岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:21 《乳白色の海》

「先生知ってましたか。クジラって歌うらしいですよ」

 

 他愛もない雑談は編集者の旭 蓬莱(ほうらい)の方から始まった。露伴は原稿の上で走らせていた手を止めると、テーブル脇に雑に放り投げてある携帯の液晶を凝視した。画面の向こうから、年齢にしてはやけに落ち着いた蓬莱の声が響いてくる。

 

「当然知ってるよ。それがどうかしたかい」

 

「いえ、雑談です。先生の発想の助けになればと思って。何か凄く神秘的じゃありませんか」

 

 露伴は原稿に目を戻すと再びペンを動かした。

 

「確かに神秘的だな。その()と呼ばれる、いわば発声によってコミュニケーションを取ってるとされている。まるで人間的な営みだ」

 

「よくご存じですね」

 

「昔ホエールウォッチングに行ったことがある。その時に調べた」

 

 へえ、と愛想ない返事が返ってくる。

 

「今調べました。特にザトウクジラなんかのそれが()と呼ばれるらしいです。目的ははっきりとは分かっていませんが、一種の求愛行動のようなものと考えられてるみたいですね」

 

「ただクジラに限らず、海というのはそれ全体が神秘的だ。現代の科学力をもってしてもその9割が未解明と言われるくらいだからな」

 

 露伴は再度ペンを置いた。海の神秘を、身をもって感じたことは何度かある。それでもなお、そこに秘匿された未知には露伴も好奇心の疼きを隠せない。

 

「またどこか出掛けてみるのもありかもしれないな」

 

 露伴はぼやいた。

 

「何か言いましたか?」

 

 蓬莱が聞き返す。なんでもない、と露伴は答えた。

 

「打ち合わせはもう終わりでいいか。仕事に戻りたい」

 

 通話が切れると、露伴は椅子にもたれて窓の外を眺めた。

 

「クジラの歌、ね」

 

 指先でペンを遊ばせる。思い出すのは、“海の神秘”に触れた数年前の夏の記憶だった。

 

「どこだったかな。確かここの――」

 

 机の引き出しを開けてファイルを取り出す。名刺をファイリングしているものだ。その中から特徴的なクローバーの描かれた名刺を取り出す。

 

「いや――“神秘”は海にも限らないな」

 

 露伴は立ち上がると、東に面した窓を開けた。風に乗って独特な磯の匂いが流れ込む。その匂いを感じながら、露伴は数年前のあの日を想起した。

 小笠原諸島に取材で向かったときの、海上での出来事――

 

 

 

 

 小笠原諸島の父島と本土を結ぶ連絡船「おがさわら丸」の上で、露伴は太平洋を眺望していた。目的はホエールウォッチング。小笠原諸島海域は国内でマッコウクジラが見られる、数少ない場所だった。小笠原諸島へのアクセスは父島へ向かうこの「おがさわら丸」に乗るほかない。片道24時間で、本土へ戻る船が島を出るのは最短でも上陸から2日後。往復で計2日をまるまる船上で過ごすことを考えれば、最低でも5日は拘束される計算になる。国内だというのに下手な海外よりも遠い。なかなかの大旅行だ。

 

 昼前に出港した船は、2時間ほどで東京湾を抜けて太平洋へと進出。外洋に出てじき3時間になる。

 船はかなりの大型である。デッキは7層にも分かれており、客室もランク付けがされ様々だ。船内設備も売店やレストランなど充実している。乗客の数は400に近かった。1週間に1便程度だから人が集中しやすいのもそうだが、特に今はマッコウクジラがよく目撃される季節ということも関係しているだろう。

 

 最初は人々で溢れかえっていた外デッキも今は閑散としていた。現在はぽつぽつと、まばらに乗客が点在しているばかりである。親子連れであったり、カップルであったり、また露伴同様一人旅であったり。彼らは思い思いに船上でのひとときを過ごそうとしていた。陸地から離れて電波も届かず、誰もが暇を持て余していた。船の上というイレギュラーな状況に対しての興奮も既に冷め切っている。

 

「お一人ですか?」

 

 柵に体をもたれて海を見る露伴の横に女性が立った。横目に彼女を見やる。小柄な若い女性だ。彼女は返答を待たずに露伴の隣で同じように柵に体を預けた。

 

 

「海ってホント広いですよね。地球は7割海でしたっけ。3割に70億人がひしめいてるんだ」

 

「可住地面積はもっと狭い。地球全体での数字は知らないが、日本におけるそれは国土の3割程度だ。そこに1億2000万人が住んでる」

 

「へえ。物知りなんですね」

 

「君が知らないことを知っているだけで物知りとは言わない」

 

「確かにそうですね。その理論では貴方が知らないことを私が知っていれば、私も物知りになってしまう」

 

 例えば、と言って女性は手に提げたバックから名刺を取り出した。

 

「こういうのはご存じですか」

 

「“傘山 十葉”読めないな。なんと?」

 

「“とよ”です。ですが聞きたいのはそこではありません。こっちです」

 

 十葉は差し出した名刺の右下を指さした。植物の絵がプリントされている。

 

「まず何の植物かお判りになりますか?」

 

 名刺を受け取り、そのイラストを観察する。緑色の葉が10枚。1枚1枚はハートのような形をしている。

 

「判らないな。何の植物かな」

 

「クローバーです」

 

「クローバー?それにしては枚数が多くないかい」

 

 まさか初見でクローバーだとは思うまい。三つ葉や四つ葉のイメージが強い。

 

「クローバーは葉の枚数によってその意味が変わるんです。ご存じでしたか?」

 

「いや、そうなのか。知らなかったな」

 

「10枚は“完成”や“成就”を意味するそうです」

 

 意外にも興味深い話だ。電波が通るようになったら調べてみよう。

 

「君の名前もそこからかい」

 

 露伴は名刺から顔を上げた。十葉は首を横に振る。

 

「両親がそれを知っていたかは分かりません。教えてくれたのはある人なんです」

 

 十葉はバックから手帳を取り出すと、そこから押し花状態のクローバーを取り出した。露伴は目測で葉の数を数えた。7枚だ。

 

「今は海の向こう側に居るんですけどね。もともとあっちの人ですから」

 

 十葉は水平線の遙か向こうに思いを馳せた。

 

「7枚は何を意味するんだい」

 

 しかし露伴にとってそんな十葉の思いなど知ったことではない。そんなことよりも七つ葉のクローバーに含まれる意味が知りたかった。

 

「“無限の幸福”です」 

 

 十葉はクローバーを鼻に押し当て、深く息を吸い込んだ。満足そうに息を吐き出す。

 

「彼との別れ際に貰いました。約束したんです。いつか私を迎えに来ると」

 

「そうかい。それはよかったな」

 

 名刺を仕舞い込む。

 

「それじゃ他にもあるのか?例えば8枚や9枚」

 

「8枚は“家内安全”を、9枚は“神の運”を意味していると言われています」

 

 そうだ。思い出したように、十葉はバックに手を突っ込んだ。

 

「どうぞ。四つ葉のクローバーです」

 

 彼女が差し出したのは、やはり押し花のようになった四つ葉だった。露伴は礼を言ってそれを受け取る。

 

「四つ葉は“幸運”だったか?」

 

「はい。幸運を運んでくれるんです。みなさんにお裾分けできるよう、なるべく持ち歩いているんです」

 

「それはどうも」

 

 受け取ったクローバーを空にかざす。

 

「しかしこう言ってはなんだが、9枚の意味を知った後だとどうしても思えるな」

 

「確かに“神の運”には劣るかもしれませんが……でもきっと幸運を運んできてくれますよ」

 

 露伴はクローバーを名刺と同じ胸ポケットにしまうと、手摺りを離れた。

 

「どうもありがとう。長旅の暇潰しにはなったよ」

 

 その背中を十葉が引き留める。

 

「これも何かの縁ですし、お名前を教えていただけませんか」

 

「失礼。貰いぱなしだったな」

 

 露伴は自分の名刺を取り出した。白地に岸辺露伴の文字と、ピンクダークの少年が印刷されている。元々は名前だけのシンプルなものを利用していたが、代表作くらい描いておいたほうが分かりやすいと担当編集者が作ったものだった。貰っておいて損もないし、仕事上人と会うことも多いためしばらくこれを利用していた。

 

「岸辺露伴――あれ、もしかしてマンガ家の」

 

 名前を見て初めて気付いたようだった。もっともそれが一般的な反応だ。むしろ名前を聞いてすぐ分かるのは露伴のことを比較的知っている方だ。メディア露出も多くないため顔で気付く人間は一握りだ。

 

「独特なオーラがあるなとは思いましたけど。気付けませんでした」

 

 有名ですよね。十葉に驚いた様子はなかった。あまり関心はなさそうだ。あくまで“名前は知っている有名な人”くらいの認識なのだろう。

 

「ということはお仕事の取材か何かですか」

 

「ホエールウォッチングだ。クジラを見に来た」

 

「なるほど。クジラの取材ですか」

 

 露伴は肯く。

 

「今の時期だと……マッコウクジラですか」

 

「もう少し前の季節ならザトウクジラも見れたんだが、すっかりシーズンを逃してしまった」

 

「ザトウクジラならこの船から見れるかもしれませんよ」

 

「そうなのか?」

 

「ええ。あと1時間くらいでしょうか、八丈島付近を通過します」

 

 十葉が腕時計に目を落とす。

 

「八丈島近海はよく目撃されるそうです。運が良ければ遭遇できるかも」

 

 予定通りの順調な航行であれば、日の入り前後に八丈島付近を通過するはずだ。陸地が近付けば少し電波も拾えるかもしれない。陽は海面に向かって少しずつ傾いていた。

 

 日没は近い。

 

 露伴は潮風に当たりながら、ザトウクジラを求めて海原を見渡した。陽が水平線に近付き、船体が深い影を落とす。そろそろ諦めて船内に戻ろうか。そう考え始めた頃、デッキの前方がにわかに騒がしくなった。人々が寄り集まり、何やら海上を指さして騒いでいる。露伴は騒ぎの渦中に身を投じた。誰かに聞くまでもなく、彼らの目撃している異常は簡単に判明した。

 

 太陽が沈みかけ、薄暗くなりつつある空間で、()()はいやというほど目についた。距離は測れなかったが、船の進行上のほど遠くない海面が青白く輝いていた。

 

「なんだありゃあ」

 

 誰かが言う。

 

「イルミネーションにしては季節が早いぞ」

 

「岸辺さん、何ですかあれは」

 

 十葉が露伴の側に立つ。周りの大半がそうしているように、十葉も携帯を取り出して構えた。

 

「僕もさっぱりだ。ヤコウチュウやウミホタルなんかの類いかもしれない」

 

 どれくらいの確率で遭遇できるものなのかは知らないが、船の通過や波の刺激などで海面のプランクトンが発光する現象がある。海岸で見られる場所は観光資源にもなったりする。

 

「陽が落ちきったらもっと綺麗でしょうね」

 

 日没前には通過してしまいそうだ。話を聞きつけたのか、船内から乗客が次々と出てくる。

 徐々に空が暗さを増す。発光している海域の周辺は相対して明るくなっていった。光を目印に遠方から数匹の鳥が群れをなして飛んできた。彼らは戯れに海面をつついてみたり、光る“海”の上空を旋回したりした。船上の大勢が動画を回す。露伴らもその様子を静かに眺めた。

 

 さらなる異変はその直後に起こった。

 

 光る“海”が突如、上空へ向けて隆起を見せた。人々から歓声とも悲鳴ともつかぬ声があがった。

 “海”はまるで巨大な触手を伸ばすかのように、慌てて高度を上げようとする複数匹の鳥に襲いかかった。自然発生的な波とは全く様子が異なっていた。巨大なタコが海中から触手を伸ばしたかのような、細長い隆起だった。そして露伴には、その隆起は()()()()鳥を呑み込んだように見えた。

 

「ウミホタルでもヤコウチュウでもないみたいだな」

 

 露伴の目つきが険しいものへ変わる。自然界では見たこともない挙動だ。

 

 露伴は人々をかき分けて進んだ。手摺りからできるだけ身を乗り出し、その“海”を睨んだ。

 船が“海”へと接近する。何が起るか分からない。露伴は好奇心に駆られながらも身構えた。

 

 船の先端が“海”へとさしかかる。露伴は再び船上を移動し、海面が見おろしやすい位置を陣取った。

 

「確かにイルミネーションみたいですね」

 

 十葉がその横から覗き込む。船体が“海”を裂くように進む。海面は沈黙している。

 

 “海”は広かった。全長100mを超える船体がすっぽり入る。周りからすれば、イカ釣り漁船のように船が輝いて見えるだろう。神秘的な光景だ。乗客だけでなく、船員まで外デッキに出てきてその光景に見とれていた。

 

 誰もが気を抜いていた。しかし異変は、やはり突如として起こった。鳥を呑み込んだとき同様、海面が隆起した。しかし今度は触手のように細長いものではない。壁だ。巨大な壁が船を囲むようにして、“海”が盛り上がった。誰かが絶叫した。

 

「これはッ!!!!」

 

 大型の船を“海”は軽々と包み込んだ。上空10数mか、それ以上の高さまで“海”の壁が隆起する。船上は阿鼻叫喚となった。人々が一目散に船内へと通ずる扉へ走る。しかし全員が一斉に駆け込んだために扉周辺は飽和した。

 

 空が“海”に包まれた。露伴はしかし、その場から動かなかった。

 

「岸辺さん!!」

 

 十葉が叫ぶ。

 

「船内に逃げ込んだところで、呑み込まれたら一緒じゃあないか」

 

 むしろ閉鎖空間に逃げる方が危険にも思える。

 

「自然の海が発光し、鳥や人に襲いかかるってのはどういう理屈なんだ。巨大な怪物って方が納得いくぜ」

 

 クラーケンとかいう巨大なタコのような怪物の伝承があったな。他にも巨大生物や未確認生物の話は各地で聞く。海はそれだけ神秘の空間である。

 

「こいつが怪物だろうと災害だろうと、どうも逃げるってのは気にくわないな」

 

 “海”が上空から船に降り注ぐ。人々が叫ぶ。どちらにしろ一か八かだ。ギリギリまで“海”の接近を待って、露伴は叫んだ。

 

「ヘブンズドアーッ!!!」

 

 手応えがあった。露伴はほくそ笑んだ。

 

「生き物だ」

 

 それならば勝機もある。

 

<船に危害を加えない>

 

 これで安泰だ。そんな露伴の余裕も束の間だった。“海”は止まらない。

 

「なにぃ!!??」

 

 “海”が船を、露伴を呑み込んだ。激流に攫われる。世界がひっくり返る。

 

 全身が青白く光る世界に包まれた。身体の上を何かが這うような感触がした。露伴は水中で目を開けた。そうして初めて、発光する“海”の正体が分かった。

 

(こいつら――群体か!!)

 

 海中には無数の、極小の生物が浮遊していた。エビのような見た目に、長い触手が頭部から一対伸びている。体長5mmにも満たないそれらは全身を青白く光らせながら露伴の全身にまとわりつくように群がった。おそらくプランクトンに分類されるだろう。

 

(光る海――確かそんな現象があったな。あれはバクテリアだったが)

 

 露伴はいつだったか本で知った“乳白色の海(milky sea)”を思い出した。それは船乗りの間で古から語り継がれる幻の海。現代においては人工衛星から観測されることもある、海の一部が乳白色に発光する現象。しかしその正体は未だ解明されておらず、もっとも有力な説としては発光する性質を持つバクテリアの大量発生が原因ではないかと言われている。だが既知のバクテリアが発光するには、自然には発生しえないほど異常なまでに高濃度に密集する必要がある。さらに“乳白色の海(milky sea)”は非常に広大な範囲にかけて発生する。渡りきるのに6時間ほどかかったという記録もある。神秘の海による、謎多き現象の一つである。

 

 どうりでヘブンズドアーで襲撃が止められないわけである。一度に書き込めるのは一体まで。数匹に書き込んだところで、この数を前にしてはまるで意味をなさない。

 

(どうする。一匹一匹ではキリがないぞ)

 

 “海”が生物群体だと判明したところで、現状打破の手段は見えてこない。そもそもこいつらの目的は何なのだ?

 

(捕食か?そうでもなければ僕らや鳥を襲う動機がない)

 

 生きた大型生物を補食するプランクトンなど聞いたことはない。しかしその最悪のパターンを想定しておくべきだ。海面が高く隆起した段階で、すでにこの生物は既存の生物の能力を逸脱している。

 

 露伴は海面を目指そうと足掻いた。しかし海中において平衡感覚は失われ、海面がどの方向なのかわからない。

 

(このままでは溺れる――ッ!!)

 

 どうにかこの“海”から逃れなくては。露伴は無酸素状態の中で思考を巡らした。

 目を開ければ、不鮮明ながらも海中の様子は観測できた。船はその全身を蛍光色に浸らせ、人々は皆放り出されて漂っている。中には露伴同様もがいている影も見えたが、ほとんどは気を失っているようだった。

 

(プランクトン――()()がいればあるいは)

 

 水中で身体を捻らせながら露伴は可能性を探す。それとほぼタイミングを同じくして、その()()()は姿を見せた。

 

 露伴の眼前を、深く大きな影がゆっくりと横切った。全長約14m、全身黒色で腹部に白い線の入ったその、文字通り巨大な()()()は、斑状の白いコブを持った口を大きく開けて光る“海”を呑み込んだ。

 

(どうやら僕はとことんツイているみたいだ)

 

 まさにこれを待っていた。“海”に沈む前からずっと。

 

(どこかにいるとは思っていたよ――ザトウクジラ)

 

 八丈島近海で目撃数の増加している世界最大級の生物種。クジラ類の中でも特に活発なことから“はしゃぎクジラ”の異名を持つその大きな生き物は、ときに大型のプランクトンを補食した。

 

(ヘブンズドアー。食らえ!跡形もなくなるまで!!)

 

 周辺のプランクトンを食い尽くす。ヘブンズドアーを発動し書き込む。ザトウクジラは少し遊泳スピードを上げ、露伴の回りを旋回するようにして“海”を食らった。

 露伴の背丈の何倍もある巨大な空洞の中に“海”が吸い込まれる。しかしあまりにも“海”は広い。露伴の周辺からはある程度発光生物は取り除かれたが、しかし全てを呑み込むには及ばない。捕食ペースも早々に落ちているように見える。やはり一個体では限界がある。

 

(それに、こいつ自体が“海”の捕食対象である可能性もある。マズいぞ――)

 

 確かにこのクジラはプランクトンを補食するが、しかし相手は100mを超える大型船をも襲う。せいぜいその1/10程度の大きさのクジラが攻撃対象でもおかしくはない。

 

(息が!!!……)

 

 口から気泡が溢れる。限界が近い。

 “海”はなおも青白い輝きを放つ。露伴は徐々に視界が狭まるのを感じた。どうにか気力を振り絞り、意識をつなぐ。広大な“海”を前に、露伴はどうしようもなく無力であった。露伴はしかし、それを認めようとはしない。

 

 切り抜けなくては。僕は決して少年マンガの主人公ではない。友情だの努力だのとは無縁だ。ときには無情な現実に押し潰されそうにもなる。誰かはそれを“運命”と呼ぶ。だがそんな、まるで最初から決められていた展開に沿うような人生はまっぴらごめんだ。

 

 露伴はヘブンズドアーをクジラへ向ける。

 

(僕は今、最高の体験をしている!!)

 

 ここで死んではならない。この体験がより“面白いマンガ”を描くための原動力になるのだ。まだ僕は成長できる。もっと“面白いマンガ”を描ける!!

 

(ヘブンズドアーッッ!僕の体を海面まで押し上げろ!!!)

 

 周りを回遊していたザトウクジラが背部に露伴を乗せて海面へと上昇する。5秒としないうちに、露伴は“海”から解放された。新鮮な空気に頭がクラクラする。

 

 やっとの思いで海面まで浮上できた露伴だったが、しかし“海”は彼を逃そうとしなかった。再び海面付近の“海”が迫り上がり、露伴を襲う。鳥を襲ったとき同様、細長い触手が露伴の首元を覆う。

 “海”には質量があった。首が絞まる。“海”は露伴を再度海中へ引き摺り込もうとした。露伴はそれに抵抗する。

 

「こいつらのこの執念!!マズい――このままでは――ッ!」

 

 抵抗空しく露伴は再び海中へと引き戻された。訓練もない露伴では二度目の長期潜水には耐えられない。

 

(だめだ。強すぎる!)

 

 意識が遠のく――――

 

 そのとき、低い地響きのような音が震動となって伝わってきた。露伴の意識がほんの少し取り戻される。音は小刻みながらリズミカルに繰り返されている。

 

 音の発生源は露伴の足下に居た。クジラだ。クジラが鳴いている。

 

 クジラがくぐもった、短い鳴き声を発するたびに、それに合わせて“海”全体が震える。全長14mの巨躯から生み出されるその音色は、確かに生き物の鳴き声でありながら、何かしらの電子機器の警告音にも似たような不思議なものだった。

 彼が何をしているのかは露伴には分からなかった。しかしその音に、露伴はどこか安心感を覚えた。

 

 視界が黒に覆われる――――

 

 

 

 ――――――――意識を取り戻すと、露伴は海上を滑らかに進んでいた。

 

 体の下に固い感触を認め、上体を起こす。潮風が濡れた顔に吹き付けた。陽は水平線の向こうにほとんど隠れている。

 露伴は自分がクジラの背中に乗っていることを認識した。先刻の彼だろうか。再び海面まで持ち上げてくれたようだ。

 

 助かった。ほっと一息吐く。

 

 それから露伴はあたりを見渡そうと姿勢を変えた。足に何かがぶつかる。後ろに目を向けると、十葉が倒れていた。その後ろにも2人ほど乗っている。

 

「おい、大丈夫か」

 

 十葉の体をそっと揺らす。目は覚まさなかったがまだ息をしていた。それからあたりを見渡す。その光景に露伴はえもいわれぬ感情を覚えた。

 

 何十頭というザトウクジラが人々を背中に乗せ、露伴らと並走していた。

 

「あるのか……こんなことが」

 

 イルカが人を助けるという話は聞いたこともある。クジラも同じ哺乳類であることを考えれば、人を助けるというのはあり得ないことではなかったが、しかし何百人という人間を助けるために、クジラが群れをなして協力するというその光景は信じがたいものだった。

 

「僕は何もしていないぞ」

 

 ヘブンズドアーによる命令ではない。彼らが自ら、“海”に溺れる人々を助けたのだ。露伴は自身を運ぶクジラに目を落とす。

 

「助けてくれたのか。君が」

 

 露伴が気絶する直前に彼が発していたのは、きっと仲間を呼ぶ声だったのだろう。確信はない。しかしそうでもなければ、この()()と呼ぶにも相応しい彼らの行動を説明できるものはなかった。

 

 十葉が唸る。ふと、露伴は彼女の顔にクローバーが張り付いていることに気付いた。剥がしてみると、四つ葉のクローバーだった。露伴は自分の胸ポケットを探る。入っていたのはぐしゃぐしゃになった名刺だけだった。露伴はそれを、ほとんど隠れた太陽の僅かな光に晒す。

 

「“幸せを運ぶ”、か」

 

 そういう解釈もありかもしれないな。何も神秘は海だけのものではない。

 

 前方をカモメが飛んだ。陸が近いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 平らな紙の上に印字された“傘山 十葉”の文字列から露伴は目を上げた。ふと思い立って、本棚から小笠原諸島のパンフレットを引っ張り出す。机の上でそれを開き、中に挟まった四つ葉のクローバーを取り出す。あの時、クジラの背の上で手にしたものだ。

 

「海の神秘――」

 

 “海”が何だったのかも、クジラが人々を助けた行動原理も未だに分からない。

 

「これだから面白い」

 

 口角が吊り上がる。この世界はまだまだ謎で満ち溢れている。“日常”から少し離れるだけで、そこには多くの未体験が待っている。

 

「つくづく僕は懲りないみたいだ」

 

 何度命が危うくなろうと、その体験をマンガのネタに昇華したときのあの高揚に変えられるものはない。最高の作品を読者に提供し続けられるのなら、命ある限りなんでも首を突っ込むだろう。

 

 彼女は元気にしているだろうか。クローバーを頭上にかざし、十葉を思い出す。また彼女らに会いに行ってやろう。どうせなら船旅で、()()()()を期待しながら。そのためにも計画を練ろう。前回以上の休暇が必要だ。いま何ヶ月分の原稿が描けるだろうか。全てを海路で行くのは不可能だが、それでも1ヶ月は最低欲しい。そうと決まれば早速仕事に取りかかろう。いや、その前に――

 

 露伴はクローバーをパンフレットに戻すと、開けていた窓を閉めた。

 部屋の中は潮の香りで満ちていた。

 

 

 

 




あけましておめでとうございます。

雪ヤベーすね

今年はまだ始まったばかりですが、1年間諸々の私情によりあまり執筆に時間を割けないと思われます。遅筆なのは毎度のことで、常々更新を待たれている皆様には大変申し訳ないのですが、そんなわけで今年は年内にもう1本更新されたら万々歳くらいの気持ちでいてください。お願いします。

一段落着いたらまたお知らせします。3月には原作も新作書き下ろしが発表されますし、おそらくまた年末に某地上波様がやってくださるんじゃねーかとは思いますので、公式成分を沢山堪能してください。そのたびにこの作品を思い出してもらえたら僕としては最高に嬉しいです。








1本――――――年内にもう1本は頑張ります

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