岸辺露伴は動かない [another episode] 作:東田
新谷はその日何度目かの大きな溜息を吐いた。
「まだ本調子ではありませんか。肉体的な疲労ではないみたいですね」
トニオ・トラサルディーが心配そうに新谷の様子を見る。手前の食器にもまだ料理は半分以上残っていた。
「ずっとこんな調子なのさ。その皿は下げてくれて構わない。申し訳ないが、ツレはもう食べれそうにない」
「かしこまりました」
トニオがテーブル上を片付けるのを尻目に、露伴は新谷を眺めた。
「なあ、君の身に何か重大な事案が降りかかっているんだろうことはもう十分理解した。だがそろそろいい加減にしてくれないか。僕も好きで君をここに連れてきたわけじゃあないんだ。君がそうだと仕事にならないからわざわざ奢ったんだぜ」
「ハァ……すみません」
新谷は手元を見詰めたまま気力のない返事をした。露伴の人差し指が机の上で跳ねる。
「僕を怒らせたいのか?そんなに思い詰めてることがあるなら相談のひとつでもしなよ。それもせず、かといって仕事に身が入るわけでもなく。失礼にもほどがあるだろ」
「いえ、その……おっしゃるとおりなんですが。ハイ。すみません」
「だからその中途半端な態度を止めろと言ってるんだ。困ってる事があるなら話せ。金銭面の工面なら少しくらいはしてやるさ」
「わざわざ先生にお聞かせするような話でもありませんし――」
「それは君が決める事じゃない。仕事にならないから言ってるんだ」
「その……」
新谷はおそるおそる露伴の顔を覗いた。いつになく不機嫌な表情だ。その二人の前にコーヒーカップが置かれた。
「エスプレッソです。一旦心を落ち着けてください」
二人は同時にコーヒーを流し込んだ。胸の奥がスン、と軽くなる感じがした。
「さ、話してみてはいかがですか?」
トニオに促され、新谷は小さく頷いた。露伴も幾分か落ち着いた表情で新谷の言葉を待つ。
「その――俺達夫婦、子供に恵まれなくて……不妊症が発覚したんです」
短く言い終えると、新谷は再びカップに口をつけた。
「いや……すまなかった。僕のデリカシーが欠けていた」
露伴は素直に謝った。新谷がなかなか話したがらなかったのも無理はない。互いに見知った仲とはいえ、所詮は仕事相手。新谷が露伴の担当になってから一年近く経つが、プライベートでの交流は薄い。
「いえ。先生のおっしゃるとおり、仕事に私情を持ち込んでいる俺が悪いのです。先生が怒るのも当然です」
「しかし――」
露伴はトニオに視線を送った。トニオは首を横に振る。
「私ができるのは、基本的には身体の不調を整える事です。病気となると、“食材”そのものの力を借りる必要があります」
トニオの作る料理は、身体の代謝に作用し体の調子を整える効果を持つ。しかし、普通に手に入る食材を使っては、病気等の複雑な要因には対処が困難であるということらしかった。
「ですが――思い出しました。ひとつ心当たりがあります」
「不妊治療のか?」
「ヨーロッパの僻地に、子供に恵まれなかった夫婦が最後に行き着く“村”があるという話を聞いた事があります。その村の、地中海と北アジアに挟まれたその気候の、その村の土壌でのみ自生可能な植物がある。その果実は不妊治療に効果があり、子供を授かれなかったヨーロッパの夫婦はかつて、皆その村へ流れ着いたとか」
「その果実を料理すればできるのかい」
「ですが重大な問題があります」
露伴はコーヒーを口に運ぶ。まだ湯気も収まっていないのに、ほとんど飲み終えていた。
「何だい、問題ってのは」
「村の存在そのものが非常に怪しいのです。記録にも載っていますし、当然地図にも描かれています。しかし、肝心の“村人”が見付からない」
「と言うと?廃村か何かなのか」
「No. 正確には“出身者”が居ません。その村――“エレット”と言います――に住んでいたという人がいないのです。地図にさえある村なのに」
「怪しいな。あるのか?そんな村」
「ええ。ですからあまりお薦めはしません。現代の医学は優秀ですから、そんな不確定な情報に頼らなくても希望はまだあります」
「そうじゃないんです」
ずっと黙っていた新谷が割って入った。
「簡単な問題ならどれほど良かったことか――今の医学では諦めるしかないんです」
「ならトニオさんの話に乗るかい。これも賭けだが」
「露伴先生…」
トニオは物言いたげに露伴を見詰めた。
「分かってる。勿論僕の興味最優先の提案だ。“出身者”の存在しない村。面白そうじゃあないか」
どうだい?俯いたままの新谷に露伴は尋ねる。
「養子をとる、で解決するような簡単な悩みでもないだろう。ゼロに等しくても可能性があるのなら乗ってみるのもひとつの手だ」
「悪魔にだって魂を売ってやりたい気分ですよ」
「気に入った。トニオさん、案内してくれるかい」
「私が始めた話ですから…ですが。参りましたね」
トニオが頭を抱えて吐息する。露伴は残り少しのコーヒーを飲み干した。
*
のどかな自然が広がっていた。寓話に描かれる、まるで牧歌的な世界そのものだ。目的の村は山麓から山中へとなだらかに続いているらしい。飛行機を乗り継ぎ到着した主要都市で一泊。そこからトニオの運転するレンタカーでおよそ3時間。まだ東の空にある太陽がが山裾まで続く畑を照らす。後部座席には新谷夫妻が乗っていた。
「ムーミンでも出て来そうですね」
現地に到着した夫人の第一声だった。
「バカ言えお前。ムーミンはフィンランドだろ。ありゃ北欧だ」
新谷が夫人を小突く。道路沿いの畑で仕事をする人影をみとめ、トニオは車を停めた。助手席側の窓を開け、露伴が身を乗り出す。
「ご老人。少しお尋ねしたいんだが、“エレット”という村はここで合ってるかい」
「あんたたち、なに。観光者かい」
「そうだ。それで“エレット”という村に用事があって来た」
「今日は止めときなさい。今日は葬儀だ。村のほとんどが出払ってる。誰も歓迎しちゃくれないよ」
露伴は一度車内に身を引っ込めるとトニオと一言二言交わし、また外の老人に尋ねた。
「この村に“不妊を治せる”植物があると聞いた。僕たちはそれを探している」
「あんたたち学者か何かかい」
老人の目つきが変わった。車内の四人の顔を品定めするかのようにじろじろと眺める。
「後ろの二人は夫婦だ。今日は彼らのために日本から来た」
「……少しお待ちなさい」
老人は車から少し離れるとどこかに電話をかけた。
「先生、よく話せますね」
後部座席の新谷は驚きの表情を浮かべていた。老人との会話を現地語でそつなくこなす露伴に度肝を抜かれたのだ。
「僕はマンガ家だからな」
答えにならない答えを返す。しかし新谷は納得したようだった。
「この道を真っ直ぐ行くと村の中心にある教会に着く。その前で人が待ってるから、その人に話を聞きなさい」
老人が道の先を指さした。露伴は礼を言うと窓を閉めた。
村の空気は暗かった。つい先日、村人が一名亡くなったようだ。小さな村だから村人同士はみんな知り合いなのだろう。
教会の前には黒服の人だかりがあった。葬儀の参列者だろう。これでは誰が老人の言っていた人間なのか見当が付かない。が、相手の方から来客に気付いた。人だかりをかき分け、若い男が一人小走りにやって来た。
「すみませんねドタバタしてて。後ろの二人が問題の?」
男が運転席のトニオに握手を求めた。男は片腕だった。左手が肘の先からない。
「ええ、そうです。お話を伺いたいのですが」
トニオが応対する。
「そうですか。ご夫婦はお預かりします。近くにレストランがあるのでそこでお待ち下さい」
「話が出来るのは二人だけか?通訳が必要だ」
露伴が横から口を挟む。男は困ったという風な顔をした。
「英語もダメですか」
男は後部座席に向けて英語で話しかけた。
「多少なら」
婦人が答える。男は笑顔になると、後部座席のドアに手をかけた。
「なあおい、ちょっと待ってくれ。どうして二人だけなんだ」
露伴は食い下がった。男は再び困った顔をした。
「どうして、と言われましても。困っているのはこの二人なんでしょう。ならこの二人と話をするのが筋ではありませんか」
「別件で僕らもこの村に用事があるんだ。例の“植物”とやらについて」
男は溜め息を吐いた。
「一度ご夫婦を案内してから戻ります。少しお待ち下さい」
男は新谷夫婦を車から連れ出すと、集落へ向かった。二人残された露伴とトニオは顔を見合わせた。
「何かおかしくないか?」
どうして二人だけなのだ?何か聞かれてはマズいことでもあるんじゃなかろうか。疑念が拭えない。
「やはり当事者と直接話すのが手っ取り早いという好意的な解釈も出来ますが」
「通訳を断る意味がまるでないじゃないか?お互い母語以外で会話すれば、どうしたって齟齬が生じるだろ」
「この様子だと、食材提供は難しいかもしれませんね」
「だが面白くなってきたな。少なくともあの男がこの村のコミュニティに何かしら特別な感情を抱いていそうなことは見えた」
出身者が一人も外部に居ない話といい、どこかこの村は信用ならない。
「お待たせしました」
男が戻ってくる。二人は車を降りると男の案内で近場の建物に向かった。
「言葉、お上手ですね。この国にはもう何度か?」
道中、男が話しかけてくる。まあな。露伴は適当な返事をした。小さなバーのような建物に案内される。カウンターの奥に男が一人。店主だろうか。客の姿はない。
「アレ持ってきてくれないか」
二人を店の奥の席に座らせ、男は店主にそう指示した。
「二個でいいですかい」
店主は露伴とトニオを交互に眺めて尋ねた。若い男はそれに頷く。店主は店の裏へ消えた。男はそれを見届けると二人の前に座った。
「申し遅れました。アルベルトです。農作物に関しては比較的詳しいので、その手の話については一任されています」
男は二人に握手を求めた。
「トニオ・トラサルディーと申します。こちらは岸辺露伴。今日は“不妊”に効果がある植物があった、という昔話を聞いてこの村にやって来ました」
「貴方はそのような昔話が事実であると信じているのですか?」
アルベルトは微笑む。トニオはしかし譲らなかった。
「私は日本でレストランを開いています。私の料理人としての矜持は“お客様に快適になってもらう”こと。“不妊”に悩む方は沢山居ます。私は料理を通して、少しでもそのような方の心の重みを和らげてあげたいのです」
トニオの言葉に力が入る。
「そのためにその“不妊”に効果があると言われている果実が実在するのなら、その提供をお願いしたいのです。実際に効果がなくても構いません。昔話の中でそう語られていたという事実があるということは、その植物にはそう言わせるだけの“パワー”があったということ。私はその力をお借りしたいのです」
アルベルトは唸った。
「感動しました。俺はあくまで生産者の立場であり、料理について語れる事はありません。しかし作物を育てる身として、貴方のような料理人に食材を活用されることは喜ばしい」
店主が皿を二つ持ってきた。二人の前に置く。皿の上には生の果実が乗っていた。ゴツゴツと突起が突き出した、カメの甲羅のような模様の黄緑色の果実だ。大きさは掌で簡単に包み込めてしまう程度。
「これは……」
トニオがまじまじと観察する。
「それがこの村に伝わる“不妊治療効果”を持つ果実、“キタラツィオ”です」
露伴はそれを手に取った。見た目通りに硬い表面をしている。
「果実を半分に割り、それを夫婦で分けて食べます。そうするとあら不思議。それまで全く恵まれなかった子供を授かる。ですから料理にする際も分けてはいけません。この果実が食材として難しいのはそこです。例えば子供が“キタラツィオ”を使った料理を食べ、余す。その余りを親が食べようものなら――分かりますね?」
「しかし、これは――」
トニオは物言いたげにアルベルトを見詰めた。その目には困惑の色が見える。
「それと保存がきかない。旬が短いのです。輸送している最中に実が熟し、崩れてしまう」
店主が露伴の手から果実を取り上げ、ナイフで半分に切る。白色の実が現われた。
「スプーンで掻き出して食べるんです。種は取り除いてください。食べると有害です」
露伴は言われたとおり、スプーンで実を掻き出して口に運んだ。ナシのような、水気を多く含んだ食感だ。甘い。トニオは懐から持参のペティナイフを取り出し、それで“キタラツィオ”を切った。
「なかなか美味しいな」
クリーミーな風味だ。二人が味を確かめていると、村人が一人やって来てアルベルトに耳打ちした。アルベルトが立ち上がる。
「すみません、この後葬儀があるものですから席を外させていただきますご予定は?話の続きは夜にお願いしたいのですが」
「大丈夫だ」
露伴は頷いた。ごゆっくりと立ち去る三人の姿を見送ると、露伴はまた一口食べた。
「トニオさん、どうだい」
先程から話さなくなったトニオを露伴は気遣った。トニオはじっと皿の上の“キタラツィオ”を見詰めている。
「?トニオさん……?」
「露伴先生、何も感じませんでしたか?」
皿から目を動かさずにトニオは口を開いた。
「私たち、おそらく嘘をつかれています」
「分かるのか?」
トニオは“キタラツィオ”を指差した。
「“バンレイシ”。東南アジアの果物です。知名度がイマイチなのでバレないと思ったんでしょうか」
「バン……なんたらって品目だが、この土地で産出されるものには“不妊”に効果があるという可能性はないのか」
「確かに否定はできません。ですが、ここの気候で育つはずがない。それに提供を渋る理由も滅茶苦茶です」
「そうか?僕は納得しているぞ」
トニオは首を横に振る。
「果実の熟成に関しては何も問題ありません。マイナス50℃以下の温度で急速に冷凍する事で鮮度を保ったまま輸送する技術が確立されていて、既に一般的です」
「だが扱いに難しいのは事実だろう。子供なんかが料理を残すことは十分考えられる」
「先生、私が提供するのは“不妊”に悩む夫婦ですよ」
「あっ!」
確かにトニオは“不妊に悩む夫婦を助けたい”とアルベルトにも説明した。既に子供が居る夫婦が不妊になることもおかしいことではない。そのことを考えればアルベルトの説明も一見筋が通っているようにも思える。しかしトニオが料理を提供するのはあくまで“夫婦”だ。それ以外の人間に提供する前提はない。どちらか一方がアルベルトの難色を示すポイントであればここまでトニオも懐疑的にならなかっただろう。しかしアルベルトの言葉には二つの矛盾があった。
「ですからこの“キタラツィオ”は何の変哲もない、ただの“バンレイシ”だと思うのです。村の管轄にあればどうにか取り繕うことができても、一旦その手を離れればそうもいかない」
「即座に真偽の判明しない“不妊治療”を謳っているからこそ成立するわけだ」
トニオは立ち上がると店先を扉の隙間からそっと窺った。
「新谷夫妻と我々をわざわざ別けて話をしたり、適当な果物で誤魔化そうとしたり。“不妊治療”を認める割にはどうも手が込んでいると思いませんか」
「同意だな。確実に何かある」
外に人が居ない事を確認すると、二人は店を抜け出した。教会にはおそらく多くの村人が集まって、葬儀を執り行っているだろう。ならば今が絶好の機会だ。
「といったって、どこをどう探す」
村が隠したがる事だ。土地の権利書ならばまだしも、それ以上に手がかりを得るのは難しいだろう。
「誰かを“読む”しかないのではないでしょうか」
「その誰かが全員あの教会に行ってる可能性だってあるんだぜ」
「――覗いてみますか?教会。一人くらいなら呼び出せるかもしれませんよ」
「おいおいおい、流石にマズいんじゃあないのかぁ?」
口ではそう言いながらも、露伴の足は既に教会に向いていた。トニオがその後に続く。
「とは言っても覗くだけだぞ」
「ええ。冗談ですよ」
音を立てないよう細心の注意を払いながら、木製のドアを少し押して隙間を空ける。中を覗いた露伴はしばらく固まった。
「露伴先生?」
トニオの声で、露伴は教会の扉を勢いよく開いた。突然の行動にトニオは驚いた。
「露伴先生!?何をしているんですか!!」
「中を見なよトニオさん」
当然葬儀が行なわれていて、村人で埋め尽くされているはずだ。トニオは無数の視線に刺される覚悟で中を見た。が、予想に反して教会はもぬけの殻だった。
「これは――」
「僕はキリスト教の葬儀に参列した経験がない。だからトニオさん、貴方に聞きたい。こんなに早く出棺されるものなのか?」
アルベルトらが店を出てからまだ十分と経っていない。
「いいえ。そんなはずがありません。ですがもしかしたら、私たちが告別式だと思い込んでいただけで、最初から彼らは埋葬に向かっていた可能性もあります」
「午前中に済むものなのかい」
時間帯はまだ昼前だ。絶対に無理とは言えないタイムスケジュールだが、かなり押した進行をしなければこの時間にはなるまい。
「というかそもそも、納棺には村人全員が赴くものなのか?」
「小さな共同体ですからそれもあり得ますが……ですが、一連の事象を考えるとどちらも疑わしい」
露伴は入り口から少し離れると、村に続く道路沿いに広がっていた畑と、教会の裏手の山とを交互に見た。村を通る主要道路は一本道。畑の方面へ人々が向かったのであればその姿は見えるはずだ。そこに居ないとすれば――教会の裏の山、もとい森を見上げた。舗装された山道が伸びている。二人はその道へ歩いた。
男たちが穴を掘っている。
頭上高くに太陽が昇る時間帯であったが、森の中は薄暗かった。僅かな木漏れ日が、風に靡く葉と共に時々揺れる。穴の前には一際太い幹を持つ、大きな木が構えていた。男たちのサイズと比較すると、直径2メートルは優に超えそうだ。そんな巨木と、作業する6人の男たちの周りを囲むように大勢の村人が立っていた。
「樹木葬か?」
その様子を、露伴とトニオは離れた場所から見ていた。
「立派な木ですね。あの木の下になら埋葬されたいと思うのも理解できます」
「デカすぎないか?穴」
穴の中に三人が入って作業している。シャベルを振り回すスペースを考えれば相当な大きさの穴だ。それに深い。男たちは胸元まですっぽり穴の中だ。
「なぜ今掘っているのでしょうか。ああいうのは事前に掘っておくものでは?」
「やっぱりカツカツのスケジュールだったんじゃないのか?昨日亡くなって、朝に葬儀。で、今が埋葬」
昨日の夜に亡くなっていれば、穴を掘っていられる時間は今日の朝からだ。だとすれば穴のサイズ的にも納得だ。
「やはり不自然では?葬儀の時間をずらせばいいだけの話です」
そうこうしているうち、男たちが穴から離れる。
「完成したようだな」
二人が見詰める中、大木を囲む人々の中から青年と老女が歩み出た。二人はそれぞれシャベルを受け取ると、穴の中へ入った。
「まだ掘るのか?」
「何をしているんでしょう。私にも見当が付きません」
キリスト教の文化ではない。この村独特の風習のようだ。更に人々の後方から棺が運ばれてくる。棺が穴の前で降ろされ、作業していた六人がその蓋を持ち上げる。中に横たわっていた老人の遺体を、穴の中の二人に手渡した。
「一体何をしてるんだ?」
露伴とトニオは混乱する。火葬せずにそのまま土葬であることにも驚かされる。空になった棺は撤収された。人の輪の中からまた別の人影が一人。服装からしておそらく司祭だ。彼は穴の前に立つと、巨木を見上げながら何やら唱え始めた。それと同時に、先の六人の男が穴に土を戻し始めた。
「なッ……!」
二人は言葉を失った。まだ青年と老女は穴の中だ。しかし誰もそれを止めようとしない。彼らの中で、その儀式は当然のことであるようだ。
「“生き埋め”だぞ!イカれてるッ!」
穴はみるみる埋まっていく。司祭の祝福(?)がいっそう声高に響く。
数分の後、穴は完全に埋められた。司祭に合わせ、その場の全員が十字を切る。その後、人々は村に戻った。閑散とした空間に露伴とトニオは取り残された。
「これがこの村の出身者が外に出ない理由か?」
露伴は大木に向かって歩いた。
「恵まれなかった子供を授かったことは自然のおかげ。その自然の元に死に、そして帰る。そんな自然信仰の中に生きるのか?」
“生き埋め”の意味が分からない。巨木の前に立つ。穴の跡は目立った。
「埋められた若者と老人はおそらく親子ではないでしょうか」
トニオは露伴の横に並ぶと足下を見詰めた。
「亡くなったのは彼女の夫。ですが、それならどうやってこの村は維持されるのでしょう」
「トニオさん、真実はもっとおぞましいものかもしれない」
露伴が頭上を指差す。その先にあるのは巨木の枝葉、その先端の小さな“果実”――
「“果物”じゃあない――ッ!人間の“胎児”だッッ!!」
巨木には、薄い膜に包まれた“胎児”が生っていた。遠目では気づけない高さに、りんごくらいの大きさで。
「こ、これは……ッ」
トニオは思わず口を覆う。“胎児”が生るその光景はおぞましいものに見えた。二人の身体は怖気に震える。
「まさかとは思うが“不妊治療”の果実、アレのことじゃあないだろうな」
アレを食べると考えただけで悪寒が背中を駆け巡る。露伴は穴を越えて更に大木に近付いた。
「この木は何だ。植物か?動物か?」
露伴は右の掌で幹の表面に触れた。その瞬間、肩や腰に何か重たい物がのしかかったような感覚に襲われた。慌てて木から離れようとする。しかし遅かった。
「これはッ!」
幹に触れた掌がべったり張り付いて離れない。足で幹を押さえつけ、無理矢理引き離そうとするが、氷にひっついたように皮膚が引っ張られるばかりだ。トニオが異常に気付いて駆け寄る。
「トニオさん!木に触るな!」
「先生!一体何があったんです」
「分からない。だが何か“吸われている”実感がある」
トニオが露伴の腰を掴み、大きなかぶ方式で引っ張る。だが木に触れた手はまるで離れる気配がない。
「ヘブンズドアーッ!」
露伴は巨木に対しその能力を行使する。もし相手が知能を持った動物なら通用する。だが、巨木はあくまで植物だった。ヘブンズドアーで命令は書き込めない。
「マズい。何が起こるか分からないが、このままだと絶対にマズいッ!!」
ろくな結末が思い浮かばない。あれこれ策を考えるも、有効そうなものはなにもない。
「露伴先生!!」
森の向こうから新谷の声がした。二人は振り返る。アルベルトと新谷が走って向かってきていた。
「一足遅かったか」
アルベルトは露伴の状況を見て呟いた。
「二人とも姿が見えないからもしやと思って来てみましたが――」
「どうにかならないか!」
露伴が叫ぶ。アルベルトは腰の後ろから簡易的な斧を取り出した。
「接着面を介して木に養分を吸われています。掌は完全に癒着しているので、腕を切断するしかありません」
アルベルトは躊躇なく斧を振りかぶった。露伴は慌てる。
「待てッ!!待つんだ!!」
右手は生命線だ。切られてしまってはマンガも描けなくなる。
「気持ちは分かりますが、全ての養分を持って行かれます。死ぬか、片手を失うか」
どちらの選択肢も最悪だ。マンガが描けなくなるなら死んだも同然。露伴の手首目がけ、勢いよく斧が降ろされる。
「やめろおおおぉぉぉぉッ!」
アルベルトに対しヘブンズドアーを発動した。アルベルトは気を失い、斧が地面に落ちる。他に方法はないのか。露伴はアルベルトの記憶を探る。アルベルトも数年前に同じような事故で片手を失っている。それでは、やはり切り落とすしかないのか。
「皮膚だけでは」
トニオが呟いた。
「木とくっついた皮膚をそぎ落とすだけではダメなのでしょうか」
懐からペティナイフを取り出す。露伴はアルベルトを起こすと尋ねた。
「あるいは」
アルベルトは頷く。トニオは露伴にペティナイフを差し出した。
「ですが神経を傷つけてしまえば腕を落とすのと結果は同じです。できますか、露伴先生」
「この僕を誰だと思っている」
露伴はナイフを受け取ると、ためらうことなく掌と木の間に刃をあてた。
村の民家で応急手当をうけた露伴は、トニオらの待つバーへ向かった。店の机には新谷夫婦とアルベルトが座っていた。
「トニオさんはどこだ?」
同じテーブルに座ると露伴は店内を見渡した。どこにも姿がない。
「厨房を借りて料理を作っています。あの人の料理をまた食べれるなんて」
新谷が答えた。
「へえ。この前食べたときは心ここに非ずだったじゃないか。味だけは覚えてるのかい」
「お待たせ致しました」
四人の前に皿が運ばれる。
「“グヤーシュ”です。この国の郷土料理」
深い皿の中に、カレーのような、シチューのような料理がたっぷり入っている。それを見たアルベルトは感嘆した。
「今この場にある材料で作ったので明瞭な効果は期待できませんが、傷のケアや感染症予防には十分です」
露伴は慣れない左手でスプーンを握った。
「デザートに“キタラツィオ”も用意してありますよ」
トニオが微笑む。露伴はアルベルトを見た。
「“不妊治療”じゃなかったのか?」
「フェイクですよ。あれを出せばみんな納得して帰ります。昔話は販促のための作り話だったんだって」
「僕らには教えていいのかい」
「アレを見られたからには……それに俺はトニオさんを信用しています。料理の味をみれば彼の人は明らかだ」
露伴はスプーンを置くと右肘をテーブルの上でついた。包帯に巻かれた右手を見せる。
「アレは一体何だったんだ?“養分を吸われる”とか言ってたな」
「アレは“ヒト”の生る木です。といっても、厳密な分類を言えばあの果実は“ヒト”ではありませんが、ともかく習性や特徴は“ヒト”である果実を生らせます」
「ああ、それが“不妊治療”の物語の正体か」
彼が村に伝わる“不妊治療”の昔話を否定しなかった理由はそこにあったわけだ。昔話は事実として存在する。そして本当に困っている夫婦が現われたとき、この村を頼れるように。
「果実は植物ではありますが、“ヒト”とほとんど同等の生物です。心もあります。唯一持たないものが、動物的な生殖機能です。彼らはあくまで植物で、あの木の一部に過ぎません」
「僕らはいいかも知れないが、この二人にも聞かせて大丈夫なのか?」
露伴は新谷夫婦の存在を気遣った。
「二人には既にお話ししました」
新谷夫婦がアルベルトの言葉に頷く。一旦厨房に戻っていたトニオがテーブルに着いた。
「あの木が“ヒト”の果実を実らせるには養分が必要です。それも常識的な量じゃない。最低でも人間一人以上の養分が必要になります」
「それがあの埋められた三人の役目だったわけですか」
トニオが相槌を打つ。
「だから果実は母の元へ養分となる人間を連れて帰るのです。この村で子供を授かり、生きるとはそういうこと。両親の片方が亡くなれば、三人で木の養分となり、次に村を訪れるパートナーへ希望を受け継ぐのです」
アルベルトは立ち上がると、四人を店の外に招いた。露伴らが外に出ると、通りに村人がずらりと並んでいた。年齢こそばらついていたが、彼らは皆、夫婦子供で幸せな顔をしていた。
アルベルトの元に小さい女の子が駆け寄ってくる。アルベルトはその子を抱き上げた。
「俺の子です。勿論、あの木から生まれた。でも、本当の俺たちの子のように愛している。この村は――」
愛おしそうに、アルベルトは娘の頭を撫でた。
「この村は、子供に恵まれなかった夫婦の最後の桃源郷。夢の代償は人生の終りに己の身を捧げる事。でも誰もその選択を後悔していません。そうしてあの木と我々の人生は成り立っているのだから」
正午を知らせる鐘が鳴る。四人は村を去った。
「先生、俺らはあの村でお世話になる事を決めました」
帰りの道中、新谷は露伴に報告した。
「手続も大変そうですし、文化の壁もどうかは分かりませんが、あそこの住民はみんな幸せそうでした」
「そうか。好きにするといい」
露伴は振り向かなかった。あの木の話は本来、村に移住を検討している人間にだけ伝えられるものだそうだ。終りにアルベルトからそう聞いたときから、新谷夫婦の決断は想像がついていた。
「でもトニオさんの料理を食べるのが難しくなるのが残念です。日本に居れば比較的行きやすいんですけど」
「お子さんが出来たら是非一緒にいらしてください。サービスしますよ」
「お、それもいいですね。露伴先生もどうです?」
露伴は鼻を鳴らした。
「それよりも君は、この前奢った分のお代を返せよ。慈善事業じゃないんだぜ」
「そのときに奢りますよ。ね」
新谷は夫人に問いかけた。夫人も頷く。
「そのときは岸辺先生のご家族ともご一緒できたらいいですね」
婦人は笑顔で言った。
「僕が結婚すると思うかい?」
露伴は不機嫌な表情で外の景色を眺めた。
“エレット”村の住民は“普通”の家庭を求め、“普通”な人生を送りたかった者たちだ。彼らは家族に対する純粋な愛に生きている。自分はどうだろうか。露伴は想像する。“普通”の家庭、“普通”の人生……
何より、誰かを愛すること。
車窓を開けると、風に乗って葡萄の香りがした。
いずれマンガのために、誰かと恋愛をする事があるだろうか。マンガのためを抜きに、誰かを好きになる経験ができるだろうか。マンガを捨て、愛のために生きる事があるだろうか。
露伴はちょっぴり、エレット村の住人が羨ましくなった。