岸辺露伴は動かない [another episode] 作:東田
『
「梅雨だ」
五月雨の降る杜王町を窓枠から眺めながら、岸辺露伴は呟いた。
もう3日は降り続いている。眼下の道路を、雨具を着た女性が犬を連れて通り過ぎる。その散歩の様子を目にするのも、毎朝のルーティーンと化しつつある。
雨それ自体は嫌いではなかったが、梅雨の季節はあまり好きではない。湿気は天敵だ。アナログの原稿はもちろんのこと、書斎に並ぶあらゆる書誌にも気を遣う。ここのところ、書斎の除湿機はフル稼働である。おちおち窓を開けることも出来ない。
厚い雲が空を覆っていて、陽射しを浴びることもままならない。空と同じように気分も晴れなかった。心のやつれは多少なりとも作品に影響する。冬季鬱なんてものもあるが、これも似たようなものだろうかなどと考えながら、窓を離れた。
キッチンへ戻ると、サーバーに溜まったコーヒーをマグカップへ移した。つけっぱなしにしているテレビからは、海外の著名な画家が突然筆を断ったというニュースが流れてくる。コーヒーを少量口に含みながら、そのニュースに耳を傾けた。
話題になっているのは、オーレル・デュパールというフランスの画家だ。近年頭角を現わした新進気鋭の作家で、持ち前のトーク力を生かして積極的にメディア露出やSNSでの発信を行うことで世間にも幅広く認知されている。インフルエンサーとしての気質が強く、作品は見たことがなくてもデュパールの名は知っているという一般人も多い。露伴はもちろん、彼の作品を認知していた。半年ほど前に都内で開催された個展へも足を運んでいる。
”MANGA アート”と形容される彼の作品は、その名の冠するとおりマンガ的なタッチと技法を特徴としている。デフォルメされた人物や効果線の多用、サイケデリックな配色など、マンガ作品の一枚絵を切り取ったかのような作風が売りらしい。日本のマンガ文化を好む層から厚い支持を受けているそうだ。国内でも、中高生を中心とした若年層からの人気が高かった。画面上のキャスターもそれを伝える。
大層なものだ。露伴は思わず失笑した。彼の作品は絵画というよりもイラストだ。マンガの一コマを抜き出してきたかのような作品で成功を収めていることは、美術界においては確かに独自性があるものの、ここまでの評価を浴びるほどのものとも思えなかった。作品そのものの出来よりも、彼のSNS活動によるプロモーションが評価に与えている影響の方が大きそうだ。その活動を批判するつもりも毛頭ないが、彼の作品群が『マンガ』の名を冠していることだけはどうしても受け容れ難かった。ストーリーもセリフも語られない一枚の絵を、どうしてマンガと言えるだろうか。知らない作品の一コマを単発で見せられて、それを芸術作品として評価するのは一般的な感覚ではないように思えてならない。『マンガ』として見るのであれば、知らない作品の原画展を訪れた方が何百倍も有意義だ。確かに画力や表現力は素晴しいが、“MANGA アート”という代名詞をもっては評価できないというのが、露伴個人の感想である。
尤も、画力や表現力でも自分には遠く及ばないが。
「氏は自身のSNSアカウントで突然、『もう描けない』と投稿し、それ以降公の場に姿を見せなくなりました。彼の身には一体、何があったのでしょうか」
言葉を切ると、アナウンサーは次のニュースへ話題を移す。
失踪したということ以外、何も分からなかったじゃあないか。テレビの電源を消し、マグカップを片手に書斎へと戻る。木目調のブラインドは全開だったが、部屋の中は空と同じように薄暗かった。卓上のリモコンで照明を全灯にし、椅子に深く沈み込む。思い立ったようにペンを取り、原稿用紙に線を一本走らせる。インクの広がりが普段よりも少し広いことを確認して、露伴は深い溜息を吐いた。原稿が少々湿気を吸っているようだ。問題になるほどの状態でもないが、ベストコンディションからはかけ離れている。デジタル化をしていればこういうときに便利なのだろう。だが生の原稿に描く感触や、こうしたインクの滲みの機微など、デジタルでは再現しきれないアナログならではの感触が『好き』だった。打ち合わせを対面からPCの通話機能上に完全移行してから久しくなるが、原稿はもうしばらくアナログを維持するだろう。
一息吐くと、露伴は椅子の横に置いた段ボールに目をやった。昨日の夕方に編集部から届いたものだ。中には読者からのファンレターが詰まっている。数ヶ月に一回、編集部に集まったファンレターがこうして露伴の元へ届く。丁重に施されたガムテープの包装を剥がして開くと、パンパンに手紙が詰まっていた。だいたい10枚前後のはがきを一束として、輪ゴムで留められている。二束ほどを片手で取り出す。古いファンレターが上に来るように積まれているため、かなり前の掲載回に対しての感想から始まる。読者の年齢層は実に幅広い。小学1,2年生か、あるいは未就学児が頑張って書いたであろう手紙があれば、非常に達筆なものもある。連載が長期化すれば、新規読者は段々段々と減っていくものだ。若い読者がいることはありがたい話だ。加えて近年は、アニメやゲームといった多様なメディアミックスの展開により、海外の読者層の拡大も著しい。中にはわざわざ露伴宛てにファンレターを送ってくれる外国人もいる。”その一枚”も、そんな熱心な海外のファンが送ってきたものだと、露伴は最初そう思った。
それは他の束の隙間に、押し込まれるようにして仕舞われた一束だった。表に見える部分にはびっしりと外国語が書き込まれている。束を裏返すと、紙の切れ端が留められていた。担当編集者である
『とても熱心な方で、最初は送ろうか迷いましたが、同封することにしました』
簡単なメモが書き留められている。送ることを迷った、とはどういうことだろうか。メモには熱心なファンとある。ファンレターの中には、聞いてもいないアドバイスやネタの提案といった高説を書いてきたり、作品や露伴自身を強く批判する内容のものが含まれていたりする。あまりにひどいものは事前に編集部が取り除いたりもするのだが、そうしようか迷った、ということだろうか。いずれにせよ、メモの説明だけではまったく要領を得ない。束ねてある輪ゴムを取り、十枚ほどあるハガキの一通目に目を通した。
『Monsieur Rohan Kishibe』
フランス語だ。書き出しの"Monsieur"でそう判断する。日本語に置き換えると"拝啓"にあたる、手紙の文頭でよく使われる慣用句である。フランス語であれば、過去に
『あなたの絵が気に入った。』
たった二行しか書かれていない簡素な手紙だ。字は無機質さを感じさせるほど丁寧だ。裏返して裏面を見るも何も書かれていない。真っ白である。宛名も差出人の情報も書かれていない。元々は、手紙本体のほかに封筒があったのだろうか。多少の違和感を感じたが、露伴の興味は二枚目以降に移った。二枚目もまた『Monsieur Rohan Kishibe』の書き出しで始まる。
『あなたの物語が気に入った。』
簡潔な一文が添えられているのみだ。裏面にはやはり何も書かれていない。しかしそのことを除けば平凡な内容だ。この人物は露伴の作品を高く評価してくれているようだ。次の一枚を捲る。
『あなたを気に入った。』
おっと、と呟く。どうやらリアコにでもなったか。とすれば蓬莱の言う”熱心な方”にも納得がいく。続く四枚目を捲る。
『あなたの絵が欲しい。』
五枚目。
『あなたの絵をください。』
言及の主体が再び絵へと戻る。リアコというのは杞憂かもしれない。裏はやはり白紙だ。記名もない。紙の中央に印刷された無機質な文章と相まって、不気味さを感じさせる。六枚目と七枚目を続けて捲った。
『あなたの物語が欲しい。』
『あなたの物語をください。』
胸が騒いだ。熱心な追っかけや海外の熱烈なファンからの手紙は何度となく目にしてきた。ときにはファンを装って、悪戯心や悪意を持った人間が手紙を送ってくることもある。だがこの手紙は、そのどれにも当てはまらない。もっと違う何かだ。
八枚目と九枚目の内容は見なくとも『察し』が付いた。だがハガキを捲る露伴の手は止まらない。
『あなたが欲しい。』
『あなたをください。』
窓を叩く雨粒の勢いが激しさを増していく。断続的な強風が、窓枠を小刻みに震わせた。不吉の予兆を報せているかのようだ。
問題は、十枚目以降も手紙が続いていることだ。この先には何が書かれている。これ以上、何を求められる。
ここで引き返すべきだ。露伴の理性が激しく警鐘を鳴らす。彼の経験は、理屈では説明できない違和感と危機感を感じていた。まだ、”熱心なファンからの様子のおかしな手紙”で事を終わらせることができる。これ以上踏み込んではならない。だが好奇心という欲望の魔の手が、決断を覆さんと理性を襲う。一度湧き出した源泉は枯れるまで止まらない。露伴の手は、自然と次のハガキを捲っていた。
十枚目、十一枚目、十二枚目。残る全ての手紙を読み、露伴はすかさず電話をかけた。
「はいぃ、旭ですぅ」
「聞きたい。あの手紙はどこから届いたんだ?」
「手紙? ああ、ああ。あの先生にたいへんお熱な手紙のことですか」
彼の感性も、一般人のそれとは少しばかり状態が異なるようだ。露伴は黙って彼の言葉の続きを待つ。
「あれ、色々とおかしかったんで、メモに書いたとおり送ろうか最後まで迷ったんですよぉ。いやほんと」
沈黙する露伴に怒りの色を感じ取ったのか、語尾にかけて尻すぼみになる。どうやら彼にも違和感を覚える機能はあったらしい。
「あ、あれがどこから届いたかでしたっけ。それが俺にもわからんのですよ。ほらあのとおり、荷主の情報もほとんど書いてないし、消印もないじゃないですか」
「封筒に入っていたとか、二枚組になっていたとかでもなくて、あの紙ペラ一枚だけで届いたんだな」
「そうそう。普通の郵便物に混ざって届くんですよ。不思議ですよね。けど内容に問題はありませんでしたし、盗聴器みたいな変な機械が付いてるわけでもなさそうでしたから、そのまま送ることにしたんです」
局員の中にファンでも居たんですかねぇ、と軽口を叩く。現実的に考えれば、蓬莱の言うように局員か、あるいは編集社で郵便物の仕分け作業を行った人物が紛れ込ませたかのどちらかだ。あまりに非常識な話だが、そうでなければ、切手もないハガキが何通も届くなんてことはあり得ない。むしろ手紙の主が常識のない人間であってくれたほうが嬉しいかもしれない。
「困ったものを送ってくれたな」
卓上に広げた十枚目以降の三通を見る彼の表情は、言葉とは裏腹に『喜色』を帯びていた。残りの手紙には、すべて同じ文章が書かれている。
『お招きください。』
『お招きください。』
『お招きください。』
カタン、と雨音の隙間を縫うようにして、乾いた音が聞こえた。郵便受けにハガキが入れられた音だ。露伴は瞬時に『理解』した。階下の、それも玄関外からするはずの音が鮮明に聞こえた違和感は、届けられた物が何であるかを理解させるには十分だった。露伴はすぐに窓辺に身を寄せ、ブラインダーの隙間から外を覗いた。玄関はこの部屋の斜め下で、少し角度をつけて覗けば見通せるようになっている。まず配達員の姿を探した。タイミングが噛み合っただけの、普通の郵便物である可能性もある。果たして、配達員はおろか、人影のひとつも見当たらなかった。既に立ち去ったか? しかし、音がしてすぐ覗き込んでいる。そもそも車音が聞こえていない。常人であれば、視界に捉えられることなく立ち去ることは不可能だ。
「先生、どうかしましたか」
無言の露伴を案じて、蓬莱が尋ねる。
「僕にあの段ボールを送ったあと、あの手紙は届いたか?」
「届いていませんね。けど、多くても週に二通くらいの頻度でしたから、あと数日は来なくても不思議じゃないですよ」
「どうやらこっちに届いたようだ」
はい? という蓬莱の困惑の声を聞きながら、書斎を出て階段を下る。
「今、
「普通の郵便物じゃあないんですか」
「普通の郵便物がひとりでに届くか?」
露伴は起きている状況を簡潔に伝えた。
「自動配達なんて新技術、少なくとも僕は聞いたことないね」
横殴りの雨がコツコツと戸を鳴らす。郵便受けは玄関外だ。あるかも分からない郵便物のためにこの雨に晒されることが億劫だからか、足が重く感じられる。要因が雨だけでないことには薄々勘付いている。胸騒ぎがずっと『警告』している。玄関を開いたら、もう最後まで進むしかなくなる。取っ手を前にして、露伴は逡巡した。
カタン、とまた音がした。今度こそ聞き間違えはない。確実に
「間違いない。ここに来ている」
「先生、それって手紙の話ですよね?」
知りたい。送り主の正体とその目的を。自分がもう手遅れなことを、露伴は理解した。
理性は好奇心にすっかり覆われて、その衝動的な欲求が、まるで理性であると言わんばかりの面向きで、彼の次の行動を決断させた。
「礼を言うよ。君のおかげでいい取材ができそうだ」
一方的に電話を切ると、勢いよく玄関を開け放した。横薙ぎの風と大粒の雨に前身が晒される。
誰も居ない。それは想定内だ。右手の壁に設置された郵便受けを開けて中を確かめる。やはり、手紙が二枚入っていた。露伴の頬を滴が滴る。
『お招きください。』
『お招きください。』
背中が『毛羽立つ感覚』がした。裏地はしっかり白である。誰が、どうやって入れた? もう一度辺りを見渡し、誰の姿もないことを確認する。心なしか、空が暗くなっているように思える。少し空を見上げて、それから露伴は踵を返した。二歩目を踏み出す前に、その足を止めた。廊下の一点に視線が釘付けになる。顔を滴る液体が雨なのか汗なのか、露伴にはもうまったく見当が付かなかった。
手紙が落ちている。
露伴は手元の手紙を確認した。確かに二枚だ。机の上に広げていたものを間違えて持ってきてしまったか? そんなはずもない。喉を鳴らす。物音を立ててはいけないような気がして、足音を忍ばせて手紙へ近付いた。
『お招きありがとう。』
中央に印字された文字は少し滲んでいた。配列も心なしか乱れている。ポケットに仕舞ったペンを取り出し、五感に神経を集中させた。雨音はなおも激しさを増す。不意に視線を感じた。露伴はその場で体を回す。誰もいない。肩から背中にかけて、静電気でも走ったかのようにヒリついた感覚が広がり、背筋が冷える。講演会や舞台挨拶の記憶が想い起こされる。聴衆の興味が一挙手一投足すべてに注がれる、あの張り詰めた空気感だ。
「手紙だ」
手紙に見られている。感覚でしかなかったが、そう当たりをつけた。それ以外に不審物もない。露伴は手紙を『凝視した』。
足元に小さな水溜りができた頃に、ようやく手紙から視線を逸らす。落ちた手紙を足で払う。カッと小気味良い音で壁にはね返されたそれをもうしばらく眺めたあと、階段へと足を向けた。
安堵とも落胆ともつかぬ溜め息とともに、二階に向かって左へ直角に曲がる階段の踊り場に差し掛かろうとしたその時、上から手紙が転がってきた。咄嗟に身を捩る。手紙は壁に当たって中腹で勢いを失った。
『もらいに来ました。』
印字の乱れが大きくなっている。正確なゴシック調だった文字も、ところどころに歪みが現れていた。胃がもたれるような、重い感覚が強くなった。先ほどよりも明確に視線を感じる。増えていないか?
振り返って上階を睨む。拳を握り、一段一段を踏み締めるように階段を登った。
書斎に戻ると、机にまた手紙が一枚増えている。
『あなたの絵をもらいます。』
「クソッ! なんなんだコイツは! 段々とムカついてきたぞ」
原理も、その目的も、何もかもがわからない。手紙の内容はずっと簡潔で無機質で、そのくせにしてずっと意味不明だ。あえて情報を与えず、たじろぐ露伴を嘲笑っているかのようだ。それに加え、枚数を重ねる毎に崩れていく文字が余計に不安を煽った。
露伴はその手紙を掴むと、真ん中から『勢いよく破った』。手紙は何の抵抗もなく真っ二つに裂かれた。その感触に違和感を覚える。最初から切り込みが入っていたかのように、作為的なほどにきれいな直線で手紙は寸断された。自身の行いが無意味だと否定されたようにも思えて、益々苛立ちが募る。
視線が増える。
書斎のドアを塞ぐように、人の塊があった。
顔を上げた露伴の目に、その異常な光景が飛び込んだ。四方三メートルほどの狭いスペースに、お互いを潰し合わんほどに隙間なく、みっちりと人間が犇めいていた。塊と呼ぶ他にない光景だ。流石の『露伴も言葉を失った。』ざっと数えても二十人は居る。年齢も性別も人種もバラバラだ。全員呆けたように口を開けて、やけに湿度を持ったような眼差しを露伴に向ける。見ていたのはこいつらだ。そう理解すると、全身を悪寒が走った。顎先を伝って水滴が滴る。
「おいお前ら! 何をしている! どこから入ってきた!」
意味のないこととは理解しつつも、露伴は声を張り上げた。返事はない。コミュニケーションを取れる相手ではない。
「ヘブンズドアーッ!」
見える全員に、一斉に叩き込んだ。
バラバラバラバラ
何百というページが揃って捲られる。人々は立ったまま、額を少しだけ上向きに傾けた。袖で顎を拭って集団に接近する。開かれたページの中身が目に入り、心臓が跳ねた。
「これは一体…… ”コマ割り”だと!?」
露伴にとってはよく見慣れたものだった。絵やセリフこそないが、それが明確にマンガのコマ割りであることだけは判る。バラバラと他のページを捲る。コマ割りの線だけが引かれた、白紙ばかりだ。こんなことは初めてだ。無意識に『親指の爪を噛む』。
「どういうことだ。白紙の方がまだ理解できる」
ヘブンズドアーは、記憶や経験、思考を文字情報にして読み取る。本人も自覚しない肉体の些細な記憶や、魂の記憶も書き起こされる。何の記憶も経験も得ず、何の思考もない魂であれば、何の情報も記されていない真っ白なページを読むことができる。勿論そんな魂があれば、の話だが。しかしこれは違う。
「このコマ割りがコイツらの記憶と記録! バカな! あり得ない!」
いっそう激しい雨が、家全体を叩きつける。雨筋に覆われて、窓の外の杜王町は姿を隠した。
だが正体が何であろうと、読めるということは書き込めるということ。極めて平静を保とうと、露伴はその場の全員に、息をつく間もなく『命令』を書き込んだ。
『岸辺露伴を攻撃できない』
これで安全に、こいつらの正体を探ることができる。しかしその安堵も束の間。その書き込みの下に、新たな文章が浮かび上がった。
『Monsieur Rohan Kishibe』
うっ! と呻いて、露伴は後ずさった。更に文字が加えられ、次の言葉を示した。
『あなたの物語をもらいます。ヤツキユミコ』
「この文字は!」
上ずる声で露伴は叫んだ。記憶のページに手紙の続きが書き込まれたことも、書き込んだ命令が改変されたことも大した問題に感じないほど、その事実に衝撃を受けた。
「これは僕の文字だッ!!」
線の太さも、払いのクセも、形も、すべて露伴の筆跡と同じものだ。
バラバラバラバラ
突然、全員のページが勝手に捲られる。露伴はさらに一歩後ずさる。コマ割りのみの白地のページで一斉に止まると、インクの染みが徐々に浮き上がりだした。
「マンガを描いている……」
コマの中にキャラクターと効果線が少しずつ描き込まれていく。全容は見えないが、そのタッチも明らかに見覚えのあるものだった。自分の絵だ。露伴は『確信』する。文字だけでなく、絵も真似されている。
「『あなたの絵をもらいます』……ッ!」
手紙に書かれていたものの意味を、やっと理解する。文字も絵と同じ、線の集合だ。それが奪われた。そして絵の次は? 拳を固く握る。
『あなたの物語をもらいます』
「やめろ!僕の作品を奪うんじゃあないッ!!!」
手前の一人に飛びかかり、ページを破り取る。同時に、左頬に激痛が走った。『顔を押さえて悶える。生温かな感触が手に』広がった。
「これは一体!」
反撃を受けたのか? 裂いたのも左のページだ。原理は不明だが、安易な攻撃は危険だと判断し、再び距離を取る。
コマに書き込まれるスピードは段々と加速している。完成しつつある一コマに描かれたキャラクターを見て、露伴は三度目の衝撃を受けた。髪を束ねあげる特徴的なバンダナ。露伴の作品調にデフォルメこそされているものの、それだけで誰を描いているのかは一目瞭然だった。
「僕だ! この作品の登場人物は
描き込まれた露伴の左頬に、ペン先を弾いたようなインクの跡が乗る。驚いたような、慄いたような表情の横に、吹き出しとセリフが書き込まれた。
『思い違いをしていた』
鼓動が一気に速まった。内臓を突き上げられた気分だ。そのセリフは、たった今露伴に浮かんだ思考と、一言一句違わない。続く一文が書き加えられる。
『奪われたのは作品じゃない!』
マンガの中で露伴は叫ぶ。続々と次のコマが埋められていく。
「これは…今の僕を描いているのか?」
『これは…今の僕を描いているのか?』
マンガの中の露伴が顔を拭う。そのコマを視認すると同時に、『額から垂れた汗』が目に入る。思わず『袖で目を』擦った。『あなたの物語をもらいます』。手紙の一文を思い出す。絵が模倣されたように、てっきり作品のストーリーを模倣されたものだと思っていた。露伴は自分の左手を本にする。手のひらの皮がめくれ、バラバラと開かれる。大ゴマで”本になった手を見詰めて叫ぶ露伴”が描かれていた。
『奪われたのは! この
「奪われたのは! この
視線が向けられる。
虚ろな目で天井を眺めていた彼らが、一斉に露伴へ首をもたげた。今度は焦点が合う。
『これは”ヘブンズドアー”によって写し出されたマンガ。記憶を写し、思考を写す』
漫画の中と現実で、彼らは同じように並び、そして同じように語り始めた。
『このマンガが
その言葉のとおり、ヘブンズドアーは事実を写し出す。そこに虚構はない。ウソはウソとして書かれる。
「事実を写す…」
『事実を写す…』
ウソはない。ハっと露伴は思い至る。もう一つの、命令を書き込む力。物理的に達成可能な命令は、本人の意思や行動を決める。なぜか。書いてあることすべてが事実だからだ。事実を写し出し、事実を描く。マンガ家という、物語の創作を生業とする露伴にお誂向きな能力。それが覆された。
『僕は今、”描く側”ではなく”描かれる側”!!』
「僕は今、”描く側”ではなく”描かれる側”!!」
これはきっと悪い夢だ。全身が『震える』。耐えられる屈辱ではない。
『Monsieur Rohan Kishibe』
その群れから発せられる声は、不気味なほど揃っている。
『止めろ! それ以上を言うなッ!』
「止めろ! それ以上を言うなッ!」
『口を噤む』
命令を書き込む。だが次のコマの完成が、それを僅かに上回った。
『「やめろおおおぉぉぉぉぉッッッ!!!!!!」』
露伴の叫びが部屋全体の空気を震わせる。彼らは口を開く。
『あなたをもらいます。』
これは『岸辺露伴の物語』。
『肩』で息をしながら、『露伴』は全身を『くまなく検分した。』大きな変化は『ないが、マンガは絶え間なく描き続けられている。』何かに着実に『蝕まれていることは確実』だ。『
「どこからだ」
この侵食はどこから始まっていた? 手紙を招き入れたのは間違いなく自分の意思』だ。好奇心に駆られて『危険を承知で扉を開いた。本当か? 疑念が膨らむ。』それは本当に自分の意思なのか? 今の自分が『物語の登場人物なのだとすれば、その判断が本当に自分のものであるかは疑わしい。どこまでが自分の判断で、どこからが仕組まれたものだ?
露伴は既に気付いている。認め難いだけだ。
手紙の入った段ボールを受け取ってしまったときから、筋書きは立てられていた。決められた枠の中で立ち回ることしか』できない。『物語は進行する。
「僕が主人公ならどうするか……まさか本当に主人公になるとはな。これが『岸辺露伴の物語』だというなら、物語は僕を中心に動くはず」
何か手があるはずだ。頭の中を血液が巡るのを感じる。物語を去る方法は二つある。そのキャラクターが目的を果たすか、あるいは死ぬかだ。後者はハナから選択外だ。となれば、目的を果たすことが必要だ。
「僕にとって、目的と呼べるものは一つだけだ」
生きること? 違う。それは露伴にとって手段でしかない。何のために生きる? 何に幸福を感じる? なぜ好奇心で、危険な物事にも首を突っ込む?
「面白いマンガを描くためだ!!」』
もし死後もマンガを描き続けられるのなら、死ぬことに大した抵抗はない。むしろ一度体験したいくらいだ。だが現実、死して尚書き続けることはできない。『だから死にたくない。
だがその目的が、今は最大の障害だ。
『それは果たすことのできない目的だ』
群れは口を揃えて嘲る。
自分自身が満足する物語を描けるわけがないからだ。だから……
第三の選択肢が浮かぶ。
『目的を果たさずとも、目的を捨てれば舞台を去ることはできる』
「憶測でしかないが……オーレル・デュパールはその選択をした。そうだろ」
もう描けないと言い残して姿を消した、新進気鋭の画家。彼は舞台を降りる選択をしたのだろう。
「僕に筆を置けと?」
確かに選択肢だ。死と同じか、それ以上にあり得ない選択肢。
『描くことを止めれば助かる』
その言葉で露伴の意志に火が点く。
『だが岸辺露伴は描くことを止められない』
「そのとおりだ。よく分かっているな。その解釈の深さには敬意を見せてやる!」
ペンを構えた右手を勢いよく振り上げる。瞳の奥に光が灯った。
「第四の選択肢だッ! 僕は描き続けるぞッ!!」
だが勘違いするなよ。
「描き続けたうえで、勝つのは僕だッッッ!!!!」
*
「魂の重さがどれくらいか知ってるかい」
突然飛んだ話題に、はいぃ? と画面の向こうで蓬莱は素っ頓狂な声を上げた。
「先生ぇ、俺が聞きたいのはそういう変な豆知識じゃなくて、次の展開の話なんスよ。”圧力を操る”中ボスを倒した次の敵、思いつきました?」
「だからァ、その話だよ。魂の重さ」
「イヤ知りませんけど、命の重さに大も小もないんじゃないすか? 等しく尊いもんですよ」
「君のそれは命の価値の話だろ。”質量”だよ、僕が聞いてるのは」
ふーん、と薄い反応を見せながら、蓬莱は手元のボールペンを分解し始める。いつもの手癖だ。もうイチイチ指摘する気も起きなかった。
「21gだ。単三電池大体一本分の重さ。二十世紀にアメリカのナントカって医者がそう発表した」
「じゃあ、俺たちは実質単三電池一本で生きてるってことですね」
「どういう理屈ぅ? それ」
咳払いをして、露伴は話題を戻す。
「まあ、それ自体は科学的に否定されてる話だ」
「ええ、じゃあ何の話っすか、これ」
蓬莱の手の動きが止まる。顔には困惑の色がある。
「発想が面白いじゃないか。もし魂に質量があるとしたら。例えばこう…魂と肉体の分離は可能なのか、とか」
サインペンを手に取って、そのキャップを外しながら説明する。
「物語はいくらでも作れる。どこかのカルト宗教による魂の分離儀式とか、どこかの軍が秘密裏に実験していたとか」
背景なんてそんな程度でいいし、それを生み出すなんて造作もない。
「志半ばで肉体と分離してしまった、ある作家の魂。こいつが次の敵だ」
「それって、どうやって主人公と敵対するんスか?」
露伴は椅子を立つと窓辺に歩いた。ブラインダーの隙間に指を差し込み、外界を見る。杜王町は四日ぶりの晴天だ。
「主人公の魂を”自分の描く物語の中”に閉じ込めるのさ。『そういう敵の物語』だ」
”描かれていない部分”はいくらでも描ける。真実がどうであろうと関係ない。露伴の描く物語ではそれが
岸辺露伴はマンガ家だ。物語を描く側。
「ところであの差出人不明の手紙のこと、何か分かりましたか?」
「あれはただのファンレターだよ」
カメラに背中を向けたまま返事を返す。
岸辺露伴の絵が好きな、岸辺露伴の物語が好きな、岸辺露伴という作家が好きなファンからの手紙。それは紛れもなくファンレターだ。
「アレを気に掛ける必要はない。それよりも君は、”打ち合わせ”が仕事だってことをもうちょっと意識するべきだぜ」
またペンの分解を始めた蓬莱を戒める。対面であれば、今すぐにでも止めさせられるのに。デジタル化の弊害だ。思いっきり舌打ちをした。
』
窓にポツポツと水滴が落ちた。開けていた空を急速に雲が覆い、杜王町に影を落とす。犬を連れた女性が家の前を足早に過ぎてゆく。ガラスを伝った雫の後が、段々と小さな川となって流れた。
「梅雨だ」
岸辺露伴は呟いた。
圧力を操る敵は高血圧で死にました。