りゅうおうのおしごと! 八一と銀子の盤外戦   作:ぴよ

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竜王と女王

 

 

「負けました」

 

 

 様々な感情を押し殺したような、重々しい声が静かな対局室に響き渡った。

 それを聞いて、俺の意識は思考の海から現実へと戻ってきて、目の前で頭を下げている対局相手の姿が見えてくる。

 

 慌てて俺も頭を下げる。

 

「あ……ありがとうございました」

 

 あの名人との竜王戦以降、対局中に極度に集中すると時間の感覚が捻じ曲がり、盤上のこと以外は何も見えなくなることが多々ある。

 

 今日は持ち時間の長い順位戦で、気付けばもうすっかり夜も更けていた。

 でも、俺がハッキリと覚えているのは昼食休憩くらいまでで、夕食に何を食べたかすら中々思い出せない。たぶん、何かは食べたんだとは思う。空腹感はないし。対局室に持ってきた水もいつの間にかほとんど空になってるし。

 

 まぁ、何はともあれ勝てて良かった。

 どの棋戦も大事だが、棋士にとって順位戦は特に重要な意味を持つのだ。

 

 俺――九頭竜八一は、去年16歳で史上最年少でのタイトル、竜王獲得を果たし、今年は生ける伝説とまで言われる名人を相手に何とか初防衛を果たし、名人の永世七冠とタイトル通算100期達成を阻んだ。

 

 そんなこんなでようやく周りも本格的に俺のことを“竜王”として見てくれるようになってきたが、順位戦では一番下のC級2組。

 この順位戦というのは名人へと繋がる道であると同時に、その名の通りきっちり順位を付けられるので、棋士としての格に大きく関わってくる。下世話な話だけど、対局料もクラスによって違う。

 

 棋士の多くにとっておそらく最も大事な棋戦、それが順位戦だ。

 

 俺はここでようやくほっと一息つくと、僅かに残っていた水を飲み干してから感想戦に移ろうと思った……その時。

 

 ふと盤側に座る記録係が視界の端に映り、思わず驚きの声が漏れた。

 

「えっ」

 

 そこにいたのは、眩しい程の白い肌に美しい銀髪が目立つセーラー服の美少女。

 まるでファンタジーの世界から飛び出して来たような幻想的な印象も受けるその少女だが、俺の知り合いでもあった。

 

 その少女は、奨励会三段、女流二冠にして俺の姉弟子、空銀子。

 

 俺の視線に気付いた姉弟子は、怪訝そうな目を向けてきて。

 

「…………なにか?」

「あ、い、いえ、何でもないです……」

 

 そ、そういえば、今日は姉弟子が記録係だったんだよな……朝に一度驚いたのに、夜にもう一度同じように驚いちゃったよ、すっかり忘れてた。

 でもこれ、姉弟子に言ったら絶対殴られるから黙っておこう。

 

 

▲▲▲

 

 

「さむっ!」

 

 

 関西将棋会館から一歩出ると、冬の夜の冷たい風が全身を撫でた。

 対局室は暖房も効いているし、対局中に思考を加速させていると熱くなるくらいだ。それだけに、この急激な変化に体がついていけてない。

 

 俺は体を震わせながら、せめてもの寒さへの抵抗とばかりにコートの襟を立てて両手で押さえる。

 隣ではそんな俺を見ながら姉弟子が。

 

「私も寒い、そのコートちょうだい」

「い、いやですよ、俺のこの様子を見てそんなセリフ出てくるとか、あんた鬼ですか……」

 

 普通の人なら冗談と受け取るところだが、姉弟子に限っては本気で言ってる可能性も十分考えられるので、俺はしっかりとコートを掴んで警戒する。

 姉弟子はむすっとした顔で。

 

「こんな時間まで対局を長引かせた八一が悪い」

「仕方ないじゃないですか、持ち時間が長い順位戦なんですし。それに今回は相手の研究通りに序盤から上手く指されてしまって……」

「一応タイトルホルダーの八一に対して、順位戦でとっておきの研究ぶつけてくるなんて十分想定できることじゃない。何とかしなさいよ」

「い、一応って……まぁでも、結果的には何とかなったじゃないですか。序盤で作戦負けはしちゃいましたけど、そこから挽回できましたし。最近感じるんですけど、相手がよく練ってきた研究に対して、読んで読んで挽回の手を捻り出せると結構快感なんですよね。高難度の詰将棋を解いた時みたいに。いつも相手の研究を受けて立つ名人もこういう気持ちあったりするんですかね」

「なるほど、『相手が苦労して何日もかけて練ってきた研究を、その場でちょっと読んだだけで粉砕して才能の差を見せつけ相手を絶望させるのが楽しい』ってわけね。八一も竜王らしくなってきたじゃない」

「そんなこと言ってないよ!? あと姉弟子は竜王にどんなイメージ持ってるんですか!」

 

 棋士仲間の歩夢なんかは、中二病を発症しているせいで竜王を悪の魔王みたいに見立てていたりもするが、姉弟子はそんなキャラじゃないだろう。

 でも、実際のところ今期の竜王戦七番勝負でも『正義の名人vs悪の竜王』みたいな扱いだったのは確かで、やりづらい事この上なかった。いや、名人の人気はよく知ってるけどさ……。

 

 俺の言葉に、姉弟子はさらりと。

 

「竜王のイメージ? ネット上では、『幼女の力で覚醒して名人を倒した究極のロリコン竜王』ってタイトルでまとめサイトにも記事があがってたけど?」

「ち、ちがっ、確かに周りの皆のお陰で最後まで戦えたっていうのはあるけど、別に幼女だからってわけじゃないから! 弟子二人とかJS研の皆とか、たまたま周りに幼女が多かっただけだから!」

「でも、竜王戦第四局の指し直し前に、弟子のJSの膝枕で色々と回復してたってネットに」

「それ絶対姉弟子か鵠さんがリークしましたよね!? 関係者以外知りようがない情報じゃないですか!!」

 

 ネット上ではすっかり俺がロリコンってことで定着してきているが、どうも姉弟子がそういう情報を流しているように思えてならない。最初に姉弟子が言い出した『ロリ王』とかいう不名誉極まりないタイトルもネットでよくネタにされてるし……。

 

 あと、鵠さんに至っては観戦記だとか棋譜コメだとか公式の場に俺のロリコンを匂わせるようなことを書いてくれやがるから本当に洒落にならない。

 

 俺もJSを内弟子にしたり、ニコ生で幼女にキスされたり、そう思われても仕方ない部分はあるのかもしれないけど……。

 

 姉弟子は冷ややかな視線をこちらに向けて。

 

「八一ってあの竜王戦第四局からは特に調子いいわよね。あれからずっと連勝してるでしょ。JSの膝枕でレベルアップして、何をしてても常に頭の中にロリが浮かぶようになったんだっけ?」

「JSの膝枕は関係ないですし、頭の中に浮かぶのはロリじゃなくて将棋盤です! まぁ、あいの膝枕が心地良かったのは確かですけど……」

「変態。ロリコン。通報する」

「やめてください社会的に死んでしまいます」

 

 ケータイを取り出した姉弟子を必死で止める。この人は冗談でも何でもなく本当に通報してもおかしくない。

 俺はとにかくロリから話を逸らす。

 

「名人との竜王戦で自分の中で壁を一つ越えたような感覚はあります。前よりも手が多く早く見えるようになりましたし、今日の対局も以前までの俺だったら序盤のリードを守られたまま負けてたかもしれません。特に昼食休憩明けは凄く集中できて、気付いたら夜でしたよ」

「そういう時の八一、目が危ないし、どこか別の惑星と交信してるみたいできらい。ずっと頓死すればいいのにって思いながら記録とってた」

「そ、そんなに危ない感じなんですか俺……でも、もうその辺りはどうしようも…………というか、姉弟子の場合は俺が何をしてても基本嫌いじゃないですか」

「うん」

 

 当たり前のように即答。

 何だか精神的にどっと疲れてきて深く溜息をつくと、ふと、あるものが視界に入ってきた。

 

 それは、こちらに向かって仲良さそうに肩を寄せ合って歩いてくるカップルで、すれ違い様に、

 

「ほら、寒いだろ?」

「ふふ、ありがと!」

 

 こんな会話をしながら、男の方が女の手を取って自らのコートのポケットに誘い入れていた。カップルの間ではありがちなシチュエーションというものなんだろうが……。

 

「……なに?」

「えっ、あ、あー……ほら、さっきのカップル凄く仲良さそうだったなーって」

「そうね」

 

 姉弟子からはそんな短く素っ気ない言葉が返ってくる。

 

 ……まぁ、そうだよな。

 将棋関係者などからは俺と姉弟子の関係について色々と勘ぐられることは多い。要するに、同門というだけではなく男女の仲ではないかといったものだ。

 

 でも、実際のところは俺達の間にあるのは将棋だけ。

 あのカップルは仲良く肩を寄せ合っていたが、俺と姉弟子は将棋で寄せ合うことくらいしかしない。将棋の寄せ合いなんてのは、もう殴り合いみたいなものだ。

 

 …………少なくとも、姉弟子にとって俺はただの弟弟子でしかない。

 

 俺は一時期、もしかしたら姉弟子は俺のことが好きなんじゃないかという恥ずかしい思い込みをしていたけど、それは二人で桜ノ宮に行った時に粉砕された。もう、舞い上がってた俺が哀れやら愚かやらで、人生の黒歴史として俺の中に残っていくこと間違いなしだ。

 

 いや、でも姉弟子だって色々と紛らわしかったと思うんだ。

 特にハワイの時なんて、夜の街を二人で恋人繋ぎをしながら歩いて、別れ際に姉弟子は俺にキスさせようとした。あれで勘違いしない男はいないと思う。

 

 ただ、あの時は姉弟子が本気だったと勝手に思い込んでたけど、やっぱり単にからかってただけなんだろうな……。

 

 そんなことを考えていた時だった。

 突然、俺の手に一瞬だけ何か柔らかくて冷たいものが当たった!

 

「っ!?」

「……?」

 

 首を傾げる姉弟子。

 

 き、気のせいか……? いや、今確かに……。

 ちらっと姉弟子の手に視線を送るが、何事もなかったかのように少し離れたところでブラブラしている。

 

 ……偶然当たっただけか?

 そ、そうだな、そういうことだろう。というか、もしこれで調子乗って手を握ったりして拒絶されたらちょっと立ち直れない。無理攻め、暴発は避けるべきだ。

 

 それにしても、こんなちょっと手が当たっただけでここまで心臓がバクバクと暴れるなんて本当にどうかしてる……姉弟子とは昔は普通に手を繋いで歩いてたのに……。

 

 これって、やっぱり――――

 

「2六歩」

「…………はぁ」

「投了?」

「しませんよ、二手目投了とか斬新すぎるでしょ。8四歩」

 

 唐突に、いつもの目隠し将棋が始まった。

 俺はこんなにもドキドキしながら色々と悩んでいるってのに、姉弟子の頭の中には将棋しかない。うん、分かってましたよ……。

 

 俺は肩を落としながらも、頭を将棋に切り替えようとしていると。

 

「2五歩」

「えっ」

「……いち、に、さん、し」

「もう秒読み!? 8五歩!」

 

 少し前にも対局室で聞いた秒読みの声に押されるように、俺は次の一手を指す。

 

 別に姉弟子が奇抜な手を指したわけではない。飛車先の歩を突き合う普通によくある流れだ。

 俺が意外に思ったのは別のところにある。

 

 これは相掛かりの進行だ。

 相掛かりといえば俺の得意戦型の一つで、定跡の整備がほとんど進んでいないため激しい力戦になりやすい形。

 

 俺と姉弟子は今まで数えきれないほど将棋を指してきたが、いつからだろう、姉弟子は俺に相掛かりを挑むことはなくなった。

 そして今では……特に俺が名人を倒して竜王を防衛してからは、姉弟子だけではなく、プロ棋士達も俺に対してこの戦型を選択することはなくなった。

 

 俺が公式戦で相掛かりの将棋を指したのは、あの竜王戦第四局の名人との対局が最後。

 ちなみに、弟子のあいは相掛かり大好きなので、家では結構指している。

 

 姉弟子にも何か心境の変化というものがあったんだろうか。

 淡々と指し手を進めていきながら、ちらりとその横顔を見てみるが、指し手は読めても心の内までは読むことはできない。

 

 でも、そうだよな。姉弟子はもう奨励会三段、プロ一歩手前まで来ている。

 そこまでいったら、プロ相手でも力戦で十分勝てるってくらいの自信は持っていないといけない。姉弟子はそういったことを考えているのかもしれない。

 

 それから俺も将棋だけに集中し、人通りも少なくなった夜の街には俺と姉弟子の指し手を示す言葉だけが響いていた。

 

 

△△△

 

 

 姉弟子はそのまま普通に俺のアパートまでやって来た。うん、知ってた……。

 今日は順位戦で夜遅くなることは分かっていたので、あいは師匠の家で預かってもらっている。だからいきなり俺の部屋が戦場になることはないけど、後でこの事をあいに知られたらとんでもない事になりそうだ。

 

 とはいえ、こんな時間にJCを一人で放り出したらクズ竜王とか言われちゃうし、かといってこうやって家に連れ込むってのもそれはそれでクズなんじゃ……詰んでますね、これ。

 

 ちなみに、目隠し将棋の結果は。

 

「…………ふん、八一も少しはやるようになったじゃない」

「そ、それはどうも……」

 

 一応竜王である俺を、遙かなる高みから見下ろしながら投了する姉弟子。大物すぎる。

 

 今日は始めからここに泊まるつもりだったらしい姉弟子は、着替えなんかもきっちり用意していて、さっさとシャワーを浴びて寝間着に着替えると、俺のベッドに寝っ転がって棋書をペラペラとめくり始めた。まるで自分の部屋であるかのようなくつろぎっぷりだ。

 

 当然のように俺のベッドが占拠されてしまったわけだが、抗議したところでどうにもならないのは長い付き合いからよく分かっているので、俺もさっさとシャワーを浴びることにした。

 

 対局での汗や疲れを流してさっぱりした俺は、冷たい麦茶を飲みながら部屋に戻ると、姉弟子は相変わらずゴロゴロしながら今はケータイをいじっている。多分どっかの対局の棋譜でも見てるんだろう。今はアプリで簡単に見られるようになったし。

 

 と、ここで姉弟子の髪が濡れたままなのに気付く。

 

「姉弟子、髪乾かしてくださいよ。風邪ひいちゃいますって」

「八一、乾かして」

「か、乾かしてって……姉弟子ももう中三なんですから、流石にそのくらい一人で」

「じゃあいい、ほっとく」

「ああもう! 分かりましたよ、乾かせばいいんでしょ!」

 

 確かに師匠の家での修行時代は、俺が姉弟子の髪を乾かす係だったけど、今思えばいくら何でも甘やかし過ぎな気がする……結局言うこと聞いちゃうんだけど。

 俺はドライヤーを持ってくると、姉弟子の後ろに回って髪を乾かし始める。

 

 ……相変わらず髪の毛さらっさらだな。

 髪色も現実離れしたような綺麗な銀色だし、肌も真っ白できめ細かくて…………あれ? なんか赤くなって――――

 

「えっち」

「な、なにが!? 何ですか突然!!」

「今変なこと考えてたでしょ。私のうなじ見ながら」

「なんで分かっ……ごほん! 見てませんって、姉弟子の髪を乾かすのなんて昔からですし、うなじも見慣れてますよ。今でも時々あいの髪を乾かしたりしますし」

「…………へぇ。つまり、八一が興味あるのはJSのうなじだけで、JCのうなじは眼中にないってこと? JCはババアってわけ? また鵠さんが食いつきそうなネタが出てきたわね、今度教えてあげることにするわ」

「ごめんなさい、許してください」

 

 この人は本当に隙あらば俺を社会的に頓死させようとしてくるな……。

 もうここはお互い余計なことを考えないように、本分である将棋の話でもしよう。

 

「それより、この後どうします? 今日の俺の対局をもうちょっと検討してみます? それともVSでもやりますか?」

「……八一あんた、順位戦のあとなのに疲れてないの?」

「いやー、体の方は疲れてるのかもしれないですけど、頭の方はかなり冴えてるんで。まだ結構やれると思いますよ。あと、対局後って頭の中の盤が全く消えなくて、寝ようとしても勝手に駒が動き出すんで中々寝付けないんですよ」

「それは自慢のつもり? はいはい、将棋星人はすごいわね」

「自慢じゃないですって! 薬飲んで無理矢理寝ることもしょっちゅうですし、割と深刻な悩みなんですよ!」

「それが贅沢な悩みだっつってんのよ。あと、検討もVSもやらない。寝る」

「へっ?」

 

 俺は思わず姉弟子の髪を乾かす手を止めて、間抜けな声を出してしまう。

 

「指さないんですか? 姉弟子が? 食べることや寝ることより指すことを優先する姉弟子が? 生活能力とか女子力とかを全て犠牲にして棋力に全振りしてるような姉弟子がごばっ!?」

 

 言葉の途中で、姉弟子の後頭部が俺の顔面に激突した! いってえ!

 もろに鼻に入ったので涙目になっていると、姉弟子は不機嫌そうな低い声で。

 

「単に記録係で疲れただけよ。偉い偉い竜王サマは、記録係もそれなりに疲れるってことはもう忘れちゃったのかもしれませんけどね」

「そ、そんなことないですって…………でも、ちょっと安心しました。姉弟子にも将棋より何かを優先する人間らしい部分が残っていたんですね」

「ぶちころすぞわれ」

 

 まぁ姉弟子が寝るというのなら、俺もそうすることにしよう。

 考えてみれば、いくら眠れないからといって将棋を指していては更に眠れなくなるだけだ。今日の十ニ時間以上にも渡る対局は間違いなく体にも負担がかかっているし、十分に休まなければ体を壊してしまうかもしれない。

 

 人間ってのはメリハリが大事ってのも聞いたことがあるしな。

 棋士だって人間である以上ずっと将棋漬けってわけにもいかないし、休む時は思い切り休み、遊ぶ時は思い切り遊ぶ、そういう切り替えが大事なんだとか。

 

 俺は姉弟子の髪を乾かす作業を再開しながら。

 

「あ、そうだ、姉弟子。明日はあいが帰ってくる前にここを出てもらいたいんですけど……鉢合わせとかしたら、とてつもなく面倒なことになる予感しかしないし……」

「どうして私が小童に気を使わなきゃいけないのよ。前に私がここに来た時、八一はJSに囲まれて寝てたこともあったくせに」

「うっ……で、でも、あれはあくまで研究会で……」

「じゃあ私のことも、同じように研究会だって説明すればいいじゃない。というか、八一にとってあの小童は何なのよ、正妻かなんか? 私は愛人ってわけ?」

「あいはあくまで弟子ですって! ただ、あいは自分が一番弟子だっていうところに拘りがあるみたいで、こうやって隠れてコソコソみたいなことは嫌うんですよ。よく『あいが一番ですよね?』って聞いてくるし……」

「頓死すればいいのに」

「なんで!?」

 

 最近姉弟子から唐突に死ねと言われることが増えた気がする。まぁ以前からもそこそこあったけども。

 

 姉弟子は俺の言葉には答えず、部屋にはドライヤーの音だけが響く。

 こういう時の姉弟子は下手に何かを言うと酷いことになることが多いので、俺はただ黙って姉弟子の髪を乾かすことに集中する。

 

 しばらくして、姉弟子がふと思い出したような口調で。

 

「…………研究会といえば」

「ん? 研究会がどうかしましたか?」

 

 また沈黙。

 一体どうしたんだろう……中々話が進まずもどかしいが、踏み込むと手痛いことになりそうなので、じっと姉弟子の言葉を待つ。

 

 ……あれ、なんか姉弟子の首筋が赤くなってる?

 ドライヤーを当てすぎたんだろうか、姉弟子は肌が弱いから注意が必要だ。

 

 そんなことを思っていると、姉弟子は続きを話し始めた。

 

「関西の若手棋士の研究会があるんだけど、私、そこに誘われて入ることにした」

「え……あの、その研究会って女流の人とかは」

「いない。女は私だけ」

「…………そうですか」

 

 別に男だけの研究会に女性が一人で飛び込むのは珍しいことでもない。

 鹿路庭さんのように熱心に研究会に参加する人なんかはそういう事は多いし、そういう人の方が伸びる。

 

 特に姉弟子は、あの生石玉将の研究相手に選ばれる程、膨大な研究量を持つ。まだ奨励会員とはいえ、研究会に誘いたいという者は少なくはないだろう。

 

 そして、それは姉弟子にとっても確実にプラスになるものだ。

 つまり、姉弟子のプロ入りを願う俺にとっても喜ばしいことのはずだ。

 

 でも、なんでこんなに胸がモヤモヤするんだろう。

 

「……あの、その研究会、俺も参加ってできないですかね? 俺も関西若手の一人ですし、力を合わせて関西を盛り上げていくって感じで……」

「ダメ」

「な、なんで!?」

「……八一あんた、自分が関西若手の間でどんな存在になってるか分かってる?」

「どんな存在って……」

 

 姉弟子に言われて、すぐに思い出したのは新年の指し初め式でのことだった。

 

 一年前、俺が竜王を獲得してすぐの指し初め式では、『竜王に教えてもらおうぜ!』みたいな軽いノリで、皆でワイワイ楽しく指した。いや、俺は研究ぶつけられまくってボコボコにされたから全然楽しくなかったけど。

 

 それが今年の指し初め式では、状況が一変していた。

 みんな去年の気軽さはどこにもなく、どこかよそよそしい感じで遠巻きに俺のことを見ていただけで、俺の前に座ったのは生石さんくらいだった。

 

「…………なんか、最近みんなから距離を置かれてるなってのは感じるけど…………もしかして俺、嫌われてる……?」

「嫌われてるっていうのとは少し違うわね。畏れてるのよ、八一のこと」

「えっ……俺を? なんで?」

「…………」

「いたっ!! 痛い痛い痛いっ!!! な、何するんですか!?」

 

 姉弟子は無言で俺に肘を打ち込んでくる。

 そして忌々しげな声色で。

 

「八一、あんたは名人との竜王戦で明らかに別の次元にいった。それは棋士なら誰もが思っていることよ。少なくとも、あんた以外はね」

「…………」

 

 買いかぶり過ぎだ、と思う。自分の力は自分でよく分かっているつもりだ。

確かに俺は、名人の竜王挑戦をはねのけ、永世七冠を阻んだという形にはなったが、あらゆる面においてまだまだ名人の方が上だと思っている。

 

 そう言おうと思ったが、すぐに喉元まで出てきていた言葉を飲み込んだ。

 何か、姉弟子の背中から黒いオーラのようなものが見えるからだ。たぶん、そのまま言ってたら殺られてた……。

 

 代わりに、俺は別の疑問を口にする。

 

「……でも、そこまで俺のことを評価してくれているなら、研究会に入るのも歓迎してくれてもいいような……」

「八一が20代半ばとかだったら歓迎されたかもね。それこそ、さっきあんたが言ったように『一緒に関西を盛り上げていこう』、みたいにね。でも、あんたは若すぎるのよ」

「若すぎる……?」

「多くの棋士にとって、自分達より下の世代の強者が一番恐ろしいものでしょ。上の世代の人達は自分達より先に衰えて、この世界から去っていく。でも下の世代の人達とは、現役の間ずっと戦っていくことになるわけだし、先に衰えるのは自分達の方。だから、絶対に年下には先を越されたくない。それはつまり、自分達の時代を築けないまま、次の時代に飲み込まれることに繋がるから」

「そういうもの……なんですか? でも、例えば年下の創多なんかは、俺より出世スピード早いし、すぐ上まで来そうだけど、そんなギクシャクしたりはしないと思うけどなぁ……向こうも俺のこと慕ってくれてるし」

「……将棋星のお貴族サマは下々の者の考えなんて理解できないってことね。そうよね、八一といい、名人といい、本人はただ真っ直ぐ進んでるだけで、周りが勝手に騒いでるだけですものねぇ?」

 

 将棋星とか貴族とか言ってることはよく分からないけど、姉弟子がお怒りだってことは分かる……俺と創多より、俺と姉弟子の方がよっぽどギクシャクしてる……。

 それから姉弟子はキッパリと。

 

「とにかく、その研究会は関西若手が少しでも八一に追いつこうって意図もあるんだから、そこは空気読みなさいよ」

「わ、分かりましたよ…………でも、ちょっと聞きたいんですけど、その研究会ってどこでやるんですか? もしかして誰かの家、とか? あと、何時くらいまでやるんですか? あまり遅くなるのは……」

「……そんなの八一には関係ないでしょ」

「っ……そ、そりゃあ関係ないかもしれないですけど……!」

「私だって子供じゃないんだから、自分で考えて自分で決められる」

 

 突き放すような姉弟子の言葉に、俺は何も言えなくなる。

 いや、未だにこうして弟弟子に髪を乾かしてもらってるのに子供じゃないのかとか色々と言いたいことはあるんだけども。

 

 ……でも、そうだよな。姉弟子だって、これから三段リーグを戦っていくということをしっかり考えて決めたんだと思うし、いくら弟弟子だからってグチグチと口を出すべきじゃない。姉弟子がプロ棋士になることを願うなら、応援するべきだ。

 

 こんな胸の痛みは俺の身勝手に過ぎず。

 姉弟子にとって、何の得にもなったりしないのだから。

 どこへ行くにも二人で手を繋いでいた時とは、もう違うのだから。

 

 俺は暗い感情を吐き出すように一度小さく息を吐いて心を整える。できるだけ明るく、いつも通り話せるように。

 そして、姉弟子の背中を押す言葉をかけようと口を開きかけた時。

 

 姉弟子が急にこっちを振り返った!

 

「っ……ど、どうしたんですか?」

「…………」

 

 予想外の一手を放たれてバクバクと跳ねる心臓を何と沈めようとしながら、努めて冷静に尋ねる。たぶん周りから見たら全然冷静じゃない。

 姉弟子は少しだけ俺の目を見たが、すぐに顔を伏せて髪で視線を隠すと、小さな小さな声で何かを呟いた。

 

「…………るの?」

「え、なんですか?」

 

 ドライヤーの音で全く聞こえなかったので一旦スイッチを切る。

 それから姉弟子はしばらく黙り込んでいたが、再び口を開いて。

 

 

「もしかして八一…………嫉妬してるの?」

「なっ……!?」

 

 

 せっかく収まり始めていた心臓がまた大きく跳ね上がった。

 最近では対局中でもこんなに動揺したことがない。ひょっとしたら、あの名人のマジックをくらった時と同じくらい心を乱されているかもしれない。

 

 流石にすぐには言葉が浮かばなく、部屋には沈黙が流れる。

 ど、どうする……あまり沈黙が長いと、それが答えみたいになっちゃうし……な、何か言わないと……!

 

 焦った俺は、とにかく思いついたままに言葉を捻り出す。

 

「は、ははは、急に何を言い出すんですか姉弟子は。そ、そんなわけないじゃないですか、姉弟子はもう家族みたいなものですし! 姉弟子ってコミュ力に問題ありますから、ちゃんとやっていけるのかなって心配なだけで……!」

「…………」

「ほ、ほら、変なこと言ってないで、髪乾かしますから向こう向いてください」

 

 そう言って再びドライヤーのスイッチを入れて、姉弟子の髪を乾かす作業に戻る。

 よ、よし、あまり上手い言い訳ではなかったかもしれないけど、何とか力技で誤魔化せたみたいだ。

 

 そう思ってほっと一息ついた、その瞬間。

 ドライヤーを持つ俺の手に、姉弟子のすべすべした手が重ねられた!

 

「!?」

 

 な、なんだ……なんだこの手は!?

 待て、落ち着け、よく考えろ。この手はきっと何か深い意味があるはずだ。よく読め。読んで読んで、ここでの最善の一手を……!

 

「八一、私の髪、もう乾いてる」

「えっ!? あ、は、はい!」

 

 慌ててドライヤーのスイッチを切る。

 い、言われるまで気付かなかった……!

 

 どうしよう、これ確実に動揺してるのバレたよな?

 これはもう下手に言い訳を重ねるのは悪手……? 正直に『本当は嫉妬してました』って言って……いやいやいや! そんなこと言ったら『キモ、あんたのことなんて将棋以外はどうとも思ってないんですけど?』とか言われて頓死は免れない……!!

 

「……桂香さんが言ってたんだけど」

「は、はひっ!? なんて!?」

 

 まだ何かあるのか!?

 これ以上の攻めは、もう受けきれな――――

 

 

「八一は私のことが好きなんじゃないかって」

 

 

あ、詰みました。

 

 

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