岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

20 / 22
another:20 《萬洧記》

 露伴はその日、S市市立図書館にいた。調べ物をするとき、露伴はよく図書館に足を運ぶ。勿論家にも膨大な量の資料が揃っているし、所有してないものでも手に入りやすいものはなるべく買うようにしている。しかしそれにも限界がある。そもそも流通が少ないもの、高価なもの、絶版しているもの。いくら露伴に自由な金があるからといって、そういったものを含めて全て買いそろえるのは無謀でしかない。

 

 だから露伴はよく図書館に繰り出す。普段は近所の町立図書館なんかで用が済むのだが、そうもいかないときもある。今回彼が探しているものも、そういったものだった。もっとも、市立図書館で用が済むだけマシだ。ここにもなければ県立図書館、あるいは他県にまで足を伸ばさなければならない。

 

 露伴は一般書架を眺めていた。

 

「ちょっとした好奇心なんですが」

 

 そんな彼の隣に並ぶ女性が一人。

 

「こんなところまでいらして、何をお探しですか?岸辺露伴先生」

 

 露伴は横目にちらっとその女性を眺めると、本棚に手を伸ばした。

 

「君の方こそ、平日の昼間にこんな所をふらついてていいのかい」

 

 露伴は適当な冊子を手に取ると、パラパラとページを捲った。

 

「文系学生って、意外と暇なんですよ」

 

 人にもよりますけどね。彼女はそう付け加えた。

 

「それで、今日は何をお探しで?今度は貴方が答える番ですよ」

 

「ギブアンドテイクってやつかい?」

 

 露伴は小さく吐息を吐くと田向花 小夜(たむけ さや)に顔を向けた。

 

「ええ。ギブアンドテイクです」

 

 少し髪の伸びた彼女は、相変わらず気怠そうな表情で露伴を見上げながら両方の口角を小さく吊り上げた。

 

「仕事だよ。君と違って僕は忙しいんだ」

 

 あっちへ行け、と露伴は彼女を手で追いやる。

 

「ム。いいんですか?こんな可愛い女子大生をそんな無下に扱って」

 

「可愛い?」

 

 露伴は鼻を鳴らした。

 

「とりあえずその目にかかってる前髪をどうにかしたらどうだい。目が出るだけでも少しはマシな表情になるだろ」

 

「岸辺さんも、その性格さえ直せば完璧なんですけどね」

 

「完璧な人間なんて居るものか」

 

 手にしていた本を棚へ押し戻す。

 

「岸辺さん、この後時間ありますか?」

 

「君は人の話を聞けないのか?それとも3つ数えたら記憶が吹っ飛んじまう鳥頭なのか?僕はさっき()()()と言ったんだぜ」

 

「私、今日は友達と来ているんですけどね」

 

 露伴の嫌味をまるで聞いていないかのように聞き流し、強引に話を進める。

 

「その子が“変な話”を持ってるんです。そういうの、岸辺さん好きでしょう」

 

「へえ。その“変な話”とやらを簡潔に書いた紙を持ってきたのなら目を通すくらいはしてやるよ」

 

 小夜の話に興味を示す様子もなく、露伴は目の前の本棚ばかり眺めていた。しかし小夜は怖じ気づかない。

 

「先生、お昼まだですよね。近くに美味しいフレンチのレストランがあるんですよ」

 

「おおっとぉ。そろそろ電車の時間だ。折角誘ってもらって悪いが、僕はここらで失礼するよ」

 

 わざとらしく腕時計を覗き込むと、小夜の返答も聞かずに露伴は踵を返した。

 

「じゃあ杜王駅前のファミレスにしましょう」

 

 露伴は彼女を無視して出口に向かった。

 

 

 

 

「私と同じゼミの鈴木(あおい)ちゃん。こっちはマンガ家の岸辺露伴さん」

 

 小夜の紹介で葵は頭を下げた。

 

「ああ、うん。よろしく」

 

 露伴はテーブルに肘をつきながら無愛想な返事を返した。

 

「あの、先生のマンガは全巻持ってます。その――できればサインを……」

 

 葵はそっと手帳を差し出した。

 

「あおいってのは、どう書くんだい」

 

 ポケットからペンを取り出し、慣れた手つきで手帳にサインを書き込む、ファンサービスは忘れない。葵は嬉しそうに手帳を眺めると、鞄の奥に大事にしまった。

 

「一応聞いてやるよ。君の“変な話”とは何だい」

 

 家まで付いてきそうな勢いだった二人のためにしぶしぶ杜王駅前のファミレスに足を運んだ露伴は少しばかり機嫌を損ねていた。

 

「そんなに面白い話でもないと思うんですが――」

 

 露伴は小夜を睨んだ。本当に面白くなかったら時間の無駄にもほどがある。

 

「私は面白いと思うんですけどね」

 

「まあいい。話してくれ」

 

「少し前に父方の祖母が亡くなって、実家の整理をしたんです。武士の末裔だったので、敷地の蔵から古い物がたくさん出てきまして。その中に箱が――長持(ながもち)?って言うんですかね。棺桶みたいなサイズの木箱なんですが。それが出てきたんです」

 

「長持、ね」

 

 露伴は頷いた。簡単に言えば収納具だ。露伴の記憶が確かであれば、衣服なんかを入れたと読んだ記憶がある。

 

「その箱が問題で。開かないんです。いえ、正確に言えば開けることは不可能ではありません。ただ紐で縛られた上に、全面に釘が打たれているんです」

 

「開けて中身を確認した方がいいんじゃないのか?」

 

 それだけ頑丈に封じられているなら、高価な物が仕舞われていると考えることもできる。

 

「何て言うか――“開けてはいけない”って警告されているように感じるんです。別に私、霊感とかがあるわけじゃあないんですが。何かその箱に対して、強い嫌悪感を覚えてしまって。家族みんなそんな感じなので、ずっと放置してあるんです」

 

 沈黙の空気が流れる。店内に流れる音楽がどこか場違いな空気を演出した。

 

「それだけなのか?」

 

 露伴は拍子抜けした声を発した。思っていたより本当に“面白くない話”だった。

 

「わくわくしませんか?」

 

 露伴とは対照的に、小夜は楽しそうだ。

 

「旧家の蔵から見付かった“開かずの箱”。絶対、曰く付きのヤバいやつですよ」

 

「下らないな。本当にヤバい物なら“開けてはいけない”という謂れがあるとか、そういう尾ひれが付くもんだろ。そう言われてる物が全てヤバいとも限らないが、ただ開けにくいだけの箱なら、貴重な物が入ってるってオチじゃあないのか」

 

 そんな謂れもないだろう。葵は頷く。

 

「それに所有者が開けたがらない物を、他人の僕が開けてどうする」

 

「いえ。開けたくないわけではないんです。むしろみんなも中身を知りたい。ただ――その」

 

 葵が言葉尻を濁す。

 

「ただ?」

 

 露伴はその一言を逃さない。続きを促す。

 

「この地域のものではないんですが、棺を白い紐で十字に結ぶという風習が存在して……それに酷似しているんです」

 

「おいおい、死体でも入ってるって言うのかい?」

 

 露伴の言葉に周囲の視線が集まる。露伴は咳払いを一つした。

 

「制作者が開けてほしくないと思っていたのは確かそうだな。でなければ釘打ちなんかしない」

 

「それも含めて“何か”を閉じ込めているような――そう。封印しているような気がしてならないんです」

 

「――で、それは他人が開けてもいい代物なのか?」

 

「開けれるものなら開けたい、というのが一家の総意です」

 

「岸辺さん、開けてみましょうよ」

 

 小夜はテーブルの上に身を乗り出して露伴に迫った。

 

「君の実家、ここから近いのか?」

 

「遠くはありません」

 

「現物を見たい。どうするかはそれから決める」

 

 

 

 

 

 

 駅を囲む中心地の喧騒から少し離れた内陸側で、鈴木家は静かに佇んでいた。なるほど旧家である。土地の四方を囲う塀、木造で一階建ての母屋、それに離れ。屋敷周辺の環境もそうだったが、塀の中は一層静寂だった。祖父も既に亡くなっており、現在は誰も住んでいないという。葵の父は一人っ子であったが、葵一家は現在市街地に家を持っており、この屋敷をどうするかはまだ決まっていない。

 蔵は離れの更に奥にあった。二階建ての高さの立派なものだ。白塗りの扉にかかった閂を葵が外す。

 

「みんなこの家を意図的に避けるんです。鍵も私に押し付けられてて」

 

 葵が両開きの扉を開ける。

 

 蔵の内部は整然としていた。遺品整理があったのだから当然といえば当然だろう。仕舞われているのは主に使われなくなった家具類だった。火鉢や和箪笥、蓄音機なんかまである。ぱっと見ただけでも、そこそこ値が付きそうな物がごろごろしている。他にも、用途の分からない1メートルくらいの木箱や農具類なんかが壁際に並べられている。

 蔵の上部には明かりを取り入れるための窓があって、そこから外の光りが斜めに射し込んでくる。しかし全体を照らすには不十分な光量で、かなり薄暗い。

 

 葵は先に中に入って二人を招いた。左奥の角に向かって指をさす。

 

「あれです」

 

 葵のさす先には棺を思わせる大きな木箱があった。露伴と小夜がその箱に近付く。なるほど、確かに異様な雰囲気だ。

 

 目測で幅180センチ、奥行・高さ80センチ。外装に装飾はなく、全面が漆で塗られていて赤黒く発色している。接地面は足が四本伸びていて、上面の板の縁は曲線に削られている。そして葵の説明通り、紐で縛られた上に全面の四つ角に釘が打ち付けてある。

 

「ほんとに死体でも入ってそう」

 

 小夜が呟く。露伴は箱を掌で撫でた。冷たい。

 

「引っ張り出せないか?」

 

 箱は蔵の隅に収まっている。作業をするには窮屈だ。

 

「簡単に運べます。思いのほか軽いので」

 

 葵が箱に手をかけた。片手で簡単に持ち上がる。露伴と小夜も手を貸し、三人でひらけたスペースまで運び出した。

 

「さて。開けましょうか」

 

 小夜が早速紐の結び目に手をかける。紐は簡単にほどけた。

 

「あれ、拍子抜けですね。てっきり頑丈な縛りかと」

 

「あんまり期待しない方がいいんじゃあないのか?」

 

 露伴は葵に視線を向けた。

 

「なんでもなければそれでいいんです。開けましょう」

 

 とは言いつつも、葵自身が箱を開けようとはしない。

 

「壊していいのか?この箱」

 

 釘は深くまで刺されており、引き抜くことはできない。箱を開けるには蓋の破壊は免れないだろう。

 

「お願いします」

 

 返答を聞くと露伴は箱の正面に立った。さて、どう開けようか。

 

「岸辺さん、はい」

 

 小夜がバールを差し出した。

 

「どこから持っていたんだこんなもの」

 

「そのへんに落ちてましたよ。さ、早く」

 

 彼女どうしてはこんなに浮かれているのだろう。露伴はバールを受け取ると、少しだけ蓋の浮いた部分に差し込んだ。てこの原理で力点に体重をかける。メキメキと大きな音がして蓋が少しずつ持ち上がる。数カ所で隙間を作ると、釘の刺された四方が外れた。蓋が勢いよく地面に落ちる。

 

「死体は――入ってませんね」

 

 真っ先に小夜が覗き込む。箱の底部に紙が詰め込まれていた。二人で紙を掻き出す。真ん中に四方20センチほどの小さな木箱が収められていた。今度は紐で結ばれてもいない。小夜がひょい、とそれを取り上げる。

 

「君には警戒心とかないのかい?」

 

「まあ虫とかいたら嫌ですけど。これ自体はただの箱ですよ」

 

 重さはほとんどないようで、小夜は片手で抱えてぶんぶん振り回す。

 

「これだけ厳重に保管されてた物だぜ。いいから一旦置けよ」

 

 小夜は長持の中に箱を戻す。葵が興味を持って長持を覗き込んだ。

 

「何だと思う」

 

 露伴は尋ねた。葵は首を振る。

 

「見当もつきません」

 

 それもそうだろう。露伴は箱に手をかけ、躊躇なく開いた。

 

「本……」

 

 中に収まっていたのは古本だった。露伴と小夜は思わず目を合わせる。

 

「ま、まあ死体じゃなかっただけよかったじゃないですか」

 

 葵が本を取り上げた。深い紺の表紙で装丁されている。背表紙側は紐で纏められており、その本が古い時代に作られたことを示している。

 

「これ…なんて読むんでしょう」

 

 葵は表紙に墨で書かれた題目を二人に見せた。

 

「達筆ですねぇ」

 

「達筆なのか?というよりも」

 

 旧字体や中国語の繁体字であれば、多少崩れていても所々判読は可能だ。しかしその本に書かれた文字には一切心当たりがなかった。そもそも知らない言語だ。

 

 露伴は本を半ば奪うように受け取ると開いた。保存状態は非常に良く、中で紙同士がくっついているようなこともない。

 

「どこの文字でしょう」

 

 小夜が横から覗き込む。表紙と違って、中の文字は比較的形が分かりやすかった。しかし読むことはできない。古代文字か?いや見たことがない。露伴の知る限りの、この世のどの言語ともその形は一致しなかった。

 文字は直線の組み合わせでできている。構成はかなり複雑だ。ハングルや漢字のような雰囲気ではあるが、しかしそれらよりも何倍も線が多い。文字と文字の間隔は縦にも横にも等しく、縦読みなのか横読みなのかさえ判断が付かない。

 

「何を意味しているんでしょう」

 

「さあな。皆目見当もつかない」

 

「誰かのイタズラでしょうか」

 

 葵は懐疑的であった。大事に保管されていたものとはいえ、目的が分からない。

 

「どうだろうな。作りはしっかりしている」

 

 見る感じ、四つ目綴じという綴じ方をされている。使われている紙は和紙だ。

 

「書かれている文字も何か意味がありそうだ。これが所謂“偽書”であるなら、架空の文字で書く必要性もない」

 

 “竹内文書”だとか“外津軽三郡誌”だとか、日本にも偽書と呼ばれる書物は沢山ある。しかしそのどれも、誰かが読むことを前提に書かれる。一方この本はどうだろうか。まるで読ませる気がないようにさえ思える。

 

 だからつまり、この本は“本物”の可能性が高いのだ。書かれた背景や意図はおろか内容さえも分からないが、しかし明確な意思でもって書かれたものである可能性は高いわけだ。

 

「“ヴォイニッチ手稿”みたいですね」

 

 小夜は露伴の手から本を取るとパラパラとページを捲った。

 

 “ヴォイニッチ手稿”は20世紀にイタリアで発見された手書きの写本の事を言う。同書は現存するどの言語とも異なる文字で書かれており、また各所に挿入されている挿絵が奇妙で不気味なことから何かと取り沙汰されることのある奇書である。

 

「あれが本物かどうかにも通ずるところがあるな。少なくとも僕は本物だと思っているよ。架空の言語であろうとなんであろうと、言語学的な規則性の上に成立しているのであればそれはもう立派なひとつの言葉だ」

 

 近年の研究ではAIの解析によって古代トルコ語ではないかとも言われている。法則性をもった文章であるということが発見されたのである。

 

「その本の内容に規則性があるかは分からないがな」

 

 小夜が葵に本を手渡す。露伴は長持の中を再度覗いた。底面にはまだ紙が敷き詰められている。何の気なしにそれをどけてみると、底にもう一冊本が眠っているのを発見した。今度は雑な装丁であった。表紙もなく、紙を束ねる紐の結びも適当だ。しかしその本に書かれているのは見慣れた日本語だった。

 

「岸辺さん――これは」

 

 小夜も興味を抱く。一枚目から文字がびっしり書き込まれている。露伴はそれに目を通した。

 

『これは鈴木家の一大事業であった。』

 

 書き出しはこうであった。古本の由緒書きのようなものだろうか。露伴は続きを読み進める。

 

『これが読まれているということは、写本は既に取り出された後であろう。手遅れでないことを願いつつ警告する。写本に書かれたものを文字として認識してはならない。すぐさまその本を閉じよ。』

 

「ごめんなさい。何だか気分が悪い」

 

 露伴が警告の一文を目にしたのと葵がそう訴えたのはほぼ同時のことだった。確信的ではなかったが、露伴は即座に事態を察知した。葵は手に古本を握っている。

 

「その本を手放せ!すぐにだッ!」

 

 葵がその場に座り込む。

 

「葵ちゃん!岸辺さん、これは――」

 

 葵はそのままうつ伏せに崩れた。手から本が転がり落ちる。

 

「葵ちゃん!?」

 

 駆け寄ろうとする小夜を制し、手元の本を彼女に押し付けるように渡すと露伴は葵の側に屈んだ。冷静に彼女の容態を観察し、呼吸が正常であることを確認してからヘブンズドアーを発動する。パラパラパラと彼女の心の扉が開かれる。

 露伴は絶句した。見たことがない。どんな知識人や学者でも、ここまでの分量にはならない。膨大な記憶・経験。まるで辞書のような――

 

「いや、()()()()はありえない。どういうことだ……何が起きている」

 

 ヘブンズドアーによって晒された鈴木葵という人物のデータは、大型の辞書と見紛うほどの厚みを持っていた。重みでページの端が床に垂れている。それは彼女の記憶が、経験が尋常でない量にのぼることを示していた。これまで露伴の読んできた誰よりも、彼女の記憶は重い。何かおかしい。外見からは彼女の異常性は見えない。言動も所作も、ごくごく一般的な学生のそれだ。

 露伴は足下に転がる、紺の古本に視線を降ろす。

 

「何が――」

 

 一体何が書かれているというのだ。気になる。あの由緒書きが警告しているのもこの本のことだろう。葵が倒れた原因がこの本である可能性はかなり高い。しかしだからこそ、露伴はその中身を確認したいという衝動に駆られた。古本に手を伸ばし、表紙を開く。

 解読不能な文字列。法則性を見いだそうと文字を凝視する。

 

「岸辺さん!」

 

「少し待ってくれ――どう読むんだ。いや、読んだのか?」

 

 冒頭の一字に集中する。焦点をぼやかし、俯瞰で捉えたその瞬間だった。

 

<a priori. 伝統的な形而上学では、すべての人間に生得的、 したがって本性的であること。 「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたカントおよびカント以後では、すべての経験に、 時間的に先立つというよりも、論理的に先立つこと。「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」 認識論において用いられ――>*1

 

 露伴は本を投げた。小夜の側に転がる。

 

「今のは――」

 

 露伴の脳内に押し寄せたのは、“”概念の全て。文字通り全て、一つの疑念も残すことなく露伴は哲学的“a priori”の概念を瞬間的に理解した。

 

 小夜が古本を拾い上げる。露伴は叫んだ。

 

「読むんじゃあない!!」

 

 ツカツカと小夜に歩み寄り、まず由緒書きを受け取る。

 

「間違っても開くなよ」

 

 露伴は警告に続く文章を読む。

 

「“文字には()()が詰め込まれている。あれは神の文字だ。あの本にはこの世の全てが記されている。吾々鈴木家は、その全てを書き写す作業に一族を捧げた”」

 

 “アカシックレコード”と呼ばれるものがある。そこには世界の始まりから終りまでのありとあらゆる全ての事象・概念が記録されていて、この宇宙のどこかに存在するとされるSF的な代物だ。

 一字目には“a priori”という概念についての情報が記されていた。文章ではない。一文字につきひとつの事象が記録されているのだ。由緒書きをそのまま信じるのであれば、写本にはこの世に関する全ての情報が詰まっている。つまり目の前に存在するこれは、“アカシックレコード”の写本ということになる。

 写本に目を移す。と、小夜がページを開いているではないか。

 

「おい!!何をしている!」

 

 小夜から写本をひったくる。

 

「この世の全て……」

 

 小夜は既に神の文字に()()()()()()()。視線は露伴の握る写本に注がれている。

 

「馬鹿な真似を」

 

 露伴としても読みたい。勿論、世の中の全てを理解したからといって完璧なマンガが描けるようになるわけではない。知識だけでなく経験がなければ“良い”作品は生まれない。しかし知識は前提だ。心を、人生を豊かにする土壌だ。いい土からはいいものが生まれるように、豊富な知識は経験に彩りを与える。この世の全てを知るというのはどんな感覚なのだろう。その先には、どんな体験が待っているのだろう。だが現実を見なければならない。この本を読むのは危険だ。少なくとも今は。

 

「おい田向花小夜。まだ正気なら僕の話をよく聞け」

 

 小夜の視線が一瞬露伴に動く。

 

「この本のことは金輪際忘れるんだ。内容も忘れろ。覚えてる必要もなければ、読む必要もない」

 

「岸辺さんは知りたくないんですか?返してください。私は読みたい」

 

 小夜が手を伸ばす。露伴は彼女から極力写本を遠ざけた。

 

「何の真似ですか岸辺さん。貴方は“バカ”なんですか?世の中の全てを知り得る機会なんて、誰もが得られるものじゃあないんです」

 

「“バカ”だと?僕に言わせれば君らの方が随分と“バカ”だぜ。僕だって読みたいに決まっている。今すぐ読めるなら何だって犠牲に出来る自身があるさ」

 

「貴方が読まないというならそれでいい。でも私の機会を奪う理由にはならないでしょう」

 

 小夜は少し興奮していた。言葉の端に苛立ちが読み取れる。

 

「死にたいのか?」

 

「死ぬ?何を言ってるんですか岸辺さん」

 

「僕は弁えた話をしてるんだ。好奇心は時に破滅を導くと、身をもって知っているからな」

 

「その本と私の生死が、どうして関係するんですか」

 

「容量の概念だよ。君は自分の容量が無制限だと思ってるのか?」

 

「御託はいりません」

 

 頑なだ。彼女は既に“好奇心”という魔に捕らわれてしまったらしい。目つきもどことなく凶暴なものへと豹変している。

 

「君の持ってるスマホだって容量に限界があるだろ。それと一緒だ。僕ら個人の記憶力には限界がある。世の中の全ての情報を一度に記憶できるほど僕らのキャパは広くはない」

 

「岸辺さん、その本を返してください」

 

「容量を超えればPCだってクラッシュする。紙を入れすぎたファイルは壊れる。彼女だって壊れかけている」

 

 露伴は葵を指差した。ヘブンズドアーによって公にされた彼女の膨大な記憶。それらは全て、おそらくこの写本によって瞬間的に与えられたもの。おそらく彼女の脳がその処理に追いつけなくなり、オーバーヒートを起こして倒れたのだろう。

 

「私と葵ちゃんとでは容量が違う!」

 

 まるで聞き分けの悪い子どもだ。露伴は露骨に溜め息を吐いた。

 

「アダムとイヴが楽園から追放された理由を知ってるか」

 

「禁断の果実を食べたからでしょう。バカにしないでください」

 

「ああそうだ。禁断の果実もとい“知恵の実”を食したことでヤハウェの怒りに触れた。だがなぜヤハウェは“知恵の実”を食した人間を追放する必要があったんだ?“知恵”を得た人間を怖れたから?」

 

「もう一度言います。その本を返して」

 

「本質は()()じゃあない。“知恵”なんてのは別にどうだっていいんだ。ヤハウェはいつか人間が“生命の樹”にまで手を付け、永遠の命を得るのではないかと怖れたのさ。ヤハウェが怖れたのは、人間のその貪欲なまでの“好奇心”だよ」

 

「返せ!!」

 

 小夜が露伴に飛びかかる。

 

「君は()に誑かされてるんだ!」

 

 彼女の手先が写本に届く寸前、露伴はヘブンズドアーで彼女を制圧する。露伴は小夜が床に激突しないよう支えると、静かに寝かせた。

 幸い彼女はまだほとんど本を読んでいなかったらしい。露伴は早々に写本の存在ごと忘れるよう彼女に書き込んだ。

 

 しかし、彼女が写本から得た記憶が消えなかった。

 

「馬鹿な!!」

 

 露伴は叫んだ。葵にも同じように書き込む。写本の存在こそ記憶から消えるが、しかし溢れ出すほどの膨大な情報は残ったままだ。

 

「まだ何かあるっていうのか!!」

 

 由緒書きを手繰り寄せる。

 

『神の文字は吾々を魅了した。而し作業は混迷を極めた。吾々は“それ”を文字として認識しないよう意識する必要があった。それでも作業を続ける内に思いも依らず文字を識別してしまう。有り余る情報に歴代家人は(たお)れてきた』

 

 そんなことは分かっている。どうでもいい。“神の文字”の本質を知りたいのだ。

 

『今、手元に先祖の手記がある。とても公にできる内容ではないが、私が未だ写本に携わっていないにも関わらず多くを知り得たのはこの手記の為である。この手記から判る神の文字の性質を次に傳える。

 一 神の文字には1字につき1つの事柄の全てが記されている

 一 神の文字は人を魅了する

 一 文字を文字と認識すると、文字に含まれる情報の全てを読み取ることができる

 一 情報を多く得すぎると、人は死ぬ

 一 写本にも同じ事が言える

 一 文字によって得られた記憶は永遠に忘れない』

 

「“永遠に忘れない”」

 

 露伴は復唱した。それは“神の文字”によって得られる記憶の異常性を示していた。ヘブンズドアーによる命令でも削除できない。その記憶は単なる精神的な“記憶”という概念を外れた、より実体的な、肉体的なものだ。そうとしか考えられない。ヘブンズドアーの命令で書き込んでも肉体の一部が物理的に消失することはない。“右手を失う”と書き込めば右手は即座に消失するのではなく、代謝的な作用の果てに朽ちる。だがどうすればいい?

 

 と、葵の容態が急変する。さっきまで安定していた呼気は荒れ、額から汗が粒となって噴き出す。全身は小刻みに痙攣し、指先が硬直を見せた。

 

「マズい!!」

 

 どうにかして溢れる記憶を取り除かなければならない。だがどうやって?――思いつく手段は一つある。

 

「この先の影響を考えれば余りやりたくはないが――」

 

 時間がない。葵が口から泡を吹く。

 

「やるしかないッ!」

 

 露伴は葵に飛び付くと、彼女から溢れる記憶、その無数のページを破り割いた。消せないのなら、永遠に記憶を奪うほかない。

 

 果たして葵は再び落ち着きを取り戻した。記憶の強奪は、体重の減少など何かしらの影響を及ぼすが仕方あるまい。それに露伴にとっては悪いことばかりでもない。

 

「念のため彼女のも破いておこう」

 

 露伴は小夜を見やった。

 

 

 

 

 

「何か拍子抜けでしたね」

 

 門の前に立って大きく手を振る葵から目を離すと、小夜は前を歩く露伴の側まで小走りに向かった。午後の日差しが二人に降り注ぐ。

 

「そんなものだろうとは思ったよ。君が期待しすぎていただけだ」

 

 露伴は二人の記憶を書き換えていた。長持の中には高価な漆器類が入っていたことになっている。

 

「だがまあ、あの家にとっては重要なものだろうな。嫁入り道具と見た」

 

 適当な内容を嘯く。

 角を曲がると、正面に太陽が躍り出た。掌で熱戦を遮る。写本はそのまま長持の中へ戻した。釘も再度打ち付け、蓋の一部が破損しているもののほぼ元通りである。

 

 本音を言えば、あの本は手元に欲しかった。読解を諦める気はさらさらなかった。しかし所有権は鈴木家にある。あの一族の遺産だ。簡単に他人が持ち出していいものでもない。それに――

 

「あの家族、何か抱えてそうだ」

 

「何か言いました?」

 

「いや」

 

 露伴は口を噤んだ。葵の両親は本当に長持の中身を知らなかったのだろうか。彼女の記憶を破った際、少しだけ彼女の心の中を覗いた。両親とは上手くいっていないらしい。それも大分話は込み入っている。祖母の死と彼女も、どうやら無関係ではないみたいだ。それに――

 

 露伴は立ち止まった。小夜が不思議そうな顔で振り返る。

 

 問題はそれだけではない。写本の大本が鈴木家に渡ったルートも、現在の所在も不明だ。おそらく根本的なことは何ひとつ解決していない。

 

 空を見上げ、雲の向こうの世界に思いを馳せる。思うに、答えは我々の内側に最初から存在するのだ。“神の文字”は身体に刻まれている記録を明らかにしているに過ぎない。だからあれは肉体の一部と同じなのだ。露伴の出した答えはそんなものだった。人間は普段、脳の10%しか使っていないなんて話もある。だからそういう風に、心の奥に眠っているものがあっても不思議はない。

 

 当面の問題は――露伴は歩き出す。まず他人の記憶を媒介すれば“神の文字”は機能しないのか試そう。危険だからといって諦めるほど、露伴は()()()人間ではなかった。だが一方で、全てを知るということに抵抗も感じていた。好奇心は知らないからこそ生まれる。何もかも知ってしまえばその原動力は失われてしまう。尤も、仮に“神の文字”を介せずとも世の中の全てを知ることは不可能なのだから、今のところそれは杞憂でしかないのだが。

 

「ところでだが、田向花小夜」

 

 小夜は露伴が追い付くまで待って隣を歩いた。

 

「僕は君のお昼代を払ったよな」

 

「ええ。ごちそうさまでした」

 

「ギブアンドテイクが君の信条じゃあなかったのか?」

 

「岸辺さん、“面白い話”を教えたのは私ですよ」

 

「それは彼女()の分だぜ。君のはチャラじゃない」

 

 小夜は少し考える素振りをした。

 

「じゃあ岸辺さん、これからお茶しましょう」

 

「断る。僕に何のメリットがあるんだ」

 

「いいじゃあないですか。私が出しますから」

 

「面白い話の一つや二つないのか?」

 

「だからしたじゃないですか。長持の話」

 

「それなくてだなあ」

 

 露伴は再び立ち止まる。

 

「岸辺さん、さっきからどうしたんですか?」

 

「“家で空き巣と遭遇した”話――ふうん。いいじゃあないか。今日のところはこれで手打ちにしてやるよ」

 

「? 何の話をしてるんですか?」

 

「じゃあな。僕はこれから仕事だ」

 

 立ち呆ける小夜を置いて露伴は勝手に歩き出した。二人から破り取った“記憶”を片手に、ひらひらと手を振って。

 

 

 

 








年末が楽しみ

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