岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:22 《片袖机》

古老傳曰 近江國伊香郡 與胡鄕 伊香小江 在鄕南也 天之八女 倶爲白鳥 自天而降 浴於江之南津 于時 伊香刀美 在於西山 遙見白鳥 其形奇異 因疑若是神人乎 往見之 實是神人也 於是 伊香刀美 卽生感愛 不得還去 竊遣白犬 盗取天羽衣 得隱弟衣 天女乃知 其兄七人 飛昇天上 其弟一人 不得飛去 天路永塞 卽爲地民 天女浴浦 今謂神浦是也 伊香刀美 與天女弟女 共爲室家 居於此處 遂生男女 男二女二 兄名意美志留 弟名那志登美 女伊是理比咩 次名奈是理比賣 此伊香連等之先祖是也 後 母卽捜天羽衣 着而昇天 伊香刀美 獨守空床 唫詠不斷

                                      — 帝皇編年記

  

 

 

   *

 

 

 読めない女だ。露伴はそう思った。

 

 眼前に座る彼女は、露伴の出したミネラルウォーターを上品な動作で口にした。初夏の暑さの中で汗ひとつかいていない。先程までの取り乱していた姿とはまるで別人である。

 

「それで、名前もまだ聞いていないわけだが」

 

 彼女がコップを置いてから一拍の後、露伴は尋ねた。

 

「上野桜実と申します。桜に果実と書いて“おうみ”。突然伺ってしまって大変申し訳ありません」

 

 桜実と名乗る彼女は露伴に対し深々と頭を下げた。

 彼女の来訪は本当に突然だった。はじめ、インターホンのカメラの向こうに立っていた彼女は半狂乱で叫んでいた。警察へ電話しようかとも一瞬考えたが、露伴は彼女の様子に違和感を覚え、一度落ち着かせて話を聞いてみることにした。

 

「お互いあまり時間もないでしょう。無礼は承知ですが、単刀直入にお尋ね致します。今年の2/16に、机を買われましたね。それを見せていただきたいのです」

 

 彼女の主張は最初から一貫してこうだった。つい4ヶ月ほど前に買った机を見せろ。それだけである。

 

「机を見せるのは構わない。だが気になるのは、どうして僕が買ったかを知っているかってことだ。あんた()()所有者か?」

 

 彼女の言う“机”とは、寝室の窓際に置いたあれのことだろう。年のはじめの時期、散歩をしている最中に偶然見付けた骨董品店で何の気なしに購入した、小さな木製の片袖机である。最近は仕事で詰まった時によく座っていて、なんだかんだ愛着が湧いてきていたところだ。

 

「主人の持ち物でした」

 

「どうなってるんだ?あの店主」

 

 郵送を頼んだために住所まで書いたことは記憶しているが、前所有者とはいえ教えて良い情報ではない。露伴はあの、いかにも偏屈そうなじじい店主の顔を思い出した。クレームの一本でも入れてやらないと気が済まない。場合によっては出るとこに出たっていい。

 

「申し訳ありません」

 

 まあ、この女の暴れっぷりを見れば教えたくもなるのかもしれないなどと考えつつ、露伴は徐に立ち上がる。

 

「今更あんたに当たっても意味ない。見たいんなら見せてやる。だが見せたらすぐに帰るんだな。それから今後は一切関わらないようにしてくれ」

 

 桜実は顔を輝かせると、ありがとうございます、ありがとうございますと何度も頭を下げた。

 

 二人は寝室へ向かう。部屋の角、腰高窓の側に机が配置されている。縁に1つ、右側に5つの計6つの引き出しがある。露伴の腰ほどの高さと、スケールこそ大きくはないが、分厚い天板や二の腕の倍近くある太さの脚など、重厚感は抜群である。

 

「開けても?」

 

 桜実は小走りで机に向かうと、引き出しに手をかけながら尋ねた。

 

「私物しか入っていないぞ」

 

 露伴は許可する。仕事関係のものや大事なものの保管場所は書斎だ。桜実は一つずつ、引き出しの中を奥まで丁寧に調べた。入っているのはノートや文房具、あとはせいぜいマンガに使う資料が散見されるくらいだ。全ての引き出しを見終えると、彼女は目に見えて青ざめた。露伴に迫る。

 

「購入された際、この中に薄い半透明な布は入っていませんでしたか?」

 

 露伴は否定した。

 

「いいや。見たことがないな。何かを新しく入れたことはあっても、出したことはない」

 

「よく思い出して下さい。絶対机の中にあるはずなんです!」

 

 そう言われても、知らないものは知らない。生憎だが、と露伴は首を振る。

 

「神に誓っていい」

 

 桜実は大きく肩を落とした。

 

「分かりました… すみませんでした。突然押しかけて」

 

 絶望した表情で桜実は部屋を出る。二人はそのまま玄関へ向かった。再度桜実が頭を下げる。

 

「あんたが何を探しているのかはよく分からんが、見付かることを祈ってるよ。だからもう僕には迷惑かけないでくれ」

 

 桜実は無言のまま俯いた。小さくお辞儀し、背を向ける。

 露伴は壁にもたれて、とぼとぼと歩く彼女を見送った。また厄介事に巻き込まれそうだ。そんな予感がした。

 

 

 露伴の予感はすぐに的中した。

 桜実が訪ね来てから数日後、朝食のコーヒーを啜っていると客人が訪れた。スーツ姿の男である。もう若くもないが、落ち着いた大人という感じでもない。とってつけたような作り笑いがどうも気にくわなかった。

 朝の7時頃の訪問であったため、訝しみながら対応した露伴であったが、彼の名乗りで事情を察した。

 

「おはようございます。岸辺露伴さんですね。私、上野“こうずけ”と申します」

 

 男が名刺を差し出す。やけに肩書きの多い男だ。中央にはでかでかと“上野上野”と書かれてあった。迷惑かけるなと言ったんだがな、と露伴は上野に聞こえないよう小さく呟いた。

 

上野国(こうずけのくに)の上野か。珍しい名前だな」

 

「親からいただいた大切な名前です。で、ですね岸辺さん。おたく、2/16に机買ったでしょ?」

 

 食い気味に本題を切り出す上野に、やはり露伴は良い印象を抱かなかった。

 

「あんたもあれを見たいのか?」

 

 彼が桜実の関係者であることは予想がついた。この男が桜実の夫、つまり机の前の所有者だろうか。

 

「おや、以前どなたかにお見せしたことが?」

 

 上野が怪訝な表情をする。

 

「……いや、こっちの話だ」

 

「そうですか。私はあれを返していただきたいんです」

 

「正気か?」

 

 露伴はこらえきれず小さく笑った。上野は愛想笑いのまま言葉を続けた。

 

「あれ、以前は私の物でしてね。一度売ったはいいものの、どうしても取り返したくなりまして」

 

「ああ、分かるよ。一般的な机に比べれば多少小さいが、それがむしろいい。僕も気に入っていてね。だから返すことはできない」

 

「困りましたね。元を言えば私が買った物ですから、返していただくのが妥当かと」

 

「妥当だって?」

 

 困惑せずにはいられなかった。上野の主張がまったく理解できない。

 

「立ち話も疲れるだけですから、あがらせていただきますね」

 

 上野はまるで自然な振る舞いで家の中へ立ち入ろうとした。露伴はそれを体で遮る。上野の表情が露骨に歪んだ。理屈の通用する相手ではなさそうだ。

 

「僕の家に入ることは()()()()()。机も譲る気はない」

 

「それは困ります。こんな立派な家に住んでるんだ。あんな机の一つや二つ、なくなったって困らないでしょう」

 

 暑さも相まって、露伴のフラストレーションは徐々に溜まっていた。

 

「そういう問題じゃあない。そもそも君、人に物を頼むってのにそういう態度はどうなんだ」

 

「金ですか?金が欲しいなら買いましょうか」

 

 結局金だろ、と上野は見下したような態度を見せた。露伴の眉間に皺が寄る。

 

「今の態度で決めたよ。君には絶対に譲らない。たとえ幾ら金を積まれようとも決して、だ」

 

 金は重要ではない。重要なのは物事の筋だ。上野の態度の逐一に、頼み事をする人間としての筋が通っていない。少なくとも露伴はそう感じていた。

 

「帰ってくれ。仕事があるんだ」

 

「おい待てよ。まだ話はついてないぞ」

 

 露伴は半ば無理矢理に扉を閉めた。扉の向こうで上野が舌打ちをしたのを露伴は聞き逃さなかった。

 

 上野が敷地を立ち去るのを寝室の窓から見届けると、露伴は件の机に落ち着いた。先日の桜実とのやりとりを思い出す。

 

「“薄い半透明な布”と言っていたな」

 

 しかし腑に落ちないのは、桜実とは異なり上野が要求してきたのが机その物の譲渡である点だ。上野と桜実の目的は同じではない?

 

「この机――」

 

 まったく何の変哲もない、普通の机に見える。二人があそこまで執着する目的はなんだ?露伴は桜実がしていたように引き出しを開けてみた。5ある引き出しの中身をすべて取り出し、奥まで覗き込むが、やはりそれらしいものは見当たらない。では側面は?机のあちこちを掌で探るも、特に変わった様子は見られない。

 

「やはりただの机だ」

 

 首を傾げるしかなかった。だとすれば“薄い半透明な布”はむこうの思い違いか。もしくはあの骨董品屋の店主が見付けて取り出したかだが、露伴の住所を店主から聞き出したと仮定すればその可能性は低そうだ。露伴は気を取り直すと、背面を確認すべく机を壁から離した。見た目から十分な気合いと力を込めていざ持ち上げてみると、机は想像以上に軽かった。え?と思わず声が漏れる。勢い余って後ろによろける。

 

 軽すぎる。

 

 バランスを取り直し、机を着地させた。搬入時は業者に頼んだため自分で動かすのは初めてだった。軽く30㎏はあると考えていたが、持ち上げた感じどうも10㎏そこらである。露伴は天板に手を添えた。厚みは10㎝ほど。中の詰まった木ならこんなに軽いはずがない。試しに中指の第二関節で天板をノックしてみた。一見厚み通りの響きのようにも聞こえるが――

 

「空洞だ」

 

 間違いない。微妙に響きが良い。なるほど隠し収納かと露伴は感心した。桜実はおそらくこの存在を知らないのだろう。そして問題はこれをどう開けるかである。露伴は回り込んで背面を確認した。それらしきものは見当たらない。露伴はもう一度、引き出しの中を覗いた。今度は引き出しの奥ではなく、天井に注目する。見た目にはわからない。露伴は手を差し込むと、内側から天板をノックした。明らかに軽い音がする。

 

 「ヘブンズドアー」

 

 露伴はそのヴィジョンを引き出しの中に潜り込ませた。

 

「仕掛けらしいものは特にないが……」

 

 内側から天板を探る。思い立って掌を当てて手前に引いてみた。

 

「ビンゴだ」

 

 板が外れ、天板の中の空間が現れる。できた空洞へ、さらにヴィジョンを滑り込ませた。空間の奥に物体を確認する。露伴はそれを、ヘブンズドアーのヴィジョンに運び出させた。出てきたものを見て露伴は確信した。薄い半透明な布。桜実の探していたそれである。引き出しを元に戻すと、布をそっと机の上に広げた。絹製だろうか、滑らかな肌触りだ。布は非常に薄く、そして細長かった。とても机の上では広げきれない。いっぱいいっぱいに広げた状態で、露伴は腕を組んだ。これは桜実にとっての何なのだろうか。美しさこそ感じないこともないが、人を惹き付けて止まない何かがあるとは思えない。それとも思い入れのあるものなのだろうか。ともかく、特別な何かがあるようには見えない。

 

「とりあえず保管しておこう」

 

 釘を刺したからにはもう一度があるかは分からないが、また彼女が訪ねてきたら今度は返してやろう。それまでは、もうすこし環境の良い場所に置いておこう。露伴は布を抱えて寝室を出た。

 

 

 

 

 翌日、いつものように“カフェ・ドゥ・マゴ”で打ち合わせをしている露伴の元に、上野は再び姿を現わした。偶然だ、と声をかけてきた上野であったが、露伴の家からそう遠くない場所である。偶然であるはずがない。

 

「知り合いの方ですか?」

 

 居合わせた編集の旭蓬莱(ほうらい)の問いに、露伴は答えなかった。ただじっと上野を見上げる。意に介した様子もなく、上野は二人のテーブルにさも自然に腰かけた。ワイシャツのボタンを緩めつつ、側を通りかけたウエイトレスを呼び止め、なんか冷たい物ちょうだい、と注文する。

 

「アイスコーヒーでよろしいですか?」

 

「なんでもいいよ。面倒くさい」

 

 ウエイトレスを追いやり、暑いですねえと二人に笑顔を向けた。蓬莱が愛想笑いを返す。

 

「考えていただけました?岸辺露伴さん」

 

「言っただろう。譲る気はない」

 

「そこまで言うなら言い値で払いましょうか」

 

「断る」

 

 露伴は目もくれずに答えた。ただならぬ空気を察したか、蓬莱の笑顔が引っ込んだ。

 

「ここまで譲歩したのにですか。あんたも我儘だ」

 

 露伴は紅茶を飲みながら静かに上野の言葉を聞いた。カップを置き、それから一言。

 

「分からないな」

 

 その間も露伴は上野に目もくれない。

 

「あの……露伴先生、この方は――」

 

 いまいち状況を理解しきれない蓬莱が、おずおずと尋ねる。その言葉尻を遮るように、ドン!と上野がテーブルを叩いた。

 

「こっちが下手に出りゃいい気になりやがって……あんた何がしたいんだ」

 

 初めて露伴は上野に目を向けた。

 

「それはこっちのセリフだ。あんたが欲しいのは本当に“机”なのか?」

 

 上野の表情が変わった。驚きとも怒りとも取れるような、険しい顔つきだ。

 

「お前――何を知ってるんだ」

 

 露伴は答えない。ただ上野の目を見詰め続けた。ウエイトレスが上野の飲み物を持ってきた。

 

「長い間妻と喧嘩していたんだ」

 

 上野は飲み物に目を落としながらそう語った。

 

「妻には一目惚れでね。互いの家には反対されたんだが、駆け落ち同然で一緒になった」

 

 上野の声は震えている。蓬莱はやはりさっぱりとの状態で、露伴と上野とを交互に見ていた。

 

「二人ともほとんど身一つな状態だったが、妻にはどうしても持っていきたいものがあった。それがあの机でね」

 

 露伴の様子を窺うように、上野は上目遣いで露伴を見上げた。露伴はいたって冷静に彼の目を見詰め返した。上野はすぐに目を逸らす。

 

「祖父の形見だとかで、とても大切にしていた。最初は二人ともうまくやれていた。だが生活を重ねるうちに、どうしてもうまくいかなくなった。当然でしょうね。無計画な駆け落ちだったんだから。家計が苦しくなって、妻とは喧嘩が絶えなくなった」

 

 上野が鼻をすする。蓬莱があわててポケットティッシュを取り出した。それを手で遮り、上野は話を続ける。

 

「ある日大きな喧嘩をしてね。私は腹いせにあの机を売り飛ばした。ほんとにちょこっとだが、値が付いたのは覚えている。私がどうかしてたんだ。当然、それを知った妻は出ていった」

 

「あの……鼻かんだほうがいいですよ」

 

 蓬莱が再びティッシュを差し出す。今度はそれを受け取った上野は、大きな音を出して鼻をかんだ。

 

「失礼。妻が今どこで、何をしているのかは知らない。あれっきり音沙汰なしだ。勿論私が全面的に悪いことは分かっている。だがどうしても諦めきれない。あの机を取り戻せば彼女が戻ってくる。もう一度やり直せると思ったんだ」

 

「露伴先生、話がよく見えないんですが、この方の言う“机”を露伴先生が買われて、それを返して欲しいという、そういう話ですか?」

 

「そうだ。古物商を通してな」

 

「あの――余計なお世話だなとは思うんですが、今の話を聞いてお返ししてもいいんじゃないかなと思ったんですが」

 

 蓬莱の言葉に上野は顔を上げた。露伴はそれを鼻で笑った。

 

「どんな理由があろうが僕には関係ないね。今は僕の所有物だ」

 

 ところで、と露伴は上野に尋ねる。

 

「あんたの奥さん、名前は何て言うんだ」

 

「桜実だ。桜の果実で桜実。それがどうした」

 

 なるほど。露伴は合点した。

 

「やっぱり譲れないな」

 

 それだけ言うと、露伴は荷物を片付け始めた。それを見た蓬莱が慌てる。

 

「え!先生!打ち合わせは!?」

 

「この状況でどう打ち合わせするんだい。仕切り直しだ」

 

 伝票を片手に露伴は席を立つ。上野が睨み付けてくる視線を他所に、露伴は颯爽と会計へ向かった。蓬莱も上野へ簡単な挨拶をして後を追う。

 

「岸辺露伴さん!またお邪魔しますから!」

 

 叫ぶ上野を、露伴は一瞥した。笑顔の上野の目は笑っていなかった。

 

「先生!あれじゃああんまりでしょう!1」

 

 店を出たところで蓬莱が抗議する。露伴は立ち止まることなく、駅の方面へ足を向けた。

 

「上野桜実だ。君は彼女を調べてくれ」

 

「調べるって――何を調べるんですか?」

 

「県警のホームページに行方不明者の一覧が載ってるはずだ。できれば全部の都道府県を調べて欲しい」

 

「先生、まったく意味が分かりません」

 

 とにかく説明不足が過ぎます、と蓬莱は露伴を責めたてた。

 

「今は何も聞かなくていい。とにかく君は上野桜実が行方不明かどうかを調べるんだ」

 

「ですが――」

 

 露伴は足を速めた。蓬莱は既に小走りだ。

 

「僕は別の用事がある。そっちは君に任せたよ」

 

「用事って。打ち合わせの続きはしないんですか??」

 

「続きってのは、君が1週間考えてきたネタを披露するあれのことかい?いらないよ」

 

 腕時計に目をやりながら、露伴は手を振る。

 

「解散だ。あとで結果を送ってくれ」

 

 こうなった露伴はもうダメだ。蓬莱は立ち止まり、駅へ向かう彼を見送った。

 

 

 

 

 

 家に空き巣が入ったとの報が入ったのは、それから2時間も経たないうちだった。出先で既に目的を果たしていた露伴は、帰路につく途中でそれを知った。

 ホームセキュリティを導入していたためすぐに警察が駆けつけたものの、犯人は逃走したとのことだった。被害状況はリビングの窓ガラスの破損と、寝室のクローゼットが荒らされていたのみ。上野の他に居ないだろう。報告を聞いてすぐに思い至った。

 露伴の進行方向の先には太陽があった。夏にさしかかった杜王町は異様に蒸し暑い。家に帰るまでの道で蓬莱に電話をかけると、彼は既に上野桜実の名前をA県の行方不明者リストに見付けているようだった。露伴はそれから、自宅に空き巣が入ったことを報告した。

 

 蓬莱との電話を切った頃には、家のすぐ側まで来ていた。曲がり角にさしかかる。

 

 と、目の前に人影が飛び出してきた。露伴と正面から衝突する。突然の事態に、露伴は受け身も取れず尻餅をついた。

 

「僕の家を随分と荒らしてくれたようじゃあないか」

 

 相手は他でもない上野だった。露伴は胸元のペンに手を伸ばした。

 

「あんた、あの()をどこにやった」

 

 あの布のことだろう。書斎の方に移していたが、露伴はそれを教えることはしなかった。

 

「さあな。何のことだかわからない」

 

 警戒しながら、露伴は片膝立ちの姿勢をとって上野を見上げた。太陽を背に立つ上野が右手に刃物を握っていることに気付いた。刃先から液体が滴る。そのときになって、露伴は脇腹の違和感に気付いた。熱い。発熱部分を確認する。真っ白なシャツの1ヵ所に、赤黒いシミが広がっていた。

 

「ぅおおおおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 腹を抱えるように蹲りながら露伴は叫んだ。その顔面を上野が蹴り上げる。脳が揺れた。

 

「るせえなあ。その程度で痛がんじゃねえよ」

 

 上野は正面にしゃがみ込むと、露伴の顔を覗き込んだ。

 

「店のじじいも服のことは知らなかった。あそこに入ってるって知ってたのは俺だけだ。取り出したってんならテメェしかいねーんだよ!」

 

 上野の顔つきはこれまでとはまるで別人だ。イカレてる。露伴は焦った。ヘブンズドアーは奇襲には弱い。このままでは反撃もままならない。刺された腹部からの出血が多いのか、意識もはっきりしなくなってきている。非常にマズい。殺される。

 

 とにかくヘブンズドアーを。うまく動かない体を鞭打ち、ペンを握った右手を上野に向ける。露伴の不審な動きを察知したか、上野は露伴の髪を掴むと顔を地面に叩きつけた。

 

「ゴフッ!」

 

 一瞬意識が飛ぶ。声も出ない。

 

「なあ岸辺露伴さんよお。あんたマンガ家なんだってなあ。手、大事だろう?」

 

 少しの気絶の間に露伴は組み敷かれていた。上野は露伴の右手に対しこれ見よがしに刃物をあてた。

 

「止めろぉぉッ!!」

 

 叫んだつもりだった。だが喉から漏れるのは空気ばかりだ。

 

「どいつもこいつも俺から大切な物を奪いやがって!吐け!!今なら指の一本で許してやる!!!!」

 

 かつて一度だけ、“レッドライン”を越えたことがある。あの時は全治4週間のケガで済んだ。露伴はそのことを振り返った。利き手は命よりも大切だ。上野の温情があるうちに答えて、解放して貰うのが何よりだ。交渉次第では傷ひとつなく許してもらえるかもしれない。この先のキャリアを考えれば、その選択が最善択だ。

 露伴の中にある恐怖心が心の中から語りかけてくる。さあ声を出せ岸辺露伴。泣いて許しを請えば、目の前のこの男は最低な行為だけはしないでくれるだろう。上野もそれを待っている。だが――――

 

 

 だが断る。

 

 

 声が出なくとも、上野にもはっきりと分かるように口を動かした。

 

「殺してやる!!」

 

 上野が吠えた。ざまあみろと露伴は笑った。自分も死ぬかもしれないが、この男の言いなりはもっとごめんだ。

 

 露伴が覚えているのはここまでである。

 

 

 

 

 

 

   *

 

 

「思ってたより元気そうで何よりです」

 

 “亀友”と書かれた紙袋を枕元の床頭台に乗せる蓬莱は嬉しそうに露伴の顔を覗いた。

 

()()()()だって?冗談じゃあない」

 

 顔面のほとんどを包帯に覆われ、左目と口だけを覗かせた露伴は、リクライニングベットの上で半身を起こしてノートの上にペンを走らせていた。

 

「そんなこと言いながらめちゃくちゃ描いてるじゃないですか。仕事も手につかなくなるくらいショック受けてたらどうしようかと思ってました」

 

「暇なんだよ。本当は原稿を描きたいが、インクがシーツに移ったら困ると怒られた」

 

「仕事熱心ですねえ」

 

 蓬莱は紙袋から“ごま密団子”の箱を取り出した。

 

「それ持ってくるかぁ~?普通」

 

 それを見た露伴は顔をしかめた。有名な和菓子ではあるが、見舞い品にチョイスするものでもない。

 

「ダメでしたかあ。美味しいって聞いたんでつい」

 

「固形物すらしばらく口にしてないんだぜ?そーゆーのさあ、気遣うもんじゃあないか」

 

「やあすみません」

 

 悲しそうに床頭台の上に戻す。二人は無言になった。

 

「ともかく生きてて良かったですよ」

 

 不幸中の幸いだった。空き巣の件で警察が警戒していたこともあり、叫び声を聞いた警察がすんでの所で駆けつけたらしい。またしても上野は取り逃がしたようだが、右手は傷なく済んだ。上野は今も逃走を続けているようだ。

 

「上野桜実のこと、教えてくれませんか。ずっと気になってて」

 

 蓬莱はごま密団子の箱に再び手をかけた。

 

「どうして彼女を調べたんですか?」

 

「カフェで会ったあの男――上野上野は彼女の夫で、一度売った机を取り戻したがっている。ここまでは君もなんとなく知っているだろう」

 

「二人の会話で何となくは」

 

「あの後君と別れてから、件の机を買った骨董品店を訪ねた。上野が売りに出した店とおそらく同一だ」

 

 身をよじって蓬莱に体を向ける。刺された脇腹はまだ痛んだ。

 

「店は休業していた。近所の住人に話を聞くと、店の主人が突然いなくなったらしい。行方不明だ」

 

 おかしいですねと呟きながらごま密団子の箱を開ける蓬莱を睨み、露伴はノートを指さした。

 

「ここで食べるつもりじゃあないよな。僕の仕事道具を汚したらただじゃあおかないぞ」

 

「上野上野に上野桜実、それにその店主。みんなどこに居るか分からない」

 

 蓬莱は露伴の言葉を無視して一人思考を整理した。

 

「先生を襲ったのは上野上野なんでしょう。なら他の二人も――」

 

「それが君の結論かい」

 

 でも、と蓬莱は呟く。

 

「それじゃあ話が見えてこない。上野上野は出て行った桜実さんに戻ってきて欲しくて、原因の机を取り戻そうとしたんでしょう?先生を襲ったのだって、先生の態度に感情的になった結果の行動とも言えなくはないでしょうし」

 

 ひとつ取り出したごま密団子を片手にしばらく考え込んだ後、蓬莱は両手を挙げた。

 

「お手上げです。奇跡的な偶然だとしか」

 

「それじゃあ答え合わせをしよう。そもそも上野が取り返したかったのは机じゃあない」

 

 上野の言動からしても、取り返したかったのは彼が“服”と呼んだ、あの長い布だ。蓬莱はへえ、と生返事を返した。煮え切らない蓬莱の態度に露伴は苛立ちを覚えた。どうにか心を鎮める。

 

「……上野桜実と会ったことがある」

 

「知り合いだったんですか?」

 

「いや。ほんの数日前だ」

 

 蓬莱が両手をあげたまま後ろにふんぞり返った。

 

「じゃあ行方不明でもなんでもないじゃないですか!」

 

「そうでもないさ。彼女は()()()()()()

 

 ()()はこの世の存在じゃあない。

 

 寝相を正した露伴を、蓬莱は不思議そうな表情で見詰めた。

 

「上野上野が本当に愛していたのは、上野桜実じゃあない」

 

 彼があれだけ狂うほど取り返したかったものは机でも、妻の上野桜実でもなく、あの布である。

 

「人って複雑ですね」

 

 やはり蓬莱はどこか興味が薄いようであった。

 

「彼女に会ったんなら、警察に言っておいたほうがいいんじゃないです?」

 

「君さあ、人の話聞いてるぅ?」

 

 顔をしかめる露伴を他所に、蓬莱はごま密団子をひとつ口に放り投げた。露伴は咄嗟に叫んだ。

 

「おいそれ、絶対前歯で嚙むなよ!嚙むときは奥歯だ!!」

 

 だが時すでに遅し。

 

 ヴッチュウンンー!!

 

 蓬莱の口から液状にされたごまが盛大に噴き出した。

 

「ンマイなああッ!!」

 

 黒い蜜が弧を描いて露伴のノートに降り注ぐ。

 

「ふざけるなぁぁぁぁぁーッ!!!」

 

 露伴のこれ以上ない叫びが病棟全体に響いた。

 

 

 

 

 

 

 






京極夏彦がやりたくなりました。

次回更新は3月目指して頑張ります。マジ。

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