岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:14 《棄生賛歌》

「“聴いたら死ぬ曲”て知ってますか?」

 

 木村がふと思い立ったように尋ねた。それまで表通りの雑踏を無心に眺めていた岸辺露伴は木村に一瞥をくれると椅子に座り直した。

 

「“暗い日曜日”のことか?ハンガリーだったかの歌手の“聴いたら自殺する歌”」

 

「いえ、歌じゃなくて曲です。その歌なら俺も知ってますよ。ネットで見ました。そうじゃあないんですよ。俺の言ってる“聴いたら死ぬ曲”は、聴いたことがある人がこの世に一人も存在しないんです。“聴いたら死ぬ”から」

 

「おいおい。矛盾してるじゃないか」

 

 露伴は木村を嘲った。

 

「“誰も聴いたことがない”のに、どうして存在するって分かるんだい。宇宙人や幽霊だってもっと信憑性があるぜ」

 

 木村が二度三度と頷いた。

 

「それがですね、俺の友人がその曲の楽譜を入手したっていうんですよ」

 

「へえ。そりゃまた出来た偶然だな」

 

 猜疑の目を木村に向ける。トントン拍子に話が進む時は必ず何かがある。こと木村に関しては一度“地獄”に落とされかけたことがあるのだ。信用が足らない。

 

「どこまで本気なのかは分かりませんけどね。ともかく、そういう謂れ付きで渡ってきたらしいんですよ。その譜面」

 

 露伴の興味は急速に失われた。

 

「それってつまり“呪いの人形”みたいなものじゃないのか?過去の持ち主が全員不審死した、みたいな噂がついたさ。曲自体の話題性を高めるためのプロモーションとかじゃあないのか」

 

 もしくは、ちょっとした不思議話に尾ひれが付いて誇張されたか。どちらにせよ、それが“本物”である可能性は低い。ドイツに住む友人のアベルが持ち込んだ話であれば露伴の反応も変わったかも知れないが、その点目の前のこの男のする話はどうもきな臭い。

 

「細かい話はどうでもいいんです。俺が言いたいのはですね、聴いてみませんかってことですよ」

 

 露伴の眉がピクリと動く。

 

「あのなぁ……解ってるのか?」

 

「その友人、音楽家なんです。演奏してもらえば大丈夫ですから」

 

「なあおい。やっぱり解ってないじゃあないか」

 

 本当に呆れた男だ。露伴は冷たい視線を木村に投げた。木村の方は話の意図が掴めていないようでキョトンとしている。

 

「もういいさ。君みたいな奴はどうせ何度言っても学習しないだろうからな」

 

「日程は調整するんで心配しないでください。先生なら締切の心配も要りませんし。どうですか?」

 

 露伴は少し考える素振りをする。

 

「もう演奏したのかい、その彼は」

 

「さあ、そこまでは。まさかとは思いますけど先生、彼で実験してみようとか言い出しませんよね」

 

「そんなに慌てるなよ。僕がそんな薄情な人間に見えるのかい」

 

 見えるから慌ててるんですよ、とは思っても口に出せたものではない。木村の表情が微かに歪んだのを、露伴は見逃さなかった。小さく鼻を鳴らし、表の人通りへと目を戻す。

 

「じゃあ任せたよ。僕は原稿を早めに仕上げればいいんだな」

 

「関東まで出てきてもらうことになると思いますけど、大丈夫ですか」

 

「何でもいいさ。決まったら連絡してくれ」

 

「人任せだなあ」

 

 小さく溜息を吐く木村の表情はしかし満更でもない模様だった。

 

 

 

   *

 

 関東地区内のとある都市部。市内最大の駅で新幹線を降りた露伴は木村から伝えられた通りに在来線に乗り換えた。ビル群から離れ、落ち着いた風景の広がる都市郊外の小さな駅で降りる。駅前のロータリーを見渡してタクシー乗り場を探す。付近に木村がいるはずだ。正面左奥の駐車場出口付近にタクシーが四台ほど並んで停車している。その脇で、こちらにむかって大きく手を振る人影があった。木村だ。

 

「時間通りですね。いきましょう」

 

 合流した二人はタクシーに乗り込んだ。木村が運転手に行き先を告げる。

 

「俺の友人――滝 謙三って言うんですけど、聞いてみたら一昨日辺りに一度演奏してみたそうです」

 

「そうか」

 

 露伴は生返事を返し、後方へ流れていく路傍の景色を眺めた。

 

「――よかったんですか?」

 

「何がだい」

 

「ちょっと前に言ってたじゃないですか。何かあったときに対処できるだけの力もないのに下手な道に首を突っ込むなって。今回はいいのかなって思って」

 

「いいわけがないじゃあないか。だからこの前に聞いただろ。“解ってるのか”てな。どうやら理解していなかったみたいだが。今更気付いても遅いが、まあ一応褒めてやるよ」

 

 一切木村に顔を向けることなく露伴は言った。心にも思っていない様子だ。気まずくなった木村は露伴とは反対の窓から外を眺めた。

 

 ビルやアパートが散立する市街地を走ること十五分。一軒の民家の前でタクシーが停車した。二階建ての、これといった特徴のないごく普通の一般住宅だ。ベランダを見上げると、男が煙草をふかしながら二人を見下ろしていた。タクシーを降りた木村が手を振ると男は微笑み返した。タクシーが立ち去る。ベランダの男は煙草の火を揉み消すと室内に戻った。木村の後について露伴は玄関先まで進んだ。ほどなくして扉が開かれる。

 

「どうもどうも。何もないとこまでよくいらしてくださいました」

 

 丸眼鏡に伸びた顎髭。浮世離れないでたちの男だ。

 

「すまないね、いきなり連絡して。こちらマンガ家の岸辺露伴さん」

 

 木村に紹介され、露伴は軽く頭を下げた。

 

「滝 謙三です。音楽で食わせてもらってるしがない人間ですがよろしく」

 

 滝は露伴に握手を求めた。露伴が握り返すと滝ははにかんだ。人当たりのいい男だ。

 

「作品を拝見したことはありませんが、よく岸辺さんの名前は耳にします。同じクリエイターを名乗るのも厚かましいくらいですが、多くの人を魅了する貴方の腕は尊敬している」

 

「それはどうも」

 

 僕は貴方のことを知りません、と素直に言うのはどうも失礼だ。露伴はあえて世辞さえも口に出さないことにした。滝が二人を家の中へ招いた。

 

「例の曲ですがね」

 

 先頭を歩く滝が振り返りざまに言う。

 

「ここまで来てもらってなんだけれど、あまり期待しすぎない方がいいですよ。面白いものではありません。むしろ退屈だ。――やけに耳には残りますけどね。だからといっていい曲ではない」

 

 まあ、そっち側の知識を持った人間の考えでしかありませんから。滝は家の奥の一室に二人を案内した。部屋には窓がなかった。横ボーダー状に溝の刻まれた壁が特徴的だ。その壁際には数本の弦楽器が掛けられている。他にもグランドピアノやドラムなど、一通りの楽器が揃えられていた。まるで小さな楽器店だ。

 

「防音室か。凄いな」

 

 個人所有の規模ではない。二人は驚きに目を見開いた。

 

「全部でいくらするんだ?数百万でもきかないだろ」

 

「現代音楽家、って言って伝わりますかね。そんなに儲けてもいませんよ。ここにある大半は中古だ」

 

 それにしたって数が凄い。特に弦楽器。露伴もそこまで詳しくはないが、ヴァイオリンにヴィオラ、チェロやコントラバスも全て揃っている。ギターも弦の数が異なるものが置いてある。二人は部屋を一周見て回った。最後にグランドピアノの前に立ち、譜面台の上に広げられた楽譜を覗き込む。

 

「H、Y、M、N……何て読むんですか、これ」

 

 楽譜の上部に書かれたタイトルを見て木村は首を捻った。

 

「Hymn(ヒィム)。直訳すると賛美歌。“例の曲”ですよ」

 

 滝が答えた。露伴は譜面全体をざっと眺めた。音楽理論はさっぱりだ。譜面を読むことさえ困難する。

 

「失礼」

 

 二人の間を割り、滝がピアノに腰掛けた。滝の行動を察した二人はピアノから少し離れた。滝が大きく息を吸い、そして弾き始める。静かな曲だった。なるほど滝の言うとおり、確かに面白みに欠けている。

 滝が鍵盤から指を離す。一切の盛り上がりをみせないまま曲は終わった。体を二人の方へ向ける。

 

「どうでしたか」

 

「まあ、何て言うか……悪くはなかったんじゃないかな?ですよね」

 

 木村は無言の露伴に助けを求めた。露伴はわざとらしく目を逸らした。こっちにふるんじゃあないとでも言いたげな表情だ。

 

「無理しなくていいさ。つまらない曲だよ。起伏もない、定番の進行も使われない。劇的な仕掛けがあるわけでもないし」

 

「おまけに死にもしない」

 

 露伴の呟きに滝は頷く。

 

「そう、死んでない。最初に演奏したのはもう何日も前の話なのに。この曲を売り込む目的の作り話じゃないのかな。それぐらいこの曲には魅力がないよ」

 

 同じ意見を持つ滝に露伴は頷いた。木村は失望を隠しきれない様子でいたが、最初からとんでもなくつまらない展開を予測していた露伴にとってはさほどショックではなかった。むしろ本物では困る。

 

 その日はそれでお開きだった。わざわざ関東まで出てきたのに、とは微塵も思わない露伴であった。これで木村の早とちりな性格も少しは治るだろう。それに都会の喧噪は好きではない。早く杜王町に帰りたいというのが露伴の本音だった。折角久しぶりに会ったのだからと昔話に興じる二人をおいて露伴は帰路についた。

 

 

  *

 

  

 滝の家を訪れてから三日が経った。露伴は悩みを抱えていた。あの“聴いたら死ぬ曲”が頭から離れない。食事中も、湯船に浸かっているときも、あまつさえ仕事中も、ふと気が付くと頭の中にあの曲が流れた。仕事の妨げになって敵わない。聴いたのはたった一度きりだというのに、露伴の脳は曲を完全に記憶していた。何度も何度も、脳内で一つの曲やフレーズの一部がリピートされるその現象は俗に“イヤーワーム”と呼ばれるらしい。それ自体は露伴も経験がある。だが彼の一生において、曲が丸々繰り返されるというのは体験したことも聞いたこともなかった。あれだけこき下ろしといてなんだが、意外と良作だったのかもしれない。“Hymn”への露伴の認識は変わりつつあった。

 滝の訃報が届いたのはそんな時分だった。

 

『滝 謙三がですね――覚えてますか。“聴いたら死ぬ曲”を弾いてもらった彼。昨日俺のところに連絡が来て。亡くなったそうです』

 

 自室で西洋建築の資料を眺めていた露伴はその動きをピタリと止めた。

 

「“死んだ”のか?」

 

『ええ。詳しいことは俺も分かってないんですが、どうしても例の曲の存在が引っかかって。それで一応先生にも連絡しました』

 

 木村の言葉の端が微かに震えているのを露伴は通話越しに感じた。

 

『もう一度聴きたかったんですけどね。残念です』

 

 そうだな。露伴は頷いた。周辺がごたついているようで、木村は早急に電話を切った。もう少し時間をおかないことには詳細を聞き出すことは出来ないだろう。しかしそれにしても

 

「“聴いたら死ぬ”か」

 

 偶然にしてもタイミングが良すぎる。何か因果があるように思えてならない。杞憂で終わればいいが、しばらくは不意の事故なんかに気を付けるとしよう。気分は浮かばなかったが、露伴は手元の資料に意識を戻した。

 

 

 

   *

 

 

 それからまた日が経つ。“Hymn”が脳内で流れ続けることで、露伴は安眠することすら久しくなっていた。四六時中、露伴に意識のある限りその曲が流れて止まない。睡眠不足に陥った露伴は些細なことにもストレスを感じるようになっていた。仕事にも手が付かない。異常なことだ。疲弊した露伴の脳はそれが非常事態であることも認識しなかった。

 

 その日は都内での打ち合わせだった。滝の家を訪れたのはほんの一週間前の事だ。彼はもうこの世には居ない。一度会ったきりの他人ではあったが、露伴の気分がノることはなかった。編集部本社の一室で担当の木村を待つ。しかし時間になって現れたのは別の編集者だった。

 

「岸辺露伴先生で間違えありませんか。編集の大谷といいます」

 

「何か用かい。くだらないパイプ繋ぎを企てているならとっとと消えてくれ」

 

 普段よりきつめの対応を返した露伴に怖じけた様子を見せつつも、しかし大谷はその場を去ることなく逆に露伴の向かいの椅子に座った。何を考えているんだ。露伴は不審の目を向けた。

 

「既に本人から聞いていることとは思いますが改めまして。本日木村の代わりを担当させていただく大谷です」

 

 大谷と名乗るその男は胸部のポケットに挟んだネームプレートを掲げた。

 

「代わり?何の話だ」

 

「あれ?木村から連絡ありませんでしたか?」

 

 露伴が肯くと、大谷はあちゃーと声をあげながら額に手を当てた。ギャグマンガみたいな挙動をする男だ。

 

「彼、しばらく仕事を休むことになりまして。いや失礼しました。てっきり彼から話が伝わっているとばかり」

 

「仕事には情熱のある男だと思っていたが……僕の過大評価だったか。ていうかさぁ、どうなってんだ?おたくの会社。彼一人に責任押しつけて自分たちからは連絡しないってのもさあ。なんか違うだろ」

 

 身を乗り出して愚痴る露伴を前に、大谷は身を縮め込んだ。聞こえるか聞こえないかの小さな声でスミマセン…と謝罪した。

 

「ふん。それでなんだい――理由だよ!理由!キョトンとしてるんじゃあない。英語で道を尋ねられた小学生じゃないんだ。僕の言葉くらい理解できるだろ」

 

「理由とは……木村の休暇の理由ですか?」

 

「なあなあなあ。僕だって暇じゃないんだ。君とくだらない無駄話をするためにこっちまで来たわけじゃあないんだぜ。一分一秒だって無駄にしたくないんだ。分かるよな?僕はマンガ家で、毎週締切に追われてるんだ。僕が三日で原稿を仕上げられるからって余裕があると思ったら大間違いだぜ。いいか。分かったら言葉を一つひとつ選んで発言することだな。僕は今すこぶる機嫌が悪い。今すぐ来週分のプロットをつきだして帰ることだってできるんだぜ。どうせ修正なんてないプロットをな。それをしないのは打ち合わせが礼儀だからだ。僕は君達の仕事に十分な敬意を払ってここに座っているんだ。なら君も敬意を持って、礼儀を持って僕と向き合うべきだ。違うかい」

 

 大谷に一切口を挟ませる余地なく捲したてる。いよいよ萎縮した大谷は首を下にもたげて鼻をすすり上げた。尚も苛立ちが収まらない露伴は乱暴に椅子に座り直す。打ち合わせも締切も、今の露伴にとっては全くもって“どうでもいい”ことなのだ。露伴の本来のマンガに対する情熱が、かろうじて理性をもって彼をここに留めさていた。

 

「ここ最近、どうも上の空なんです」

 

 俯いたまま、視線だけを露伴に向けながら大谷は言葉を紡いだ。

 

「何か考え事をしてばかりで、全然仕事にならない様子なんです。話しかけても反応が鈍いし、電話対応もしない。挙げ句の果てには別の作家さんとの打ち合わせをすっぽかす始末で」

 

 その状態に露伴は心当たりがあった。仕事に手が付かず、常に上の空。それはまるっきり、今の自分と同じじゃあないか。

 

「あまりに酷いんで休ませることにしたんです。今のままじゃ居ても仕事にならない」

 

「彼は何か言ってなかったのか?自分のその状態について」

 

 もしや滝が死んだことに相当なショックを受けているのではあるまいか。

 

「そういえば、時折我々に“聴いたら死ぬ曲”を知らないかって聞いてきました。何て曲名だったかな」

 

「“Hymn”かい」

 

 大谷が頷く。

 

「そうそう、それです。それなりに音楽に明るい人間も社内にはいるんですが、誰も知りませんでしたね」

 

「だんだん腹が立ってきたぞ」

 

 一度でも彼を案じた自分が馬鹿だった。今日は木村に裏切られてばかりだ。露伴の怒りはいよいよ限界だった。手前に広げたノートを乱雑に鞄にしまうと露伴は立ち上がった。

 

「大谷君、だったか。木村の家を知ってるかい」

 

「家ですか。知ってはいますけど……どうするつもりなんですか」

 

 まどろっこしい。露伴はヘブンズドアーを発動させた。

 

<岸辺露伴を木村の家まで案内する。早急に!>

 

 二人は揃って編集社を出た。大谷と並んで通りを歩く。駅に向かうと思いきや、大谷は道の途中を左折した。

 

「おいおい、どこへ行くつもりだ」

 

「どこって、木村の家ですよ。もうすぐ着きます」

 

 まだ歩き始めて五分も経っていない。露伴は面食らった。てっきり電車に乗って別の区まで移動するものだと思っていた。まさかこんなに近いとは。なかなか良い暮らしをしているらしい。

 

 十階建ての、比較的小ぶりなマンションの正面で大谷は立ち止まった。エントランスはオートロックだ。大谷が木村を呼び出すも、応答はない。

 

「出かけてるのかな」

 

「体調不良で休みをもらっといてか?」

 

 露伴は大谷を見やった。

 

「知らないのか?暗証番号」

 

「知っていますけど……流石にマズいでしょう」

 

「いいから開けなよ。失礼だとか失礼じゃないとか、そういう道徳観念は仕事を抜け出してきた時点で今更だ」

 

「わかりましたよぉ。もし怒られたら先生が説明してくださいよ」

 

 嫌々な態度をいよいよ隠しもしなくなった大谷にキレかけた露伴だったが、その行動が何の意味もなさないことを判断すると黙り込んで感情を抑えた。露伴の情緒は間違いなく不安定だった。“Hymn”は尚も脳内から離れない。“壊れたテープレコード”のように延々リピートされるその曲を、露伴は煩わしいとさえ思わなくなっていた。無意識まで完全に曲が刷り込まれているのだ。

 

 大谷の解錠によってエントランスを攻略し、突き当たりのエレベーターに乗り込む。ポン、という軽快な到着音が響くまでエレベーター内部の空気は凍りきっていた。玄関前でインターホンを鳴らす。しばらく待っても反応はない。

 

「病院かなぁ」

 

「寝てるんじゃあないのか」

 

 露伴はドアノブに手をかけた。開かないでしょうという大谷の声を無視して扉を引く。果たして扉は開いた。意外、という顔をする大谷を一瞥して、無言で室内に踏み入る。家に入るとまずキッチンがあった。一人暮らしの1Kといったところか。風呂場やトイレが隣接されたその廊下を抜け、奥のドアを激しく開く。なるほど男の一人暮らしだ。一方の壁際には本や雑誌が乱雑に積まれている。その脇の栄養ドリンクの空き瓶は彼のハードな仕事内容を物語っていた。その反対の壁際には、何故か多くの家具が並べられていた。いや、並べたと言うより“どかした”と言った方が正しそうだ。テレビ、丸机、座椅子、ベッド……本来部屋に備えられるべき全ての家具が部屋の片隅に押し込められるようにして集まっている。ではそれらがもとあった場所には何が?

 部屋の奥、窓際のひらけたスペースには電子ピアノが一台。部屋の景観の中でそのピアノの存在感は浮いていた。明らかに不釣り合いだ。

 露伴の後から部屋に入ってきた大谷は、ピアノの下に転がる人影を見てヒエッと声をあげた。露伴はその人影――木村に近付いた。目をカッと見開いたまま倒れ込んだ木村には脈がなかった。足下には椅子が転がっている。倒れる直前までその椅子に座っていたであろうことがその配置から見てとれた。

 

「きゅきゅきゅっ!救急車をッ!!!」

 

 大谷が叫ぶ。腰を抜かしたのか、尻餅をついたままその場から動けずにいた。

 

「いいや。呼ぶなら警察だな」

 

 まさかこんなベタベタな台詞を言うことがあるとは思いもしなかったが、今の露伴にそれを気にしている余裕はない。木村の周辺を観察する。“死因”はなんだ?服の下の様子は判別できないが、見る限りに外傷はない。違和感は一つ。木村の顔だ。目の下に深いクマができており、心なしか頬がこけている。肌のハリは三十代のそれではないほどに皺よれていた。人相こそ木村を保っているが、もう少し頬のくぼみが深ければ木村とは気付かなかっただろう。断定は出来ないが、露伴の知識の尽くす限りで木村を診断するならば、その死因はおそらくは“栄養失調”。

 

 露伴は廊下に出るとキッチンのそばの冷蔵庫を開けた。栄養ドリンク数本と袋入りの焼きそばが一つ。続いて開けた冷凍室には冷凍食品がたっぷりと詰まっていた。顔を上げてコンロに火を点す。ガスも止まっていない。いつでも食事は摂れたということだ。じゃあなぜ彼は死んだのだ?部屋に戻り、動揺が抜けきれず尚も座り込んだままの大谷に尋ねた。

 

「なあ、木村の友人が最近亡くなったという話は聞いたか」

 

「え、ええ。先週辺りでしたか。酷く落ち込んでいましたから――まさか!後追いをしたんじゃあッ!」

 

 露伴はその可能性を否定した。自殺の痕跡はない。

 

「その友人の死因について何か聞かなかったか。なんでもいい。ささいなことでもいいんだ」

 

 大谷はコクコクと肯いた。

 

「“怪事件”だったそうです。自宅のピアノに突っ伏して死んでいたんだとか。自殺でも他殺でもない。持病もなかったそうで。死因は確か――栄養失調」

 

「やはり」

 

 露伴は一人頷いた。短期間に連続して起きた二人の死。共通するワードは“ピアノ”“栄養失調”、そして“聴いたら死ぬ曲”。正気を取り戻した大谷が警察へ通報する中、露伴は木村の元へと戻った。

 

 ずっと、どこか不思議に思っていた。曲が丸々再生され続ける“イヤーワーム現象”は存在するのか?それも一度聞聴いたきりの、何の印象にも残らなかった曲が。

 

「そう、冷静に考えたらありえない」

 

 普段、来客の訪問にさえ気付かないほど作業に没頭する露伴が、仕事に手をつけられなくなるほど集中力を削られる。そんな事態があるわけないのだ。目の前のことに熱中しすぎて真横の火事にさえ気付かなかったことがあるというのに。露伴は木村の遺体を部屋の隅へ追いやった。

 

「まるで悪魔の曲だ」

 

 一度でも聴くと脳裏にこびりついて離れなくなる。そうして何度も何度もリピートされるうちに、もう一度その曲を耳で聴いてみたくなる。そういう“魔性”とでもいうような魅力があるのだ。転がった椅子を電子ピアノの前に立て直す。

 

「はッ!」

 

 露伴は初めて、無意識に動く体の異変に気付いた。

 

「マズいぞ―実にマズい」

 

 木村の遺体を動かしたのも、椅子を直したのも、全て露伴の意思によるものではなかった。まるでそうあるべきかのように、露伴の体が勝手に動いていたのだ。だがその行動が何を意味しているのかは解る。露伴の症状も既にステージ4というわけだ。椅子に腰掛ける。

 

「おい!大谷だったか?僕をこの椅子から引き摺り下ろせッ!!」

 

 呼ばれた大谷は不思議そうな顔をした。たった今自分から椅子に座った男が引き摺り下ろしてくれと叫んできているのだ。大谷からすれば気でも触れたのかと思うだろう。

 

「早くしろッ!君も死ぬぞ!!!」

 

 もはや脅迫だ。気圧された大谷はおそるおそる露伴に近付くと、背後から脇の下に腕を回して露伴を立ち上がらせようとした。しかし露伴の体はビクとも動かない。足に根っこでも生えたように踏ん張っている。露伴は焦りから怒鳴る。

 

「何やってるんだァァァァァァァァァァァッッ!!!早くしろォォォォォッッッ!!!!!!」

 

「やってますって!!なんで踏ん張ってンスかぁッ!」

 

 露伴としては踏ん張っている気などないのだから、大谷が貧弱なように見えているのだ。そうこうしているうちに、露伴の指が鍵盤へと伸びていく。弾き始めたらおしまいだ。無関係な大谷まで巻き込むわけにはいかない。一つでも音を奏でれば最後。露伴の演奏は終わることを知らないだろう。その先に待つものは木村や滝と同じ結末――死だ。

 

 大谷は露伴を動かせそうにない。こうなればもうやるしかない。露伴は叫んだ。

 

「おおおおおおおおッッッ!!ヘブンズドアーッッッッ!!!!」

 

<“Hymn”に関する全ての記憶を失う。永遠に>

 

 曲を知らなければ弾くことは出来ない。この先また脳内で繰り返され、魅了されることもない。

 

 一週間の記憶が全て洗われていく――――

 

 

 

   *

 

 カメユーデパート三階の書店で、露伴は音楽入門書を物色していた。つい最近、急に音楽への興味が湧いたのだ。理由は不明だが、好奇心とはそういうものだ。元から人並み程度には音楽を嗜む露伴であったが、その学問的な領域にまでは手を伸ばしたことがなかった。そんなこんなで、己の知識欲を満たすために近場の本屋まで足を運んだ次第であった。

 

「だけどよぉ。あるかもしれねえだろ?」

 

 無駄に大きな声が店内に響く。露伴は開いていた本を棚にしまうと大きく溜息を吐いた。マナーを知らないバカはどこにでも生息してるものだ。

 

「“ない”とは言ってないけど、“誰も知らない”曲を探すのに本屋の楽譜本はナシだと思うなあ」

 

「“都市伝説”の本を調べるんだぜ。ああいうのには普通じゃねえ情報が載ってたりするからな」

 

「でもよお、普通図書館から調べねえか?そーゆーの。何でったって本屋なんだよ」

 

 聞き覚えのある三人の声がして露伴は顔をしかめた。どこのバカかと思ったら、あのバカか。声の方向から遠ざかるようにして露伴は店の出口を目指した。が、どうも今日はツイてないらしい。

 

「おいあれ。露伴センセーじゃねえか?」

 

 店の中央を貫く一本の突き抜けた通路で、露伴が“バカ”と形容した声の主に指をさされた。

 

「うげ!マジかよ!やっぱり図書館に行くべきだったぜ」

 

 連れの派手なリーゼント頭の男は露伴との邂逅を好ましく思っていない様子であったが、露伴を指さした“バカ”はずんずんとこちらまでやって来た。

 

「こんなとこで会うとは思わなかったぜセンセー。それでよお、ちと聞きたいことがあってよぉ」

 

「断る」

 

 目を合わせることもなく露伴は拒絶を示した。

 

「そこをなんとかよ!頼むぜ露伴センセー」

 

 食い下がる男を気にもとめずその場を立ち去ろうとした露伴だったが、3人目の男に呼び止められて思わず出しかけた足を止めた。

 

「露伴先生、ちょっとだけ話を聞いてくれませんか」

 

 低身長の、露伴が友人と呼ぶ広瀬康一だ。手前の大男のニヤついた表情に顔を歪めながら、露伴は“仕方なく”話を聞くことにする。

 

「センセーはよ。“聴いたら死ぬ曲”って知ってるっスか」

 

 露伴は首を傾げた。

 

「“暗い日曜日”のことか?だがあれは“聴いたら自殺する歌”だったような」

 

「それじゃあないみたいなんです。“聴いたら死ぬ”から、誰も聴いたことがないんだとか」

 

「そんなものを躍起になって探しているのかい」

 

 真面目な表情を浮かべる大男を見て露伴は嘲笑した。

 

「“誰も聴いたことがない”のに、どうしてその存在を知ってるんだい。宇宙人や幽霊だって目撃談は腐るほどあるんだぜ」

 

「宇宙人と幽霊なら俺も会ったことがあるぜ」

 

 露伴は大袈裟な溜息を吐いた。

 

「そんな話はしてないだろ、今。もうちょっと頭を使えよ。鳥だってもっとマシな思考してるぜ」

 

「それじゃあセンセーも知らないんだな、その曲」

 

「知らないな」

 

「そうか。助かったぜセンセー。悪かったな。邪魔したぜえ」

 

 切り上げると大男は、遠巻きにこちらを眺めるリーゼント男の方へと戻った。

 

「ごめんなさい先生。急に変なこと聞いちゃって」

 

「全くだ。僕の皮肉も全く伝わってないようだしな」

 

 康一と一言二言を交わして別れる。

 

「“聴いたら死ぬ曲”か」

 

 面白そうな響きだ。あいつらはまだ図書館まで行ってない様子だったな。先回りして調べてもいいかもしれない。曲が存在しようがそうでなかろうが、どちらに転んでも露伴にとってはおいしい。そんなことを考えながら、露伴は店を出た。




今年の夏も暑いですね。冷夏になるなんて言われてたりもしたんですが、どうもあてが外れたみたいです。外出時はマスクが必須なのですが、生まれてこの方風の日以外マスクをしたことがなかったので息苦しくて仕方ありません。いつになればおさまるのやら。

次話構想既にあるので、次の更新は普段より早めにできそうです。

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