて見届けてきたという芥の外見は50代。生まれもほんの二百年ほど昔。つまり、この空間で無限にも等しい時間をかけても、現世での時間の進みは相対していない。煩悩を捨てて元に帰る選択も出来る。だがそれは露伴にとって敗北以上の、その後の人生に致命傷となる選択だ。

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 露伴は叫ぶ。発動するのは自分自身に向かってだ。ヘブンズドアーのヴィジョンが、露伴に向かってペンを振る。

 

<日光を浴びるまで、全ての“煩悩”を失う>

 

 露伴の目から光が消える。続いて一文が書き足される。

 

<階段を登れ。358段>

 

 煩悩を失ったことによって、ここから脱出しようという意欲も消え去るかもしれない。そう考えての保険だ。どうやらその保険は正解らしかった。煩悩を失った今、露伴の思考はほとんど停止していた。帰りたいという思いそのものが煩悩であれば、それは当然とも言えた。

 

 一段、また一段。まるで階段を登るだけのからくり人形であるかのように、露伴は無心に足を進めた。突然叫んだかと思えば大人しく階段を登り始めた露伴に芥は困惑気味だった。それでも嬉しそうな笑みを浮かべている。

 

 疲労は感じないものの、肉体に乳酸は蓄積される。後半の露伴の足取りはかなりぎこちなかった。およそ70周。358段目でちょうど1階層に辿り着く。階数が5の倍数ではないのだから妙な話ではあるのだが、露伴はそれにさえ気付かなかった。

 

 露伴の両足が最後の段差を登りきる。同時に、壁に掛かった松明の火が全て消えた。一切の闇が露伴と芥の二人を包む。

 

 ギギギと重い音がした。徐々に扉が開き、外からの光が隙間を通して射し込む。その光が、直線上に立つ芥の唖然とした顔を照らした。

 

「馬鹿な―」

 

 あり得ない。早すぎる。

 

 扉が全開になる。日光が部屋全体を明るく照らした。露伴の瞳に光が灯る。日光を浴び、ヘブンズドアーの効果が切れた露伴は即座にその状況を理解する。

 

「成功したみたいだな」

 

 重い足を引き摺りながら露伴は外に出る。けたたましい蝉の声。絡みつくような熱気を纏った大気。大きく深呼吸をし空を見上げてから、露伴は振り返った。

 

「認めよう。僕の負けだ」

 

 いっときでもマンガに対する情熱を捨ててしまった。異論を唱える余地もない。露伴は精神的に敗北した。

 

「だが脱出はできた」

 

 依然理解が追い付いておらず、目と口を大きく開いた芥を中に残したまま、勢いよく扉が閉まる。同時に蝉の声が遠くなり、露伴は平衡感覚を失った。意識が遠のく。来たときと同じだ。露伴はそれに身を委ねた。

 

 意識が覚醒する。背中に重力を感じた露伴は、自分が仰向けに転がっていることを理解した。視界一面に天井が広がっている。露伴は状態を起き上がらせた。頭がクラクラする。

 

「おお、起きたか」

 

 枕元に住職が座っていた。目覚めた露伴に気付き腰を浮かせる。

 

「まだ無理せんほうがええじゃろう。体に良くない」

 

「何があったんです?」

 

 露伴は敷き布団の上に寝かされていた。見慣れない部屋だ。普段は立ち入らない場所なのだろう。

 

「覚えてないかの?裏庭の前の縁側でぐったりしておったんじゃよ。おおかた日射病じゃろう。とりあえず水を摂りなさい」

 

 住職が横に控えていた水を手渡す。露伴は一気にそれを飲み干した。

 

「僕はどのくらい寝て?」

 

「儂が気付いてからは20分ほどかな。君が庭に向かってから10分ほどで様子を見に行ったらもう倒れておっての。びっくりしたわい」

 

 そうか。露伴は頷くと住職に礼を言った。

 

「帰る」

 

 まだ頭痛も残っていたが、露伴は無理をして立ち上がろうとした。が、足にうまく力が入らず膝をつく。住職が慌てて露伴の体を支えた。

 

「無理はいかん。まだ休んでいなさい」

 

「いや―これは...」

 

 どちらかといえば足の疲労だ。どっちだ?露伴は困惑した。あの体験はもしや夢ではなかったのかと思い始めていたのだ。だがこの疲れは本物だ。

 

<だが、どちらにしろ>

 

 夢であれ現実であれ、マンガへの熱意を捨てるという選択をしたことには変わりない。

 

 露伴は住職の制止を無視して立ち上がると、足を引き摺りながら寺院を後にした。

 

 

 後日露伴は芥 祥司についての情報を探して図書館に通い詰めていた。生まれがはっきりしているため活躍していた時期は絞りやすい。だが、なかなかその名前を見付けることは出来なかった。そこまで有名な人物ではなかったらしい。結局、その名前を見付けたのはS市の地方新聞だった。日付は1898年2月15日。芥 祥司という市内の建築家が行方不明と描かれている。地域情報の端に僅かに載っているばかりで、情報はほとんど得られなかった。

 

<しかしまあ>

 

 彼が実在した人物だったことの裏付けは取れたと言っていいだろう。あの出来事はやはり現実だったのだろう。露伴はそう受け止めることにした。しかし一方で、どこか懐疑的でもあった。芥は3000人近くの人間を送り出したと言っていた。だがそんな、“悟りを開いた人物”は誰一人見たことがない。一人でもそんな聖人がいれば話題になりそうなものなのに、それが3000人ほど居るにも関わらず、その存在が明るみに出た例はない。もしや解脱を果たしてあの塔を出た先には別世界が待っていたのではないのだろうか。露伴はそう考えるようになっていた。例えば仏の世界とか。

 

 目的を果たした露伴は帰路についた。考えるだけ無駄だ。こうしてまた、誰かのためにマンガを描くことが出来ている。一度マンガに対する思いを捨てたその罪を、こうして贖っていこう。

 

 八月終わりの日暮れ時。空にはキジバトの声がこだました。蝉もそろそろお休みの時間らしい。

 

 

 

 

 

 






 四ヶ月と少しぶりですか。皆さんお久しぶりです。サボりまくってごめんなさい。

 最近はコロナコロナで大変な情勢ですね。そろそろ外出自粛にも飽きてくる頃合いでしょう。GWを豊かなひとときに飾る、その一助になれれば嬉しい限りです。

『五重塔』といえば、幸田露伴の作品にもそんなタイトルのものがあるらしいですね。特に意識せず書いたので全然知らなかったのですが、いい機会だし今度読んでみようかな。

 また新しいネタを思いつき次第ボチボチ書いていきます。

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