岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:06 《独立不撓》

「『凱風快晴』って知ってるか?葛飾北斎の『富嶽三十六景』の一遍で、赤富士を描いたものだ。あれと『神奈川沖浪裏』が最近、それぞれ五千万円ほどで落札された」

 

「北斎って?あの北斎?五千万円は安すぎじゃありません?」

 

「落札されたのは、あくまで版画だ。オリジナルのものでも数千枚は刷られている。主版ならともかく、大量に流通した版画の一枚に五千万円というのは破格だ」

 

「だったら、どうしてそんなお値段が?」

 

「保存状態が良かったからだ。版画というのは、主版さえあれば何度でも刷れる。―浮世絵があの当時流行したのには、そんな理由もあるわけだが――一般に出回ってたわけだから、つまり素人の手にも渡っていたってことだ。そうなると、現在まで良質なまま保存されたものは少なくなる。更に今回のものはより早い時期に刷られていたものだった。だから、より価値が高まったわけだ」

 

「へえ、そうなの」

 

 岸辺 露伴と向かい合って座る女性は生返事を返した。恰幅が良く、“いかにも”な金色のアクセサリーを全身に纏っている。女性が椅子に腰を掛け直すと、ジャラジャラと金属の擦れ合う音がした。

 

 金井 毬亜(まりあ)、39歳。一児の母で、専業主婦。夫はここS市の地元中小企業の社長である。そんな彼女が子供を連れて露伴宅の呼び鈴を鳴らしたのは、まだほんの十五分ほど前の事である。

 

「それで、どうして北斎なんかの話を?」

 

「芸術品というのは、決して外見だけではその価値を判断できない」

 

 露伴は正面の机に置かれた、十五センチ四方の木箱を手に取り、蓋を開いた。

 

「いつ、どこで、誰が作ったのか。勿論例外もあるが、そういった情報が前提として必要だ。それらがあって、初めて“芸術品”としては価値が測られる」

 

 木箱には、高さ十センチほどの土偶が横たわっていた。

 

「遮光器土偶。縄文時代に作られたものの中で、最も有名なタイプのものだ。教科書にも載ってるな。だが、こんな小さなサイズのものは見たことがない」

 

「実家の蔵にあったものですの。祖父が亡くなって、その遺品を整理している中で見付けました。他にも古いものが沢山あったけれども、一番に目についたのがそれ」

 

「聞いたよ、親戚から」

 

 露伴は蓋を閉じると、箱を机に戻した。

 

「鑑定に出そうとも考えたが、場合によっては作品の値段よりも鑑定料の方が高くつくこともある。こんな微妙な骨董の場合、尚更だろうな。それで先に、大まかにでも値打ちのあるものかどうかを知りたい。それを友人に相談したところ、その親戚である僕に何故か話が回ってきた」

 

 それだけアクセサリーに金をかけておきながら、何故そんな所でケチるのか。露伴は小さく息を吐く。

 

「結論から言おう。これが価値のある本物である可能性は低い。そもそも、こんな小さな遮光器土偶は見たことがない。もし仮にこれが本物なら――保存状態は良くないが、資料価値として評価は一変する。だがどちらにせよ、本当の値打ちが知りたいのなら、ちゃんとした所に持っていく事をおすすめするね。この作品に興味は湧いているが、あいにく専門知識に欠ける。今の僕には無理な注文だ」

 

「あらそうなの。それじゃあ困っちゃうわねぇ」

 

 知ったことかと心の中で呟き、露伴は立ち上がる。

 

「さて、それじゃあ僕も仕事があるのでこの辺で――」

 

 ガシャン――――

 

 露伴の言葉を遮るように、背後で大きな物音がした。振り返ると五歳ほどの、毬亜の子供が突っ立っていた。その足元には

 

「何をしているんだあアアアアアアーーーッ!!」

 

 露伴はそれに駆け寄った。

 

「“一反木綿”に“油すまし”――おい“鬼太郎”まで壊れてるじゃあないかッ!」

 

 床に散乱していたのは、棚に飾ってあった水木しげるの妖怪フィギュアだった。

 

「どうしてくれるんだ!五万円はするんだぞ!!」

 

 呆然と立ち尽くす子供に露伴が怒鳴る。

 

「スミマセンねぇ~センセぇ」

 

 椅子にもたれた金井 毬亜が、机に肘を立てて謝罪を口にする。

 

「でも、その辺で許してくれません?子供のした事ですし」

 

「あのなぁ」

 

 思わず露伴は顔をしかめた。

 

「それに、そんな壊れやすいものを、そんな所に置いていた先生にも問題はあったと言うか」

 

 今度は頭を抱える。

 

「――お母さんのところへ戻りなさい」

 

 子供を母親の元まで帰す。安易に家に上げた自分の失態だ。フィギュアをひとまず棚の上に置き直す露伴に、毬亜が語りかける。

 

「やっぱり子供は、のびのび育てた方がいいですからねぇ」

 

 露伴は溜息を吐くと椅子に戻る。

 

「貴方の教育方針にどうこう言うつもりはない。だが“けじめ”は必要だ。それがどのような形であれ、子供の過失は親の責任。弁償しろとは言わないが、せめての態度ってものがあるんじゃないのか」

 

「ですからセンセ、謝ってるじゃないですか」

 

「ああ…そうだな……確かにそうだ…」

 

 嫌な汗が流れる。自分の主張を絶対として曲げない。苦手な人種だ。

 

「その首輪は」

 

 これ以上話を続けても無駄そうだと判断し、露伴は咄嗟に話題を逸した。毬亜の横に立つ子供の首を指差す。鉄状の、銀の首輪が巻かれている。

 

「それもファッションなのか?」

 

 それにしてはダサい。デザインらしいデザインというものがまるで存在しない、無骨なものだ。毬亜の装飾を見るに、どうも自分の子供にそんなものを付けさせるとは思えない。

 

「ああ、それは。何だかよく分からないけれど、この土偶と一緒で実家の蔵にあったもの。気付いたらこの子の首に付いてたんですのよ。何でか、全然外れなくなっちゃったのだけれど…別に不便でもないし、何か面白いからそのままにしてるの」

 

「色々まずくないのか。衛生面とか」

 

「そうねぇ。まあでも、今すぐに病気になるわけでもありませんし。そのうち外しますし?」

 

「あのなぁ…」

 

 言いかけた言葉を飲み込む。額に手を当てて、困惑した表情を作った。

 

「とにかく。お役に立てず申し訳ないが、その掘り出し物は僕が判断できる代物ではない。悪いが、専門家を訪ねてくれ」

 

「そう。じゃあ残念だけれど、おいとまさせてもらうわ」

 

 毬亜は木箱を鞄に仕舞うと、部屋の入り口に立った。

 

「剛ちゃん、帰るわよ」

 

 それが子供の名前なのだろう。だが返事はない。

 

「剛ちゃん?」

 

 毬亜が呼びなおす。やはり返事はない。二人は部屋の中を振り向いて見た。

 

「…剛ちゃん?」

 

 部屋の中には、誰も立っていなかった。

 

「剛ちゃん――どこへ行ったの?」

 

 またあの子、遊んでるのかしら。毬亜が呟く。しかし

 

「いや………」

 

「――――ッ!!」

 

 様子に気付いた毬亜は息を呑んだ。

 

「剛ちゃん!!」

 

 二人が座っていた、部屋中央の接客テーブル。その影に、少年は倒れていた。毬亜が駆け寄る。

 

「ああっ。どうしたのッ 何があったのッ」

 

 少年は、首輪に指をかけ、泡を吹いて気を失っていた。首には赤く引っ掻いた痕がある。

 

「これは…何だ。何が起きている」

 

 しかし、露伴の目は別のものを捉えていた。

 

「何者だッ!お前はアアッ」

 

 露伴が叫ぶ。少年の首を絞め上げる“それ”の姿が、露伴には視えていた。

 

 “それ”は笠をかぶり、蓑で全身を覆っていた。足には藁靴を装着しており、露出している部分は顔と手のみ。その肌は、まるで影のように真っ黒だ。

 

「どうしたの!?剛ちゃん!!ねえ、大丈夫?」

 

「視えて…ないのか…?」

 

 少年の首に手をかける“それ”の姿は、毬亜には視えていないようだった。

 

 

「首…もしかして首輪なの!?」

 

 毬亜が少年の首輪を外そうと引っ張る。だが首輪は、外れるどころかピクリとも動かなかった。

 

「そんな――何でッ!」

 

 毬亜が叫ぶ。

 

「癒着してるッ!!」

 

 間に指を捩じ込む隙間もない。首輪は、少年の首の皮と同化していた。

 

「先生!助けて!剛ちゃんが…このままだと死んでしまう!!」

 

「分かっているッ!」

 

 分かってはいる。だが、この目の前の存在の正体が掴めない以上、迂闊に動いても事態が好転するとは限らない。相手の手の内が読めないうちに、こちらの手の内を晒すのは得策ではない。汗が露伴の頬をつたう。

 

「首輪――首輪が――」

 

 目眩がして、毬亜はしゃがみこんだ。

 

「――“首輪”」

 

 その拍子、過去のある記憶が、毬亜の脳裏をよぎった。

 

 

 

     *

 

 毬亜の実家、金井家は、山間部に位置する集落の地主の家系だった。本家の血族に生まれた毬亜には、成人した兄と、大学進学で別居中の姉が居た。毬亜が五歳の時、姉が婿を取り、入籍を果たした頃のある日の事。突然、父に呼び出しを受けた。

 

「毬亜、こちらへ来なさい」

 

 毬亜が父の元へ行くと、父は何も言わずに毬亜の手を引き、母屋を出た。父が毬亜を連れて向かった先は、敷地の隅にある蔵だった。二階建て分の高さのある大きなその蔵の中へ入ると、父は毬亜の手を離し、そのまま入り口で立ち止まった。

 

「お父さん?」 

 

「毬亜、いいか。これから三十分後にお前を迎えに来る。それまで、この蔵で好きなことをしていていい。この蔵の中のものなら、何でも使っていい。ただし、一つだけ。この蔵から外には出られない。私が迎えに来る三十分後まで、この蔵の中だけで時間を潰しなさい」

 

 毬亜は意味をよく理解できず、無言のまま父を見上げた。父はしゃがみこむと

 

「金井家には、代々伝わる大切な儀式がある。その時は、必ず訪れる。逃れる事はできない。金井家に課された試練だ。私達は乗り越えなくてはならない。いいかい、毬亜。これは大切な事なんだ。三十分間、必ずここに居なさい」

 

 父が蔵の扉を閉めて出ていく。蔵の中、毬亜は一人取り残された。蔵の上部に窓が取り付けられており、そこから射し込む日光で、明かりは確保されている。毬亜は訳もわからないまましばらく立ち尽くした。

 

 五分ほどして、急激に孤独感が込み上げて来る。毬亜は何だか怖くなり、外へ出ようとした。が、外から鍵がかけられたのか、扉は開かない。いよいよ泣き出しそうになったその時、背後で何かが床を打つ音がした。毬亜が振り向く。

 

「あれは――」

 

 蔵の中央、開けた空間に、鉄の輪が一つ落ちていた。周りに棚があるわけでもない。どこから落ちてきた?天井を見上げるも、屋根まで吹き抜けの構造で、物を置ける場所はない。毬亜は首を捻りながらも、恐る恐るそれに近付いた。

 

 それは鉄の首輪だった。直径は十センチ程度。全体が銀色をしていて、結合部のみ、鎖状に編まれている。毬亜はそれをそっと拾い上げると、再び周囲を見渡した。この首輪はどこから来た?やはり何も得られないまま、手元に視線を落とす。

 

「…あれ?」

 

 首輪が消えていた。床に落としたのかと、辺りを探すが見当たらない。急に現れて、急に消えた?毬亜はもう一度首を捻る。その首に、違和感を覚えた。そっと首元に手をやる。その指が、固く冷たい何かに触れた。

 

「……ッ!」

 

 首輪が、首に巻き付いていた。

 

「こ、これって……いつの間に」

 

 繋ぎ目の鎖状部に指をやり、首輪を外そうとする。だが首輪は全く外れる気配を見せなかった。毬亜は辺りを見回した。何か、これを外せる道具はないか。錆びたノコギリなどは、手の届かない高さにはある。しかし、あれでは金属は断ち切れない。

 

「お父さん…!」

 

 毬亜は扉に飛び付いた。

 

「お父さん!開けて!怖い!―――開けろぉぉぉぉぉッ!」

 

 拳で扉を叩く。だが、それが開かれることはない。しばらくは叫び続けていた毬亜も、やがて疲れ果て、その場に座り込んだ。

 

 放置されてから、一秒も狂うことなく、きっちり三十分が経つと、扉が開かれた。

 

「毬亜、起きなさい」

 

 入り口に立つ父を毬亜は睨み付けた。

 

「首輪は――見付けたようだな。だが、試練はこれで終わりではない。いいかい、毬亜。これは乗り越えなくてはならない。お前の兄も、姉も、これを乗り越えた。勿論、私も」

 

 手を握り、毬亜を無理やり立ち上がらせる。

 

「これからしばらくの間、その首輪をつけたまま生活しなくてはならない。――無理やり外そうとしても駄目だ。それを自分の意志で外すことは不可能だ」

 

 不貞腐れた顔で指を首輪から離す。父に連れられ、毬亜は家に戻った。

 

 

 およそ一週間の間、毬亜は首輪を着用しての生活を強いられた。入浴時も、就寝時も。そろそろ首輪の存在にも慣れてきたかという頃。十月の、涼しい夜の出来事。毬亜は息苦しさを覚えて目を覚した。鈴虫の音が耳に障る。何だか悪寒がして心細くなった毬亜は、隣で眠る両親を起こそうと、上体を上げた。その瞬間、息が出来なくなった。

 

「グ……ガぇ…」

 

 首元を触る――――首輪だ。首輪が、毬亜の首を絞め付けていた。隙間に指を滑り込ませようとする。しかし、子供の細い指が入るほどの隙間さえなかった。ぴっちりと首に張り付いている。

 

 死ぬ――

 

 首を掻きむしる。首輪は更に縮まっているようだった。意識が途切れがちになる。毬亜は仰向けに倒れ込んだ。――苦しい。視界が真っ暗になる。

 

 

 

    *

 

 

 毬亜は、無意識のうちに首に手をあてていた。記憶はそこで途絶えていた。その後自分がどうなったのか。今生きている時点で、助かったようであることは理解できる。

 あの首輪――息子の剛士の首に巻かれているものと全く同じだった。しかし、自分と同じように息子が助かるだろうか。

 

 気を失ってからどれくらいの時間が経っているのか。もう時間がない。露伴は打って出ざるを得なかった。

 

「気に入らないガキではあるが――目の前で死なれる方が困るぞッ!こいつの正体は全く掴めないが、しかし!やるしかない!ヘブンズドアーッ!!」

 

 少年の首を絞める“それ”に対し、ヘブンズドアーを発動させる。笠の下の頬の皮が捲れ、本のように開く。

 

「ヘブンズドアーを気にも止めない…やはりこいつ、“人”ではない」

 

 露伴のヘブンズドアーを受けた者は、大方が衝撃を受けて気絶する。そうでなくとも、並の人間ならば怯んで少年の首から手を離すかするはずだ。しかし“それ”はそんな様子も見せず、少年の首を絞め続けていた。

 

「だが、気にも止めないと言うのなら。今のうちに全て暴いてやる」

 

 ヘブンズドアーに抵抗を示さないのであれば。露伴は“それ”に一歩近寄った。

 

「《これは試練だ》」

 

 ヘブンズドアーによって曝け出された情報を露伴が読み上げる。

 

「《金井家に伝統的に伝わる、重要な試練。避けてはならない。避ける事は出来ない。そしてこの試練を乗り越えた者のみを、金井家の子孫であると認める》…コイツは…コイツはッ」

 

 文章は続く。

 

「《金井家に必要なのは、己の力で困難を乗り越えられる血。これはその為の試練である。その為の選別である。何人たりとも。例えそれが神の加護であろうとも、この試練に介在することは許されない。己の力のみで、乗り越えなくてはならない。それが、金井家に必要とされるもの》…何人たりとも介在できない…」

 

 “手を放す”

 

 露伴は試しにそう書き込んだ。しかしその文字は直ぐに染み込んで消えた。

 

「ヘブンズドアーはきかない…ッ ルールなんだ。この子が、自分で助からなければならない。そういう金井家に課されたルール!我々はただ見守ることしか許されない!」

 

 この“試練”という概念そのものは悪意あるものではない。露伴の言ったように、これはルールであった。物理的概念ではない。“そうしなくてはならない”という規則。定義。

 

「この少年に頑張ってもらう他に手立てはないか…」

 

 何より、そういうルール。それを破ってこの少年を助けることは、おそらく全くの不可能というわけではない。しかし。露伴は考えを巡らす。金井家は、この少年に繋がるまでの全ての先祖は、これを体験し、そして乗り越えてきている。だからこそ、ここに少年が存在する。ならば乗り越えられない試練ではないのだ。露伴はそっと少年から離れた。

 

「あ…あ…」

 

 毬亜が口元を押さえる。露伴は祈った。これで死なれては目も当てられない。

 

 直後、少年が大きく咳き込んだ。

 

「剛ちゃん!」

 

 毬亜が飛び付く。蓑の姿のそれは、いつの間にか消えていた。

 

「乗り越えた…のか?」

 

 毬亜の肩越しに、露伴も覗き込む。毬亜は少年を抱きかかえた。

 

「良かった。良かったわ剛ちゃん」

 

「なあ君、無事かい?自分に何が起こったか、分かるか」

 

 少年は露伴を見詰める。

 

「何があったか、話せるかい」

 

「先生、今はこの子を休ませたいの」

 

 毬亜が遮る。露伴はそうかと頷いた。

 

「それじゃあ、そこのソファに寝かせよう。救急車も呼んだ方がいいかもしれないな。僕がこの子を運ぶよ」

 

「じゃあ私、救急車を」

 

 まだ気が動転しているのか、毬亜は無警戒に露伴に息子を渡した。預かった露伴が部屋のソファに寝かせる。それから、ヘブンズドアーを発動させる。

 

「疲れただろう。少し眠っていればいい」

 

 露伴のヘブンズドアーにより、少年の意識が飛ぶ。毬亜は救急車を要請している。到着するまで五分やそこら。時間はある。露伴は少年の記憶を追体験した。

 

 

 

   *

 

 知らない場所。真っ暗で、何も見えない。さっきまで有名な漫画家さんの家にいたはずなのに――ここはどこ?お母さんは?

 

 少年が後ろを振り向く。知らない人が遠くに立っていた。三角の帽子をかぶっている。笠だ。

 

「君はもう帰れないよ」

 

 その人が言った。男の声だった。こんな遠くに居るのに何故こうもはっきりと聞こえるのだろうか。

 

「君は、私と永遠にこの場所で暮らすんだ」

 

 何だって?少年は眉間にしわを寄せた。

 

「帰れないって、何?」

 

 嫌だよ、そんなのは。男が少年に近付く。

 

「言い過ぎたかな。帰れないわけではないんだ。ただ、簡単ではないというだけで」

 

 男が少年の前に座り込む。輪郭ははっきりしていたが、顔のパーツは識別できないほど、全体が真っ黒だった。

 

「君は…元の場所に戻りたいかい」

 

 当たり前じゃあないか。少年が頷くと、男は直ぐに立ち上がった。

 

「なら出口を教えよう。こっちの方角にひたすら進むんだ」

 

 そう言って、男は少年から見て左を指差した。…それだけ?

 

「ただし君の足で歩いた場合、出口に着くまでに二ヶ月分ほどの時間がかかる――それでも帰ろうと思う?」

 

「こっちでいいの?」

 

 少年は男に方角を確認すると、直ぐに歩き始めた。二ヶ月分ほどの時間――少年は何を考えているのだろうか。まだ、この空間がどこかなのさえ分かっていない。男はそれ以上話し掛けて来なかった。

 

 それから少年はひたすら歩き続けた。昼や夜という概念がこの空間にはなかった。ただただ、闇がどこまでも続いている。何日経ったのかは数えられない。空腹や眠気は一切感じないようだった。だが、ひたすら寂しさが込み上げて来る。どれだけ歩いても出口は見当たらなかった。

 

 途中、嫌になったのか何度も少年は座り込んだ。その度、どこからともなくあの男が現れ、

 

「諦めたかい」

  

 そう少年に尋ねた。

 

 ここで、知らないこの男と暮らす方が嫌だ。尋ねられる度、少年は立ち上がって歩いた。ひたすら歩いた。

 

 ある時、前方遠くに突然光が現れた。出口だと少年は直感した。帰れる。光目指し、少年は駆けた。光に到達する。今度は、周囲が真っ白な光に包まれた。

 

 気付くと、少年は涙を流す毬亜に抱かれていた。岸辺 露伴の家だった。夢でも見ていたのだろうか。少年は不思議な感覚に包まれていた。

 

 

 

   *

 

 救急車のサイレンが聞こえて、露伴は文字から目を離した。今、追体験した少年の記憶…“あの男”が登場していることから、ただの夢ではないことは間違いない。しかし、夢の中の男に覚える違和感は何だ?露伴の目撃した男と、少年が出会った男。姿は同じだが、中身が異なるかのような印象を、露伴は感ぜずにはいられなかった。

 

 サイレンが止まる。毬亜はいつの間にか家の外に居た。隊員をこの部屋まで誘導しようとしている。露伴はその場を動かないでいた。少年を一人にするのはまだどこか不安だ。

 

 金井家の試練だと、男にはそう書いてあった。何のための試練なのだ?露伴は考える。

 

「“他者の介在は不可能”それが試練のルールだったな」

 

 ならばおそらく、この試練が求めていたものは“他者の力に頼らない”こと。己自身の力で目の前の問題を解決する能力。そこまでは推測できる。だが、その目的までは分からない。そこから先は、結局のところあの男と、試練を越えてきた金井家の人間にしか理解できないのだ。

 

 少年と毬亜を乗せ、救急車が走り出す。それを見送り部屋に戻った露伴は、フィギュアの事を思い出した。

 

「まあいいさ。興味深い体験をさせてもらった。それでチャラだ」

 

 毬亜の態度はやはり気に食わなかったが。

 

 カラン

 

 露伴の足が何かを蹴った。

 

「…これは」

 

 首輪が落ちていた。拾い上げて観察する。

 

「このまま僕が持っててもいいものなのか?」

 

 少年はこの首輪をしていた。あの男は少年の首を絞めていた。そして、少年が試練を乗り越えた今、首輪が外れた。おそらくこの首輪が試練の鍵だという事は分かる。

 

 まあ大丈夫だろう。首輪を机の上に置く。必要なものなら、そのうちに取りに来るだろう。

 

「金井家…興味深いな」

 

 金井家には掟があった。己の問題は己の力で解決し、他人を巻き込まない。そういう人間に育ち、そういう人間を育てなければならない。そのための教育を。そのための試練を。試練を通し子は掟を、親は教育方針を、その身に刻む。

 室町時代から続く金井家の伝統。これからも続く、名家に相応しい人材を育てるための責務。

 

「格式ある家に生まれるってのは、それはそれで大変なのかもな。ま、僕には何の関係もない話だ」

 

 現代の喧騒から隔離された村に続く伝統。いいネタになりそうだ。外の空気を吸いながら、構想を膨らませてみよう。

 

 露伴は町へ繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 




 お待たせしました。私事情に一段落がつき、やっと活動再開ができました。

 一ヶ月ほど前から執筆を再開し、二作連日投稿なども考えていたのですが、しばらくの間一切小説に触れていなかったせいか思うように文章が書けず、やっと投稿にこぎつけた今日は、もう3月の終わり。書き上げられたのは一作。その間三作ほど没作品が出来てます。ごめんなさい。

 これまでほどではありませんが、4月も多少忙しくなることが予想されますので、今度の更新は5月あたりになるかもしれません。

 質的には微妙かもしれない本話ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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