「ねぇ銀子ちゃん、最近八一くんと何かあった?」
八一の順位戦の一週間程前。
師匠の家で桂香さんと研究会をしていて一段落ついた時、桂香さんからふと思い出したようにこんな事を尋ねられて、私の心臓は高く跳ねた。
急にどうしたのだろう……何かあったかと聞かれれば色々あったけど、どの事について勘付かれているかが分からない。
原宿でのことならそこまで痛くはない。でもハワイでのことなら少し恥ずかしい。桜ノ宮でのことならかなり恥ずかしい。
とりあえず、ここは相手の手を見ることにする。
「……何かって?」
「うーん……キスした、とか?」
「そ、そんなことしてないっ! するわけないでしょ!」
正確には八一にキスさせようとしたことはあったし、もっとすごい事をしようとした事もあったけど、そんなこと言えるわけない。
でも、桂香さんは私が何かを隠していることはお見通しらしく、口元に柔らかい笑みを浮かべて。
「キスまではしてない……か。じゃあキスしそうになった、とかかな?」
「そ、そもそもなんでキスとかそういう話になるのよ。私と八一は別にそんな関係じゃ……」
「でも八一くん、いつからか、よく銀子ちゃんの手とか唇見ることが多いよ? たぶん、夏のマイナビ予選の頃からかな。気付いてなかった?」
「っ!?」
あのばか! へんたい!!
八一はいつだってそうだ、対局中も形勢が顔に出すぎるし、分かりやすいにも程がある。
「まぁ、銀子ちゃんも同じように八一くんのことチラチラ見てるんだけどね」
「み、見てない! 全然見てないから!!」
「私も基本的にそういう事には口を挟まないようにはしてたんだけど、あまりにも二人がむず痒い空気を出してるから、こっちまで居たたまれなくなっちゃうのよ。お互いあと一歩を踏み出せずに、千日手模様になってる感じよね」
「…………」
私は無言で押し通すことにした。
将棋では自分の手番になれば必ず何か一手指さなければいけないが、現実ではそうじゃない。この局面は何を言っても悪くなる予感しかしないので、黙ってやり過ごすのが最善手のはず。
桂香さんはそんな私を見てクスクスと笑いながら。
「八一くんは銀子ちゃんのこと好きだと思うよ?」
「…………そんなこと、ない。八一は将棋にしか興味ない」
黙っていようと思った矢先につい返事してしまった……でも、桂香さんがいきなり変なこと言うから……。
桂香さんは困ったように笑いながら続ける。
「うん、前まではそうだったと思う。でも、今はちょっと違うと思うな。明らかに銀子ちゃんを見る目が、姉弟子に向けるものから女の子に向けるものになっているもの」
「だって、八一が言ったもん! 『そういう相手を見つける気になれない』とか『将棋が恋人』って!」
「えっ、銀子ちゃんもしかして……告白したの?」
「し、してない! 私はただ、『17歳なのにしたことないの?』って聞いたら、八一が……」
「ん? したことないって……キスのこと?」
「えっ……あ、う、うん、そう! キ、キスのこと!」
本当はキス以上のもっとすごい事だけど、そんなこと言えるわけがない。
今考えたら、あの時の私はいくら追い詰められていたとはいえ、平然ととんでもない事聞いてたな……。
「うーん、たぶんだけど、八一くんは自分の気持ちに気付いてないだけだと思うのよね。彼の頭にあるのは今まで将棋ばかりだったから、そういう感情に戸惑ってるんじゃないかしら」
「でも……あいつは将棋星人だし……私のことなんて、将棋以外では全く見てくれなくて……」
「銀子ちゃん」
桂香さんは私の頬を両手で包み込むようにすると、優しい笑顔で。
「私は将棋では八一くんや銀子ちゃんの手は全然読めないけど、それ以外のことなら誰よりも読める自信あるよ」
「…………」
桂香さんの言葉に、私は何も反論できない。
実際、いつだって桂香さんの言葉は正しくて、私や八一が何か困った時は必ずと言っていい程助けてもらった。
将棋では私と八一は桂香さんよりも先輩だけど、人生では桂香さんの方がずっと先輩なんだ。
桂香さんは少し考えたあと。
「じゃあ、ちょっと試してみるっていうのはどうかな?」
「試してみる……?」
「うん、例えばね……並んで歩いてる時に、偶然を装って八一くんの手にちょっとだけ触れてみる、とか。それで反応を見るの」
「……な、なるほど」
私は思わずメモを取る。
相手の出方を見てから、こちらも指し手を決めるというのは将棋でもよくあるテクニックだ。まさかそれが現実でも応用できるなんて……!
要するに、もしも八一が本当に私のことが好きだった場合に、絶対に何かしらの反応を見せてくれるようなアクションを起こせばいい。
ということは、逆に考えて、八一が同じようなことをした時に私が反応するようなこと、ということにもなる。
自分のことなら考えやすい。
「他には、私が若手プロ棋士だけの研究会に誘われてる……っていうのはどう? 実際誘われてるし……八一の馬鹿が家でJS研なんていうふざけたものやってた時はムカついたし……」
「うん、それもいいと思う! 八一くん、絶対嫉妬するよ!」
「や、八一が嫉妬……か……」
いつもは私が嫉妬してばかりだけど、逆に八一が嫉妬するっていうのは新鮮だ。それに、悪い気はしない……何か、大切にされてる気がするし……。
桂香さんはぐっと握りこぶしを作ると。
「頑張ってね、銀子ちゃん! あいちゃんには悪いけど、やっぱり八一くんは銀子ちゃんとくっつく方が色々と健全だと思うの! 特に最近はあいちゃんがかなり攻めてて、八一くんが本当にそっち方面に行っちゃいそうで……流石にそれは法律とか危ないし……ね?」
「……八一のやつ、あの小童と何かしてたの?」
「あー……ちょ、ちょっとね! うん、たぶん今ならまだ間に合うと思うから大丈夫!!」
桂香さんの焦りようを見ると、一体何を見たのかとても気になるところだけど、この様子だといくら聞いても教えてくれないだろう。
とにかく、八一の周りには危険な女が多い。
動くなら少しでも早い方がいい。ちょうど八一の順位戦の記録係をすることになっているし、狙うならそこしかない。
それから私は、桂香さんという心強い人生の先輩のアドバイスを聞いて、作戦を練っていった。
ちなみに、恋愛でいえば桂香さんもあまり経験豊富とは言えない気がしたけど、そこは黙っておくことにした。たぶん、それ言ったら桂香さん、大荒れ状態になりそうだから……こんなに親身になってくれているのに、そんな仕打ちはできない……。