岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:17 《極楽温泉》

 眠気覚ましのコーヒーを啜りながら、露伴は朝刊に目を通していた。一面は、もっぱら世界を席巻させている新型肺炎の話題でもちきりだ。もとよりインドアでリモートワークが主な露伴の仕事ではあったが、そんな彼の生活にも大自粛の影響は波及していた。外食や買い物をするときまで感染対策を徹底しなければならないのがとにかく面倒だし、何よりマスクのせいで人々の()()()表情を観察できないことが痛手だった。露伴の創作のスタイルからして、リアルな街の息遣いが感じられないことは死活問題にすら発展しかねない。マスクという、化粧以上に真実を覆い隠すツールの存在は邪魔でならなかった。

 

 おもむろにテレビの電源を入れ、ニュースを流したまま新聞を読む。そうしていると、玄関のチャイムが鳴った。来客の予定はなかったはずだ。露伴は新聞を手にしたまま窓際に立つと、玄関先の様子を覗いた。まだ陽が昇りきってからしばらくも経っていない。宗教勧誘や押し売りなら居留守を使おうなどと考えながら覗いてみれば、立っていたのはセールスマンらよりも都合の悪い相手だった。客人が再度呼び鈴を鳴らす。露伴は無視を決め込んだ。部屋の中へ戻り、再び新聞に目を通す。程なくして、今度は携帯が鳴った。玄関先の客人からの着信だ。露伴は束の間の思案の後、携帯を手に取った。

 

「おはよう露伴先生。起きたかい」

 

「寝ていると思った上で電話をかけてきたのなら君は大した奴だよ。褒めてやるから今すぐUターンして家に帰るんだな」

 

「やっぱり家にいるんだな。とりあえず入れてくれないか。寒いんだ」

 

 押しかけてきておいて自分勝手な奴だ。露伴は舌打ちをしつつも玄関へ向かった。通話を切断して扉を開けると、携帯を片手に立つ天地世命を中へ迎え入れた。

 

「それで?」

 

 勝手知ったる様子で客間のソファに座り込んだ天地を露伴は睨み付けた。

 

「久しぶりだな先生。元気してたか?」

 

「いつも言ってるが、僕は君と違って忙しいんだ。雑談するためだけに来たのなら帰ってくれ。迷惑だ」

 

「おいおい、一年近く会ってないんだぜ。少しくらい相手してくれたっていいじゃないか」

 

「できれば二度と会いたくなかったね」

 

 露伴は突っぱねた。

 

「変わらないな。まあいいさ。俺はさ、ウンザリしてるんだ。分かるだろ先生」

 

「なあ人の話聞いてたか?暇じゃないんだ僕は。君が回りくどい表現が好きな人種なのは知ってるが、要点だけ簡潔に話さないか。それができないなら帰ってくれ」

 

 露伴は苛立った口調で天地を催促した。そもそも何の連絡もなく朝方に訪れてくる時点で非常識極まりない。たまたま知り合いだったから家に上げたまでで、わざわざこの時分に無駄に接触する利点は露伴の方にはひとつもないのだ。

 

「例の新型肺炎のせいでこの一年ろくに外出できちゃいない。取材はおろか、近所を散歩するだけでも白い目で見られる。家の中に籠もりっきりでクリエイティブな活動が捗るかよ」

 

「それには同意するがね。それと僕に何の関係があるんだ。愚痴なら僕以外の奴に言ってくれ」

 

「先生も嫌気が差してる頃合いだろ?それでちと相談に来た」

 

 天地は足を組み直した。

 

「息抜きに日帰り旅行に行かないか」

 

「断る。僕は健全な青少年の読む雑誌の漫画家だぞ。世間様が我慢している中で僕だけが抜け駆けするなんてことは許されない」

 

「面白い秘湯を見付けたんだ。野外だし人も来ない。問題ないだろ?」

 

「大ありだね。家族ならまだしも、君は赤の他人だ。世間が騒がないわけがない」

 

 困ったな。天地は頭を掻いた。

 

「いつからそんなつまらない人間になったんだ?」

 

「漫画家だって人気商売だ。作者と作品を切り離してはくれないんだよ。特に今の時代はな」

 

「て言ったって秘湯だぞ?地元の人間でさえ少数しか認知してない。取材って体にしておけば多少は許してくれるだろ」

 

 露伴は溜息を吐いた。

 

「そんな単純な問題じゃないのさ。第一、高いリスクを背負ってまで強行するメリットがないだろ」

 

「ところがあるんだな」

 

 天地が不敵な笑みを浮かべる。

 

「通称“極楽温泉”。○○県の山中にある秘湯だ。天にも昇るような心地よさに、神様や死者までもが訪れるっていう噂だ」

 

「くだらないね」

 

「と思うだろ?極楽温泉には面白い()()()があるんだ」

 

「ルール?」

 

 天地は再び足を組み替えると、一本指を立てた。

 

「“他の来訪者に声をかけてはならない”」

 

 露伴は一笑に付した。

 

「ルールと言うよりマナーだな。おおかた、入浴中に気分を害さないように、とかだろう」

 

「それが違うのさ。どうやら“本物”が出るらしいのさ」

 

「何の本物さ」

 

「神様や死者だよ」

 

「君のその手の話題は信用できない。前科があるからな」

 

「冗談キツいぜ先生」

 

「この目が冗談を言ってる目に見えるのかい。君は人生楽しそうだな」

 

 天地は肩をすくめた。

 

「“声をかけてはいけない”ルールだってそのためにあるんだぜ。この世の者でない存在に話しかけると、向こうの世界に連れて行かれるんだ。実際、何人も行方不明になっているような土地らしい」

 

「おいおい。そんな危険な場所に誘おうってのかい。冗談がキツいのは君の方じゃあないか」

 

 露伴は部屋の扉を開けた。

 

「帰るんだな。君の戯れ言には付き合ってられない」

 

「待ってくれよ露伴先生」

 

 天地は慌てた。

 

「地理的に危ない場所ってわけじゃあないんだ。ルールさえ守っていれば何も問題はない」

 

「どうして言い切れる」

 

 露伴は天地を信用していない。過去に嵌められたような経験があることもそうだが、それ以上に話すこと全てがきな臭い。その打ち明けた性格や風貌も含め、ネズミ講の勧誘だとか悪徳商売人のような、詐欺師の匂いがしてならない。

 

「番台さんからそう聞いた」

 

「番台?秘湯じゃないのか」

 

「どちらかというと“見張り人”だな。訪れた人が向こうの世界に連れて行かれないように監視する」

 

「で?その人とはどこで会ったんだ。その人だって十分に怪しいぜ」

 

「一回行ったときに会ってるよ」

 

「行ったことがあるのか?」

 

 露伴は顔をしかめた。

 

「そういう情報は先に出せよ。だから君は信用ならないんだ」

 

「悪かったよ。気を付ける。で、行くのか行かないのか。本物の神様や幽霊を拝めるチャンスなんてそうないぜ」

 

「生憎どっちも会ったことがあってね。間違っても君とは行かない。言っただろう。情勢が情勢だ」

 

「分かったよ」

 

 大きく肩を落とす天地。露伴は部屋のドアを開けると彼を玄関へと促した。

 

「気が変わったら連絡してくれ」

 

 天地が玄関先で振り返る。

 

「後でその秘湯の住所を送ってくれ。だが勘違いするなよ。決して君とは行かない」

 

 天地が家の外へ出ると、露伴は勢いよく扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

  *

 

 

 

 ○○県××市の西部に位置する山脈郡。その麓にある集落にほど近い蕎麦畑の外れを露伴は訪れた。天地から教えられた情報を頼りに目的の社を探し当てる。

 赤鳥居の用意されたその小さな社は、早秋の朱い大自然に不自然ほど溶け込んでいた。一辺は三メートル程度。境内と呼ぶにはあまりにもお粗末な石畳を通り抜けて裏手へ回ると、山中に向けて細い山道が一本伸びていた。天地の言っていたものと一致する。舗装は一切なされておらず、とても人が歩くことを想定したとは思えない。獣道と言った方が妥当にも見えるそんな道に、露伴は迷いなく足を踏み入れた。

 

 まだ秋の早い時期だというのに、山に入った露伴を冷気が包んだ。露伴は襟を立てると小さく肩を震わせた。山の冬はもうそこまで来ているようだ。

 山中は静かだった。露伴の足音の他には、木々の擦れ合う音や川のせせらぎが僅かに聞こえるばかりだ。露伴はどこか、自分の心が洗われていくような感覚を覚えた。

 

 二十分も歩いただろうか。硫黄の刺激が露伴の鼻孔をついた。それと同時に、視界いっぱいに白い靄のようなものが立ちこめた。目的地は近そうだ。心なしか、露伴の歩幅が大きくなった。

 道の先に突然、真っ白な空間が現れた。温かな、湿った空気が露伴の肌を撫でる。ここが目的地であることを露伴は理解した。膨大な量の湯煙で全容は見えなかったが、そこには確かに温泉があった。

 

「“極楽温泉”へようこそ」

 

 煙の中からしゃがれた声と共に老人が現れた。露伴の腰丈にも及ばない、小さな老人だ。

 

「貴方が番台?」

 

「左様でございます。当温泉には入浴に際して注意事項がございます。ここに訪れる全てのお客様にお楽しみいただけますよう、注意事項をお守り戴けるお客様にのみ入浴を許可しております」

 

「話しかけてはいけない、ってやつかい」

 

「前にもいらしたことが?」

 

 番台は怪訝な表情で露伴を覗いた。

 

「いいや。知人から聞いた」

 

「左様ですか」

 

 欲場から少し離れた岩場を見付けた露伴は、そこに荷を下ろした。

 

「何かご用がございましたらお申し付け下さい」

 

 番台は言い残して煙の中へと消えていった。

 

 服を脱ぎ、タオルを手にしたところで別の足音がした。

 

「早かったな。先生」

 

 天地の到着だった。

 

()()だな。天地世命」

 

「ああ、そうだったな」

 

 天地は苦笑して

 

「今から入るのか」

 

「見ての通りだよ」

 

 露伴の格好に天地は頷いた。

 

「お客様」

 

 再びどこからともなく番台が現れる。天地が仰天した。

 

「他のお客様へ声を掛けることはお控え下さい。注意事項をお忘れなきよう」

 

「それは知ってるが、知り合い同士でも駄目か?」

 

「万が一ということがございます」

 

「妙に含みを持たせた言い方だな。何が言いたい」

 

「おい先生、落ち着けよ」

 

 挑戦的に打って出る露伴を天地が諫めた。

 

「お二方に特に異常が見られませんので今回は不問と致しますが、以降は気を付けるように。くれぐれも双方と私以外の者に声を掛けないよう」

 

 番台が引く。露伴は鼻を鳴らすと温泉へ向かった。爪先をそっと湯面に触れさせる。適温だ。それを確認すると、露伴は一気に肩まで浸かった。大きく息を吐く。

 

 芯から体を温めてくれる水温。全身に絡みつくような、若干の粘性を含んだ湯質。鼻をつく硫黄臭の奥に微かに感じ取れる甘い香り。それらが一同に合わさって露伴の精神を落ち着かせた。それは形容するとするならば“羊水”だった。何故記憶にあるはずもない感触を思い出したのか、露伴自身も分からない。

 

 なるほど、これが“極楽温泉”。露伴の全身から力が抜けた。心が落ち着く。いつになく穏やかな気持ちだった。

 

「どうだい、湯加減は」

 

 くつろぐ露伴に天地が尋ねる。

 

「正直驚いている。これほどまでに心地良いとは思わなかった」

 

 天地は露伴の隣に腰掛けると、両手で湯を掬って顔にかけた。

 

「来て良かっただろ。籠もりっぱなしでなまった体もほどいてくれる」

 

 湯の中の成分が体中に染み込んでくるようだ。天地も露伴と同じように大きく息を吐いた。

 

 二人はしばらく無言で至福の時を過ごした。

 

 最初にその第三者の気配に気付いたのは露伴だった。視界の全面を覆う膨大な煙の向こう、二人から二メートルほど離れた場所に、突如としてその影は現れた。

 

「なあ、アレ」

 

 露伴は声を細めると、顎使いで天地に示した。

 

「人か?」

 

「いつから居た。全く気付かなかったぞ」

 

 この距離感であれば、影の正体が起こした波紋も二人まで届くはずだ。二人ともそれに気付かなかったなんてことがあるだろうか。

 

「悪いな。ずっと目を瞑ってたから分からない」

 

 天地が首を横に振る。露伴は何やら考え込む様子を見せた。それに気付いた天地は慌てた。

 

「まてまて!早まるな。ルールを忘れたのか?」

 

「それについて考えてるのさ。なあ天地世命。君は幽霊や神の存在を信じるか?」

 

「半分信じてるし、半分信じてない。だがそれとこれとは別だ。考えてもみてくれ先生。仮にアレが人だったとして、こんなに素晴しい空間で癒やされているのを邪魔されるのは不快だろう」

 

「声を荒げて言われても説得力がないぞ」

 

 露伴が立ち上がる。天地は更に慌てた。

 

「だが“声を掛けてはならない”だろ?声を掛けずに正体を見破る方法もある」

 

 追うように腰を上げた天地を制すると、露伴はその影に近付いた。立ち上がって初めて分かったことだったが、影の背丈はかなり低かった。小学生か。いや、それよりも一回りは小さい。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 距離にして一メートル。露伴はそれを発動させた。

 

「目視で確認するつもりか?先生!マナー的にそれはもっとマズいって!」

 

 天地は露伴の側へ駆け寄った。露伴は影の記憶を読もうと、天地に構わずめくれたページを掴んだ。

 

「ん?」

 

 不思議な感触があった。毛だ。

 

「おい!露伴先生!」

 

 天地が露伴の肩に手をかける。だが露伴は笑っていた。

 

「フフフ ハハハハハハ!」

 

 笑いながら天地を手招く。

 

「なあ、君も見てみろよ。傑作だぜ」

 

 露伴に促され、天地は恐る恐る小柄なそれに触れた。

 

「なッ!」

 

 驚きのあまり口を開く。指の腹を包んでくる体毛、のぼせてるのかと見紛うほどに真っ赤な顔。

 

「サルだよ。よく動物園で見かける顔だからニホンザルかな」

 

 ヘブンズドアーが解除される。サルはパッチリ目を開けると、一目散に山の中へと逃げていった。天地は呆気に取られたままその様を見送った。

 

「幽霊でも神でもない、まして人間でもない野生のサルだよ。あんなものにビビらされてたってわけだ」

 

 つられて天地も笑った。

 

「やられたよ。まさかサルだとは思わなかった。そうかそうか」

 

 二人は元いた場所に戻った。天地はしばらく笑っていた。

 

 他愛もない会話を交えながら十分も浸かっていると、天地が湯から上がった。

 

「少しのぼせた。ちょっと体を冷やしてくるよ」

 

 露伴が生返事を返すと、天地はさっさと浴場から離れた。一人残された露伴は静かに楽しむことにした。目を閉じ、大自然の中に身を委ねる。しばらくそうしていると先程まで聞こえなかった音が耳に届くようになった。鳥のせせらぎ、秋風の吹く音。遠くで何かが蠢く気配もある。さっきのサルだろうか。それらを全身に浴びているうち、露伴はつい微睡んだ。

 

 隣に人の気配がした。

 

「うっかり寝ていたようだ」

 

 どれくらい経った?露伴は目を開けると隣に座った天地と思しき人影に尋ねた。しかし返事がない。

 

「君はもう大丈夫なのか?」

 

「……」

 

 やはり返答はない。露伴はハッとした。天地だと思い込んでいたその気配は、天地ではないのかもしれない。

 

“決して声を掛けてはならない”

 

 そのルールを破るつもりはなかった。神とも幽霊とも遭遇したことのある露伴にとって、それは明確な引き際だ。自ら積極的に踏み込むにはリスクの大きい領域。しかし、仮にこの気配が天地のものでなかったとしたら、とうに手遅れだ。露伴は意を決すると隣の人物に目をやった。

 

「君は……バカな――ッ!!」

 

 茶色がかった、肩までかからない髪。毛先は重力に逆らって上に跳ねていて、掻き上げられた前髪はベージュのカチューシャで留められている。()()を露伴は知っていた。そこに居たのはあり得ない人物だった。

 

「杉本鈴美!!なぜここにッ!!」

 

 笑顔とも真顔ともつかない表情で、彼女は露伴の横に佇んでいた。

 ここは神や死者も訪れる温泉。天地のその話が本当だとするなら、十五年以上も前に死んだはずの彼女が現れたことも不可解ではない。だが、それでも事態を飲み込めきれない程度に露伴は衝撃を受けていた。

 

 杉本鈴美が首を回し、露伴を見詰める。露伴の困惑した頭はなんとか状況の整理のために働いた。とにかくヘブンズドアーだ。目の前に居る彼女が偽物で、露伴に敵意を向けていないとも限らない。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 いつものように、右手を前方に伸ばして叫ぶ。そうしたつもりだった。

 

「これはッ」

 

 しかし、露伴の右腕はピクリとも動かなかった。いや、右腕だけでない。全身が金縛りに遭ったかのように動かない。

 

「マズい――正体は分からないがマズいぞ。既に攻撃を受けている!!」

 

 ヘブンズドアーも発動していなかった。異常だ。手の動作はあくまで心的なトリガーに過ぎない。今の露伴であれば仮に両手が塞がっていようとも能力を発動させることは可能なはずだった。しかし現に目の前の彼女には影響が見られない。ヘブンズドアーが取り上げられた以上、露伴は無力に等しい。頭をフルに回転させて現状からの脱出を図る。が、既に手遅れだった。

 

 杉本鈴美が微笑む。同時に露伴は意識を失った。

 

 

 

 

「おい先生!!しっかりしろ!」

 

 天地の声で露伴は目覚めた。天地と番台の二人が露伴を見下ろしている。

 

「起きたか!?」

 

「頭に響く。もう少し声量を下げられないのか」

 

「憎まれ口を叩く余裕はあるみたいだな。安心したよ」

 

 露伴は指先に力が入ることを確認すると、ゆっくりと上体を起こした。温泉から少し離れた場所に運ばれたようだ。地面には用意していたかのようにマットレスが敷かれている。

 

「危ないところだったらしいぜ。番台さん曰く“連れて行かれるところだった”てさ」

 

 露伴は左に立つ番台の顔を見た。露伴は地面に座り込んでいるというのに、それでも顔が同じ高さにある。

 

「私と連れのご友人以外には話しかけてはならない、と申したつもりでしたが」

 

「不手際だ。わざとじゃあなかった」

 

「どちらにしろ同じ事です。今回は運良くご友人によって発見されましたが、もう少し遅れていれば死んでいた」

 

「ビビったぜ。戻ってみたら気絶して沈んでるんだ」

 

「気絶する直前に故人の姿を見たが」

 

 天地のことは無視して露伴は尋ねた。

 

「死者や神様まで訪れるというのは本当だったのか?」

 

 番台は首を振ってそれを否定した。

 

「確かに“極楽温泉”は神をも虜にするほどの快楽。ですがその正体は恐ろしいものです」

 

「恐ろしい?」

 

 露伴と天地は声を揃えた。

 

「貴方が目撃したと言う故人は幽霊などではありません。幻覚です」

 

「つまり僕はのぼせて幻をみったっていうことかい」

 

「そうではありません。貴方はこの“極楽温泉”によって幻覚を()()()()()()()のです」

 

 何者かの攻撃だという露伴の判断は間違ってはいなかったようだ。しかし温泉が攻撃?

 

「“極楽温泉”は名前の通り、入浴した者に極楽を体験させてくれます。ですがそれは一種の催眠効果。長く浸かれば浸かるほど湯の成分が体内に溶け込み、効果は強力になります」

 

「それで催眠状態に陥った僕は幻覚を見た、と」

 

 番台が頷く。

 

「幻覚は“その人にとって大切な人物”であることが殆どです。時に故郷に暮らす両親。時に故人。また時に、心から信奉する神。それらの幻覚に反応することで現実との境界が曖昧になり、一層症状は進行します」

 

「そんな話を信じろと?」

 

 天地が疑いの目を番台に向けた。

 

「老いぼれの戯言と聞き流して戴いても結構。大切なのはルールを守ること」

 

「幽霊や神様なんかよりは信じれるけどね」

 

 番台は露伴に目を戻す。

 

「厳密に言えば、これらの特性は“極楽温泉”のみによるものではありません。温泉を含んだこの山の環境全てが関与しています。この山は、自然は、動物を食らって栄養を得るのです。食虫植物というものがあるでしょう。あれと似たようなものです」

 

「つまり、温泉に含まれた催眠成分によって浸かった者を弱らせて養分にしているってことか」

 

「話が早くて助かります」

 

 確かに信じがたい内容だ。杉本鈴美が露伴の幻覚だったのなら、ヘブンズドアーが効かなかったことの説明もつく。実体も魂もないものにヘブンズドアーが機能するわけがない。それよりも信用できないのは……

 

「帰るぞ」

 

 露伴は立ち上がると岩場に置いた着替えを取りに向かった。

 

「やぱり信じられないよな、こんな話」

 

「ああ。きみはやはり信用ならない」

 

「俺か?」

 

 面食らう天地に冷ややかな目で答えながら、露伴は早急に着替えを済ませた。荷物を乱暴に担ぎ、番台の横に戻る。

 

「このご老人の言っていることは本当だ。“極楽温泉及びその周辺環境は動物を温泉で溺死させて養分を得る習性がある”」

 

 露伴は番台の記憶を覗いた。番台は立ったまま気絶した。露伴がその軽い体を支える。

 

「“非常に危険な性質を持つため、地元の人間もごく一部しか温泉の存在を知らず、世間にもその存在を知られないよう徹底しているが、それにも関わらずこの秘湯を求めて入山する者が稀に居る”」

 

 そんな者達の安全を守るために番台は存在する。そう書かれてあった。

 

「で、君はどこからこの秘湯の存在を聞きつけたんだ?」

 

「誤解だぜ先生。俺だって又聞きだ」

 

「その割には住所を知ってたりと細かい情報を持っていたな。大本は一体どこなんだ?」

 

「勘弁してくれよ」

 

 天地は呆れた様子で溜息を吐いた。

 

「この手の情報の出所は言えない。そういうもんだろ。こういうものを活用して飯食ってるんだよ俺は。それに俺から言わせれば露伴先生、あんたも大概だ」

 

「本当にそうかな。君は一度ここに来たことがあると言っていたな。だがこの番台さんは君のことを知らないぞ」

 

「忘れたんだろう。何年も前だ」

 

「この秘湯を訪れるのは平均して年間に三,四人だ。この老人は全ての来訪者の特徴を覚えている。数十年前の客のこともな。どうして君に関する記憶だけ抜け落ちる?」

 

 天地は言葉を詰まらせた。

 

「それから君、()()()るな?僕の右肩がそんなに気になるかい」

 

 天地が咄嗟にその()()()()()ものから目を逸らしたことを、露伴は見逃さなかった。

 

「君が一度来たことがあろうがなかろうが、それはどうでもいい。どちらにしろ、君が何かを企ててることに変わりはないんだからな」

 

 来たことが嘘なら、情報の出元がやはり怪しい。本当だとしたのなら、彼が番台に何らかの細工をした可能性がある。思い返すと天地の言動はどうも怪しく見えてくるのだ。あのタイミングで席を外したのも偶然なのか?天地は“のぼせた”と言っていたが、彼には幻覚が見えていなかったのだろうか。

 

「一度なら気のせいで片付けたかもしれないが、これで二度目だ」

 

 露伴は番台の体をマットレスに寝かせると、天地に歩み寄った。

 

「お前一体――何者だ?」

 

 目的が見えなかった。単純な殺意というわけではなさそうだ。殺したいのなら、溺れているところを助ける必要はない。

 

 天地はしかし、露伴が近付いた分だけ距離を取るように後退した。

 

「好奇心旺盛なのは知っているが先生、世の中には知らなくていいものや、知ってはならないものがあるってことを覚えておいた方が良い」

 

 天地はそのまま、湯煙の充満する中へと進んだ。

 

「待てッ!ヘブンズドアーッ!」

 

 露伴は煙の中の天地へ飛びかかった。が、手応えを感じない。辺りを見渡すも、気配すらなくなっていた。

 

「天地世命――次は逃がさない」

 

 今度町中で見かけたら、出会い頭にヘブンズドアーを叩き込む。そう心に決めた。

 

 

 少し細工をしてから番台を解放した露伴は、そのまま帰路についた。

 

「いい湯だった」

 

 天地のことは気になったが、温泉のことを思い返せばそれすらどうでも良くなってしまいそうだった。体に染み込んだ“極楽温泉”の成分はまだ抜け落ちていないようだ。神や死者をも魅了してしまいそうなその快楽の正体は、栄養分を捕食するための“罠”。山が生きている、などはまるで御伽話のようだ。

 

 社まで降り戻った露伴は振り返って山を眺めた。標高千五百メートル級、山として大きいわけではない。だがそれでも、地球上のどの有機生物でも太刀打ちできないほどの大きなエネルギーがある。

 

「自然を敵にするのはご免だね」

 

 露伴は踵を返す。どうにも消化しきれない、複雑な心持ちのまま山を後にした。




 天地世命のキャラが迷子になりました。ストーリー性を持たせたいわけじゃないのでどう回収しようか困り果てています。またしばらく登場させません。

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