岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:09 《フルットプロイビート》

 杜王町のはずれの大型霊園。その霊園の入り口手前に、イタリアンレストラン“トラサルディー”は建っている。店内は非常に狭く、厨房の他に丸テーブルが二つのみ。テーブルも、五人も座れば一杯になるような小さなもの。全てがこじんまりとしている。来客はなかなかに少ない。しかし、それが店の人気を物語っているというわけでは決してない。霊園横という立地の性質上、お盆の時期には大繁盛する。そして来客の全てが、満腹と幸福に満たされて店を出る。だが、だからこそ季節外は客足が遠のいた。訪ねたところでどうせ満席だろう。テーブルの数も手伝って、地元の人間が日常的に通うことはなかった。結果的に一部の、常に空席であることを知っている常連ばかりが店に顔を出す。岸辺露伴も、そんな常連の一人だった。

 

「“万人が認める、この世で一番美味しい食べ物は何か”という質問に、貴方ならどう答える?」

 

 ブルーベリーの添えられたデザートのパンナコッタを運んできた店のシェフ トニオ・トラサルディーに露伴は尋ねた。

 

「一番美味しいもの、ですか」

 

 突然の質問にトニオは戸惑った。

 

「ああ。そのことで編集者と議論になってね」

 

 スプーンを拾い上げ、先端でパンナコッタをつつきながら事のいきさつを語る。

 

「“誰もが美味しいと感じるもの”はない、というのが僕の意見なんだが、彼は“その人に対しての愛情が込められた料理なら、誰が食べても美味しい”と言う」

 

 それで。露伴はスプーンを置くとトニオを見上げた。

 

「貴方の意見が聞きたい。世界中を旅し、料理を学んできた貴方ならどう答えるのか」

 

 

「味覚として、万人が美味しいと感じるものはあるかということでしたら“あります”」

 

 トニオは即答した。

 

「――あるのか」

 

「南アメリカ、アマゾンに隣接する小さな村を訪れたとき、その村の若者から秘密裏に聞いた話です。“アマゾンにはタブーが存在する”」

 

「タブー?“禁忌”って事か。それが何に関係するんだ?」

 

「“それ”が誰もが美味しいと認める食べ物です」

 

 露伴は目を細めた。

 

「だというのに“タブー”なのか?誰が美味しいと判別したんだ」

 

「美味しすぎるから“タブー”なのだそうです」

 

 一旦間を置く。露伴が口を開き書けたところを遮るようにしてトニオは続けた。

 

「村の言い伝えによれば、“それ”は木に成る果実だそうです」

 

「おいおいおいおいちょっと待つんだトニオさん。言い伝えだと?実際に見た人は?実際に食べた人は?」

 

 トニオは首を横に振った。

 

「一人もいません。それは人類が誕生するずっと前から“タブー”なのだと、彼はそう言いました。だから村の人間は誰も見に行かないし、そもそも近付こうともしない。私たちにとっての“殺人”以上に重いものだそうです」

 

「本当にあるのか...?実物なんて存在しないんじゃあないのか?」

 

「確かめに行ってみませんか?露伴先生」

 

「“タブー”だぜ?」

 

「では、止めておきますか?」

 

「いや」

 

 露伴は携帯を取り出すと、編集者へ電話をかけた。

 

「店は空けられるのか?」

 

 相手が出るまでの間に、露伴はトニオに尋ねた。

 

「ええ。いつでも大丈夫です」

 

「確かめてみよう。本当にその果実が存在するのか。それはトニオさん、貴方の作る料理よりも美味しいのか」

 

 

 

 

   *

 

 

「貴方のことは、私もよく覚えています。イタリアの料理人」

 

 アマゾンを流れる川を、露伴とトニオを乗せた舟が渡る。現地ガイドの男が、振り向いてトニオに言った。

 

「もう十年も前の事でしょうか。貴方が村を訪れたとき、私はまだ子供でした」

 

 ガイドを仕事にしているだけある。男の喋る英語は流暢だった。

 

「村長にはお会いになられましたか?」

 

 男の問いかけにトニオが肯く。

 

「まだまだご健在でしたね。十年前はお世話になったものです」

 

「喜ばれてたでしょう。貴方のことがお気に入りなようですから」

 

「ええ。今回の滞在は短いと伝えたら引き留められました。村を総じてもてなすから少しは滞在してくれとまで言われてしまって――困りました」

 

 二人は苦笑した。

 

「あのじいさんか。僕に対しては好意を抱いていないようだったがな」

 

 露伴が口を挟む。男はやはり苦笑いをした。

 

「私はこうしてガイドをしてますから外の人間への警戒心はあまりありませんが、村の者のほとんどはそうではないのです。むしろイタリアの料理人、貴方の連れであるだけまともな対応でしたよ」

 

「私が十年前にあの村を訪れたときも、最初はなかなか受け入れてもらえませんでした」

 

 トニオの言葉に男は頷く。

 

「しかし貴方には料理がありましたから」

 

「ええ、お陰様で」

 

「正直な話、私も貴方にはなるべく長く滞在してほしい」

 

 男は前方へ向き直る。

 

「貴方の作る料理はこの世で一番美味しい。客人の貴方に頼むことではありませんが出来ればもう一度、貴方の料理を味わいたい」

 

 男の言葉に、二人は顔を見合わせた。

 

「トニオさんの料理が一番、なのか?」

 

 露伴が尋ねる。

 

「ええ。トニオさんの料理は本当に美味しい。食べたことありませんか?」

 

 トニオに目配せしてから、露伴は口を開いた。

 

「“アマゾンにはタブーが存在する”そんな話があるらしいじゃあないか」

 

「いえ?聞いたことがありません」

 

「“それが世界で最も美味しいもの”だと聞きました。私たちはそれを探しに来たんです」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。そんなもの私は知りませんよ。誰から聞いたんですか?」

 

「十年前、村人の一人から聞きました。貴方の村に、そういう言い伝えがあると」

 

「からかわれたのでは?」

 

 男が怪訝そうにトニオの顔を覗く。

 

「本当に知りませんよ、そんな話」

 

「芝居はいい」

 

 露伴が男の言葉を遮るようにして言った。

 

「知ってるんだろ?隠そうとしたって無駄だ。ここに書いてあるぜ」

 

 男の二の腕を露伴が指さす。トニオの目には、ヘブンズドアーが発動し、本と化した男の腕が見えた。

 

「とは言っても、君には読めないだろうからな。僕が代わりに読んでやるよ」

 

 開かれたページの一枚をつまみ、露伴は読み上げる。

 

「“何故この二人が知っている?口外した犯人を必ず見つけ出し、罰しなくてはならない。しかしそれ以前に、どうこの場を切り抜けようか。ひとまずシラを切り通そう”――君の今の心境か?焦って隠そうとしてるってことは、話は本当みたいだな」

 

「ブラフのつもりですか?」

 

 男の表情にはしかし、焦りの色は見られなかった。

 

「あくまでもシラを切り通すつもりかい。それならそれで別に構わないぜ。君の記憶を読めば全部分かるんだからな」

 

 まあ、と露伴は男の顔を見上げる。

 

「君にそんなことを言っても。何のことだかさっぱりだろうがな」

 

 男の記憶を辿ると、露伴は一部を読み上げた。

 

「“アマゾンにはタブーが存在する。父が教えてくれた、この村に伝わる伝説だ。その果実を探してはならない。神の裁きが下る。決して、村の外の者に口外してはならない。神の裁きが下る。未来永劫伝えてゆく、しかし決して、安易に触れてはならない話”―すまないな。安易に触れてしまって」

 

 男の顔が険しくなった。

 

 こいつ、もしかすると本当に記憶を読めるのか?男の頭を不安がよぎった。

 

「気変わりしたかい?その“タブー”の在処まで君が案内してくれれば、僕の手間も省けるんだがな」

 

 男はしかし、首を横に振った。

 

「危険です」

 

 

「何がだい」

 

 露伴が男の顔を覗き込む。男が溜め息を吐く。

 

「はっきり言いましょう。その果実のある場所を、私は知っています。ですが、絶対にあなた方をそこには行かせません」

 

「君がそのつもりでも、僕たちにも手を引く気は毛頭ないぜ」

 

「本当に危険なんです」

 

「だから何がだい。何が危険なんだ」

 

  苛立った口調で露伴が尋ね返す。

 

「生きては帰れないのです」

 

「何?」

 

 二人は同時に声を上げた。

 

「過去に果実を探しに出た者は何人もいます。実際に私の知り合いにもいました。しかし彼らは誰一人として、生きては帰ってきませんでした。いつも、果実のあるその場所の手前で死んでいるのです」

 

「死因は」

 

「獣です」

 

「獣?」

 

 露伴は怪訝な顔をした。

 

「アマゾンは野生の猛獣で溢れています。彼らは皆、その獣に襲われて食い殺されました」

 

「では、その遺体はどうやって発見したのですか?今の話では、その場所にはまるで近付けなさそうですが」

 

 トニオが尋ねた。男は再び首を振る。

 

「捜索隊は何故か、襲われたことがほとんどありません」

 

「集団だからか?だが、そうだとしたら集団で果実を取りに行けば問題ないじゃないか」

 

「そうでもないのです。かつてナチスが、果実を求めて遠征してきたことがあるそうです」

 

「ナチスが―ね」

 

 露伴は目を細めた。

 

「一気にうさんくさくなったな」

 

「三回、規模を変えて訪れたそうです。結果は三度とも全滅」

 

「悪いが、そんな作り話じみたものを聞かされたところで諦めることはないぜ」

 

「露伴先生、彼が嘘をついているようには見えませんが」

 

「分かっている」

 

 露伴は男を見据え続ける。

 

「埒が明かないようだな」

 

 溜め息を一つ吐く。

 

「分かったよ、折れよう。だがせめて、近くまでは行かせてくれ。それならいいだろう。危険は冒さないと約束しよう」

 

「本当ですか?」

 

「ああ、約束するよ」

 

「分かりました。案内しましょう」

 

 これまでの抵抗がまるで嘘であったかのように、男はあっさりと承諾した。前方へ向き直り、オールを手に取る。

 

「露伴先生...」

 

トニオは不満そうな表情を漏らした。露伴は悪びれる様子もなく、澄ました顔のまま前方を見詰めた。

 

 ”岸辺露伴を信用する”

 

 今しがた、新しく書き込まれたその文字が、湿気を多分に含んだ熱い風にたなびいた。

 

 

   

   *

 

 

 数時間が優に経過した。熱帯の気候に慣れていない二人の体は、既に疲れ果てていた。

 

「なあ、まだ着かないのか」

 

 露伴が音を上げた。

 

「もう少しです。辛抱してください」

 

「二時間前からずっとそれじゃあないか。一向に着く気配がないぞ」

 

「本当にもう少しです。この先を行けば―」

 

 舟が本流を外れ、密林の中へとその先を向ける。木々の間をぬいながら舟が進む。

 

「あそこです。見えますか」

 

 しばらくと経たないうちに、男が前方を指さした。

 

「どこだ?」

 

 二人にはしかし、男の示すものが見付けられない。前方には広大なジャングルが広がるばかりだ。

 

「まだ見えませんか...あと十分もすればはっきり見えるようになるかと思います。到着までは――三十分程度でしょうか。もう少しです」

 

 もう少しです。男は何度か繰り返した。

 

「そろそろ見えるんじゃないでしょうか」

 

 おおよそ十分が経ち、再度男が前方を示す。

 

「どうですか」

 

「あの石造りっぽいやつか―?」

 

「そうです、それです」

 

 露伴の言ったように、それは巨大な石から出来ていた。

 

「人工物――ではなさそうだが」

 

 石造りと言ってしまっていいのだろうか。遠目からで細部までは見えないものの、どうも一つの、巨大な石を削っただけであるように見えた。

 

「ええ、人の手は一切加えられていません。最初からあの形でした」

 

「ですが―あの形が自然にできるとは思えません」

 

 近付くにつれ、徐々にその全容が露わになる。それはやはり、一つの巨大な石―岩からなっていた。いくつもの石を積み上げたような繋ぎ目が存在しない。岩肌は全体にわたって滑らかだ。誰かが表面を削り、中をくり抜いて造ったようにしか見えない。自然界が造り上げたものだとは、到底信じられなかった。

 

「神が造りし御殿であると、そう言い伝えられています」

 

「確かに、あれを見ればそうも思ってしまうかもしれませんね」

 

 トニオが一人頷いた。

 

「ここから入り口までは徒歩になります」

 

 建物の目前は陸地になっている。男はそこへ舟を乗り上げさせると陸へ降りた。露伴とトニオもそれに続く。

 

「ちょうど建物の入り口付近が、いつも遺体の見つかる場所です。危険ですのでこれ以上は近付かないように」

 

「特に動物は見当たらないな」

 

 周辺は比較的開けており、状況は把握しやすい。見たところ、危惧するべき獣の気配はない。

 

「先生、どうするんですか」

 

 トニオが不安な面持ちで尋ねた。

 

「勿論行くさ」

 

 逡巡する間も見せず、露伴は一歩を踏み出した。ガイドの男が慌てる。

 

「何を――約束と違います!!」

 

「約束?ああ、したっけな。だがまあいいじゃないか。ここまで来たら進むも進まないも一緒だ」

 

 男の制止には耳を貸さず、露伴はどんどんと歩を進める。

 

「ごめんなさい。ああなると彼、余程のことがない限り引かなくなるんです」

 

 トニオが代わりに頭を下げる。

 

「ンなこたどうでもいいですよ!!早くあの鳥よりも脳ミソの小さいクソ野郎を止めろ!!!」

 

「もう一度謝ります。ごめんなさい。私も果実が見たい。彼が行くのであれば、私も行きます」

 

 露伴の後をトニオは追った。男は愕然とし、少しして我を取り戻してから二人を追った。

 

「ふざけるなよ!!!“タブー”だつってんだろうが!!それとも英語も分からねえのかサルども!!!」

 

 二人は既に、建物の入り口付近まで進んでいる。男は駆け足で二人に追いつくと、露伴の肩に手をかけた。

 

「てめえら止まれや!!」

 

 露伴が立ち止まる。

 

「入り口らしきところまで来たわけだが」

 

 振り返り、男を見据える。

 

「何事も起きてないぜ。その辺りだったんだろ、よく遺体が見付かってたってのは」

 

 後方を指さす。獣の気配はまだない。

 

「当面の危機は去ったと考えても良さそうなものだが。それとも、果実目前にしてすごすごと引き返すかい」

 

「タブーです...」

 

「ああ、知ってるさ」

 

 ヘブンズドアーが発動する。

 

「だがそんなことを言っていても、本音じゃあ“見てみたい”と思ってるんだろ。だったら、君にだって悪い選択じゃないはずだぜ」

 

 本と化した男の頬、その一枚をつまみ、露伴は男に問いかける。

 

「そもそも“果実”が本当に存在するかも疑問だが。どうする?ここには君が掟を破ったとしてもそれを咎める者はいないんだぜ」

 

 男は歯を食いしばり、露伴を睨め付ける。

 

「そう、アマゾンの掟。私は掟は破らない」

 

「そうかい。なら僕たちだけで行ってこよう」

 

 露伴は踵を返す。岩の正面に、1メートル半径程度の穴がぽっかりと口を開けている。おそらくはそれが入り口だろう。見当を付け、二人は足を踏み出す。

 

「掟を破ったのはあんたらだ。私はそれを止めようとしただけだ」

 

 その二人の後ろに、男は並んだ。

 

「私の意思ではない。私はむしろ、異国の無法者からアマゾンの秩序を守ろうとしたのだ。称えられたことでこそなけれども、責められる筋合いはない」

 

 トニオは驚いた顔で男を見た。

 

「いいのですか?」

 

「もう一度言う。掟を破ったのはあんたらだ」

 

「それで?」

 

 露伴は前方の空洞を指さした。

 

「入り口はこれでいいのか?」

 

「そこが入り口だろうと言われていることを貴方たちは知らないはずです。貴方たちは運良く入り口を見付けた。私は何も言っていない」

 

 露伴は顔をしかめながらトニオに目配せをする。トニオは肩をすくめてそれに応えた。

 

 そっと穴に近付くと露伴は中を覗いた。陽はまだ頭上にあるにも関わらず、内部は真っ暗で何も見えない。

 

「中は相当広いみたいですね」

 

 トニオが隣から覗き込む。そっと中に手を伸ばした。瞬間、二人の視界が真っ白になった。

 

「なにッ!?」

 

 二人は咄嗟に退いた。

 

「トニオさん!見えるか!何が起きた!」

 

「私にも分かりません!ですが気を付けてください!何かの攻撃かもしれません」

 

 露伴はヘブンズドアーを出現させると身構えた。視界は白いままだ。

 

「違います。灯りがついたんです」

 

 ガイドの男が答えた。

 

「一時的に目がやられただけです。すぐ治ります。―ですが」

 

 男が息をのむ。

 

「これは―信じられない...」

 

 男が言ったように、二人の視界が徐々に回復する。視界を取り戻した二人の目に、口を開いて愕然とする男が映った。その視線の先、洞穴の中へと二人も目を戻す。

 

「灯りが―」

 

 トニオが呟く。先程まで真っ暗だった穴の中が光に照らされていた。奥行きや幅は思いのほか狭い。しかし、入り口入ってすぐに床は階段になっており、深く下まで続いていた。明かりが届いていなかったのは恐らくそのせいであろう。

 

「人の手が加えられていない自然物だと...?やっぱり嘘だったじゃないか」

 

 露伴は再び内部を覗いた。

 

「感応式になってたのか?ハイテクだな」

 

「先生、やっぱりおかしいです...」

 

 同じように覗き込んだトニオはしかし、驚いたままだ。冷や汗まで浮かべている。

 

()()()()()()()()()()。この光はどこから出ているんですか―?」

 

「そう言われれば――異常だ」

 

 露伴もそれに気付く。階段の奥は見えないが、その他は全てこの入り口から一望できる。そのどこを見渡しても光の出所となりそうなものはなかった。

 

「見たところ危険になりそうなものはないが...どうする、トニオさん」

 

「罠がないという可能性は薄そうですが...この様子では、奥には確実に“何か”がありそうですね」

 

「ああ。あんたも知らないんだろ?」

 

 男に尋ねる。男は頷いた。

 

「知りません。知っていたらこんなに驚けませんよ」

 

「さて」

 

 露伴が視点を戻す。

 

「トニオさん、貴方がどんな選択をするのかは貴方に任せる。だが僕は行かせてもらう」

 

「ここまで来たんです。私も行きます」

 

 気概を示すトニオを一瞥すると、露伴は内部へ足を踏み入れた。慎重に歩みを進める。階段はかなり長い。十メートル近く下まで続いていそうだ。

 

 三人は時間をかけて進んだ。何事もないまま底に辿り着く。降りきると、真っ直ぐ通路が続いていた。正面奥に小さな扉が見える。扉に到達するまでも、何も起きない。

 

「順調ですね」

 

 三人は扉の前で立ち止まった。

 

「順調すぎて、むしろ不安です」

 

 トニオが呟く。

 

 扉は両開きのものだった。鍵などはない。取っ手に露伴が指をかける。

 

「気を付けてください」

 

 トニオが声をかける。露伴はゆっくりと扉を引いた。

 

「これは―」

 

 隙間から見える先の光景に露伴は目を見開いた。トニオが不安そうに露伴を見守る。露伴は後方の二人を見た。二人が固唾をのむ。ゆっくりと、露伴は扉を開ききった。

 

「ッな―!!」

 

 ガイドの男が叫ぶ。トニオも言葉を失った。

 

「正直、夢なんじゃないかと疑うぜ。はっきり言って“ありえない”」

 

 扉の先には“オアシス”が広がっていた。八方は壁だ。外界とは完全に隔絶されている。だというのに、中は陽が照らしているかのように明るかった。空間の中央には泉がある。地面は草花で覆われ、木々が生い茂る。

 

「“ユートピア”...」

 

トニオが呟いた。その感想が全てを表していた。野生の獣たちにとっても、それは同じようである。ナマケモノやカピバラ、数種類のサル等の比較的穏やかな哺乳類、オウムなどの鳥類の他に、ジャガーやアナコンダ、ワニといった捕食者が共存している。この空間には、食物連鎖すらも存在しないのだろうか。穏やかでどこまでも平和なその空気は、まるで空間から時間の概念が失われたかのように錯覚させた。

 

 

「あそこ、何かありそうですね」

 

 ガイドの男が泉の奥を指さす。ひらけた場所に、石製の台座らしきものが鎮座している。

 

 三人は泉を迂回し、その台座へ近付いた。獣たちは三人に興味がないのか。逃げることも襲ってくることもない。台座に近付くのに障害はなかった。

 

 近付くと、台の上に何かが乗っているのが見えた。ソフトボールほどの、小さい球体のようだ。

 

「梨―いや違うな。だが」

 

 トニオは頷くと、露伴に続けた。

 

「“果実”です。しかも、私も見たことのないものです」

 

「あれが“タブー”ってことでいいのか?」

 

 露伴は男に確認を取った。男も知らない果実であればいよいよ、本物かもしれない。

 

「分かりません。知らない果物であることだけは確かですが」

 

 台座の前に三人は並ぶ。置かれていた果物の色はおおよそ梨に近かった。若干、梨よりも明るい黄色をしている。

 

「やはり知らないものですね」

 

 トニオは細部を凝視すると、首を横に振った。ガイドの男もそれに同意を示す。

 

「これが“タブー”の正体であると言ってしまっていいのではないでしょうか」

 

 トニオの言葉に露伴は頷いた。

 

「それで、ここからどうする」

 

「先生が何か考えていたんじゃないんですか?」

 

「僕は一口食べてみたいとは思っているけどな。というか、食えるのか?そもそも」

 

 流石にそれは分からない。トニオもガイドも首を振る。

 

「質感はどんなものだろう」

 

 露伴は果実を手に取った。重い。1㎏は超えそうだ。露伴はトニオの目を覗いた。

 

「どうしますか?」

 

「これを持って帰ったらどうなると思う?」

 

「え!?本気ですか?」

 

 男は慌てた。

 

「それだけは駄目です!何を考えているんですか!」

 

「この果実の存在は誰かが定期的に確認していたりするのか?」

 

「いえ。村長であってもこの場所に近付きません。それこそ、掟を破った者を捜索する時くらいのものです。例え大統領に命令されたとしても、絶対にここへは案内しません」

 

 露伴は何度か頷く動作をした。自分が露伴たちをここへ連れてきたことの矛盾には気付いていないようだ。ヘブンズドアーの術中にあることの現れだ。

 

「なら果実がなくなったことにも誰も気付かない。そもそも“タブー”なんて存在しなかった、となるかもしれないな」

 

「先生、食べられるかは分かりませんよ」

 

「構わない。いずれにしろ、ここで解決できることじゃあない」

 

 露伴は果実を手にしたまま来た道を戻ろうと振り返る。その先の光景に、一瞬思考が停止した。

 

「先生?」

 

 固まった露伴をトニオは訝しむ。怪訝そうにその視線を追ったふたりも、同じ光景を目にすると体を硬直させた。

 

 クモザル。ホエザル。バク。オオハシ。オセロット。コウモリ。ジャガー。アナコンダ。クロカイマンetc.

 

 そこにいる限りの全ての野生動物の瞳が、一斉に三人を射貫いていた。

 

「これは...」

 

 トニオが辛うじて声を絞り出す。

 

「ガイドさん、こうなったらどうするんだ」

 

 露伴は前方から目を逸らさないままに後方のガイドに尋ねた。

 

「どうって――仮に襲われたらどうしようもないですよ」

 

 即答が返ってきた。泉は迂回する必要がある。そうなると、入り口までは100mと少しある。もし襲われようものなら、逃げ切れる可能性は低い。

 

「ゆっくりです。彼らを刺激しないよう、ゆっくり外へ向かいましょう」

 

 ガイドが先頭に立ち、元来た道を引き返す。動物たちの視線が三人を追う。

 

「トニオさん、貴方がこれを持っていてくれ」

 

 露伴は果実をトニオに預けた。

 

「ヘブンズドアー、ですか」

 

 トニオの問いかけに頷く。もしもの時のために両手は空いていた方が心強い。

 

 獣たちからの圧を感じながらも、三人は何とか扉まで辿り着いた。

 

「カイマンの横を通るときは焦りましたが...無事に済んで良かった」

 

 ほっと男が溜め息を吐く。安堵から、二人に微笑みかけながら男は扉を押した。扉が開ききったその瞬間。獣たちが、けたたましく鳴き声をあげ始めた。

 

 三人の表情が引き攣る。

 

「行きましょう」

 

 男が外へ出る。獣たちは鳴き続けている。露伴とトニオもガイドに続いた。

 

 トニオの足が扉との境界を越えたその刹那。獣が一斉に、三人の方へ駆け出した。

 

「ッ来たぞ!!扉を閉めろぉぉぉぉッ!!!」

 

 露伴とガイドが二人がかりで扉を閉める。

 

「登れ!急ぐんだッ!!」

 

 露伴が叫ぶ。三人は階段を全速力で駆け上がった。後方から、勢いよく扉が開かれた音がした。振り返って確認するような余裕はない。

 

「舟の準備をします!先に行ってます!」

 

 ガイドの男が抜け出し、加速した。足腰が鍛えられているのだろう。速い。露伴にもトニオにも、それに反応している暇はなかった。

 

「トニオさん、前へ!」

 

 並走するトニオを、露伴は前方へ押し出す。今にも追い付かれそうだ。

 

 駆け上がる二人の横に、数匹のサルが躍り出た。背後にはジャガーも迫っている。

 

「ヘブンズドアーッ!!!」

 

 周囲の獣に対し、端からヘブンズドアーを発動させる。発動させるだけで充分だ。獣の足は止まる。だが数が多い。

 

「うおおおおおおおおッ」

 

 露伴が雄叫びをあげる。ガイドの男は既に脱出したようだ。出口は近い。

 

「二人とも、急いで!」

 

 ガイドが外から顔を覗かせながら叫ぶ。露伴はヘブンズドアーで獣を捌き続ける。

 数は一向に減らない。能力の効果範囲外に出た獣が復帰するせいだ。

 何とか階段を登りきる。外へ飛び出すと、三人は舟へ駆けた。しかし、

 

「ッ!止まれ!」

 

 露伴が二人を引き留める。

 

「駄目だ。舟は使えない」

 

 川辺にワニが集まっていた。

 

「何で――さっきまではいなかったのに―」

 

 男が唖然とする。背後からも獣が迫る。露伴がそれを凌ぐ。

 

 だが物量に押し負ける。一匹のサルが、露伴の脇を抜けてトニオに飛び付いた。

 

「トニオさんッ!!」

 

「いえ、先生...これは―」

 

 しかしサルは、トニオ自身を標的としていなかった。トニオが右手に握る果実。それが目的のようであった。其の目は果実だけを捉えている。

 

「まさか」

 

 トニオは果実を左手に持ち替えると、頭上に掲げた。前方、川辺のワニたちの目が果実の動きを追ったのを見て、トニオは確信を持った。

 

「露伴先生!!果実です!この動物たちの狙いは果実です!!私たちの排除が目的ではありません!」

 

 何故。疑問の目を露伴が投げかける。トニオは、躊躇いなく果実を放り投げた。サルはトニオを離れ、果実を追った。同時に、その場にいた全ての獣が進路を変えた。向かう先は地をはねる果実だ。

 

 我先にと獣たちは果実へ殺到する。最初のサルが果実を手にした。サルは果実を頭上に吠えた。そこへジャガーが飛びかかる。果実はサルの手を離れ、再び地面を転がった。

 

「何が起きている...」

 

「果実の奪い合いでしょう」

 

 露伴の呟きにトニオが答える。

 

「あの空間から持ち出された果実を護ろうとしているのかとばかり思っていましたが、違うみたいです。おそらくは、果実の所有権をかけた種族間の奪い合い」

 

 トニオは果実に群がり争う獣たちを指さした。

 

「見て下さい、彼ら。一匹として同じ種族、仲間には襲いかかっていない。むしろ連携して、他の種族が果実を手中にすることを阻止しようとしています」

 

「確かにな。だが、終わるのか?あの争いは」

 

 トニオは首をかしげる。獣たちの熾烈な争いに、果実が宙を舞う。

 

「分かりません。もしかしたら終わらないのかも。だから“タブー”だったのかもしれません」

 

「いえ、そうでもないみたいです―」

 

 二人の横に男が並ぶ。男は未だ空中にある果実を指した。

 

「何かが伸びています」

 

 二人は果実を凝視した。緑色をした蔦が地上から、まるで意思があるかのように果実に向かって伸びた。蔦は果実に触れると、それを包み込んだ。

 

「なんだ、ありゃ」

 

 三人は蔦を目で辿った。それは三人の後方、階段の方から伸びていた。蔦が縮み、果実が穴の中へと戻されていく。三人は互いに顔を見合わせると、それを追って再び穴の中へ入った。

 

「成る程な。“タブー”か」

 

 蔦は、果実を元あった台座の上に戻した。その前に立った露伴が頷く。

 

「ここにある限りは、争いは起こらない。“誰のものでもない”からな」

 

「ですが、一度その均衡が破られれば、その所有権を巡って種族間に争いが起こる」

 

 露伴の言葉にトニオが続く。

 

「所有権を手にしたときに何が起こるのかは分からないが――きっと今の自然界のバランスは崩れるだろうな」

 

 何にせよ。露伴は果実に背を向ける。

 

「放っておけば無害って事か。気にくわないがな」

 

 

 

 

   *

 

 

「俺よお、いっつも思うんだぜ」

 

 日曜日の正午過ぎ、露伴がトラサルディーの扉を開けると、聞き知った声が耳に入ってきた。声の主を視認する前にして、露伴は顔をしかめた。

 

「トニオさんの料理ってよお、世界で一番美味いってなぁ」

 

 三人の男がテーブルを囲んでいる。休日だというのに、三人は杜王町の私立高校“ぶどうヶ丘高校”の制服を着ていた。二人はがっちりとした体型であるものの、その間に挟まれた一人はかなり小柄だ。

 

「この飯を食って美味いなんて言わない奴はいねーと思うんだよな、絶対」

 

 大柄な二人のうちの一人が延々喋り続けている。

 

「おろ?よお、露伴センセーじゃないっすか」

 

 その男が露伴に気付き、手を挙げた。

 

「センセーもどうっすか。ここ座ります?」

 

 男は立ち上がると、壁際に置かれた椅子を同じ机に並べた。

 

「口の中のものを飲み込んでから立ったらどうだい。行儀が成ってないぞ」

 

 露伴はしかし、手前の無人のテーブルに腰をかけた。

 

「そうかよぉ。残念だぜ」

 

 男は若干落ち込んだ様子で席に戻った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 厨房からトニオが顔を出す。

 

「トニオさん、次の料理はまだすか?このサラダ、ウマすぎてもう全部食っちまったぜ。待ちきれねえっすよぉ」

 

「グラッツェ。ですが、もう少しお待ちください。今パスタを茹でていますので」

 

 トニオは男を軽く受け流すと、露伴のもとへ来た。

 

「トニオさんの料理は世界で一番美味しいらしいぜ」

 

 口角を少しつ吊り上げながら、露伴はトニオを見上げる。

 

「“食える”ものの中じゃあ、トニオさんの料理が一番って事だ」

 

「先生、両手を見せてください」

 

 トニオが微笑む。露伴は両の掌をトニオに向けた。

 

「寝不足ですね。原稿ですか」

 

 露伴が頷く。

 

「結局この世で一番美味しいものは食べれなかったが、面白い体験は出来た。一晩中、アイデアが溢れて止まなかったよ」

 

「それは良かったです。ですが、健康には気を付けてください、露伴先生。貴方は“この世で一番のfumettista”だ」

 

 トニオは立ち上がると、少々お待ち下さいと付け加え、そして厨房へと戻った。




 お待たせしました。前回更新時に既に構想はあったものの、それからなかなかなか更新まで漕ぎ着けられず。やっと完成しました。

 最後のトニオさんのセリフにある“fumettista”ですがあれはイタリア語で“漫画家”の意味です。(本当は注釈機能使いたかったのですが分からず。最後の最後のセリフだったのでここで補完を)

 これからまた期末で忙しくなるので次回更新は8月下旬頃を見込んでいます。

 いつもより少しだけ長い回になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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